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無知からの罪
仙台市(聖ドミニコ会)
相良 なるみ

 波崎事件とは何であったのか。何も知らないで過ごして来た私ですが、昨年十月、正義と平和カトリック全国集会の死刑分科会で「死刑問題と被害者問題をどう考えるか」の課題を掲げました。その参加者の中に、冨山正さんが被害者としての苦悩を発言されたのです。死刑囚とされた被告人の家族の苦悩であることは解ったのですが、どんな事件によるものか私はこの人、冨山さんについて何も知らなかったのです。只発言を終え退場されてとても気になっておりました。そして忘れかけた頃、波崎事件ニュースレターを戴きまして初めて冨山さんの苦悩を思い知らされました。あの時あなた様の苦悩を共有できなかったこと、それは無知であったからです。

 被害者としての癒されない傷をさらに痛めて退場されたのでしょう。冨山さん、ごめんなさい。こんなひどい冤罪事件がまだ埋もれているのかと思うと情けなさと怒りを感じます。

 冨山常喜さんの冤罪事件は司法の権威の牽制悪が生み出したとしか思えないのです。警察官の威圧、検察官の面子、裁判官の法の精神からの逸脱、体制側の腐敗が生み出したしるしでありましょう。冨山常喜さんが高齢になり乍らも一貫して無罪を主張し、獄中で頑張って生きていることを知った者は、今何をすべきでしょう。

 体制側が世間の人々の目から隠そうとして動く力に対して、真理を証す為には何ができるでしょう。そうです。冨山常喜さんとその家族の被害の苦悩を忘れることなく証し人としての冨山常喜さんを再審開始へ一日も早く立たせてゆく努力に協力し、世間の無知に向かって立って行こうではありませんか。無知や無関心で安泰な日々だと幻想の中に生きているなら、いつか思わぬ時に、自分にも体制側の権威の禍の罠に陥る可能性があることを知るべきだと思います。


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