Flowers for every place
あらゆる場所に花束が……

 手塚治虫の漫画だったかな。モブシーンっていうか、見開きの大きな画面に描かれている街のあちらこちらで、キャラクターたちがてんでバラバラなことをしていて、そんななかを主人公が歩き回っているような絵があったような記憶がある。もしくは「ウォーリーを探せ」。似たような格好をして、やっぱりてんでバラバラなことしている人が画面いっぱいに描かれている絵の中から、たったひとりのウォーリー君を見つけなさいっていう一種のパズル絵本が、何年か前に大流行したっけか。

 なんでまた唐突に手塚のモブとかウォーリーを引っぱり出してきたのかといえば、それは中原昌也の三島由紀夫賞受賞長編「あらゆる場所に花束が……」(新潮社、1300円)が醸しだしている雰囲気に、ちょっと似てるかもって思ったからだったりする。

 「醜いアヒルの家」なんて奇妙な名前の場所で、徹也という男が縛られ小林という男から殴られている場面から始まって、美容院に岡田というタウン紙のルポライターがやって来て、恵美子という女性の手で1本抜かれて、陽子という美容院の女主人がダンプカーにはねとばされて、そこに誰よりも早くかけつけて来たのが、流れた血を吸い取る仕事をしている徹也と茂。

 小林が仕事のひとつといって作っている稚拙な絵が描かれた絵はがきが陽子の所に届いて、関根という名前の発明家が熱気球を飛ばしてそこに岡田が取材に来て、血液吸引業者を辞めた茂がテレビの撮影を手伝って、寂れたテニスコートを再建しようと髭面の男を中心に話し合ってる人がいて、庭で老人が殴り倒され盆栽は破壊される映画が撮影されていて、髭面の男がそれを見物して文句をいっている。

 髭面の男の妻だった雅子は演芸が趣味で、そこに訪ねて来た小林に髭面の男はテニスコートから掘り出して来た土が良い花を咲かせるんだと教える。青森の小林の工場では売れないプラスティックの製品が作られていて、売れ残った製品は青森の工場で溶かされてもういちど同じプラスティックの製品にされて、従業員たちは無言で働き続けなければならなくって、岡田は小林の素性を洗っていて、空から気球が落ちて来て、跡地には派手な花壇でも出来れば良いといわれて一巻の終わり。

 連続していているようで連続していなくって、関連してていなさそうで関連している場面場面を読み継いでいく展開が、モブシーンを上下左右に見ていくような感じに近い気がして、それが手塚とかウォーリーにつながった。もっというなら屏風の「洛中洛外図」なんかが近いかも。都のあちらこちらで、いろんな人がそれぞれの生活をしながら絡み合って1枚の絵を形作っている様は、無秩序が連続しながら1冊の本になっている「あらゆる場所に花束が……」の雰囲気に、結構近いんじゃないだろうか。

 物語らしい物語はなくって、1人の人間がうだうだと悩み考えながらも進んでいく姿から漂う、物語に特徴的な明解さも鬱陶しさもない。だからだろうね、いろいろな人がいろいろな場所でいろいろな事をしながらも、日は昇り地球も回って時間は過ぎていくんだという、悟ったような突き放したような世界観が浮かび上がって来て、読んでいる人の全身をどんよりと包む。

 脈絡のない断片のような短編群に比べると、個々のシーンに不条理さ、シュールさはあってもそれぞれに起承転結めいた展開があって、読んでいて理解はしやすい。文体もカットアップのように言葉が縦横無尽に飛び回るって感じじゃなくって、唐突だったり体言止めでズバリとやられてはいても、連想して出来ないような電波的な飛躍はないから、読んでいて頭はクラクラしない。

 もっとも完全な電波がハナっから読む人を受け付けないのと違って、真っ当なように読めながらもちょっとしたズレ具合が所々で心にひっかかりを与えて行く分、知らず引きずり込まれては狂気の世界に身をドップリと浸らせられることになる。その独特な”ワールド”の手前勝手な住人たちに読み終えた後も身をなぞらえたままでいると、一応は法律で仕切られている真面目な社会で暮らしていく上で、ちょっぴり摩擦が出てくるかもしれない。

 という訳で、読み終えたらひとつ、ふたつと深呼吸して生きている時代がいつなのか、暮らしている場所がどこなのか思い出そうと忠告。まあ100年経てば現在進行形の今だって、単なる記憶とか記録の上のモブになるんだから、暴れようと狂おうと構わないんだけど。


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