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あまりにも似ている冨山さんのケースと私の体験
松本市  河野 義行

 私は松本サリン事件より1週間程前に妻と将来の事を話し合ったことがある。自分たち夫婦は自由気ままに生きてきた。そう言う意味ではいつ死んでも後悔はしない。でも、親の責任として子供達が大学を出るまでお互いに生きていようねと約束をした。

 妻は1994年6月27日深夜、サリンガスを吸って倒れた。救急隊員が来たときには心肺停止の状態であった。7月4日、医師から「奥さんは危険な状態です」と宣告された。妻は死線をさまよいながらも私との約束を守った。

脳の大半を無くし、なおも生き続けるエネルギーは何処から来ているのだろうと考える。きっと妻は「子供達が大学を出るまで死ねない」と頑張っているのだと思う。

 松本サリン事件発生から1年間余り、警察やマスコミにより、7人を殺し、数十名に負傷させた犯人としての扱いを受けた。もしここで誤認逮捕を許し、虚偽の自白をしてしまったならば、意識のない妻を守ることが出来なくなる。最悪の環境の中、潰されずに戦えたのも、妻が約束を守っていてくれるからだと思う。

 「波崎事件の再審を考える会」大仏照子氏から事件資料を昨年送っていただき、冨山常喜さんの事を知った。資料の中に「逮捕以来一貫して無実を主張し、一度も自白しなかった」「物証は何一つ発見できなかった」「情況証拠による推論と推断で死刑を宣告した」とある。

 松本サリン事件体験前の自分なら、事件に関与していない人が逮捕され有罪になることはないと考えたであろう。しかし、その考えは必ずしも正しくない事を知った。自分は潔白を主張し続けた。物証は何もない。

そんな中、「情況証拠は全て河野=黒に向いている」と言ったU警部の言葉が甦る。そして、Y警部は自白を強要した。ちょっとした伝聞情報から冤罪の歯車に巻き込まれる事を体験した。冨山常喜さんのケースとあまりにも似ているように思う。私は自分の無実を自身で証明できなかった。いや、無実であればその証明など自分で出来ない事を知った。

 1963年から35年間も東京拘置所に幽閉されたまま、まもなく81歳の誕生日を迎えると聞く。この間、冨山さんは何を支えに戦って来られたのかとても気になる。

裁判所は弁護団提出の再審請求の補充書の内容を真摯に受け止め、審査されることを望む。

1998年3月31日


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