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波崎事件救援運動との出会い

篠原道夫

私が波崎事件と出会ったのは、1964年9月に松山事件の現地調査に被告だった佐藤幸夫君の実家の宮城県の鹿島台町に行った際の交流会の時に、冨山さんの次弟のTさんが訴えた時です。その時、Tさんは守る会を作って運動していると話しました。しかし、当時の私は松山事件だけに目が向いていて、波崎事件に配慮しませんでした。今にして反省しています。

もっとも、私が取り組んだからとて波崎事件が無罪になった訳ではありません。ただ身内の人が中心でやる救援運動という理想的な救援運動が何故発展できなかっただろうかという事です。

当時は冤罪事件には世論が低く、その上国民救援会的な救援意識が冤罪事件を階級的権力犯罪と見ないで一警察署、一警察官の行き過ぎた取り調べから惹起された位の認識であり、その影響で「昔、陸軍、今総評」と言われた位の力のあった労働組合が階級的権力犯罪でないとの認識から取上げ方が弱く、これにつられて大衆団体も同調した為、冤罪事件の救援運動が盛りあがらなかった訳です。こうしてTさんは断念を余儀なくされたと思います。

たとえば、松山事件は、階級的弾圧事件というようにレッテルだけはり替えたというエピソードがあります。これに刃向かう形で、当時冤罪事件のエキスパートと言われる桧山義介さんに引っ張られて私が波崎の救援運動に関わったのが1972年頃です。しかし、波崎事件の救援運動は盛りあがらず、瞬く間に76年4月の最高裁の死刑確定に至りました。

東京高裁判決前後の73年頃は、70年安保の反差別の救援運動が昂揚しはじめ、同時に世論も冤罪に関心を寄せ始めて、結果は救援運動と世論のマッチングによって例の免田、財田川、松山、島田の4死刑事件が無罪になるなどの動きがありましたが、波崎事件は時すでに遅きの感がありました。しかし、今からでもやるしかありません。冨山さんの声に耳を傾けて、再審の証拠探しに全力をあげるなら必ず道は開けると確信します。


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