アメリカン・ソドム
AMERICAN SODOM

 「POPEYE」全盛の時代に10代を過ごした人間にとってアメリカ合州国は、ファッションはアイビールックにアウトドアにコンサバティブとどれを取っても格好良く、音楽もアメリカン・ロックがあってR&Bがあってとやっぱり世界の最先端を行っていて、とにかくあか抜けた印象ばかりが目についた。そんな雰囲気を小説の世界にどこか漂わせている村上春樹を窓にしてのぞくアメリカの小説もまた、アーヴィングやカーヴァー、マキナニーにオースターにオブライエンといった名前が代表するように洗練されてモダンな印象があった。

 もちろん読み込めばカーヴァーだったら日常の危機、オブライエンだったらベトナム戦争といった具合に現代アメリカの抱える問題がテーマに折り込まれていて、決して格好ばかり付けていた訳じゃないことが分かって来る。それでもそうした問題を時にユーモアにくるみ、時にシニカルに描く小説手法のスタイリッシュな部分に強く惹かれた。情動に流されず世相を冷徹に見るスタンスを感じ、アメリカという国の”大人ぶり”を感じて憧れた。

 そうした現代の印象から遡った時、自由の国であり平等の国であり博愛の国の誕生だといってアメリカ合州国の建国を讃えたい気持ちが養われるのも当然だと言える。禁酒法時代の暗黒は正義を貫きそうした勢力と戦う勢力を浮かび上がらせる背景と取り、ベトナム戦争の愚も反戦運動というやっぱり正義の旗を掲げる勢力をクローズアップさせて、アメリカという国に勝手に抱いていた自由で平等の国だという印象を強める役割を果たすだけ。輝きの中で刷り込まれた概念はなかなか覆せない。

 ところがどうして。アメリカ合州国が決して自由と平等と博愛の大陸なんかではなく、混沌と喧噪にあふれた背徳の大陸だったっということが、実は小説によって証明されているのである。アメリカ文学の研究家でありSF批評家でもある巽孝之の批評集「アメリカン・ソドム」(研究社、3800円)は、独立して間もないアメリカ合州国に誕生した「アメリカン・ルネッサンス」と後に呼ばれる数々の小説群を読み解きながら、そこに描かれた不貞だったり同性愛だったり近親相姦だったり差別だったり虐待といった出来事を抽出し、当時の人々の生活や宗教観、貞操観念を浮かび上がらせる。

 取りあげられている小説は以下のとおり。トマス・モートン「ニューイングランドのカナン」もウィリアム・ヒル・ブラウン「共感力」、スザンナ・ローソン「シャーロット・テンプル」、ハンナ・フォスター「放蕩娘」、ロイヤル・タイラー「アルジェリアの補囚」、ヒュー・ヘンリー・ブラッケンリッジ「当世風騎士道」、ナサニエル・カヴァリー「女水兵ルーシー・ブルアの遍歴」、ジョージ・リッパード「クエーカー・シティ」、マーク・マーリス「アメリカン・スタディーズ」。著者名、著作名のそのいずれをどのくらい、聞いたことがあるだろうか。

 実を言うとこの1編たりとも現在の日本で日本語で読むことは難しく、何がどう描かれているのかを確かめる術はない。あるいは後世のアメリカ合州国に対する肥大していく憧憬が、アメリカの恥部を表すようなこうした「アメリカン・ルネッサンス」の小説群を歴史の闇へと葬ってしまったのかもしれないが、だからこそ改めて現代に甦らせた巽の「アメリカン・ソドム」における仕事は意義深い。

 女性は男装することで、黒人は聖職者になることで社会的に認められたという当時の風潮を小説から指摘しながら、エスニシティとセクシャリティの今につながる問題を浮かび上がらせている第6章の「ハンナと戦闘姉妹」が個人的には最も興味深かった。自分たちをさらったインディアンの家族をトマホークでぶち殺して頭の皮をはいで持ち帰った女性が賞賛される状況の、何が当時も今も正しくて何が今から見れば違っているのかを考えてみたくなる。

 グロテスクな風貌の怪人、デヴィル・バグが取り仕切る奇怪な館、モンク・ホールを舞台に繰り広げられる近親相姦と背徳の日々を通じて、宗教的な権威を叩き世俗的な権威が興隆していく様を描いた「クエーカー・シティ」について論じた第7章「邪眼都市のスペクタクル」は、200年近い時を挟んマグマのように煮えたぎった新大陸ならではのエネルギッシュな空気を今に伝えてくれていて、そんな小説が書かれた当時への興味と同時に、今まさに求められている新しい創造への意欲を掻き立てられる。「クエーカー・シティ」は日本語で是非とも読んでみたい1冊だ。

 それにしてもここに挙げられた小説における、強姦されたり姦通したり獣姦したりといった主題の通俗ぶり、卑小ぶりには驚くばかり。姦通といっても50年代のソープオペラのようなちょっとしたヨロメキなどでは決してない。70年代の恋愛映画のようなハッピー、アンハッピーを問わず心をシンミリさせるような話でもない。人間関係、男女関の果てしなくドロドロとしたエピソードが、18世紀末から19世紀のアメリカでは小説として好んで書かれ、そして読まれていた。

 文明化に機械化がアメリカを汚していったという単純なものでもない。というよりむしろ単純明快に、人が大勢いればそこにはなにがしかの背徳が起こるものであり、それはソドムとゴモラが神によって滅ぼされた「聖書」の時代から変わらないのだということが、今さらながらに指摘されていて面白い。

 とにもかくにもディッケンズの英国にいささかもひけをとらない小説の山が、200年近い18世紀、19世紀のアメリカに築き上げられていたことへの不明を恥じつつ、巽の論考がこうして1冊にまとまったことを素直に喜ぼう。


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