終わりの年の、はじまりに



 新学期が始まった。
 もちろん社会人である俺には直接関係はない。
 かといってまったくの無関係というわけでもない。俺の通勤時間は高校の始業時間よりもかなり遅いにも関わらず電車がすこし混んでいたり、朝夕がかなり涼しくなって私鉄から会社までの20分の道のりを歩くようになったり、かかしの代わりに透明な糸が穂のつきはじめた田圃に張りめぐらされたりという変化で、ああ夏休みは終わったんだななどというほのかな感慨にひたるくらいの関係はある。ただしこれら感慨は秋になったという感慨であって、学生どもの新学期とはやはりなんの関係のないものが多い。秋になったといえば、入道雲よりももっと高いところにできるうろこ雲やいまだ紅くなりきれない赤トンボやなによりも会社を出る時刻には真っ暗になっている空が新学期よりも一週間も前からそのことを告げてくれている。
 俺の勤務する会社は、アトラクションといえばすべり台が二列並んでいるという程度のひなびた市民プールの隣にある。昼間は糞尿をプールに垂れ流す餓鬼どもと羞恥心と身体の線が崩れかけたかわりに色気の増した若い母親達でさぞかしにぎわっているだろうと思うのだが、あいにく会社とプールの間にある厚い生け垣が邪魔をして、昼間のにぎわいは想像する他はない。一度生け垣をこえて昼間のプールを探検にいったが生け垣の奥にある板張りの塀に阻まれた。それ以来健康的な親子プールの妄想で悶々とするほど暇ではない。夕方にはプールは当然閉まっており、濡れた茶髪を肩に掛けたタオルに垂らしながら歩道に座り込んでだべっている色気のない女とその女に群がる野郎どもが俺の歩く妨げとなるだけだ。近頃の餓鬼はうんこ座りもせずに地べたに直に座る。座りながら唾をそこら中に吐き散らすのだから彼らとて自分の座っている場所は他人が唾を吐いた場所だということは分かっているのであろうが彼らにとって唾液や犬猫の糞などは不浄のうちには入らないのだろうか。
「ねえねえ彼女、排気ガスおいしい?」「うん、とっても」
 色気のない女でも女は女だと考えているのかそれとも同年代には魅力のある女に映るのか。もちろん実際には会話は弾んでいるのであろうが断片的に聞こえてくる限りでは意味ある会話が成立しているとは思えない。餓鬼どもと餓鬼どもが放置した自転車という障害物をよけるために、歩道の縁石に乗ったり降りたりを繰り返さなければならない。プール周りの地形がすこし傾いているおかげで、その歩道を歩くとちょうど目の高さにプールの地面がある。地面の傾斜はもちろん目で見たり歩いたりという程度では意識しないほど些細なものだが、水平という名の通りプールに張ってある水はその些細な差を如実に反映してしまうのだなと妙に納得してしまう。周辺に張り巡らされた柵と地面との10センチくらいの隙間から構内の様子がうかがえる。もちろん客はいない。崩れた色気のヤンママなど残像も残っていない。ライフガードと掃除夫がゴミ拾いをしているだけだ。プール特有の固形塩素から放たれる強烈な匂いがその10センチから洩れてきて俺の鼻と目を刺激する。
 その塩素の刺激も、新学期とともに終わりを告げた。茶髪は相変わらず座っているが、肩にかけたタオルはもうない。習慣でそこに陣取った彼らが近くのベンチに引き上げるのと、一夏を彩って用済みになったプールの赤と緑のテントが取り去られるのと、どちらが早いのだろう。タイルの隙間から雑草が生え、塩素の抜けた巨大な水たまりに藻が付着するのはもう少し後になるだろうか。
 ミンミンで始まりヒグラシで終わる関東の夏に比べて、熊蝉が一夏中を支配するこちらは夏の盛りの区切りがなくただ暑いだけだが、それももう確実に終わりだ。開け放した窓からは凛々と羽虫の鳴く声まで聞こえてくる。
 夕立のあとの濡れたアスファルトの匂いにむせながら、夏が去ったことを唐突に悟った俺は、俺のなかで秋という言葉と密接に結びついているもう一つのことを実感とともに意識した。

 そっか、またひとつ。
 秋が来て、年輪の輪がひとつ、ふえた。

 時間は無限ではあるがむろん一個人に限ればそんなものは虚言だ。死すべき運命の人間は、限られた時の終わりに向かって一瞬一瞬を積み重ねていくしかないのだ。しかし、今という時間とこれからという時間を比べて、時を重ねれば重ねるほど短くなるはずのこれからが重くなっていくのは何故だろう。
 夕焼けの名残の消えていく空をみながら、ふと不惑までは惑っていたいなと思った。結論を手にしながらも、惑っていたいという欲深さに自分でもあきれた。そして、何をどう惑ったらいいかがまったく見えていないことに気がついた。
 薄い雲の切れ間から、鋭角の月が顔を出した。俺は月にむかって、心のなかで吼えた。

 答えるものはいないかと、耳をすました。

 

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