悪徳なんかこわくない

 士郎正宗のコミックを原作としたアニメーションの「攻殻機動隊ARISE」で、胎児から取り出された脳を義体に組み込むことによって草薙素子は生きながらえ、生身の肉体を知らないまま成長したという設定が登場する。

 その胎児は果たして女だったのか。そうでなくても、性を決定づける器官を失っていてなお、素子がアニメの中で女性としての立ち居振る舞いを見せているのは、脳こそが性自認も含めたアイデンティティを司っているからなのか。外観に従った行動をしているだけで、器が変わればまた違った振る舞いをするのか。いろいろと思考を巡らせた果てに、肉体という器と、脳という思考のための装置との間には、単純に割り切れない秘密がまだ、多くあるのかもしれないと思えてくる。

 ただ、草薙素子と違って脳が移植されるのが生身の肉体で、性を決定づける器官が備わり、ホルモンも分泌していた場合、脳はやはり肉体の性別に引っぱられるのでは、といった思考も浮かぶ。事実か否か。現実に1度だって行われていない、人間の脳移植という仮定の状況がもたらす結果は、ただ想像するより他にないけれど、ひとつの可能性を示してくれる物語ならすでにある。ロバート・A・ハインラインによる「悪徳なんかこわくない」(矢野徹訳、ハヤカワ文庫SF、上・下各700円)だ。

 大金持ちとなりながらも肉体は衰え、あとは死を待つばかりだったヨハン・セバスチャン・バッハ・スミスは、延命のためにひとつの可能性に賭ける。脳移植。衰えた自分の肉体を捨てて、健康な若い肉体へと脳を移植してもらうことで、新しい生を得ようとするものだった。もっとも、そこには高い壁があった。技術的に難しく先例がないということ。そして脳を失った健康な肉体を得るのが困難なことだ。

 その2つの壁をヨハンは乗り越える。技術を持った医師を雇い入れた。そして脳を移す肉体も得た。特種な血液型が合致して、そして肉体を損傷しないまま脳を失った死者が現れ、ヨハンはその肉体に脳を移すことに成功した。難しい手術の後、目覚めたヨハンは歓喜にむせる。けれどもすぐに驚愕する。その肉体がヨハンにとって異性の女性で、そしてヨハンとは極めて親しい間柄にある人物だったからだ。

 そして始まる、若い女性の肉体を得たヨハンの“冒険”の日々は、触れて愛でるだけだった女性の肉体を我がものとして起こる暮らしぶりの変化に驚き、内からわき起こる女性としての衝動にとまどう状況が積み重ねられていく。一方では、脳だけは生きているヨハンを死んだものとして、その遺産を引き継ごうとする親族たちの策謀があり、それに対峙しながら、肉体は変わっても脳が引き継がれているなら、それは人格も含めて存命かどうかを証明していく展開がある。

 人を人として見分けるものは肉体的な特徴なのか、記憶なのか。現代の常識や法律でも判断がつきかねる難問に対してハインラインは挑み、思索した上でひとつの結論を導き出す。それが未来、脳が自在に肉体を乗り換えていくような時代にも適用され得るかは分からない。そうした時代が来るかもはっきりしないけれど、ひとつの科学的作用がもたらす様々な可能性への思索があるという意味で、「悪徳なんかこわくない」はおおいにSFだとは言えるだろう。

 脳内に響いてヨハンを導く女性の声は、果たして元の肉体に宿った記憶の発露なのか、大脳以外の部位にも記憶は刻まれるという可能性なのか、激変した境遇から立ち現れた幻想なのか。そうした科学的な説明は皆無で、真意は想像するしかないけれど、その理由にあまり意味はない。見るべきは新しい肉体、そして異なる性を与えられた人間が覚える戸惑いをシミュレートしつつ、それを乗り越えていくために必要なステップを明示して見せたこと。その段階を踏んでいくことで、人は自分が相手を理解していく時間、そして結果を与えられるのだ。

 脳と肉体とで性別が異なる場合に起こる諸相は、後に弓月光が「悪徳なんかこわくない」を踏まえつつ、1975年から76年にかけて連載した漫画「ボクの初体験」でコミカルかつエロティックな展開の中に、切実な問題として描いてみせた。医師が脳腫瘍で死んだ若妻・春奈の肉体に、自殺しようとして仮死状態にあった英太郎という少年の脳を取り出して移植し、生き返らせる。

 英太郎は女性の肉体に驚きながらも興味を抱き、女性のことを知っていき、そして妊娠から出産まで経験してしまうという。そのストーリーは女性の肉体を得たヨハンに起こったことと重なる。肉体から出る女性ホルモンの影響もあって思考も女性化していくという設定も、「悪徳なんかこわくない」に示唆されている。ただし原典のようなハッピーエンドとは違った複雑な余韻は残さず、死は死として受け止める覚悟も示される。読み比べてみると面白い。

 昨今、男性が女性となったり女性が男性となるようなトランスセクシャルの物語が多く描かれ、書かれている。そこでは案外に、そうした異性の肉体を理解していく過程があまり描かれず、戸惑う仕草を興味深げに見せて楽しませることが少なくない。性の変更について、偏見こそ皆無ではないものの昔ほど強くもない現在と、理解の及ばなかった当時とで、書き方にも差が生まれたのだろう。

 ポルノグラフィとまで言われ批判を浴びながらも、物語としてつむぎ上げたハインラインの想像力による挑戦や、これを元に描かれた弓月光の漫画による心理的な解放を経て、現代の人々は肉体を超えて自在に性を行き来する自由を得たのかもしれない。

 下巻のあとあきで、訳者の矢野徹が「読者諸賢それぞれの感じられるところあともあれ、こうしてひとつの生命が生まれ、ひとつの世界が消えていったあと、月世界植民地はどうなるのか? 『月は無慈悲な夜の女王』の中に登場する人物のだれかが、ジョアンナ・ユーニスの子供なのだろうか?」と仄めかしているのが、ハインラインの読者として気になるところだろう。

 ジョアンナ・ユーニスとは誰なのかは読めば分かるとして、その人物が誕生して、そして月へと向かい飛翔していく物語の合間に、ニュース報道のような形で米国や中国などが権勢を伸ばしている様や、月への移民の推進といった地球の情勢が指摘されている。その意図を汲み、「月は無慈悲な夜の女王」の前日譚として社会的な枠組みが構築されていく様を、「悪徳なんかこわくない」から読み取ることも出来ないこともない。

 もっとも、それも小説の目的ではないのかもしれない。近い時期に書かれたこの2作品からはむしろ、ハインラインが愛国主義的で合理的なスタンスの作家という外面が、剥がれてもっと人の心を、もっと言うなら“愛”を探って描く作家へと変貌していった過程を汲み取りたい。

 「月は無慈悲な夜の女王」も翻訳した矢野徹の、この作品に寄せたあとがきには「もともとかれには人種的偏見などはなく、セックスに対する考え方も非常に解放的な男だった。それが『月は無慈悲な夜の女王』によってぶちまけられ、『悪徳なんかこわくない』『愛に時間を』では、まったく何物にも拘束されない書きかたとなってきた」と記されている。少年物から大人の書き手になったとも書いている。

 敷衍すれば、男の子から全人類へと読者を広げ、生きる意味や愛の素晴らしさを解く作家へと進んだ、その分水嶺にあるのがこの2作品なのかもしれない。それほど重要な位置にありながら、「悪徳なんかこわくない」はSF批評の間で決して評価は高くなかったという。売れているにも関わらず、評価が避けられていたとも言われている。

 その矛盾は、人の欲望を映すエンターテインメントとして極上という評価に他ならない。男性だったら誰しもが抱くだろう女体への興味をかき立てつつ、そうしたエロティックな視線のこちら側に来た時に覚えるさまざまな感情、あるいは欲情といったものを想起させ、理解させていこうとする説得力に満ちた筆致に触れれば、自分が男性でも女性でもどちらでもない、一人の人間として存在して愛し、愛される素晴らしさを感じざるを得ないだろう。

 愛の作家、ロバート・A・ハインラインの全力を堪能しよう。


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