失われた四季を取り戻す、彩の国のマウントウジ。

マウントウジ'99に寄せて  


 霊峰(おやま)に、笛の音(ね)が途絶えて久しい。
 東(ひむがし)の貝に、太鼓の音(おと)が響くこともなくなった。
 世紀末の日本に、夏の終わりを告げる楽の音(がくのね)がぱたりとやんでしまった。そして夏は、行き場を失ったまま、どこへもゆけずに今も続いている。豊かな四季の移り変わりが、日の本の国から失われていく。
 しかし、失われてしまった豊かな四季が、ここ彩の国ではいまだに息づいている。春の訪れを、夏の終わりを笛や太鼓で祝福するお祭りが、ここでは連綿と太古より続いているのだ。
 その彩の国で、夏の終わりを告げるマウントウジジャズフェスティバルが、今年も盛大に開催される。
 過去の名演奏に思いを馳せつつプログラムを一見して感じるのは、太古より連なるお祭りも、確実に変化していく、ということである。フェスティバルを彩る数々のバンドのうち、昨年と同一のコンセプトでの出場はただ一つ、サルサ歌いTaiのみ。そのほかのバンドは、筆者にとっても未知数である。どんな演奏を歴史のスクラップブックに貼りつけてくれるのか。これはもう、当日を楽しみにするしかないではないか。

 ああ。
 こんな気取った文章を書いている場合ではないのだよ。
 悔しいのだ。悔しくてたまらないのだ。マウントウジのことを考えていたら、いけなかった春のコンサートのことを思い出して、地団駄を踏みたいほど悔しいのだよ。
 だってそうだろ。半年も前から楽しみにしてたのに、たったの一月前に、こちらのスケジュールも確認せずに、披露宴の招待状を送りつけてきたヤツがいたのだ。まあそれは慶事だからいいのだけれども。そのせいでコンサートを聞き逃しただけでも悔しいのに、宇治金の方からは、あとからコンサートのライブCDがリリースされて。
 それがまたいい出来だから悔しいのだ。非常に悔しいのだ。今だってそれを聴いているのだが、特にカンタロープアイランドのトロンボーンのソリが終わってラッパが入ってくるところなんて、何度聴いても涙がちょちょ切れてしまうほどに悔しいのだよ。ああ、なんであの時、はがきに欠席って書く勇気がなかったのかなあ、そうすればご祝儀も取られずに済んで飛行機のチケットも無駄にせずに済んで。
 それから、こんないい演奏聞き逃さなくても済んだのに。

 そうなのだ。
 聴き逃すと悔しいのだ。
 ここ数年の宇治金時の、及びマウントウジの演奏は、確実にそのレベルに達し、驚くべきことに、そのレベルを維持しているのだ。正直に言おう。数年前にも、宇治金時のステージを聞き逃したことが何回か、ある。そのときも確かに悔しかったのだけれども、それはどちらかというと、コンサートおよび打ち上げというイベントに参加できない悔しさであり、演奏を聴き逃すことそのものへの悔しさではなかった。もちろんちょっとだけは聴き逃すのも悔しかったのだが。
 しかし、このごろはそうではない。まず第一に、演奏を聴き逃すことが悔しいのだ。打ち上げに行けないのももちろん痛いのだけれども、それ以上に音を聴きたくてたまらないのだ。さらに輪をかけて、このごろはライブCDなどというものを律儀に毎回リリースしてくれるものだから、その悔しさが永久保存版なのだ。これはもう、聴き逃すわけにはいかないではないか。
 何年も聴きに来てくれているあなたなら、私の悔しさをきっとわかってくれると思う。今年がはじめてのひとも、行こうか行くまいか迷っているひとも、とにかく聴いてみようよ。そしたら次回から、私がいってること、わかってくれると思うから。

 彩の国では、こんなお祭りが、毎年繰り広げられているんだよ。

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