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疑わしきは罰する
 天皇から拝命の司法
大牟田市 免田 栄

(免田さんは1983年(昭和58年7月10日)死刑から再審無罪をかちとった。獄中から数え切れないほどの無実の訴えを出したことでも有名である。)

 先月から冨山さんの再審請求補充書と、松本サリン事件の河野さんの新聞記事等お送り下さって有難うございます。

 「司法の安定のためには国民の一人や二人犠牲にしてもやむをえない」元最高裁長官 田中耕太郎、この方が昭和30年頃に判例として出されています。

 司法の安定とは、明治以来、天皇を柱にこの国が構造されて「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」『然し奴民は違う』明治教育の先覚者福沢諭吉、この方が云っています。天皇はあくまでも天皇であって奴民は天皇になれないと云う意味でしょう。然し、この奴民から人選して天皇が公職を与える。つまり拝命です。この拝命思想の心得に、殉教、殉職、選ばれたる者の誇り、名誉と云う教道があります。この思想には天皇守護の城、石垣であって、国民の地位とか権利などはまったく認めていないのです。

 この制度を守護し、異説者は反社会人として司法に監視され、あるいは投獄されて、この行いに対して司法官は全く反省がなかった。

 田中氏も福沢氏の表現も、その意味するところは「疑わしきは罰する」司法の安定とは天皇制のことで国民の権利が向上することを制しています。

 サリン事件の河野さんが疑われ、あやうく犯人とされる立場に追い込まれ、幸いに疑いは晴れても一度着せられた疑いは晴れないし、司法国家は保証しません。

 敗戦の責任を「私は敗戦は知るが、開戦は知らぬ」と天皇が巧みに逃げた。国民はこの発言に何の批判力もない。批判したら袋だたきに会う状態で、それゆえに司法の行うことにはお上のされることとして民主性を全く知らないのです。

 冨山さんは犯人ではないと思います。逆に被害者の妻が役者のように窺え、警察をうまく言いふくめているように思います。

 日本の司法界は天皇から拝命しているから「一人の警察のした事件処理は最高裁の確定判決に類する」という隠語が獄中にあるのと共通しています。

 私共が無罪になったのは、お上の特別の計らいという噂が法務省から出ています。ということは今後死刑事件の確定者の再審はやらない、人間として反省の全くないところです。

1998年4月6日


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