■ 第二次再審請求補充書(1997/07/29) もどる

昭和六二年(お)第一号 再審請求事件

   再 審 請 求 補 充 書

本  籍  茨城県那珂湊市釈迦町五七一九番地   
現在居所  東京拘置所              
請求人   冨  山  常  喜         
      大正六年四月二六日生         

東京都中央区築地三丁目一四番六号叶ビル      
倉田法律事務所                  
請求人代理人弁護士  倉  田  哲  治    

東京都中央区銀座五丁目一〇番一二号 古田ビル六階 
三原橋法律事務所                 
同      三  島  浩  司        

東京都八王子市元横山町一丁目八番九号       
西東京共同法律事務所               
電話〇四二六(四五)二一八一           
同      佐  竹  俊  之        

東京都新宿区西新宿一丁目一九番六号山手新宿ビル九階
新宿法律事務所                  
電話〇三(三三四三)三九八四           
同      安  部  井  上        

平成九年七月二十九日
東京高等裁判所
第一刑事部御中

右請求人は殺人、私文書偽造、同行使被告事件について、昭和六二年一一月四日再審請求を行っているが、その後さらに請求人が右犯行を行うことができず、従って決して行っていない証拠を新たに発見したので、右再審請求の理由を補充する。

請 求 の 趣 旨

右被告事件について再審を開始し、請求人に対し更に相当な判決をされたい。

請 求 の 原 因

目 次

第一 有罪確定裁判の存在

第二 新規証拠の表示と立証趣旨

第三 再審の理由
一 はじめに
1 事件の概要
2 原判決における有罪認定の根拠
3 原判決の不合理性

二 再審理由
1 青酸化合物入りカプセル剤を手段とする犯行の不可能性 (一)胃から検出されたチタンはトリブラのカプセルに由来するもではない。
 【1】第一審判決および原判決におけるカプセル
 【2】トリブラに使用されたカプセル
 【3】胃の内容物について
 【4】小括
(二)硬カプセル入りの青酸化合物による被告人の本件犯行は不可能である。(カプセル崩壊開始時間とその問題点)
 【1】原審判決の認定要旨
 【2】原審判決文より導かれるカプセルの溶解時間
 【3】大内朝吉実況見分調書により導かれるカプセル溶解時間
 【4】長谷川淳鑑定書の問題点と補弁第一号証
 【5】小括
2 被害者の妻IN証言の信用性の欠如
(一) INの伝聞証言の危険性
 【1】原判決におけるINの伝聞証言の重要性
 【2】伝聞証言の信用性の問題
 【3】INの証人適格と証言の信用性への疑問
 【4】死因から見たIN証言の不自然さ
 【5】被害者の娘Im証言から見たIN証言の不自然さ
 【6】小括
(二)IN証言の変遷

第四 結論
1 青酸化合物入りカプセル剤を手段とする犯行の不可能性の結論
2 IN証言の信用性の欠如の結論
3 結語

第一 有罪確定裁判の存在

請求人は、昭和四一年一二月二四日水戸地方裁判所土浦支部において、殺人、私文書偽造、同行使、殺人未遂罪により死刑判決の言渡を受けた。これに対し、請求人が控訴申立をしたところ、昭和四八年七月六日東京高等裁判所において殺人未遂につき無罪、その余の罪名につき死刑判決の言渡を受けた。更に上告申立をしたところ、昭和五一年四月一日最高裁判所において上告棄却の判決を受け、更に判決訂正の申立をなしたところ昭和五一年四月二四日申立棄却の決定を受け、前記第二審の有罪判決が同日確定した。

第二 新規証拠の表示と立証趣旨

補弁第一号証 鑑定書     一九九一年一二月六日付け緒方宏泰作成
       (立証趣旨)硬カプセルの崩壊開始時間は平均五分であること
補弁第二号証 鑑定書     一九九一年九月二七日付け平瀬文子作成
       (立証趣旨)青酸塩による死亡の本態が呼吸中枢及び神経系統の麻痺による電撃的瞬間死であり、発語能力はほとんど失われること
補弁第三号証 弁護士照会回答書 一九九一年一〇月九日増子功一作成
       (立証趣旨)本件発生当時と現在製造のカプセルは同様であり、崩壊開始時間も同様であること
補弁第四号証 試験検査成績書  一九九五年九月一二日付け(財)茨城県薬剤師会公衆衛生検査センター作成
       (立証趣旨)トリブラSのカプセル剤は崩壊開始時間が一分前後であること
補弁第五号証 聞き取りメモ 一九九〇年七月三〇日足立東作成
       (立証趣旨)我が国で使用されている医療用カプセルの九五パーセントは、カプスゲルKKと日本エランコKKの製造・販売であること
補弁第六号証 弁護士照会回答書  一九九一年一〇月一七日高橋利男作成
       (立証趣旨)昭和三八年当時、トリブラは透明の着色していないカプセルに充填して販売しており、チタンは含まれていないこと
補弁第七号証 弁護士照会回答書 一九九〇年二月六日黛宣正作成
       (立証趣旨)INがIYの死亡保険金を受領していたこと
補弁第八号証の一 文献 硬カプセル剤の薬剤学的検討
       (「病院薬学」一九八六年一二巻、六号)
       (立証趣旨)硬カプセル剤の崩壊時間
    同号証の二 文献 裁判化学・薬物分析と毒理ーその応用(廣川書店)
       (立証趣旨)青酸塩による毒作用の発現形態
    同号証の三 文献 青酸塩中毒死に関する知見補遺(日本法医学雑誌 一 九四九年五月・平瀬文子作成)
       (立証趣旨)青酸塩の反応機序
    同号証の四 文献 法律家のための法医学(富田功一作成)
       (立証趣旨)青酸塩の反応機序の事例
    同号証の五 文献 犯罪を追って
(現代化学・一九七三年一〇月・狐塚寛作成)
       (立証趣旨)原判決認定の決め手がチタンの存在であったこと
    同号証の六 文献 新法医学 (上野正吉作成)
       (立証趣旨)青酸塩の作用機序
    同号証の七 文献 「乳とその加工」
       (足立達・伊藤敞敏共著 八四、九一頁)
       (立証趣旨)牛乳にチタンが含まれること
    同号証の八 文献 二五崩壊試験法 第七回日本薬局法
       (立証趣旨)カプセルの崩壊試験法

第三 再審の理由

一 はじめに

1 事件の概要

本件は、茨城県鹿島郡波崎町で起きた「毒殺事件」と言われるものである。昭和三八年八月二五日夜、同町の農業IY(当時三四歳)が金策の帰り道に同町の木箱販売業冨山常喜(請求人、当時四六歳。IYのいとこのIMの内縁の夫にあたる)宅を訪ねた後、(約一・三キロ離れた自宅へ)冨山の車を借りて冨山宅を出、帰宅後しばらくして、突然苦しみだしたため、家人らがIYを波崎済生会病院に運んだが、八月二六日午前一時半頃に死亡した。
波崎済生会病院の医師による死亡診断書によれば、IYの死因は急性左心室不全であった。しかしながら、死亡したIYの妻INが「IYは箱屋に薬を飲まされたと言っていた」と公言したことから、県警及び鹿島署は、当時、箱屋と呼ばれていた請求人冨山常喜の身辺調査をし、一〇月二三日、「私文書偽造、同行使」の容疑で別件逮捕した。取り調べでは、毒殺の自白強要が行われていたが、請求人冨山は殺人容疑に関して否認し続けた。この間、茨城県警刑事部鑑識課、及び警察庁科学警察研究所にて胃の内容物を鑑定したところ、青酸化合物が検出されたとの鑑定がなされたため、一一月九日、冨山常喜を「IY毒殺」の容疑で再逮捕した。
本件は、青酸化合物による保険金殺人事件とされているが、被害者IYが自宅で発症し、その原因さえ明確にならなかったところ、突然請求人を対象とする捜査が開始され、別件、ハワイ屋事件と共に起訴され、長期間の裁判の末に死刑判決が確定したものである(ハワイ屋事件については二審で無罪となっている)。
しかし、請求人は捜査開始時から一貫して犯罪事実を認めていない(請求人はその高齢にもかかわらず恩赦の申請をも拒絶しているほどである)。さらに、本件には物証をはじめとする客観的証拠も皆無である。
にもかかわらず、原判決は、存在の裏付けさえまったくない「カプセル」を想定することによって、請求人と犯罪事実とを結び付け、すべて情況証拠のみで請求人を犯人と推断したのである。
犯罪と請求人とを結び付けるかのように見える唯一のものは、被害者の妻INの伝聞証言のみであって、他にまったく証拠はない。
原判決が摘示している「間接証拠」は、いずれも請求人の犯行を積極的に裏付けるものではなく、合理的な疑いを超える立証を基礎付けるものではない。

2 原判決における有罪認定の根拠

第一審及び第二審の結論は、請求人が請求人宅にてIYにカプセル詰めした青酸化合物を服用させた犯人であり、その目的は請求人が掛けた生命保険金の取得であるとしている。しかし、請求人は、IYの帰宅は死亡前日の午後一一時四二、三分であり、自宅に戻ってから相当長い間自宅に居って、自ら青酸化合物を飲用して自殺したものと主張した。さらに、請求人は捜査以来犯行を否認し続け、生命保険は一応締結したがIYの死亡前に生命保険会社で却下となり、解約したものである旨を主張している。
第二審の確定判決は、同様の目的によるとされていた殺人未遂事件につき請求人を無罪として、殺人事件については、基本的に第一審の事実認定を維持しているので、この維持された第一審の事実認定部分を含めて原判決の事実認定とし、原判決において請求人が真犯人であるとする証拠を以下のように要約する。

(一)請求人と犯行を結ぶ証言の存在。被害者IYの妻INの「箱屋に薬を飲まされた、とIYから聞いた」という一審第四回公判での供述(昭和三九年三月二三日)、被害者IYの娘Imの「父ちゃんの薬を飲まされたと言う声で目をさました」という同公判での供述を信用し難いとするに足る証拠はなく、特に被害者の妻INの一審第四回、一二回、一三回公判における供述は、きわめて具体的で真に迫り、嘘をいっているとの疑いを差し挟む余地はなく十分信用に値すると認定した。
(二)自殺の不可能性。第一審は、「自宅で自殺するものが何で毒物をカプセルに入れて飲むのであろうか。」と疑問を投げかけ、さらに遠藤一の尋問調書(昭和四一年二月一○日)を引用して、IYには借金があったものの自殺の事情があったと認めるに足りる証拠がないとした。
(三)動機および目的。物欲にかられた計画的な生命保険金取得が目的であると認定している。この裏付けとしてIYに掛けた生命保険契約締結の経緯と約束手形をM(K)に渡していること、昭和三八年八月二七日員面及び昭和三八年一一月一八日検面によると、保険契約が成立し自己が受取人であると信じていたことが認められることをあげている。
(四)犯行の機会の存在。IYの帰宅直前に請求人と二人きりの時間があり、この間に毒物を飲ませることができたと認定している。この裏付けとして請求人がその二人きりの時間に「アスピリンを飲めば眠れる。」といった事実は、正常な薬品と偽って、青酸化合物入のカプセルをIYに飲ませることのできた機会があったこと、請求人は、当夜カプセルを所持していたにも関わらず、所持を否定していることをあげている。

さらに、原判決では犯行の可能性を以下のように述べている。
(五)請求人が青酸化合物をカプセル詰めした可能性の根拠。当夜午後八時三○分ころ、IYが八日市場に出かけたあと帰ってくるまでの3時間くらいの時間に青酸化合物入のカプセル一個を作っておく時間と余裕があった。
(六)請求人がカプセルを使用した可能性の根拠。まずカプセルを飲ませた犯行時刻と推定されるIYの請求人宅の退去時刻は、内妻IMの供述等により、零時一五分ころと認定した。IYの帰宅はその妻IN証言より零時二〇分と認定し、それからまもなく青酸中毒症状を起こしたと認定した。従って、カプセルの嚥下から帰宅までの時間は約五分となる。長谷川鑑定書によれば「カプセルの溶解時間は数分ないし三〇分程度」であり、約五分はカプセルの溶解時間の範囲内であったことから、時間的にカプセル使用の可能性がある。
(七)事件当夜カプセルが請求人宅に存在した可能性の根拠。請求人は昭和三八年一一月三○日付けの供述調書において、カプセル入りの薬品が、IYの死んだ日以降二、三日まで残っていたこと旨を供述し、請求人の内縁の妻IM、及びその娘IAもカプセル入りの薬品が自宅にあった旨を証言している。
(八)IYがカプセルを飲んだ可能性の根拠。科学警察研究所作成の鑑定書によるIYの胃内容物の発光分光分析結果により、カプセルの着色剤として用いられる「痕跡のチタン」が検出された。
(九)請求人がカプセルを使用した理由。IYが車の運転中に青酸中毒を起こしても、交通事故として処理されると考え、交通事故を偽装するためである。

これらの(五)から(九)の可能性の存在は、「IYは箱屋に薬を飲まされた」旨のIN証言と矛盾せず、本件の犯人は請求人以外の者である考えることは不可能になったと断定した。

3 原判決の不合理性

一般的に殺人事件において、被告人を有罪とすべき証拠としては、

(イ)動機の存在
(ロ)犯行機会の存在(アリバイの不存在)
(ハ)凶器の存在
(ニ)犯行の痕跡(犯行前後)
(ホ)目撃者の存在
(へ)自白の存在

などが考えられる。これを本件の一審及び原判決における有罪認定の証拠について検討すると(イ)動機の存在、および(ロ)犯行機会の存在(アリバイの不存在)は認定されているが、(ハ)凶器の存在、(ニ)犯行の痕跡、および(ホ)目撃者などの一切の客観的証拠が存在していない。
IYの死因として認定された青酸中毒死は、青酸化合物の嚥下から瞬間的に死亡するはずであるが、IYは帰宅後に発症している。原判決は、この帰宅から発症までの時間を埋めるために、請求人は青酸化合物をカプセルに詰めて飲ませたとする。そしてこの犯行機会の存在の立証に証拠適示の大部分を当てている。つまり、カプセルの存在も、カプセルに青酸化合物を詰めたことも、そのカプセルを飲ませたことも単なる状況的な推測でしかない。この推測は、IYが発症する五分以上前に、IYと請求人が二人きりで接触していたという、請求人にとって極めて不利な事実から導かれているが、その間に犯行があった直接的な証拠は何ら存在しない。
唯一証拠らしき証拠としては、「IYは箱屋に薬を飲まされたと言った」旨の被害者の妻INの伝聞供述だけで、これによって犯行と請求人は結び付けられている。第一審では、IN証言を信用し難いとする証拠はないから、信用できるとしている。さらに、第一審判決において、
「被害者の妻INやその娘Imの証言を信用し難いとするに足る証拠があるかと云うに、IM、IA等が、INはIYの親を粗末にした人間であると聞いていると述べたり、INはIYの死亡前、被告人が六百万円の保険をかけていたことを知悉していたと思われる節のあることを証言し、暗にINがIYの自殺を隠しているかの如き口吻を示している(前掲記内妻IM、その娘IAの各証言を録取した調書及び、IAの第六回公判期日における証言を録取同公判調書)が、前者については全くこれを立証するものは提出されていない。後者についても、INの証言では、INがIYの急病のため医者に電話をかけようとして、近隣のNY方へ行き、同女に訳を話した上、医者に電話をかけて貰った外、同女が被告人方に電話して一体何をIYに飲ませたのかと聞きただしたことはあるが、INはその当時まだ被告人によってIYに大金の保険金がかけられていることは知らなかったので、左様な保険のことは全然言っていないことになるのであるが、内妻IM、明美は、NYのかけて来た電話の中に、INが被告人はIYに人の知らない保険をかけておいた旨を言っていたと証言するので、当裁判所は、NYにこの点をただしたところ、同女は全く内妻IM等の証言と相反する供述をなし、その際INから保険の話しなぞ全く聞いたことはない旨の証言をしている。(昭和四一年二月一○日施行受命裁判官の証人NYに対する尋問調書記録第七分冊)」(四○〜四一丁)と述べ、IN証言を信用し難いとするIM、IA等の証言を退け、被害者の妻IN証言を信用するNY証言を信用している。
さらに、第一審では、伝聞である被害者の妻IN証言について「人の死の断末魔における苦悶とともに発した自然衝動的な言葉は、それ自体所謂伝聞証言でないことは明らかである。」(四二丁)と証拠能力を認めているが、死の直前の言葉だから「伝聞証拠でない」のではなく、価値的に見て伝聞例外として証拠能力を認めても良かろうとされているだけである。従って、必然的に証明力については慎重な検討が必要であり、更に死の断末魔に自然衝動的な言葉を発したのはIYであって、INではない。従って、IYが発した自然衝動的な言葉をINが正確に伝えたか否かは別問題であって、その信用性を十分検討する必要があり、後に述べる新証拠と共にその信用性は極めて疑わしいと断ぜざるを得ない。
以上のように原判決では、INの伝聞証言と犯行の可能性を示唆する状況証拠である(イ)(ロ)を互いに結び付けて、犯人は請求人以外に考えられないと推断しているが、客観的な証拠である(ハ)〜(ヘ)が欠けている状況で、以下では、状況証拠として認定されている「カプセル」の存在の裏付けが極めて疑わしいことの新証拠、IYがカプセルを嚥下してから発症までの時間は「カプセル」の溶解時間より長いことの新証拠、及び最大の拠り所であるIN証言について、IN証言の伝聞内容が青酸中毒者の発言として疑わしいことの新証拠、INを信用すること自体が極めて危険であることについての新証拠を示し、原判決の有罪認定に合理的な疑いが存在することを示す。

二 再審理由

1 青酸化合物入りカプセル剤を手段とする犯行の不可能性

(一)胃から検出されたチタンはトリブラのカプセルに由来するものではない。

【1】第一審判決および原審判決におけるカプセル

第一審判決および原審判決では、死亡したIYの胃の内容物からチタンが検出されたこと、酸化チタンがカプセルの乳白色の着色剤として一般的に利用されること、さらに、被告人が白色を呈するカプセル剤トリブラを所持していたとする証言があることを根拠として、被告人が乳白色の硬カプセルに青酸化合物を入れてIYに飲ませたと、強く合理的に推断されるとしている。
すなわち、第一審判決文には次のような記述がある。
「前掲記長谷川淳作成の鑑定書及び同人の証言を録取した当裁判所の尋問調書によると、前掲記科学警察研究所作成の鑑定書によるIYの胃内容物の発光分光分析結果により痕跡のチタンが検出されて居り、酸化チタンが錠剤の糖衣加工に古くからしばしば使用されているところから、IYはミネラル入りのビタミン剤の糖衣錠を飲んだと見る可能性もあり、又乳白色のカプセルは酸化チタンをゼラチンに混じて製造し、薬剤の入った市販のカプセルは大方硬カプセルであり、これならば素人でもそのカプセルに青酸化合物を入れることは決して困難ではないから、IYは、青酸化合物を入れた乳白色のカプセルを、ミネラル入りのビタミン剤の糖衣錠と共に飲んだと見る可能性があるとされている。」(第一審判決書六九〜七○丁)。
そして、本件犯行当時被告人が(乳白色の)カプセルを所持していたかどうかについては、次のような記述がある。
「被告人は、検察官に対する昭和三八年一一月三○日付供述調書において、カプセル入りの薬品であるトリブラが、IYの死んだ日以後二、三日まで被告人方に残っていた旨を供述し、司法警察員に対する昭和三八年一一月一○日付供述調書においては、IYが死んだ後二、三日たった頃、妻IMが机の引出しからカプセル一個を見つけ出したのを飲んだことがある旨を供述しているがいずれも(記録第九分冊)、第二八回公判期日においては、IYが来た最後の当夜には、自分の家にはカプセル入りの薬品はなかった旨を述べている。
しかし、証人内妻IMの昭和三九年四月一六日第五回公判期日における証言を録取した同公判調書によると、IYが死んだ二、三日後、家宅捜索を受けた際、被告人は、内妻IMが引出しから見つけた白一色のカプセル入りの薬品一個を、車酔いの薬だと言って飲んでしまった旨が証言されて居り、又、証人IAの昭和三九年四月二○日第六回公判期日における証言を録取した同公判調書によると、IAは、IYが死亡した前、半年位の間に、被告人の使っている六畳の机の引出しにカプセル入りの薬品を見たことがあり、IY死亡後の八月二七日頃、内妻IMが、座机の右袖下段にカプセル入りの薬一個があったのを発見したので、被告人に見せたら、被告人は、これはバスに酔った時飲むといい薬だといって飲んでしまった旨を警察官に指示説明していた旨が証言されて居り、さらに、同証人に対する昭和四○年七月八日受命裁判官の尋問調書では、IAは、IYの死亡した事件の起こる一月か二月位前に、被告人がカプセルに入った薬を持っていたのを見たことがある、一つか二つではなくもっと沢山あった、色はワラ半紙のような色で、一つ一つとまるような風になっていて入って直ぐの部屋の机の引出しに入っていた、それを被告人がなんとなくあけているのを見た旨が証言されている。
被告人は、第二八回公判期日において、内妻IMは事件の半月位前の話を混同しているのであって、自分が内妻IMの言うように警察から家宅捜索を受けた際、カプセルを飲んだようなことはないと供述している。
しかし、前掲記昭和三八年八月二八日即ち家宅捜索を受けた日に、被告人が任意提出書に署名して警察に提出した書面の目録に記載された薬品名並びにこれに相当する全薬品にはカプセル入りの薬品は一つも存在していない(第二九回公判調書参照)。
検察官に述べた被告人の供述は任意になされたものでないとの反駁もなく、内妻IMの証言を否定するに足る証拠もない。とすれば、IYが被告人方にいた最後の晩に、被告人方にカプセル入りの薬品があったものと認めるべきである。」(同七○〜七三丁)
以上のように、第一審判決では、IYが「青酸化合物を入れた乳白色のカプセルを飲んだと見る可能性がある」ことを前提に、本件犯行当時被告人において、(乳白色の)カプセルを所持していたとする根拠として、被告人の検察官に対する面前調書、証人内妻IM、その娘IAの各証言を挙げている。第一審判決は、「とすれば、IYが被告人方にいた最後の晩に、被告人方にカプセル入りの薬品があったものと認めるべきである」と述べている。原判決もこれを追認している。
つまり、さきに示した第一審判決書に述べられているように、被告人の検察官に対する面前調書(昭三八年一一月三○日)で、「君の家では最後まであったカプセル入りの薬は何か。」との質問に対して、被告人は「トリブラです。IYの事件の二、三日後までトリブラが残っていたのです。」と答えている。トリブラが東京都千代田区神田鍛冶町所在の大木製薬発売の乗り物の酔い止め用の白色を呈するカプセルであり、内妻IM、その娘IAの証言中の「車酔いの薬だと言って飲んだ」白色のカプセル、「バスに酔った時飲むといい薬だといって飲んでしまった」、あるいはワラ半紙のような色のカプセルとはトリブラのこ とであると容易に考えられる。
第一審判決書では本件犯行の手段であるとしたカプセルそのものが「トリブラ」であるとは明記されていない。しかし、第一審判決の前掲判示部分を素直に読めば、乳白色のカプセル薬とは、被告人が所持していたとされている当時大木製薬が製造していた車酔い止めの、カプセル薬トリブラを意味していることは明らかである。このことは、判決が前述のように積極的認定の根拠として挙げている各証拠とも合致している。
以上を要約すると、第一審判決及び原判決では、「IYが被告人方にいた最後の晩に、被告人方にカプセル入りの薬品があったものと認めるべきである」としている。ここで、白色を呈していると供述されている酔い止めのカプセル薬がトリブラを意味していることは明白で、それ以外のカプセル薬は想定されていない。

【2】トリブラに使用されたカプセル

浮田鑑定は「嚥下されたカプセルが乳白色又は着色されたものの場合に限る」とし、判決は、右浮田鑑監定、同一審長谷川鑑定を前提に、「乳白色」のカプセル入りの青酸化合物による犯行を結論づけている。しかし、前述のように、判決の事実認定のどこにも「乳白色」に着色されたカプセルが犯行当時、被告人によって所持されていたとする証拠の挙示は存在しないのである。前掲証拠の内、内妻IMは「白一色」、IAは「色はワラ半紙のような色」のカプセルに言及してはいる。しかし、右供述は、「乗り物酔いの薬」を包蔵するカプセルとの関連における供述である。このカプセル薬は証拠上「トリブラ」以外にはありえないのである。
そして、ここに一審判決および原判決の重大な誤謬がある。すなわち、当時発売されていた「トリブラ」は透明カプセルを使用しており、トリブラのカプセルはチタンを含んでいない(補弁第六号証)。カプセルが透明であれば、チタンを含んでいないことは、前記長谷川、浮田鑑定によっても明らかである。当時のトリブラの薬剤は白い粉末にピンク色の均一剤を混ぜて製造されており、よくみると薄いピンク色だが、透明のカプセルを通して見ると白一色のカプセルのように見えるのである。従って、内妻IMのいう「白一色」IAのいう「ワラ半紙のような色」のカプセル薬品というのは、トリブラのことを意味すると解するのが自然なのである。
内妻IMは(第二審第八回公判調書、昭四三年一○月三○日)、弁護人から被告人が飲んでしまったという「そのカプセルは二つぽこっと開くカプセルかそれとも開かないカプセルか分からないか」という質問に、「そんなことは分かりません。だけど中に薬が入っていなけりや、透明なものなんでしょ」と答えている。この事実は、内妻IMにおいても、右の薬のカプセルが透明だったと思っていたのであり、被告人が、所持していたと想定されている車酔い止めのカプセル薬がトリブラであったことを裏付けているのである。一審判決は、トリブラも乳白色に「着色」されたカプセルであると判断し、トリブラのカプセルにチタンが含まれていたと前提しており、原判決もこの点についてこの事実を追認している。
原審裁判所において、トリブラのカプセルが透明なことは充分承知のうえだと言うのであれば、チタンを含んだトリブラ以外のカプセルが事件当時、被告人宅に存在したとの事実を証拠をあげて示すべきである。「トリブラ」以外のカプセルについての証拠は存在していない。
以上を要約すると、「トリブラ」のカプセルは透明でチタンを含んでいない。犯行に利用されたと想定されている車酔いのカプセル薬が、白色あるいは、ワラ半紙のような色に見えるのは、トリブラの薬剤自体が白色を呈しているためであり、透明カプセルを通して見るとカプセル自体が白色に見えるのである。

【3】胃の内容物について

カプセルには硬カプセルと軟カプセルの二種類がある。長谷川鑑定書にもあるとおり軟カプセルに素人が手を加えることは不可能で、軟カプセルが使われた可能性は本件では最初から除かれている。従って、本件においてカプセルといえば特に断わらない限り、硬カプセルのことである。日本薬局方によると、カプセルはゼラチン製で、一端を閉じた互いに 重ね合わすことができる一対の円筒体であり、水によく溶け、透明、無味無臭である。内容の医薬品を紫外線から保護するため、酸化チタンを添加し、不透明の乳白色にする場合もあり、更に見た目を美しくしようと着色剤も使われる場合もある。従って、透明カプセルにはチタンは含まれていない。
第一次再審請求(昭五五・四・九)に際し、弁護側から提出した新証拠の一つに、被害者のIY方付近の土壌には、わが国の平均的含有量の約二倍のチタンが含まれていることが示されている。植物の根、葉などのほか、レバー、牛乳など動物性食品にも微量ながら含まれているのは公知の事実である。従ってIYが自宅菜園のホーレン草、大根の葉などを日常的に食べ、また牛乳などを飲んだ直後であれば、胃内に通常人より多いチタンを蓄積しているのは容易に考えられる。
ところで、IYは死亡約三時間前に八日市場市の金融業EM宅でグレープカルピスをコップに一杯飲んでいる。カルピスは牛乳から乳脂肪分を除去して濃縮したものに砂糖、香料などを加えて製するから微量のチタンを含んでいる(補弁第八号証の七・九一頁)。黙るに、一審の判決はこのカルピスには何らふれずに、科警研がIYの胃内容を発光分光分析にかけた結果、微量を意味する「痕跡のチタン」を検出したこと、前述のように被告人が白色を呈する車の酔い止め用カプセル剤であるトリブラをIYの死後二〜三日まで自宅に所持していたと供述したこと、内妻IMもIYの死後二〜三日たって家宅捜索を受けた日の朝、妻IMが机の引出しからみつけた白一色のカプセル入りの薬品一個を、被告人が車酔いの薬だと言って飲んでしまった、と証言したことなどを証拠として採用し、被告人が事件当夜、IYに青酸化合物入り乳白色カプセルを飲ませたと認定しているのである。
ところで、IYの胃の内容物より科警研が発光分光分析で検出した、少量のカリウム、カルシウム、ナトリウム、マグネシウムと痕跡のチタン、鉛、ケイ素、アルミニウム、鉄、銅、錫、リンの一二元素すべてが牛乳に含まれているのである(補弁第八号証の七・八四頁)。
以上のことから、IYの胃の内容物より検出された痕跡のチタンはトリブラのカプセルに由来するものではない。

【4】小括

以上述べてきた事実を要約すれば、次のように結論づけることができる。
第一に、第一審および原判決が本件犯行手段として推断したカプセルはトリブラであり、トリブラのカプセルにはチタンは含まれていないこと、いいかえれば被害者IYの胃内容から痕跡のチタンが検出されたからといって、直ちにカプセルに結びつける論理的必然性はまったくない。すなわち、チタンが検出された事実は犯行手段にカプセルが利用されたという推断の何らの証拠にもならない。
第一審判決および原判決では、死亡したIYの胃の内容物からのチタンが検出されたこと、酸化チタンがカプセルの乳白色の着色剤として一般的に利用されること、さらに、被告人が白色を呈するカプセル剤トリブラを所持していたとする証言があることにより、被告人が乳白色の硬カプセルに青酸化合物を入れてIYに飲ませたと推断している。しかしながら、被告人が犯行に利用したと推断されている、トリブラのカプセルにはチタンが含まれていないと言う新しい事実により、検出されたチタンは、カプセルを利用して被告人が犯行を行なったと推断する根拠としては、まったく意味がなくなるのである。
第二に、「痕跡のチタン」は、IYが死亡約三時間前に八日市場市のEM宅においてグレープカルピスを飲んだことにより、あるいは自宅菜園のホーレン草や大根の葉等の農作物を摂取したことにより摂取された可能性のあることである。
右のように考えるならば、昭和五九年一月二五日の貴裁判所の本件第一次再審請求棄却決定、同昭和六○年二月二五日異議申立棄却決定もまた再検討されなければならない。
すなわち、右第一次再審請求棄却決定は、
「四、ところで、所論の新証拠甲は、IY方庭先の土壌が日本の他の地域の土壌よりもかなり多くのチタンを含んでいて、そこに栽培されて通常以上にチタンを含んでいるはずの野菜類を日頃から食していたIYの体内には右野菜類に由来するチタンが蓄積していたことを立証事項とするものであるところ、新証拠甲が適法な証拠能力を持ち、所論のような事項を証明できるものと仮定しても、右立証事項は、前記三、(1)、(2)のIYの屍体の胃内容物からチタンが全く検出されなかったというものではなく、単に、同胃内容物から検出された痕跡のチタンの由来が硬カプセル塗料や糖衣錠にあった可能性のほかに同人の日頃摂取していた野菜類にあった可能性を加えることになるだけであって、それぞれの可能性が互に他を排斥しあう関係にはないから、右痕跡のチタンがカプセル塗料に由来する可能性を否定するものではない。」(一七〜一八丁)
とし、また異議申立棄却決定も
「仮に前記新証拠甲によりその主張するような事項が立証されるとしても、それは被害者の胃内容物から検出された痕跡のチタンの由来が硬カプセルや糖衣錠にあった可能性のほかに同人の日頃摂取していた野菜類にあった可能性も付加されるにすぎず、右痕跡のチタンがカプセルに由来した可能性を否定することになるものでないことは極めて明白である。」(五丁〜六丁)としている。
しかし、前記のように、確定判決の根拠となった「トリブラ」↓チタンという因果関係が存在しないことになれば、右棄却決定の
「胃内容物から検出された痕跡のチタンの由来が硬カプセル塗料や糖衣錠にあった可能性のほかに同人の日頃摂取していた野菜類にあった可能性を加えることになるだけであって、それぞれの可能性が互いに他を排斥しあう関係にはないから、右痕跡のチタンがカプセル塗料に由来する可能性を否定するものではない。」との理由はその立論の基礎を欠くに至るというべきである。
以上をまとめると、一審判決及び原審ではカプセルを利用した犯行であると強く合理的に推断させる根拠はIYの胃の内容物から検出された痕跡のチタンであり、一般に酸化チタンがカプセルの着色剤に使われているという事実、さらに被告人が白色を呈するカプセル薬トリブラを所持していたとする複数の証言であった。この白色を呈するトリブラのカプセルはチタンを含まないため、胃の内容物から検出されたチタンがトリブラのカプセルに由来するものではないことが今回明らかになった。従って、本件がカプセルを利用した請求人の犯行であると推断させる合理的な根拠はなくなったのである。

(二)硬カプセル入りの青酸化合物による被告人の本件犯行は不可能である。(カプセル崩壊開始時間とその問題点)

【1】原審判決の認定要旨

青酸化合物を原因とするIYの死亡が、硬カプセル剤を利用した殺害行為によるものであるとの確定判決の前提自体、さきの(一)「胃から検出されたチタンはトリブラのカプセルに由来するものではない」で述べたように、重大な疑問が存在するところである。
しかし、同判決の認定するところに従って、かりに本件殺害行為の手段としてカプセル剤が使用されたとしても、以下に述べるところから被告人による犯行と認定することはきわめて不合理であるといわざるを得ない。被告人の殺人罪の犯行について原審判決は、第一審が認定した事実の要旨として次のように述べている。

「(冒頭の動機に関する部分の記載を省略)IYが無免許で現に転覆事故まで起こしておりながら、依然として自動車の運転を断念しないでいるところからして、同人が自動車を運転中過って交通事故を起こして死亡したように偽装し、その方法として、同人が乗車直前に青酸化合物をカプセルに入れたものを同人に正常な薬品と詐って服用させるならば、カプセルが溶解するまでには多少の時間を要するところから、同人はその場で即死せず、自動車運転中、間もなくカプセルの溶解と共に、青酸中毒を起こし、苦悶の末死亡し、しかも外見上の観察からして、同人が自動車運転中操作を過って交通事故を起こし、それによって死亡したものと簡単に処理され、従って青酸中毒による他殺であることは到底看破されないものと思惟し、爾来ひそかに短時間内に青酸化合物をカプセルに入れることのできる準備を整え、好機の到来を待っていたところ、たまたま同年八月二五日に前掲記の被告人方で、IYが、同人がかねて他人にオートバイを担保に入れて金を借りていたところ、相手が約束に違反してこれを他人に転売してしまったとして、大いに憤慨し、その相手と強く争論したため、痛く興奮していたが、金策のため同日午後八時三○分ころ被告人の車を借りて千葉県八日市場市に出かけ、その晩は必ず帰りに被告人方へ立ち寄ることになっていたところからして、被告人は、この機会を利用すれば、かねての計画を実行に移すことができるのではないかと考え、IYが、被告人方に戻って来るまでの間において、ひそかにカプセルに青酸化合物を入れたものを作り、IYの帰って来るのを待ち受けていたところ、IYは、同日午後一一時三○分ころ、前記被告人方に戻って来たのであるが、IYが、翌二六日午前零時一五分ころ、被告人方から辞去するに際し、被告人の乗用自動車を借り、IY一人で乗車運転して、前掲記の同人方まで帰ることになった際、同人が、今夜は興奮して眠れないなどと言い出したので、まさに好機至れりとして、いよいよかねての計画どおり、IYを毒殺して多額の生命保険金を不法に利得しようと決意し、被告人方土間において、IYがなお興奮しながら、オートバイのことを被告人に解決してくれるように頼むと言ったりしているのを慰めながら、鎮痛剤やこれと同様の効力のあるアスピリンを飲めばよく眠れるなどと告げ、正常な薬品のように装い、その実、青酸化合物を致死量を超えた分量でカプセルに入れたものを、IYに交付し、これを正常な鎮静剤であると誤信した同人が、即座に右土間に設けられてある水道から水を出して、その水と共に右カプセル入りの青酸化合物を飲み下し、そのまま、ただちに、被告人方前の道路に置いてある同人の乗用自動車を、同人から借り受け、これに単身乗車して、まっすぐ帰宅の途についたところ、被告人の期待に反し、その途中では別段の症状も起こさず、まっすぐ無事に、同日午前零時二○分ころ、前記自宅に帰着し、部屋に上がって就寝しようとしたところ、間もなく、青酸中毒の症状を起こし、猛烈な苦悶を始め、ようやく同人の妻IN及び近隣の人達の救護を受けて、茨城県鹿島郡波崎町八九六八番地済生会波崎済生病院に運び込まれたのであるが、いくばくもなく、同日午前一時三○分ころ、同病院内において、青酸化合物の中毒によって死亡し、そこで、被告人のかねての計画どおりの自動車運転中の交通事故に因る死亡と偽装することには失敗したが、ついに右IYを殺害した。」(一五〜一八丁)

【2】原審判決文より導かれるカプセルの溶解時間

右第一審、及び原審判決によれば、八月二六日午前零時一五分ころ、IYは被告人宅を退去する際、被告人から交付されたカプセル入りの青酸化合物を被告人宅土間の水道から出した水と共に飲み下し、そのままただちに、乗用車で零時二○分ころ帰宅、部屋に上がって就寝しようとしたところ、間もなく、青酸中毒の症状を起こしたとされている。
ところで、青酸化合物は、その毒物の特性として、人体にその成分が少量でも摂取された場合、ただちに中毒症状を惹起するとされている。
被告人による殺害行為の着手と目されるカプセルの交付時は、被告人宅退去時であり、IYが中毒症状を起こしたとされる時期は、IY宅帰宅後間もなくである。つまり被告人宅で乗用自動車に乗り込み運転し帰宅し、車を停車させ自宅に上がり込むまでが約五分である(第一審および原審判決文、第一次再審請求棄却決定書)。そして帰宅後まもなく発症する。
この間の所要時間が、カプセルの溶解開始、より正確には、カプセルの一部が崩壊を開始し、包蔵されている青酸化合物が人体に作用するに必要な時間ということになる。右にいう「間もなく」とは、IN証言によれば後に述べるように「三分から五分」とされており、済生会病院に保管してある国民健康保険被保険者診療録謄本(昭三八・八・二六)によれば「数分から一○分」と記載されている。
つまりIYが被告人宅土間でカプセルを飲み下した後、乗用自動車に乗り込み、運転し、自宅で乗用自動車を駐車し、下車するのに要する時間が約五分である。帰宅後、妻INにその日のことや翌日の予定について手短に話しながら床に就いた僅かな時間ののち発病したと認定されている。国民健康保険被保険者診療録に従えば、嚥下してから発病までの時間は、五分プラス数分、乃至一五分となる。

【3】大内朝吉実況見分調書により導かれるカプセル溶解時間

他方、原判決に採用された証拠によって、カプセルの嚥下からIYの発病までの時間すなわち、カプセルの溶解時間を算定すると次のようになる。
原判決には、IYの発病時刻及び病院到着時刻は明記されていないが、鹿島署司法警察員、警部補大内朝吉作成の実況見分調書(昭和三八年一一月二七日)によると、「IYが帰宅後発病して病院到着までの所要時間は二五分二四秒五」とある。また、IYの前記国民健康保険被保険者診療録には、「当院玄関着零時五○分頃」と記載されている。
従って、この病院到着時刻より病院到着までの所要時間を差し引く(零時五○分ー(マイナス)二五分二四秒五)と、IYが発病したのは同日午前零時二四分三五秒五と推定される。この発病時刻より被告人方でカプセルを飲み下したとされる時刻を差し引いた時間は(零時二四分三五秒五ー(マイナス)零時一五分)九分三五秒五となり、これが原判決によって採用された証拠より導かれるカプセルの溶解時間である。

【4】長谷川淳鑑定書の問題点と補弁第一号証

今回提出した新規証拠の緒方宏泰鑑定書(補弁第一号証)及び文献(補弁第八号証の一)によれば、右長谷川鑑定のカプセル剤が人体に摂取された場合、その溶解開始時間として「三○分程度」を要することは、およそ経験則上にありえないことが立証されており、従って右長谷川鑑定を前提とした確定判決はその事実認定につき合理的な疑いを生じることは明らかである。
右長谷川鑑定は、鑑定事項五、「カプセルその他の包埋物が人体の口から胃において溶解する時間はどうか。」という設問に対して、「数分ないし三○分程度でカプセルは胃内で溶解し、内容薬品を放出するものと考えられる」と鑑定結果を出している。しかしながら、その根拠は何ら示されておらず、鑑定経過(理由)には「胃内において内容物が放出され、薬物が溶解吸収される時間には、個人の身体的要因によりかなりの変動があるものと思われ、確実な推定を行うのは困難であろうと推察される。」と記載しているだけである。「数分ないし三○分」とした根拠は何ら示されておらず、科学性に乏しいと考えられる。なお、同鑑定の鑑定経過ー(1)の記載には日本薬局方の規定の記載を引用しているが、同鑑定注1にある薬局方の純度試験の項の記載はカプセル自体がほとんど解けてなくなる状態の記載であり、崩壊試験法の記載には次のような項がある。
「(3)カプセル剤試験液に人工胃液を用い、二○分間上下運動を行った後観察するとき、試料の残留物を網上に認めないか、認めても皮膜であるときは適合とする。」(補弁第八号証の八)
これらの記載から明らかなように、カプセルの崩壊すなわちカプセルが形状を留めないまでに溶解する時間を「一○分以内」としているのであって、「二○分間」は崩壊実験の方法を示すものにすぎない。したがって、長谷川鑑定の前記鑑定結果はまったく誤りであり、薬局方に照らしても根拠のない憶測にすぎないものである。
原判決は、右鑑定を引用して「カプセルが胃の中で溶解するまでの時間は、数分ないし三○分程度である」とし、それを前提に「仮に、(IYの帰宅した時刻から)発病までの時間が一○分位であったとしても、必ずしもそれが被告人の利益な証拠となるものではない」と結論付けている。
しかしながら、薬物が溶解吸収される時間には、個人の身体的要因によりかなりの変動があるのであれば、服毒時のIYの当夜の身体状況を再現するものでなければならない。「服毒」時のIYが空腹状態にあったことは、井幕真哉作成の鑑定書(昭三八・一一・二六)上野正吉作成の再鑑定書(昭四○・一一・一○)から明らかである。カプセルは満腹時より空腹時の方が胃内で溶けやすいことは医学上の常識とされている。とすれば、本件では「成人男子が空腹時に水道の水と共に、薬剤を詰めた市販のカプセルを飲み下した場合の胃内における溶解開始時間」が問われなければならなかったのである。しかし、当時はこのような人体実験を直接にできる機器がまだ開発されていなかった。
わが国の大手カプセル製造会社であるカプスゲル社及び日本エランコKKの回答によると、カプセルの物性は、事件当時も現在もほとんど変化はなく、胃内の溶解時間では差がないという。薬局方に準拠したガラス試験器による実験では、両社とも三分三○秒程度で全崩壊すると答えている(補弁第三、四、五号証)。今回、新証拠として提出した明治薬科大学薬剤学教室教授緒方宏泰作成の鑑定書(補弁第一号証)は、
一、胃腸に異常のない健常成人が、空腹時に、水に溶解しやすい薬を包埋した市販の胃溶性硬カプセル剤を水と共に嚥下した場合、嚥下してから胃内で当該カプセルの一部が崩壊し、包埋薬剤が胃内に洩れ始めるまでの所要時間はいかに見るべきか
二、右の包埋薬剤が致死量を超える青酸化合物の場合、嚥下してからの悪心、吐気等の初期中毒症状が発現するまでの所要時間はいかにみるべきかを鑑定事項とする。右鑑定は、平成三年一二月六日、一○人の成人男子を被験者として「シンチグラム法」によるカプセル内容物の漏出開始時間の検討結果各被験者の観察結果によるものである。
同鑑定は、前記一、二の鑑定事項について、次のように鑑定した。
一、胃腸に異常のない健康成人が、空腹時に、水に溶解しやすい薬剤を包埋した市販の胃溶性硬カプセル剤を水と共に嚥下した場合、嚥下してから胃内で当該カプセルの一部が崩壊し、包埋薬剤が胃内に洩れ始めるまでの所要時間は平均五分、個人間の変動があるとしても、ほぼ、二分〜八分と考えてよい。
二、右の包埋薬剤が致死量を超える青酸化合物の場合、嚥下してから悪心、吐気等の初期中毒症状が発現するまでの所要時間は、青酸化合物が非常に水(胃液)に溶解しやすいという性質から考えて、先に述べたカプセルの内容物が洩れ始めるまでの所要時間、平均五分、個人間の変動があるとしても、ほぼ、二分から八分に一致すると考えられる。
以上をまとめると、原判決で採用された長谷川鑑定書のカプセルの溶解時間「数分ないし三○分程度」について何ら科学的根拠が示されていないし、当時はそのような事項を実測する技術は未発達であった。今回の空腹時の成人男子一○人を対象としたシンチグラム法実験による新しい緒方鑑定ではカプセルの溶解時間は平均五分である。

【5】小括

一審判決は「また仮に(IY)発病までの時間が一○分くらいであったとしても、必ずしも被告人に利益な証拠となるものではない。」とする。
しかしながら、新証拠緒方鑑定書によれば、「カプセルの内容物が胃内に洩れ始めるまでの所要時間は平均五分」というのである。
前記のように、一審判決が「帰宅から発病までに一○分ぐらいあっても、必ずしも被告人に利益な証拠となるものではない。」と言い得たのは、長谷川鑑定が先述のとおり、カプセルの溶解時間を「数分ないし三○分程度」としたからにほかならない。
しかし、右【2】、【4】の見方によっても、また【3】の見方によっても、IYがカプセルを飲み下したとされる時から、中毒症状を起こしたとされるまでの時間は【3】で九分三五秒後と結論づけられるように、一○分間に近い時間であったと推測される。そうであるとすれば、右緒方鑑定書の示すとおり、およそカプセルによってIYの発病時間を遅らせることは物理的に不可能と言うことになる。
「鑑定内容が従前の鑑定と結論を異にするか、あるいは結論を同じくする場合であっても鑑定の方法又は鑑定に用いた基礎資料において異なる等証拠資料としての意義・内容において異なると認められるときは『あらた』な証拠にあたる。」(札幌高決昭四四年四月一八日判時五五八・一四)
以上、今回の新証拠は「従前の鑑定」である長谷川鑑定とその結論を異にする。仮に同鑑定の「数分ないし三○分程度」と背反するものではないとしても、緒方鑑定書がより本件の具体的事情にふさわしいものであることは明らかであり、この意味において「鑑定の方法又は鑑定に用いた基礎資料において異なる等証拠資料としての意義・内容において異なると認められる」というべきである。そして、右新鑑定によって、本件確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生じることは明白である。
つまり、原審判決で被告人方土間でカプセルを飲み下したとされる時刻から、IYが自宅で中毒症状が発病したとされているまでの時間は、新しく実測した緒方鑑定によるカプセルが溶解し青酸中毒の症状が現れる時間よりも長いと考えられ、IYの青酸中毒は請求人がカプセルを利用した犯行として説明づけることはおよそ不可能である。

2 IN証言の信用性の欠如

(一) INの伝聞証言の危険性

【1】 原判決におけるINの伝聞証言の重要性

本件において、唯一被告人を本件に結び付ける証拠は、IN証言である。IN証言の抜粋は、(二)を参照されたいが、特にIYが「箱屋にだまされた」「箱屋に薬を飲まされた」旨を苦しみながら言ったとするINの伝聞証拠を原判決は全面的に信用している。原判決では、IYが帰宅後青酸中毒を起こして死亡した原因は、妻INの証言を信用するとすれば「箱屋に薬を飲まされた」ことであり、その証言は、娘Imの「とうちゃんの薬をのまされたという声で目をさました」等の供述及び自殺の原因がないとする他の供述、さらに請求人による犯行の可能性の存在等によって補強されるため信用できるとし、とすれば、犯人を請求人以外のものとは考えられなくなったと判断している。したがって、数々の事実認定の柱となる証言はIN証言であり、原判決において極めて重要な位置を占めていると言える。

【2】 伝聞証言の信用性の問題

死亡直前のIYの発言を聞いたとするIN証言は、IYの供述内容を証拠とする限り伝聞証拠であって証拠価値はないが、伝聞例外として、死亡直前の発言ゆえに、発言者は嘘は言わないとする仮定の下に、証拠能力を認められている。しかしながら、死人に口なしの状況は変わらないのであって、IYが死亡直前に「Α」と言ったときINが「IYはΒといいました」とか、「Α+Βといいました」と供述しても、反対尋問は不可能となる。これは、原供述者が死亡しているため、Βという事実またはΑ+Βという事実は認定しえても、Αという事実は認定できないからである。この伝聞はIYが死亡したために証拠能力を価値的に認められている証拠であって、法的な証拠能力が擬制されているとしてもその信用性は十分疑いの目をもって検討しなければならない。死亡直前の言動は真実の可能性が高いという確率的な、しかも法的必要性の上に成り立っているからで、必ずしも真実を反映しているとは限らないからである。

【3】 INの証人適格と証言の信用性への疑問

さらに、IN自身の証言の信用性の問題が残る。この点につき高裁は、
「IN証言、原審第四回、一二回、一三回、内容極めて具体的で真に迫り、十分信用に値する。原審および当審の供述、表現においてわずかの違いがあるとしても、その内容は細かい点まで一貫、供述の変遷見られない。(除く、保険契約の件)」とする。
IYの死亡という事実が発生してその死因が取り沙汰されているとき、INは当初から自殺ではなく他殺であり、それは被告人から薬を飲まされたからであると主張し、証言している。ここで、IYの死因が他殺か自殺かで、IN自身の利害関係に関係する明らかな事実が判明している。
すなわち、「補弁第七号証 弁護士会照会回答結果」に示すように、IYが自殺でなく他殺による死亡と確定した段階で、INは皮肉にも被告人が契約して犯行の目的とされたT生命保険相互会社での被保険者IYとする保険の災害死亡保険金を請求し、三百万円を受領している。この保険は契約して間もなかったため、自殺では当然保険金は下りず、保険金を受領するためにはINにとっては、IYの死は他殺でなくてはならなかったのである。
IN自身は裁判の場では、そのような保険の存在は知らなかったと、ひたすら主張しているにもかかわらず、原判決は、INは保険金の額はともかく保険がかけられていたこと自体は認識していたと認定している。第三者であるMKの証言などからは当然の認定であるが、ひるがえって、保険契約の存在を知りながらそれを知らないと言い張りかつ被告人に毒を飲まされたと主張してやまないIN証言のどこに信用性があるのであろうか。そして現実にINは保険金の請求を自ら行っているのである。
以上のことから、INは、被告人が犯人となることで、直接的に三百万円の利益を得ており、原判決は、その証言によって利益の得られる証人の証言を唯一の直接的な証拠として、被告人を有罪と断定したのである。証拠法的には、IN証人は「被告人にとって最も危険な証人」であって、その証言の信用性は、最大限の疑いの目をもって、検証されなくてはならない。保険契約の認識についての証言から見ても常識的に考えると、INの証言を全面的に信用すること程不合理なことはないのである。
さらに、以下に述べる新証拠が差し示すように、INの供述は不自然な部分が多く、とうてい原判決のいうような十分信用に値するものからは程遠いものなのである。

【4】 死因から見たIN証言の不自然さ

IN証言におけるIYの発言は、一貫して「薬を飲まされた」ということと、「箱屋にだまされた」という内容を含むものであるが、INの供述がIYの発言として具体的に再現すればするほど、次の新証拠に指摘されるように、その客観的状況ー死因との矛盾があらわにならざるを得ない。
「補弁第二号証 平瀬鑑定」の結論は、IYが苦しみ出してから明確な事実を何度も何度も発言したという様態と、青酸中毒死であるという事実が、矛盾するというものである。すなわち、青酸化合物中毒の作用機序は、それを経口した場合胃液によってシアン化水素を遊離し、細胞呼吸障害を引き起こす。中毒症状として、呼吸困難、呼吸停止、チアノーゼ、心房細動、瞳孔散大、痙攣、意識障害などを直ちに引き起こす。さらに、「補弁第七号証の二 文献「裁判科学」」の青酸による自殺者の手記に、五〇から六〇秒といった早期の段階で「口のなかがしびれてきた」と体験的に記載されているように、神経系及び呼吸器系への影響が顕著である。つまり、これらの新証拠は青酸中毒は、呼吸中枢および神経系統の麻痺が顕著であるゆえに、IN供述にあるようにIYが何度も繰り返し発言することが困難であることを指摘しているのである。
さらに不自然なことには、IN供述によるIY発言は、変遷しつつ述べられている。その変遷の経過から、IN自身の中で被告人犯人説が徐々に高まり、それに応じてその証言も段々極端に推移していることが、明白になる。すなわち、INの言うところの苦しみながらのIY発言が、単純なことを繰り返し述べているにもかかわらず、「だまされた」といった回数が微妙に変化するのである。最初の員面では回数がなかったものの、二回目の員面では急に、「「箱屋にだまされた」と言うことは、五回位は言いました。・・夫が言った回数は確かです。」(昭和三八年八月二六日)となり、検面では「箱屋にだまされた、と・・三回は確実に聞きました。」(昭和三八年一一月一八日)となる。ところが、公判では「『クスリ ハナ二ツ アト一ツ ノマサレタ』と、三、四回言いました。 」(昭和三九年一○月二六日)と変化する。次の公判では「端に二つ飲まされて、あと一つの、三つ飲まされ、函屋に騙された、騙されたとくやしがって泣いていた」と突然泣いている状態が加えられ、最後に「『酒飲まねぇ、酒飲まねぇ』と二、三回繰り返して、二回位そして今度は『箱屋にだまされて薬飲まされた、はな二粒飲まされて、あと一つ飲まされた』(昭和四四年六月二日)と言うことになる。
ここで問題なのは、供述の変遷というより、その変遷が差し示している事実自体である。青酸中毒であるが故に、実際のIYは呼吸困難のため、状況説明を何度もできなかったはずであるが、逆に時の進行と共になぜこのような証言の「強化」が行われたか不自然であり作為性を感じるものである。(証言の強化という意味においては、IYが帰ってから会話していた時間・苦しみ出すまでの時間が徐々に短くなるという点にも現われる。これは先述の溶解開始時刻に関して帰宅時間と発病時間の間をうめるための検察側の作業としか考えられない。)繰り返したという回数が、調書、証言ごとに異なるにもかかわらず、自信をもって答えられていることからも、客観的にIYの発言を伝えているとは思われないのである。逆に、意識をしていたか無意識であったのか、どちらにしてもIYは被告にやられたという先入観念のもとで、INの中で「作られた」事実を、供述しているに過ぎないと、考えられるのである。
このように、IYの死因は、発言が困難な青酸中毒死であるのに対し、INは、IYの発言を何度も繰り返し聞いたと供述している。この新証拠補弁第二号証が指摘する矛盾は、死因が青酸中毒死である限りIN証言が虚偽であるか、あるいは粉飾された可能性があることを示している。

【5】 Im証言から見たIN証言の不自然さ

このようにIN証言が虚偽である可能性をふまえて考察すれば、原判決でIN証言の信用性を補強するものとして採証された証人Imの「父ちゃんの薬を飲まされたという声で目をさました。」という供述が全く逆の意味を持ってくる。(もちろん証人Imは当時一○歳の子供であり、その子供の記憶、叙述、表現の能力に信用性を置き、さらには事件後母親から事件状況につき、全くの影響を受けていないと仮定した場合である。確定判決はIm証言をIN証言の信用性の根拠の一つとしている。)すなわち、INの言う「箱屋にだまされた」「薬を飲まされた」という発言があったとしたら、子供の記憶にどちらの表現が記憶に残るか。そしてなぜ、「薬を飲まされた」という一方しか記憶に残っていないか、と言う疑問が生じるのである。どちらの言葉が子供の印象に強いかと考えると、むしろ、「××にだまされた」という方が印象が強いようにも感じられる。逆に考えると、Imの記憶に「薬を飲まされた」という父親の発言しか記憶に残っていないとするならば、本当に「箱屋に飲まされた」との発言はあったのか、更になぜ、INは「箱屋にだまされた」と何回も聞いたと強調するのか、重要な疑問が発生する。
INが請求人のことを事件前から、IYをギャンブルに誘い込んだ張本人のように思い、忌み嫌っていたことはINの各証言からもはっきりしている。INは、当時、夫IYが請求人宅に行っていることを知っていた。そして、請求人ならどんな悪いこともしかねないと考えていた。そこで、IYの苦しみと「薬を飲まされた」という発言があったとしたら、短絡的に箱屋に違いないと思う思考の流れは容易に想像がつく。IN証言の捜査段階、第一審、第二審での供述の変遷は、その様に考えれば、説明がつく。「興奮していた」からではなく、想像していたから、変遷するのである。「箱屋にだまされた」とのIYの発言がINの想像であるならば、「箱屋にだまされた」との発言がImの記憶に残らないことに説明がつくのである。

【6】 小括

INの伝聞証言は、原判決の中心とも言える証拠であるが、伝聞であるということ自体からも信用性については、慎重に検討されるべきである。さらに、INには、請求人を犯人であると主張することによって三百万円という大金を取得する利益があり、請求人にとって、極めて危険な存在である。さらに、伝聞証言の内容は、青酸中毒者には不可能な発言形態が語られ、娘の(I)mすら「箱屋に薬を飲まされた」とは聞いていない。以上のことから、INの伝聞証言は、信用できず、この供述を裏付ける形で認定した犯行の可能性の存在は無意味であり、これらをもって請求人を犯人と断定することはできない。

(二) IN証言の変遷

一、第一回員面調書(昭和三八年八月二六日 鹿島署巡査部長 浜田三喜男 作成)

(六) それで今申しましたようなことを言ったところが、床の中でいつも酒飲んでもどす時のように、うー と上げるように二回位やって、それから何も出ないらしい風だったが、いきなり飛び起きて台所から表に出たのです。それで軒先で、 げーげー やっていたみたいでしたが、出た様子がないみたいように、私が床の中で聞けました。
表には二分位いたかと思う位で座敷に戻って来ましたが、部屋の前の表八畳間に転げるように上がって、苦しそうに転げながら、
「苦しい、苦しい」
と言うのです。部屋から私も起き出して、ただごとだねいなと思って、
「どうしたの」
と言うと、
「ああ苦しい。箱屋の野郎にだまされっちゃった。薬最初二ツブ、次に一ツブ飲まされっちゃったんだ。箱屋にだまされっちゃった」
と言うので、医者頼むほかないと思って、電話でということで、・・・

二、第二回員面調書( 昭和三八年八月二六日 鹿島署巡査部長 古室善治 作成)

七、夫が家に入ってから話がやむまでの間は僅か三分位かと思います。 話がぷっつりやんだので、どうしたことかと思っていると何も言わずに寝床から飛び起き土間を通り、表出入り口の戸を開け軒下に出て行きました。 私は床の中で聞いていたので、物を吐き出したかどうか、その点は分からないが、「げーげー」と二回位やっていました。
飛び出してからものの二分もたったかたたないかの中に家の中に戻って来ました。その格好が酒に酔っているような風で、寝床の前の八畳間にはい上がり、転げ回りながら「苦しい苦しい」と言うので、私もただごとではないと思い心配の余り、床から起きて夫のところへ行ったのです。
そこで私は
「どうしたのか。酒でも飲んだのか」
と言うと
「ああ苦しい。薬飲まされちゃった。薬飲まされちゃった」
と言うので、私が
「誰に飲まされた」
と尋ねると
「箱屋の野郎に飲まされちゃった」
と言うのでした。そこで私は
「箱屋に飲まされだ」
と言うと、夫は
「先に二つ飲まされ、一つまた後から飲まされた。俺は箱屋にだまされたんだよ」
と言うのでした。
夫は如何にも苦しそうで、段々力のない声で最後の頃は途切れ途切れでした。
それでも「箱屋にだまされた」と言うことは五回位は言いました。私もとっさの出来事でしたから数えていた訳ではないが、夫が言った回数は確かです。 私は夫の容体を見て驚いて飛び起きましたから、子供達は目を覚ましていたかどうか、その点は分かりませんです。

三、第一回検面調書( 昭和三八年一一月一八日)

・・「そうか」と夫が言いましたが、それっきり話をせぬ、どうしたのかと思っていると、寝床から起き出し土間から戸を開けて外へ出て行きました。
夫が家へ帰ってから五分位過ぎた頃のことです。耳をたてておりますと外へ出た夫が軒下の方でゲーゲー言って、口から物を吐き出している様子でした。そして外へ出てから一、二分たったかと思うと、土間から八畳間の方へ戻って来て八畳間の上がり端にはい上がり、ゴロゴロ転げ回りながら、「苦しい苦しい」と言っておるので、私も心配で床から起き出て側へ行き、夫に
「どうしたんだ。酒でも飲んだのか」
と言うと、夫が
「ああ苦しい、薬飲まされちゃった」
と言いましたので、私が
「誰に飲まされた」
と尋ねると、夫が
「箱屋の野郎に飲まされちゃった」
と言いました。私が
「箱屋に飲まされた」
と言うと
「箱屋にだまされたんだよ。先に二ツ飲まされ、後から又一ツ飲まされた。くやしい」
と言いました。
箱屋にだまされた、と苦しみもだえながら三回は確実に聞きました。私は箱屋の冨山に恨まれるような訳がありませんし、毒も飲まされるなどとは夢にも考えませんでしたから、何かの薬を冨山から貰って飲み、薬の副作用か何かで苦しんでいるものと思いました。

四、第一審第四回公判調書(昭和三九年三月二三日) 水戸地裁土浦支部

するといきなり父ちゃんはがばと起き上がって部屋からとび出し、玄関から戸をあけて庭に出ました。私は酒を飲み過ごしたので吐くのだろう位に思っていたので出ていきませんでした。父ちゃんは外でゲーゲーという音をさせ吐いているようで直ぐには戻りませんでした。やっと入ってきても、上がり框から転げ落ちたので、たまげてしまい起きて近付きました。父ちゃんはやっと畳の処迄這うように上がってきました。『酒を飲んだのか、父ちゃん』と言うと、苦しそうに『薬を飲まされた。箱屋だ』と言いました。私が『箱屋?』と言うと、とぎれとぎれに『クスリ ハナ二ツ アト一ツ ノマサレタ』と、三、四回言いました。そうして『オレ ハコヤニダマサレタ』と同じように言ったのです。」
「その時のご主人の様子はどうでしたか」
「苦しいと言いながら転げ回っていました」

五、第一審第一二回公判調書( 昭和三九年一〇月一二日)水戸地裁土浦支部

「土間の戸をあけて外へ飛び出したんです。」
「戻すように手入れてゲエッと戻すようにしていましたよ、ゲエッ、ゲエッと。」
(中略)
「あとは(座敷のところで)転げだしたんですよ。そして、転げ出したからどうしたどうしたと言って、私が。」
「薬飲まされちゃった、端に二つ飲まされて、あと一つの、三つ飲まされ、函屋に騙された、騙されたとくやしがって泣いていたのに、これでもいわなきゃなんないですか。」
弁護人「そのときの様子をどういう口調で言ったか、三、四回くりかえして言ったというのはそっくりそのまままねてくれませんか」
証人  (号泣して答えなし)

六、第一審第一三回公判調書(昭和三九年一〇月二六日) 水戸地裁土浦支部

弁護人 御主人は帰って来て間もなく苦しみ出したということですね。それで苦しみ出して、転げ回りながら言った言葉を出来るだけ正確にその時の様子をまねする様な形で言って貰いたいんですがね。
IN 主人は帰って来て土間の戸をあけるなり、八日市場の方へ用があったから行って来たとか何とか言って。
「そのあとで苦しみ出して外に飛び出して戻って来て、転げ回りながら頭下げて、薬を飲まさというようなことを三、四回繰りかえして言ったというようなことをおっしゃってますから、どういうふうに言ったのか、自分の覚えている通りそのまま再現してみて下さい」
「言葉はとぎれとぎれでありました。箱屋ではな飲まされたと言ったんで、酒飲まされたたのか、何したと言ったら、薬飲まされ、はな飲まされて、それから一粒飲まされて、俺は箱屋にだまされた、箱屋と言ったら、薬二粒飲まされてあとから一粒飲まされたと、二、三回繰り返しながら、転げ回って言うことが途切れ途切れ言って、薬飲まされたと思いませんから、医者へ電話かけてあれすれば、治ると思いました。箱屋薬飲まされたというから、薬の副作用だっぺ」
「箱屋に薬飲まされたというんですが、薬の名前は何と言いました」
「名前は知りません。二粒飲まされて、一粒って言いました」
「なぜだまされたのか聞いてみませんでしたか」
「私はそんなことを聞きませんよ。早く医者を呼ぶのに裸足でかけ出してしまいました」
「三、四回途切れ途切れにくり返したということは、どの位途切れ途切れにですか」
「箱屋に箱屋にと続けてすらすら言いませんでした」
「そしてはな二つ、あと一つ飲まされたということを一回として、それを三、四回ですか」
「そうです」
「ほかのことは言わなかったですか」
「箱屋にだまされた、箱屋にだまされたと言いましたそれで私はすぐ医者呼んでくっから電話掛けに行ってくっからと言って」
「それまでに時間はどの位ありましたか」
「どの位って、そんなにないでしょう。行(言?)っただけですよ」

七、第二審第一三回公判調書(昭和四四年六月二日) 東京高裁第一刑事部

「そうすると、その飛び出して行く時には何も言わずに飛び出して行ったんで すね」
「ええ、いきなりわしは酒でも飲んで気持ち悪いのかなと思ったですよ。そして今度は上がりかまちの所から転げながら酒飲んで気持ち悪くなったのかと思って、酒飲んだのかと言ったら、『酒飲まねぇ、酒飲まねぇ』と二、三回繰り返して、二回位そして今度は『箱屋にだまされて薬飲まされた、はな二粒飲まされて、あと一つ飲まされた』と三、四回胸かきむしりながら転げ回ったそのところ、箱屋に見せたかった。あんなに苦しんであんただって自分の身内が今にあんなに苦しんでいるのを覚えてる人もあんめぇや、自分の身内ならこんなこと聞かないでしょう」
「保険のことは覚えてないけれど、そんなことはよく覚えているの」
「 」
(中略)
「で、そのIYさんが苦しみ出して何かものを言った時に、IYさんははっきりとした言葉でよく聞きとれるような言葉でしゃべったんですか」
「いくらか舌が回んないみたいだった。心持ちね。箱屋、箱屋て、箱屋にだまされた、はな二つあとから一つ」
「だまされたって」
「ええ、だまされた、だまされたて箱屋に」
「それははっきりと聞きとれたんですか」
「うん」
「舌が回らないようだったけれども、はっきり聞こえたわけですか」
「ええ」
「間違いないんですか」
「間違いない」
(中略)
荒川弁護人 そのはな二粒あと一つ飲まされたと箱屋にだまされたということをそのIYさんが言った時に、一体どんないきさつで箱屋にだまされて薬を二回も飲まされるようなことになったのか、その辺は聞いてみなかったですか。
「苦しんでいるから、そんな余裕もないうち転げていたもの」
「そのはな二粒あと一つということは何か感じとしてはいかにも最初二つ飲まされて、二回に分けてまた一つ飲まされたようなふうに聞き取れるんだけれども、そんな言い方したんですか」
「うん、だからはな二つ飲まされてあと一つ飲まされたとそう言っただけ」

第四 結論

以上、右に示してきた新証拠により、原審裁判の認定の不合理性が明らかになった。これを以下にまとめ、結論とする。

1 青酸化合物入りカプセル剤を手段とする犯行の不可能性の結論

IYの胃の内容物から「チタン」が検出されたことは、青酸化合物をカプセルに包埋して飲んだことの重要な証拠としてカプセルの存在を支えていた。しかしながら、「補弁第六号証 弁護士会照会回答結果」によれば、請求人が当時所持していたと認定されているトリブラのカプセルには「チタン」は含まれていなかった。しかも、「チタン」を含んだカプセルの存在が他に認定されていないことから、「チタン」の検出は請求人が所持していたカプセルが犯行に使用されたことを裏付ける根拠ではなくなった。裁判所がそれでも「チタン」がカプセルに由来すると認定するのであるならば、「チタン」を含んだカプセルを 渡したのは請求人ではないと言う結論が導かれる。あるいは、請求人宅にはトリブラの他に「チタン」を含んだカプセルが存在した可能性があると主張するならば、裁判所はその根拠を示すべきである。また、「チタン」を含んでいないとはいえ、IYが死亡した当夜、請求人宅にカプセルが存在していたことが認定されているのだから、透明なカプセルであったとしてもそれを使用した可能性までは否定できないと判断するならば、チタンの検出によって推定された犯罪行為自体の根拠・立証が全く覆されることになる。
一方、IYがカプセルを嚥下してから、発症するまでの時間、すなわちカプセルの溶解時間は、原審判決文より導くと、五分プラス数分乃至一五分となり、原判決に採用された証拠によって導くと、九分三五秒五となる。「補弁第五号証 聞き取りメモ」によれば、わが国の大手カプセル製造会社であるカプスゲル社及び日本エランコKKは、「カプセルの物性は、事件当時も現在もほとんど変化はなく、胃内の溶解時間では差がない」とし、「薬局方に準拠したガラス試験器による実験では、両社とも三分三〇秒程度で全崩壊する」と回答している。さらに「補弁第一号証 緒方宏泰鑑定書」によれば、IYと同様に空腹時 の成人男子10人を対象としたシンチグラム法実験ではカプセルの溶解時間は平均五分である。したがって、IYがカプセルを嚥下してから中毒症状を起こしたとされる時間である五分プラス数分、乃至一五分、あるいは九分三五秒五はカプセルの溶解時間よりも長く、本件において請求人がカプセルを用いて殺害することは物理的に不可能になる。

2 IN証言の信用性の欠如の結論

IYが「箱屋にだまされた」「箱屋に薬を飲まされた」旨を苦しみながら言ったとするINの伝聞証言は、原判決において中核をなし、犯行を請求人に直接結び付けている。しかし、死者の伝聞であるからといって、必ずしも真実を反映しているとは限らない。しかも、本件においては虚偽の疑いが極めて高い。
すなわち、「補弁第七号証 弁護士会照会回答結果」に示すように、INは、被告人が犯人となることで、直接的に三百万円の利益を得ており、「被告人にとって最も危険な証人」である。しかも、INは請求人のことを事件前から、IYをギャンブルに誘い込んだ張本人のように思い、忌み嫌っていたことから、請求人宅からの帰宅後、IYが「薬を飲まされた」と言えば、請求人に毒を盛られたのではないかという、想像をしたとしても不思議ではない。あるいは、IYが借金苦によって自殺を図った場合、借金を返済するためには保険金の取得が必要であり、自殺であることは隠す必要がある。そのように考えると、IN証言による、IYの苦しみながらの繰り返し発言は、「補弁第二号証 平瀬鑑定」および「補弁第八号証の二 文献「裁判科学」によれば、呼吸中枢および神経系統の麻痺を起こす青酸中毒者ではありえないことからも何らかのIYの発言をきっかけに想像された証言であり、IYが「箱屋に」とは言わなかったため、そばにいた娘Imは「薬を飲まされた」という、記憶しか持たないことからも想像された証言であることの可能性が存在する。
原判決では、IYが帰宅後青酸中毒を起こして死亡した原因は、妻INの証言を信用するとすれば「箱屋に薬を飲まされた」ことであると論理展開しており、その信用性の前提が成り立たないとすれば、犯人が請求人以外のものである蓋然性は極めて高くなる。

3 結語

「疑わしきは、被告人の利益に」の原則を具体的に適用するにあたっては、確定判決が認定した犯罪事実の不存在が確実であるとの心証を得ることを必要とするものではなく、新証拠とあいまって確定判決における事実認定の正当性についての疑いが合理的な理由に基づくものであることを必要とし、かつこれをもって足りると解すべきであるから、犯罪の証明が十分でないことが明らかになった場合にも、右の原則があてはまるのであるとした、最高裁財田川事件決定の理念を適用し、本件のように原判決の認定に合理的な疑いが生じせしめた以上、再審を開始し、請求人に対し更に相当な判決をされたい。


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