■ 冨山さん40年の不屈の闘い もどる

別件逮捕による17日間にわたる不当な取調べ、新聞による徹底した世論操作の中で冨山さんは一貫して無実叫び続けた。(この年譜は26前の1977年に作成された資料集『波崎事件』による)


不当な捜査経過 と マスコミのでっちあげ報道 〈新聞「いはらき」より〉

1963/08/26 1963年(昭和38年)8月26日午前1時30分IYさん死亡
1963/08/26 茨城県警と鹿島署の合同捜査本部が設けられ、40人の専従員が捜査開始
1963/08/27 「口からアワを吹き怪死――薬を三つ飲まされたともらす」
1963/08/29 「他殺の線でも捜査、波崎石橋さんの怪死事件」
1963/08/30 「波崎の変死事件で家宅捜査 母子の証言くい違う」
   「箱屋にだまされた」と信子さんは聞いていたが、娘は「何もきいていなかった」と否定している
1963/08/31 「胃の中から毒物? 波崎町の変死事件合同捜査に踏切る」
   「今のところ、他殺、病死、自殺、いずれも決定的なキメ手となるものはでていない」
1963/09/01 「薬局をしらみつぶし、波崎の怪死事件病死説も出る」
1963/09/06 「波崎変死 手がかりない 県警本部長きのう記者会見」
1963/09/12 「“私は絶対に潔白だ”波崎の怪死事件問題の“箱屋”と一問一答」
1963/10/23 冨山常喜さん別件逮捕さる
1963/10/23 「波崎の怪死事件は、毒殺だった 冨山けさ逮捕 保険金ほしさに」
   [この記事は社会面のトップに新聞「いはらき」の完全スクープとしてとりあげられた。別件(私文書偽造同行使)逮捕当日の朝刊にのったのである。のち同紙は「始末記」として、「波崎の怪死事件、破れた“完全犯罪”悪い奴ほどよく眠る?」と題して、冨山さんの無実の叫びをよそにデッチあげ報道を行なっている]
1963/10/24 水戸地検土浦支部に身柄送検、検事拘置(10日間)に切りかえられる
1963/10/24 「冨山、毒殺を否認 波崎町怪死事件本部は犯人と断定 特捜班14人で包囲急襲平然と逮捕状読む冨山」
1963/11/02 さらに検事拘置延長(10日間)
1963/11/02 冨山常喜さん拘置延長に抗議して一週間のハンストを続ける
1963/11/03 「冨山の毒殺自供近し 波崎町の怪死事件の拘置期間10日延長」
1963/11/05 「冨山ハンストで対抗 波崎の毒殺事件核心にふれると黙否」
1963/11/09 鹿島署で一応釈放、同日殺人容疑で再逮捕、同課市毛警部らが本格的に追及開始
   署で釈放されたとたん再逮捕されてまた獄中へひきもどされる。
   [狭山事件と同じ手口。身におぼえのない罪でとらえられ、きびしい追及をうけてやっと外へ出たとたんの逮捕は精神的ショックが大きい。警察はそれを自白をとるチャンスとするのだ]
1963/11/10 「冨山再逮捕 毒殺容疑に切りかえる」
1963/11/11 水戸地検土浦支部へ身柄送検、検事拘置(10日間)にきりかえる
1963/11/20 さらに検事拘置延長(10日間)
1963/11/23 同支部に身柄移監、黒瀬検事取調べを開始
1963/11/30 検事拘置満期のこの日に殺人、私文書偽造、同行使の容疑で起訴
1963/12/01 「農夫毒殺事件の冨山起訴、事件から98日ぶり状況証拠でふみ切る」


法廷での闘い と 警察・検察・裁判所一体のでっちあげ
1964/01/09 1964(昭和39)年1月9日 公判開始
1964/01/09 第1回公判冨山常喜さん毒殺の事実を否定
1964/02/10 第2回公判 78人の証人を申請
   [検事は冨山さんが毒殺の事実を否定しているので、これを立証するために石橋康雄さんの妻、信子さんをはじめとする78人という大量の証人を申請した。無実を叫び続ける冨山さんに対する量をたのんでの攻撃である]
1964/03 昭和34年の強盗傷人「ハワイ屋事件」に関して「殺人未遂」で追起訴


もどる