洗面器

 



 歩いているんだ、洗面器をもって。
 そう、水をいっぱいに張った、大きな洗面器。

 知ってるだろう?
 一度ね、水をゆらしちゃったら、そのゆれがどんどん大きくなって、中の水がぜんぶ、こぼれちゃうまで止まらないんだ。
 前に、そういうことがあったよ。

 楽になったかって?
 ああ、歩くのが、かい?

 うぅん、どうだろう。
 その時は、水をこぼしたショックでそんなこと、考えもしなかったけど。
 それに、見てごらん。また、水がたまっているだろう。
 全部、こぼれちゃって、もう水が入ることなんてないって思ってたのに、いつのまにか入ってくるんだ。
 だから、楽になったことなんて気がつかなかったよ。

 でも、覚えたんだ。
 なにって、手を抜くことを。
 こうやって、歩きながら、水をゆらさないようにそおっとそおっと、少しずつ、水をこぼしていくんだ。
 すこしずつだよ。たくさんこぼそうと思ったら、また、全部、こぼれちゃうんだから。
 ほら、これでしばらくは大丈夫。前は一滴もこぼすまいと思って、立ち止まっちゃったのが悪かったんだ。

 だけど、すぐにたまるんだ、水。
 こぼしてもこぼしても、こぼした分だけ、すぐにまたふえる。きりがないよね、これじゃあ。
 ちいさすぎるのかなあ、この洗面器。

 あっ、ちょっと、ゆらさないでってば。


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