赤いスイートピー

 怖いもの見たさという言葉があるとしたらそれは、松田聖子の最新の写真集を買って眺めることに他ならない。

 御歳とって43歳。トップアイドルと持てはやされてから四半世紀の年を経て、歌声には生来の巧さに円熟味が加わり、歌手として超一流の評価を強固なものにしているけれど、ことグラビアに関しては歳も歳だけにおそらくは、見るも無惨な肢体をそこにさらけ出されては、かつてのファンを幻滅させるに違いない。

 そう思い抱いた人も多かっただろう、松田聖子のデビュー25周年を飾る写真集「赤いスイートピー」(松田聖子・篠山紀信、講談社、3200円)。歳に加えて、1996年に一人娘を産んだそのボディに期待など出来るはずがないと、確信して手に取った写真集の表紙をまず見て目を見張る。

 上ビキニで下はパレオかミニスカートとったデザインの衣装を身につけた松田聖子が、こちらを振り向き半身で微笑むポーズではすらりと伸びた足と手の、細さ白さ瑞々しさが輝きを放つ。脇腹から腰にちょっぴり余る部分も出ているけれど、これは腰を捻っているからで特段に気にする程ではない。気にするな。

 ひっくり返すと同じ衣装でこちらは向こうへと駆けていく後ろ姿で、ひるがえったミニスカートの下に着けてる同じ柄のアンダーウエアがチラリ、とのぞいているように見えて1万トンにも匹敵する衝撃が脳天を貫く。

 あれは20数年前。デビューしたてだった松田聖子の写真集で、コンサートの途中にくるりと身を翻した時に白いスカートのまくれ上がった裾の下にのぞいたアンダーウェアに多くのファンが興奮した。20数年の時を経て蘇った衝撃は当時に匹敵するものがある。

 肩胛骨のあたりに見える余りは腕を後ろへと伸ばした関係で出来るもので、やはり気にする程ではない。そんなものは見えない? それこそファンの心意気。むしろ白い肢体に目を向け感じ入るべきだ。そういうものだ。

 写真集はそんなヒラヒラとした衣装で草地をはね回ったり、正真正銘のアンダーなウェアを直接ではなく隙間から垣間見せるようなポーズとスタイリングで見せたりと、開けば扇情的な写真がこれでもかと繰り出される。泡の立ったバスダブで上半身だけを見せる姿もなるほどセクシー。すべすべとした肌の艶と張りに25年経とうとも、また不惑を超えようともトップアイドルがトップアイドルとして君臨し続ける理由を見る。

 下着は直接的には見せず裸も当然ながらに無し。水着だって決して多くはなく大半が普段着によるものとなっている。そんな振る舞いをデビューしたての新人アイドルがやったとしたら、「金返せ」といった激しい攻撃を受けることだろう。見たいのは普段着ではない、水着だ、肌着だ、裸だとシュプレヒコールが起こり求められるだろう。

 もっともそこは四半世紀をトップに君臨し続けた松田聖子のなせる技。たとえ奥ものぞかない水着姿であっても、すべてのポーズに年季が伺え笑顔にも重みが漂い、それを拝見できるだけで感謝感激に浸れることだろう。目の端や鼻筋に皺ともとれる線がほの見えるけれど、好意的に解釈すれば笑顔が産んだ顔に差す虹のようなもの。むしろ美しいと讃えるべきだろう。

 総体的には20代後半でも通用しそうな肢体を今なお維持している凄い人。手首に皺が寄っていようとも、30代前半で通る範囲の特質に過ぎない。光を全身に当てて輝かせる篠山紀信の美女を美女として撮るテクニックも際だっているが、それ以上に本人の素材の揺るぎなさが表に立つ。皺など昨今のデジタル技術を使えば完璧に消せる。にもかかわらずそれをしない松田聖子のスタンスに、トップアイドルとしての矜持とそして自分への自信がのぞく。

 写真集で自身への絶対的な自身を再び手にした松田聖子がこれから向かうだろう場所はどこなのか。エラ・フィッツジェラルドがディオンヌ・ワーウジック、アレサ・フランクリンといった大御所の歌手にも負けない偉大さを持ち得た歌手として君臨し続けるのか。できれば歌手としての路を極めて欲しいものだけど、一方で43歳になっても未だ美を感じさせる肢体を持ったお姫様。その奔放さを武器に既成概念は吹き飛ばして”松田聖子”のブランドを満天下に示してもらいたいもの。出来ればこれから後の四半世紀の安泰も果たされよう。その時にもまた写真集でお目に掛かりたい。水着は流石に勘弁だが。


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