トーラス
赤の円環

 どういう成り立ちなのかは分からないけれど、いつからかそびえ立っている壁が左右に見える土地に暮らしていた1人の男が、世界の果てを見たいと思って壁づたいに歩いていき、どうにか壁の向こう側に出られたものの、反対側にはまた別の壁がそびえ建っている。

 渦巻き状に壁が建った間に自分たちは暮らしているのだとうことが分かり、そんな世界の“外”を求めて男は渦巻きの壁をたどって、ひたすら外へ外へと向かうように歩いていく。その果てに男はいったい何を見るのか? といった探求の物語がかつてあった。

 300年を超えて交響曲が演奏し続けられる街が舞台になった、「山の上の交響楽」というこれも傑作を表題作にした、今はなかなか容易に読むことができない短編集に収録された中井紀夫の傑作短編「見果てぬ夢」。その壮大で不思議な世界観を思い出させる物語が登場した。

 涼原みなとによる「第5回C・NOVELS大賞」の特別賞受賞作「赤の円環(トーラス)」(中央公論新社、900円)だ。

 「見果てぬ夢」とは違って「赤の円環」は内へ、そして下へと段々になって向かう円環状の窪地が舞台。例えるなら露天掘りの鉱山に似た構造だけれど、一望に見渡せる鉱山とは違って、その規模は半端ではない。

 段々になったひとつの棚の上部は、一周するのに数日はかかり、棚を横断して下の棚へと降りる口まで行くのにも半日はかかるという大きさ。それぞれの棚がひとつの州として機能するくらいの規模になっていて、そこに農業をやったり、牧畜をやったりする人たちが暮らしている。

 ただし問題があって、上の方の棚になればなるほど水が出にくくなっている。逆に下の棚は水が豊富で、それゆえに富が集まり政治や経済の中枢が集まって、円環の世界を支配している。

 そんな不思議な構造をした世界の下から、7段目にあたるダット棚にやって来たのがキリオンという名のひとりの水導士。貴重な水を管理する役人だけれど、本来は歴史学者になりたかった彼は仕事に気乗り薄。たどり着いた村でも脆弱な風体で、供に水の様子を見張るパートナーとなったフィオルという若者に、へこまされてばかりいる。

 <水婿>と呼ばれる村のパートナーが、普段どおりに屈強な男だったら都会暮らしのキリオンが小馬鹿にされるのも無理がない。けれどもこの年、キリオンのパートナーに選ばれたのは、背丈も力も男性並に強いものの、中身は立派に女性のフィオル。「竜樹の落胤」と呼ばれる遺伝の気質が現れていて、長身に力持ちであることを見込まれて、<水婿>を決める儀式に無理矢理引っ張り出されては、見事にその座を獲得してしまったのだった。

 相手がキリオンでなくても臆するくらいに屈強なフィオルは、<水婿>の役目を果たす時以外は、父の手伝いをしながら陶器を焼いて暮らしている。嫁ぐ話もあったけれど、婿の候補にあがっていた男性に逃げられ消滅。このままずっと独り身かと思われた矢先、キリオンが暮らす世界から、フィオルの家系に伝わる「シェビカ文書」なるものを求めてキリオンの師匠筋がやって来た。

 何者かによって狙われ、傷を負わされるくらだから相当に貴重な書。これを見つけたら大金を渡すというキリオンの師匠の言葉に、フィオルを嫁に出す持参金が出来るとフィオルの父親は大乗り気で、フィオルをキリオンに同道させて、日照の関係で冬の間は冷え込みが厳しくなり、夏の年にはちょうどよくなる夏棚にあるフィオルの家へ、今は冬年であるにも関わらず、文書を取りに向わせる。

 ここでも受けた襲撃をしのぎ、シェビカ文書を探し当てたキリオンとフィオルは、段々の露天掘り状になった世界を下へと降りて、中央政府の要人へと届けた先。政治の世界につきものの権力闘争と、そして世界の運命にも関わる陰謀に巻き込まれてしまう。

 どうしてこんな世界になったのか、といった辺りまで説明がない部分は「見果てぬ夢」と同様。SF的な世界成立の解釈の妙味を味わうことは出来ないけれど、不思議すぎる世界だからこそ起こり得る現象から、現実とは異なる世界ならではの生活や風景といったビジョンが浮かび上がって目を驚かせる。

 太陽の傾きの違いによって棚に日が遮られて陰になり、寒さが続く地域があって、そうした地域を避けて冬場は日が射し込みやすい地域へと移住し、夏は反対側に行くという独特な暮らしぶり。上層だからこそ水が届かず干からびてしまって、生活は大変になってそれでもやっぱり水は届かず、やがてうち捨てられる運命になっているといった世界の残酷さ。それらを感じながら、現実とは違う世界の面白さ興味深さを想像し、楽しむことができる。

 フィオルが受け継いでいる「竜樹の落胤」という形質が何を意味するもので、それが新たな世界への導きにどんな貢献をするのか? といった辺りにも言及があって、散りばめられたさまざまな謎が無駄にならないで、物語の中に使われそしてストーリーを終息させていく。描き手の巧さがにじむ。

 世界を創れて物語を組み立てられる才能はなかなかのもの。欲張るのなら物語の最後にフィオルがどうして活躍し得たのか、それは何を引っ張り出したのか、過去においてどうして発動しなかったのか、といった部分への言及も欲しかったところ。それがあればとてつもなく深淵で興味深い、世界の成り立ちへと迫る物語になったかもしれない。

 とはいえ、これはこれで十分に面白い物語。キャラクターたちはどれも感情が豊かで生き生きとして描かれる。とりわけフィオルの、大きいが故に抱えた繊細な心とのギャップが醸し出すおかしさが妙に楽しい。こうして生まれたキャラクターたちが、ようやく見えてきた世界がさらに語られる舞台を得て、再び活躍する時が来るのかに興味が及ぶ。

 そうではなく、まったく別の世界が舞台になった新しいシリーズが立ち上がって、どんな世界が創造されているのかを、楽しませてもらえる時が来てくれても嬉しい限り。いずれにしても次が気になる新たな書き手の誕生を、まずは心から喜びたい。


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