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追及.波崎事件(2)
不自然な10才少女の証言
安斎 夘平

1966年12月24日、水戸地裁土浦支部の法廷は 波崎事件の被告人冨山常喜に判決を言い渡した。

 主文 被告人を死刑に処する。

この日、法廷の外は筑波颪しが怒号の如く吹き荒れていた。

物証を示すことができなかった判決は、すべて推論と推断であった。

一審判決が有罪の主要な証拠としたのは、死亡したIYの妻の証言であった。

(判決書74頁)「(I)Yは帰宅して2.3分後に苦しみ出したので『酒でも飲んだのか、父ちゃん』と言うと、苦しそうに、『薬を飲まされた。箱屋だ』と言い、『薬はな二つ、あと一つ飲まされた』『俺、箱屋にだまされた』と3、4回言った。箱屋とは被告人のことを意味している」

更に判決は、青酸化合物の毒性について繰り返し強調している。

(判決書85頁)「青酸化合物は猛毒であるから極少量で致死量に達することは常識としても一般に知られている」 (同103頁)「その場で即死する可能性の頗る強いことは常識として一般世人の知るところである」この判決文から摘記した部分は、その日、箱屋宅から1300m離れた場所で、しかも、午前零時過ぎの深夜の妻の証言と、その証言を支える当時10才の娘の証言を検証する上で重要な意味をもつ。

先述した判決文からの引用部分を、公判調書のままに再録してみると、判決が証言を省略している部分があることに気づくであろう。このこと自体は不当だなどと言うつもりはないが、妻の証言は被告人を有罪とする主要な証拠として位置づけており、10才娘の証言がこれを支えているから、微に入り細にわたって検証される必要がある。

第四回公判(昭和39年3月23日)「『酒を飲んだのか父ちゃん』と言うと苦しそうに『薬を飲まされた。箱屋だ』と言いました。私が『箱屋?』と言うと、とぎれ、とぎれにクスリハナ二ツ、アト一ツノマサレタと3.4回言いました。そうしてオレハハコヤニダマサレタと同じように言ったのです」

この証言では「箱屋」という言葉は(I)Yが発した回数でも5回から6回になる。その外に、妻が聞き返した分が1回あるから「箱屋」という言葉は6回以上発しられたことになる。見逃せないのは、『とぎれ、とぎれ』という部分である。猛毒に苦しむ人のとぎれ、とぎれは低い声である筈だ。『箱屋?』と妻の聞き返す声は当然、高声であろう。

さて、支え証拠としている10才のM子の証言をみる。先に判決書74頁「『父(I)Yの断末魔の苦しみをその場で直接見聞し、(I)Yは倒れていながら薬を飲まされたと言った。又父ちゃんの薬を飲まされたという声で目を覚ました』旨を、昭和39年3月23日第四回公判期日において証言している」

次に第四回公判のM子の証言を再録してみる。

検事 父ちゃんは何と言った。

M子 倒れていながら薬を飲まされたと言った。

検事 その時あんたはどのようにしていたのか。

M子 床に寝ていながら父ちゃんを見ていた。

検事 父ちゃんが倒れていた時、母ちゃんは何処にいたのか。

M子 家の外にいました。

検事 それからあんたはどうしたのか。

M子 又眠ってしまった。

妻(M子には母ちゃん)とM子の証言をつき合わせると、薬を飲まされた、という長い言葉の記憶はあるが「箱屋」という言葉の記憶がない。「床に寝ていながら父ちゃんをみていた」「その時(母ちゃんは)家の外にいた」妻は「3.4回」繰り返す(I)Yの言葉のあと、家を飛び出してNY、SM方へと走り回っていたからM子にすれば「外にいた」ことになる。すると、(I)Yは(母ちゃんのいないところで「ハコヤ」とは言わず薬を飲まされた)と言っていたことになるから、妻が家を飛び出した後も子供に聞き取れるほどに喋っていたのか、という疑問と、判決が強調している猛毒への疑問が残る。

続いて弁護人の質問でM子は「父ちゃんの薬を飲まされたという声で目を覚ました」となった。眠っていてもM子は連発された「箱屋」という単語よりも「薬を飲まされた」という長い言葉を記憶して目を覚ました。

この場合、判決が、「目を覚ましている」ときの証言と「父ちゃんの声で目を覚ました」情況を同列にしたのは証拠評価をアイマイにしていると言えるだろう。

M子は弁護人の八問目の質問で沈黙し、腹が痛いと言い出して尋問は中止された。

学習しなかった言葉は記憶できなかったのか。

この日、右脇腹に手をやり腹が痛いと訴えるM子を見て、筆者自身がM子と同年の頃、学習のできなかったのを叱る父親に腹が痛いと言って、まんまと難を逃れたことを思い出していた。


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