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「波崎事件・無実の冨山さんの獄死に抗議し、追悼する会」集会報告

四〇年間、無実を叫び続け、再審請求をしていた冨山常喜さん(八六歳)が、九月三日未明、東京拘置所で獄死した。

獄死は死刑執行と同じである。この獄死に抗議し、冨山さんの八六年の生に対する追悼のため九月二七日(土)日本キリスト教会館にて「抗議と追悼の会」を開催した。(獄死については「波崎事件再審運動ニュース」31号参照)

会は第一部、抗議集会から始まった。経過報告が第二次再審請求の棄却、異議申し立て以後の冨山さんの病状を中心とする法務省と東京拘置所(東拘)に対する攻防を中心になされた。中央更正保護審査会に対する恩赦出願及び東拘の医療体制では完治の可能性がないため設備及び体制の整った病院への移送の要請、衆院・予算委員会・法務委員会での保坂議員の緊急質問、また、保坂議員、清水医師、弁護団、支援の四者による冨山さんとの直接面会及び診察、及び東拘に対する移送の要請行動の報告が行われた。

今後の方針として
(1)東京拘置所の冨山さんに対する医療体制及び処置の責任の追及、
(2)病状を無視した中央更正保護審議会の責任追及、
(3)数多く残っている「波崎事件」真相究明の継続
が提案された。引き続いて保坂議員より、獄死後の一〇月三日の法務委員会での質問を中心として報告を受けた。(詳細別紙。死因は「慢性腎不全」ということはあり得ない。人工透析を行っていれば感染症、敗血症、あるいは心不全ではないか)

獄死後提出された東拘の報告では、獄死直前に医師団が集まりカテーテルを交換するとの結論を出し感染症の疑いを認めている。カテーテルの交換を行ったにもかかわらず、提出された九月一日のデータは白血球が一万を超えていた。CRP,炎症反応が正常値1以下のところ12.4になっており、明らかに感染症の疑いがあったにもかかわらず放置していたことが直接の死の原因であると思われる。

保坂議員は別件で獄死直前に集中治療室のガラス越しに冨山さんと挨拶を交わしたことも報告された。

続いて、弁護団を代表して佐竹弁護士が、第二次再審請求とその棄却及び異議申し立て、準備中の第三次再審請求の報告を行った。

この事件は、ギャンブルにのめり込んで金策に走り回っていた被害者が冨山さん宅に寄って帰宅し、「寝る」と言って就寝した後苦しみだした。このとき「箱屋に薬を二つ三つ飲まされた」と奥さんが聞いたということで冨山さんが逮捕された。青酸反応が出たが、苦しみだすまでに時間がかかりすぎており、新聞記者の「カプセル」に入れて飲ましたのではという、話を聞いて検察は一切証拠無しにそれを利用した。

第二次再審では、何人もの人にカプセルを飲んでもらい実験を行ったが、平均二〜三分で、五分も経てばほとんどカプセルは溶解した。青酸は猛毒で、呼吸困難となり即死する、再審請求は、データが少ない、また例外はある等との理由により棄却された。不当である。現在異議申し立て中である。

また、第三次再審請求として、被害者の自宅の土地、建物の権利書の行方の問題を準備している。被害者が事件当日、金策に持参した権利書が自宅に戻っていないことが、支援及び公判記録等の検討から明らかになった。被害者の金策の過程で権利書はどこにも置いてきていなかった。その権利書は、その後秘密裏に返却された。それは、冨山宅から被害者宅の帰宅の途中どこかに寄ったことを裏付けるものである。死後再審の重要な争点になるだろう。

集会の最後に支援の五月女さんから、東京拘置所長、及び中央更正審査会会長に対する「抗議文」を採択した。

次に第二部の「追悼する会」に移った。

「死刑囚」という汚名のまま獄死した冨山さんは、家族によって遺骨となり、静かに父母の墓に埋葬されたそうである。やり場の無い憤りもあるが、ささやかながら私たちの葬儀を行った。一枚しかない写真を引き伸ばし、会の心として、花で埋めた。司会は保坂事務所で波崎事件のため奔走していただいた亀倉さんにお願いした。

篠原、大佛両代表の追悼の辞を受け、冨山さんのお母さんの手紙(八三年支援者にあてたもの)により「常喜は心優しい子供で、朝鮮に出兵した時には、お酒を飲まないので、甘いものに代えて、父母の元に送ってくれました。また、苦労をしている人を見ると、助けてあげる心優しい子です。人を殺すようなことは絶対にありません・・・」という冨山さんの人柄が紹介された。門間さんのオルガンの演奏の中で、全国からの参列者五〇数名が献花を行った。

長年波崎事件に取り組み、また新聞記者だった安斉さんの発声で献杯を行い、参加者からの想い出、そして新たな決意が時間を忘れて続いた。

参加していただいた全国の支援の団体・個人の皆さん、本当に有難うございます。波崎事件の今後は多難と思いますが、是非支援のほど、よろしくお願いいたします。


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