拝啓、朝日新聞様



 今でもそうか知らないけれど、僕が受験生だった頃は朝日新聞ていうのは国語の試験に一番よくでる新聞っていうことだった。あくまで自己申告だけど。
 自己申告というからには得意がってそういっているみたいなんだけど、国語の試験、それも大学入試によくでるってことは、一読では何いっているか分かりにくい、誤読の余地もある文章が多い、っていうことだよね。ジャーナリストとしてそれを得意がるのはどうかと思うのだけれど。

 まあ、僕はもう国語のテストというモノからは遠いところにいる人だから、それはどうでもいいのだけれども。
 ちょっと読んでいて気になった文章があったから、紹介するね。これも国語テストに出るのかな。

 2004年4月16日の夕刊。イラクにいっていた物好きの3人が拉致されて国中大騒ぎだったのだけれども、その三人が無事に保護された、というのがその日未明くらいのニュースかな。夕刊は、きちんと身柄を保護して、帰国のためにドバイに輸送、というタイミングでの記事なのだけれども。

 ちょっと記事を引用するね。
 高藤さん(女性)は、今後の活動について聞かれると、「続けます」と即答。(以下略)
 郡山(カメラマン)さん、「撮るのが仕事なんだよ、俺は」と話した。

 ここで問題です。郡山さん「も」、話したという文章の「も」は、何を強調するために使われたのでしょうか。
 普通、「も」っていうのは、前者と後者が同じ意味のことをいった時に使う言葉だよね。たとえば高藤さんが撮るのはわたしの仕事ですといいました。そして郡山さん「も」撮るのが俺の仕事なんだよといいました。これだと意味が通じるよね。

 ところが、朝日新聞の記事では、高藤さんがイラク関係の活動を続けると即答しました。そして郡山さん「も」、撮るのが俺の仕事なんだよ、といいました。ってことになっている。
 この文章からは、100人が100人とも郡山さんはイラク関係の活動を続けるという意味を込めて「撮るのが俺の仕事なんだよ」といったって取るよね。普通の国語力のある人ならば。

 大学入試はこれでいいかも知れないけれどもね。ところがこの記事はアルジャジーラの作成したインタビューをNHKで放送したモノを元に書かれている。
 そして、僕もそのインタビューを見たのだけれども。
 郡山さんの発言には省略された前半部分があって。
 疲れた表情でソファーに座る郡山さんに、ビデオカメラが向けられて。郡山さんが「撮らないでくれよ、撮るのが俺の仕事なんだよ」っていうのが、僕が見た画像。これだと、記事から受ける印象、というか記事が伝えようとした意図とは完全に違った意味だよね、この言葉。郡山さんは、自分が取材対象にされるという状況にとまどっているか嫌気が差しているかしていて、俺を取材しないでくれよ、っていう意味で言っているんだよね。
 もちろん、僕がすべてのニュースをチェックしている訳ではないし、「撮るのが俺の仕事なんだよ」というフレーズを気に入った郡山さんがいろんな意味で使っているという可能性もあるのだけれどもね。

 でも、もし、朝日新聞が僕と同じ画像を見てこの記事を書いたのだとしたら。同時に掲載されているTV画像は、僕が見たインタビュー画像そのものなのだけれども。
 書いた記者があまりにもバカで、言葉のニュアンスをまったくくみ取れない、っていう可能性はこの際置いておくよ。それはさすがにあり得ないだろうから。
 そうすると、つまり朝日新聞は、インタビューの中から適当に都合のいい言葉だけを選んで自分に都合の良い記事をねつ造したってことになるよね。そして都合の良い記事っていうのは、解放された途端に反省もせずに活動を続けたがるお馬鹿な元人質、っていう人物像を広めるための記事っていうことになるよね。

 さて、これからがホントの問題。
 こういう人物像を作って、朝日新聞は世論をどう誘導したいんだろうね。

 どちらにしろ、都合のいいように記事をねつ造するのなら、帰国して疲労とPTSDに苦しめられている人に記者会見を求める意味なんて、全くないよね。

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