■ 第一次再審棄却決定書(1984/01/25) もどる

第一次再審棄却決定書

 昭和五九年一月二五日

 右請求人に対する殺人、私文書偽造、同行使被告事件の有罪の確定判決に対する再審請求について、当裁判所は、次のとおり決定する。

   主 文

 本件再審請求を棄却する。

   理 由

 本件再審請求の趣意は、弁護人庄司宏、同荒川晶彦連名の再審請求書及び「再審申立理由補充」と題する書面並びに弁護人庄司宏名義の「検察官意見書に対する反論」と題する書面に、これに対する検察官の意見は、検察官棚町祥吉名義の意見書及び同高城龍夫名義の補充意見書に記載されているとおりであるから、これらを引用する。

第一、本件再審請求の理由。

 所論は、(一)カール・シャーレル著「微量元素の生化学」(Karl Soharrer:Biochemie der Spurenelemente)抜粋、(二)千葉大学医学部教授木村康作成の土壌内チタン含有に関する鑑定書、(三)被害者方前庭より採取した土壌、(四)日本肥糧検定協会作成の分析証明書(以上を新証拠甲(一)ないし(四)という。)、(五)千葉大学医学部教授木村康作成の意見書(以下新証拠乙という。)が本件確定判決で有罪と認定されたIY殺人事件について請求人に無罪を言い渡すべき明らかな証拠であって、あらたに発見されたものであるとして次のとおり主張する。すなわち、本件殺人事件において被害者IYがカプセルに包埋された青酸化合物を服用したとする事実の認定が崩れれば、本件殺人事件について請求人の無罪は立証されるところ、右の点について確定判決の認定の重要な証拠となったものは、IYの胃内容物中にチタンが含まれていたとする科学警察研究所技官狐塚寛作成の鑑定書、右チタンは通常の食物には含まれていないことを前提として、このチタンは市販の売薬の包埋に使用されている硬カプセルに由来するとした鑑定人浮田忠之進作成の鑑定書である。しかし、もし、通常の食物に無視できない程度のチタンが含まれているとしたならば、浮田鑑定の推論は根拠を失う。

新証拠甲(一)は、チタンがかなり普遍的に土中に含まれ、植物、特に葉緑素の多い植物の葉の部分に吸収されることが多く、植物性及び動物性の食品にチタンがかなり含まれていることを明らかにし、新証拠甲(二)は、同(三)の土壌の一部を資料としてそれにチタンが〇・四パーセント又は〇・六パーセント、酸化チタンが〇・七パーセント又は一パーセントの日本の平均的土壌の倍位の量が含まれていることを、新証拠甲(四)は、IY方のシソの葉、同人方と同質の土壌とみられる近くの民家の庭先のシソの葉等に含まれるチタンの定量分析の結果をそれぞれ明らかにするものであって、これらにより、IYが日常的に食していた食品、特に野菜類に一般の野菜のチタン含有量を超えるチタンが含有され、したがって、IYの胃の中にこれらの食品を通してチタンが入っていたことを明らかにすることができる。そうだとすると、浮田鑑定の前記前提が科学的に誤りであり、その結論も誤りであることが明らかであって、確定判決の事実認定の根拠が覆えされる。

更に、確定判決が、IYの服用した青酸化合物はカプセルに包埋されていたと認定した根拠の一つに、医師井幕直哉作成の鑑定書及び証人井幕直哉の供述中の「IYの屍体の咽頭・食道に変化がないのに胃だけに変化があるのは青酸化合物が包埋されて摂取されたためである」旨の部分があるとみられるが、新証拠乙は、包埋しないで青酸化合物が摂取された場合でも、それが開封直後のもの又は水や湯茶に溶解しているものであるときには消化管粘膜に変化を与えないこと、したがって、IYの咽頭・食道に変化のないことから直ちに青酸化合物が包埋していたとはいえないことを内容としていて、右の事実認定が誤りであることを明らかにしている。その他、青酸化合物がカプセルに包埋されていたという前提が誤りである以上、証人INの供述は旧事件記録のその余の証拠に対比しても信用できないことが明らかである。かように、旧事件記録の各証拠に新証拠甲乙を総合するときは、請求人の無罪は明らかであるから、新証拠甲乙は、刑訴法四三五条六号の証拠である。所論は、以上のとおり主張する。

第二、有罪の確定判決

請求人は、水戸地方検察庁土浦支部の検察官から昭和三八年一一月三〇日殺人、私文書偽造、同行使被告事件について、次いで昭和三九年四月一〇日殺人未遂被告事件について公訴を提起され、第一審の水戸地方裁判所土浦支部で併合審理を受け、その公判廷において、捜査段階と同様に、二回にわたる生命保険契約申込書の私文書偽造、同行使の事実を認め、殺人及び殺人未遂の各事実については全く身に覚えがない旨を陳述した。

第一審は、昭和四一年一二月二四日すべての公訴事実を有罪と認定して請求人に死刑を言い渡したが、これに対し第一審弁護人及び請求人が控訴を申し立て、その第二審にあたる当裁判所(第一刑事部)は、昭和四八年七月六日内妻の伯父夫妻に対する殺人未遂については請求人が犯人であると断定するには疑問が残るとし、その部分に事実誤認があるとして、第一審判決の全部を破棄したうえ、自判し、殺人未遂について無罪を言い渡すとともに、殺人事件を含むその余の事実は有罪と認定し、改めて請求人に死刑を言い渡した。更にこれに対し第二審弁護人及び請求人から上告の申立てがあったが、最高裁判所は、昭和五一年四月一日上告棄却の判決を言い渡し、判決訂正の申立ても棄却した結果、請求人に死刑を言い渡した当裁判所の判決が同年四月二四日確定した。

 所論において無罪を言い渡すべき明らかな新証拠が現われたと主張する本件殺人事件の有罪認定事実の要旨は、

 「請求人は、茨城県鹿島郡波崎町に移住後、博徒の開帳する賭場において内妻IMの従弟IY(昭和三年五月二五日生)と知り合い、交際しているうち、昭和三八年四月下旬ころIMの弟SYを水戸市内の東邦生命保険相互会社に同伴して同会社の生命保険に加入させた際、自動車を運転してくれたIYにも保険の加入を勧め、同人に身体検査を受けさせ、その帰途無免許運転中に交通事故を起したIYから、請求人において第一回の保険料を立て替え、かつ適当な保険金額であるならば加入してもよいと承諾を受けたのを奇貨とし、わざとIYには保険金額及び保険受取人について相談しないで、同年五月ころ、保険契約者及び被保険者をIYとし、満期には二〇〇万円の、交通事故等の災害死亡時には六〇〇万円の保険金で災害死亡時の受取人を請求人とする満期自由組立生命保険契約を前記保険会社に申し込み、同会社の本社審査の結果災害死亡時の受取人をIYの妻INと請求人の両名に変更して締約となったものの、受取人変更の点を知らないまま、IYの殺害を企て、ひそかに短時間内に青酸化合物をカプセルに入れることのできる準備をし、好機の到来を待っていたところ、偶々同年八月二五日請求人方でIYがONに担保に差し入れていたオートバイを他人に売却されたことに憤慨し、岡見と口論して興奮していたが、金策のため千葉県八日市場市に出かけ、その晩必らず請求人方に立ち寄る手はずになっていたため、この機会を利用すればかねてのIY殺害計画が実行できると考え、青酸化合物をカプセルに充填したものを作ってIYの立ち寄るのを待ち、同日午後一一時三〇分ころ請求人方に立ち寄ったIYが翌二六日午後〇時一五分ころ請求人方から請求人所有の乗用自動車を借りて退去する際、IYから今夜は興奮して眠れないなどと言われたので、同人を殺害して多額の生命保険金を取得しようと決意し、請求人方土間において興奮しているIYを慰めながら、鎮静剤やアスピリンを飲めばよく眠れるなどと告げ、青酸化合物を入れたカプセルを正常な薬品のように装って同人に交付し、同人をして即座に同所土間の水道の水とともに右青酸化合物を服用させ、その場から乗用自動車を運転して帰途に就いた同人が同日午前〇時二〇分ころ自宅に帰着し、部屋に上がって就寝しようとするや、青酸中毒の症状を発し、妻INや近隣の人達の救護を受けて運び込まれた波崎町の済生会病院において同日午前一時三〇分ころ青酸化合物の中毒により死亡するに至らせ、よって同人を殺害したものである。」というのである。

第三、当裁判所の判断

一、確定前の第一審から上告審までの各判決及び確定前の本件審理に現われた各証拠に照らして検討すると、本件殺人事件についての事実関係及び証拠関係は次のとおり整理することができる。

(一) IYは、昭和三八年八月二六日午前一時三〇分ころ波崎町の済生会波崎済生会病院において同病院の医師によりその死亡が確認されたが、その死がそれ以前に経口摂取した青酸化合物(青酸カリウム又は青酸ナトリウムのいずれかの青酸塩)による中毒死であったことは狐塚寛作成の鑑定書、鑑定人上野正吉作成の鑑定書等により明白である。

(二) IYは、

(1)同月二五日午前中農作業をし、昼過ぎから波崎町の自宅で家族とテレビを見て過し、この間、「少し頭が痛くてしようがない。」と言って、前日ころ蔬菜組合で貰っていた頭痛薬という粉薬三包のうち一包を飲み、午後三時ころ約一二七八メートル離れた同町の請求人(IYの従姉IMの内縁の夫)方に出掛け、IMの連れ子のIAと自動車に乗って銚子市のEH方を訪ねたりし、

(2)同日午後八時ころ一旦自宅に戻って夕食を済ませ、午後八時三〇ころ再び請求人方に赴き、居合わせたONと口論をし、請求人に仲裁されてその場の争いを納め、

(3)間もなくTSの案内により自分で請求人から借りた乗用車を運転し、千葉県八日市場市の金融業EM方に行き、金融の申出をし、その担保にする予定の自己所有家屋敷の検分を翌二六日にして貰う約束をして二五日午後一一時三〇分ころ請求人方に立ち戻り、

(4)やがてTSが先に帰り、家族二人が床に就いていた請求人方でONとの口論の件などについて暫く請求人と二人だけで話し、請求人所有の前記乗用自動車をそのまま借りてひとりで運転して自宅に戻り、

(5)直ちに妻INにその日のことやその翌日の予定について手短かに話しながら床に就いたが、極く僅かな時間の後突然嘔吐を始め、激しく苦しみ出し、青酸化合物内服者特有の七転八倒の症状を発し、IN及びその依頼を受けた近所の者達の助けにより前記病院に運び込まれ、二六日午前一時三〇分ころ同病院においてその死亡が確認された。以上のIYの行動経過については、請求人も概ね争わず、関係各証拠により、これを認めることができる。このように、IYの死亡の確認された当日及び前日の行動は、最後にIYと請求人が二人だけで接触した時期及びIYが請求人方と自宅との間を往復する過程の時期を除いては、概ね第三者と同席していて、その証言等により明らかにされているが、第三者の証言等により明らかにされたIYの行動過程に青酸化合物の内服をもたらすかも知れないと疑われる薬物の授受・摂取等の事跡があったとは認められない。前記(1)の粉薬は、包埋しないで服用した後、前記(5)の症状が現われるまで、長時間生理上の異変が生じておらないことなどに照らして青酸化合物を含んでいたものである疑いは全くない。

(三)IYが自宅で青酸化合物内服者特有の症状を発して苦しみながら、INから「酒を飲んだのか、父ちゃん」と問われて、「薬を飲まされた、箱屋だ」と言い、「箱屋」と問い返す同女に「はな(最初に)二つあと一つ飲まされた」と三回位くりかえし、更に「おれ、箱屋にだまされた」と述べたという事実が証人INの各供述に現われている。IYがいう「箱屋」というのは、木製魚箱の売買をする請求人の通称で、IYがそういうときに請求人を指すことは請求人も認めているところであり、INの右供述その他の関係各証拠によりそのように判断するのが相当である。IYの右発言は、IYが本件の被害者として現に発生中の症状の原因及びその原因を与えた者について自己の体験とそれに基づく判断の結果を表示したもの、すなわち、自己の被害事実の申告とその原因者たる犯人の指名を含む事項について供述したものであって、本件殺人事件の犯人と請求人との結び付きを直接証明するのに役立つ証拠の性格を持つものと理解することができる(この点については、もし、治療成功等によりIYが死亡するに至らず、本件が未遂となっていたとするならば、IYの供述が重要な直接の証拠となり得ることを想起すべきである)。

二、そこで、IYの右発言が存在したことについてのINの右証言の信用性がまず問われなければならないが、

(一)INが、いまだIYの死亡しない時期で、その症状の真因はもとより、やがて死に至ることすら判らない段階において、寝巻き姿ではだしのままのいかにもあわてた様子で近所で唯一軒電話のあるNY方に駆けつけ、就寝中の同女を起し、医者に往診の電話をかけるよう求めた際に同女にIYの発症状況とともに右発言を述べて以来終始一貫して同じ内容を述べ続けていること、

(二)NYが電話で二軒の医院に往診を頼んで断わられた後、直ちに請求人方に電話をかけ請求人に対し、INから聞いたIYの状況と右発言を伝え、請求人方で何を飲ませたのか問い合わせていること、

(三)INが同夜会う人ごとに全く同じ内容を説明し、同病院に見舞いに来た請求人にも「一体何の薬を飲ませた」と問詰したこと、

(四)IYの右発言のうち、「薬を飲まされた」との部分は、就寝中、IYの苦しむ騒ぎで目覚めた当時一〇歳の娘Imも聞いていて、INの証言を裏付けていること、

(五)INの説明するIYの右発言時の苦悶状況が後に客観的に確認された青酸化合物中毒であるその死因に正しく適合していること、

その他INの証言内容の合理性具体性などに照らして、その信用性は十分これを肯認することができる。IYの右発言を聞いたとするINの証言の信用性を疑う所論は、単なる憶測に基く主張の範囲を出ず、合理的理由があるとはいえない。なお、INの証言のうち、自分はNYに往診電話を依頼したとき、NYに、請求人がIYに無断で生命保険をかけたというようなことは述べていない旨証言している部分の信用性が、確定前の審理において、INの証言全体の信用性との関係で問題とされているが、この部分の証言の信用性の如何がIYの右発言があったという同女の証言の信用性に重要な影響を与えるものとは認められない。IYの右発言があったというINの前記証言は、他人の供述を内容とする伝聞証拠であるけれども、原供述者たるIYの死亡、その発言の状況・内容に徴し刑訴法三二四条二項、三二一条一項三号により証拠能力をもつことが明らかである。

三、尤も、IYの右発言は、その重要さに比し簡潔であるだけにそれ自体の信用性についても慎重な検討が必要である。しかし、右発言は、犯人指名と犯行方法の供述という最も重要な点は逸していないうえ、これを慎重に検討してみても、犯人が請求人であるか否かの本件の中核の問題について、右発言内容に合理的疑問を差し挟むことができないばかりでなく、かえって、右発言を裏付けるに足る客観的状況をも認めることができる。

(一) まず、もし、IYの右発言のように請求人がIYに青酸化合物を服用させたとみる場合、IYの前記行動経過に徴しその機会は請求人とIYが最後に二人だけで接触した前記一、(二)、(4)の請求人方での退出直前であると見るほかはないが、その機会に請求人がIYに青酸化合物を与えたとの事実と請求人の現在しないIYの自宅で即効性のある青酸化合物内服の症状を発した事実とが整合性を持つためには、請求人がIYに青酸化合物を何らかの時限発効装置を付して与えたと考えなければならない。しかも、鑑定人長谷川淳作成の鑑定書、証人長谷川淳の供述によれば、右の時限発効装置の役割をはたすものは、安全な物質に青酸化合物を包埋して内服させる方法以外には考え難いこと、一般薬用カプセルが十分右のような時限発効装置の役割をはたし、入手も容易であること、その他の薬物包埋用の物品としては、カシェ(小麦粉を成分とした薬包)、オブラート(可溶性澱粉を主体とした皮膜様のもの)及び糖衣錠が考えられるけれども、カシェは本件当時わが国で市販されず、入手困難であったものであり、オブラートはすぐ溶けて薬効を暫く停止させる機能が弱く、時限発効装置の役割をはたさないこと、ビタミン剤等の表面に糖衣を包ませた既成の糖衣錠内に青酸化合物を挿入するのは不可能に近いこと、専門家でない者が新たに青酸化合物を包埋した糖衣錠を製造するのは困難であること、カプセルには軟カプセルと硬カプセルとあるが、軟カプセルの充填には熟達が必要であるのに対し、硬カプセルはその充填もその入手も容易であることが認められるから、本件において、青酸化合物が時限発効装置を付して用いられたとするならば、一般薬用の硬カプセルが最も蓋然性が高いと推認される。

(1)一般薬用の硬カプセルの溶解時間は、胃液に浸されて数分から三〇分位までであることが前記長谷川証言により認められるところ、請求人方とIY方との自動車の走行時間が時速約三〇粁で四分弱であることが認められるほか、多数の関係各証拠を総合して、IYの請求人方退去の時刻を二六日午前〇時一五分ころとし、自宅に帰着した時刻を午前〇時二〇分ころとした確定判決の事実認定(本件殺人事件については、刑を言い渡した第二審の確定判決が基本的に第一審の事実認定を維持しているので、以下では、この維持された第一審の事実認定部分を含めて、確定判決の事実認定として引用する。)は、相当として是認できるから、硬カプセルの一般的な溶解時間は、IYが請求方退出のころ青酸化合物入り硬カプセルを内服したことに適合しているといえる。

(2)IYの死後の胃内容物から痕跡のチタン、すなわち、微量のチタンが検出されているが、前記長谷川証言及び証人浮田忠之進の供述によれば、ゼラチンを主体とした透明の物質である硬カプセルを不透明にして内容物を見えないようにするため、硬カプセル内面を酸化チタン等で乳白色その他の色に着色することが多いことが認められるから、痕跡のチタンの検出という事実もIYがカプセルを服用した可能性を示しているといえる。尤も、他面で、IYの胃内容から検出した痕跡のチタンがカプセル塗料の酸化チタンか他のチタン化合物か不明であるばかりでなく、糖衣錠にも酸化チタンが含まれているというのであるから、痕跡のチタンを検出した事実からはIYが糖衣錠をのんだ可能性も導き出され、チタン検出の右事実から、直ちにIYが着色硬カプセルをのんでいたと確定的に結論することはできない。しかし、また、糖衣錠が酸化チタンを含有することをもって、IYが着色硬カプセルを服用した可能性を否定する根拠ともなしえないのであって、右痕跡チタンの検出がIYが着色硬カプセルを服用したことの状況的な事実の一つを構成することを左右するものではない。

(3)医師井幕直哉作成の鑑定書及び証人井幕直哉、同上野正吉の各供述は、IYの屍体の咽頭・食道に異常のないことが認められることを根拠に青酸化合物がなんらかの形で包埋して摂取された可能性があるとしているが、このような理解に立てば、IYの咽頭・食道の無異常の点もIYがカプセルを服用したことの状況的事実となり得る。

(4)請求人がかねて薬好きで各種の薬品を持ち、カプセルの溶解時間を数分と認識していたうえ、本件当時カプセル入り薬品を所持していたとの確定判決の事実認定は、引用の関係各証拠に照らして相当であり、これらの事実も請求人がIYにカプセル入り青酸化合物を与えたことの状況的事実となり得る。

 以上の(1)ないし(4)の状況的事実は、これらを総合すれば、IYが請求人方退出のころ請求人から貰った何らかのカプセルを服用した事実を窺わしめ、IYの死亡直前の前記発言を裏付けるのに役立っている。

(二) 確定判決は、請求人が請求人方で帰宅直前のIYと二人だけで相対した際、IYからONとの口論の件に関して「今夜は眠れない」と言われ、IYに「鎮静剤でも飲んで寝ろ」、「アスピリンを飲んで眠れ」との趣旨を話したこと、同じ機会にIYが水道の水を飲んだことを認定しているところ、請求人の捜査官に対する各供述調書、証人IM 、同IAの各供述等を総合すれば、右認定はこれを肯認することができる。

 なお、IMがふすまの閉じた部屋内の床でうとうとしていて、請求人とIYの二人だけのうち、誰かが水道の水を飲んだことが水道のモーター音でわかったというが、司法警察員須能作二の昭和三八年一一月二二日付検証調書によると、請求人方の水道の蛇口は、家屋内土間の東北隅及び東南隅に各一個計二個あるほか、家屋外門の北側柱内側にも一個あることが認められる。この(二)の事実は、請求人がその際に鎮静剤またはアスピリンとして所持の薬品をIYに交付して服用される機会があったことを示すものであって、IYの前記発言にそう情況的事実であるといわなければならない。

(三) また、確定判決において、請求人が、八日市場市に請求人所有の乗用自動車で出掛けたIYの帰途の立ち寄りを予想し、請求人方表戸を施錠しないで待っていた事実を認定したことは、関係各証拠により肯認でき、この事実は青酸化合物を包埋したカプセルを準備して、犯行を計画する機会のあったことを示すものであって、IYの前記発言に適合するものということができる。

(四) IYが最後に請求人方から自動車を運転して出発し自宅に戻るまでの間に何処かに立ち寄ったか否かについて本件発生直後に警察が途中の二千軒以上の各戸に当って調査した結果、全く何処にも立ち寄った形跡がなかった事実は、関係証拠によりこれを認めることができる。この事実は、IYの前記発言の信用性を支持するものである。

(五) その他、請求人の那珂湊市の実家の近くには、小学校の同級生で、青酸化合物を取り扱う鍛冶職の知人がいること、請求人の実家が車大工で、時には鉄棒や車輪の鉄の鍛練をしていたこと、したがって、請求人が全くの素人より青酸化合物を入手する方便を持っていたこと、請求人及びその家族には本件当時相当額の債務があり、その支払いが遅れていたこと、請求人自身はあまり収入がなく、主に美容師のIAの収入に依存していたこと、請求人が昭和三八年四月下旬IYから適当な保険金額であって最初の保険料を立替えてくれるなら保険に入ってもよいと言われたのを奇貨として、わざとIYと保険金額及び保険金受取人について相談せず、同年五月ごろ被保険者保険契約者をIYとし、当時としてはかなり高額の満期保険金二〇〇万円、災害死亡時保険金六〇〇万円、災害死亡時の保険金受取人を請求人ひとりとする生命保険契約を東邦生命保険相互会社に申し込んだこと、結局同会社の本社審査の結果、右申込みのうち、災害死亡時保険金受取人の点を平等割合で請求人とINの両名に変更して同年七月ころ契約が成立したこと、請求人の本件当時の認識では申込みどおりの契約が成立したと思っていたこと(なお、確定判決は一審の認定をこのように変更した。)、請求人が右保険契約の五万円余の保険料を支払ったこと、IYには自殺する理由や自殺したとみるべき情況がなかったことなどをも加えて、右(一)から(四)までの各情況的事実を総合すれば、IYの前記発言はこれを十分に措信することができる。

四、ところで、所論の新証拠甲は、IY方庭先の土壌が日本の他の地域の土壌よりもかなり多くのチタンを含んでいて、そこに栽培されて通常以上にチタンを含んでいるはずの野菜類を日頃から食していたIYの体内には右野菜類に由来するチタンが蓄積していたことを立証事項とするものであるところ、新証拠甲が適法な証拠能力を持ち、所論のような事項を証明できるものと仮定しても、右立証事項は、前記三、(一)、(2)のIYの屍体の胃内容物からチタンが全く検出されなかったというものではなく、単に、同胃内容物から検出された痕跡のチタンの由来が硬カプセル塗料や糖衣錠にあった可能性のほかに同人の日頃摂取していた野菜類にあった可能性を加えることになるだけであって、それぞれの可能性が互に他を排斥しあう関係にはないから、右痕跡のチタンがカプセル塗料に由来した可能性を否定するものではない。しかも、証人狐塚寛の供述には、チタンは、普通の日常生活で特別には関係のないような元素であるが、自然界にはかなり広く存在し、泥の中には随分あって、食事を通して入って来ることがないとはいえない旨が明確に現われているのであり、所論の立証事項の一般原則は、既に確定判決がこれを斟酌していたものであるといえる。したがって、所論の新証拠甲が確定前の審理において証拠に採用され得たとしてみても、IYの胃内容から痕跡のチタンが検出された事実は、IYが着色硬カプセルを内服したことの情況的事実であることに変りはなく,IYの死亡直前の発言の信用性を裏付け得ることに関してさほど影響することはない。

 また、所論の新証拠乙は、摂取した青酸化合物が開封直後の場合や水・湯茶などに溶解していた場合には摂取者の消化管粘膜に変化を与えないこと、したがって、咽頭・食道に異常のないことから直ちに青酸化合物が包埋されていたと断定できなことを内容としたものであるところ、右新証拠乙は、たとえそれに適法な証拠能力及びその内容どおりの証明力があるとしても(この証明力の点について横浜市立大学教授西丸與一作成の意見書は疑問を呈している。)、IYにおいて経口摂取したことの明白な青酸化合物がなんら包埋されたものではなかったことまでを積極的に証明するものではなく、右青酸化合物が包埋されていた可能性を否定するものではない。前記井幕鑑定、井幕証言及び上野証言は、IYの咽頭・食道に異常のない点から、その咽頭・食道を通ったはずの青酸化合物が包埋されていたことの可能性を肯定したものであり、この可能性がIYの前記発言の信用性を裏付け得る一個の情況的事実を成すのであるから、新証拠乙は、右の情況的事実を否定することができないのであって、これが確定前の審理に提出されていたとしても、本件殺人事件の犯人が被告人であるとの事実認定を妨げることが明らかであるとはいえない。しかも、もしも、IYに死をもたらした青酸化合物が所論のように包埋されないで内服されたとするならば、現実に死をもたらすほどの効能をもっていた以上、青酸化合物の性質から内服直後に中毒症状を発生させるはずである。IYの発症直後に内服したというような事態は、証人INの証言するIYの行動とは全く矛盾するから、所論の新証拠乙は、同証言に反する内容を含むといわなければならない。しかし、関係各証拠を総合すれば、INの証言は基本的に極めて強い信用性をもつと認められるのであって、単なる一般的な経験則を示すのみである新証拠乙によってその評価が左右されるものではない。この点でも、新証拠乙が本件殺人事件の犯人が請求人であるとの点を明らかに否定する証拠であるとはいえない。

 以上の新証拠を確定前の審理に現われた事実関係及び証拠関係に加えて総合評価し、かつ、請求人が本件発生直後から嫌疑を受けつつ終始犯行を否認し続けていることを十分斟酌したうえ、判断してみても、請求人がIYを殺害したものと認められるとした確定前の事実認定に合理的疑いが生じたとみることはできない。

 そうすると、所論の新証拠甲乙は、刑訴法四三五条六号の「無実を言い渡すべき明らかな証拠」であるとはいえない。

第四、結論

 よって、本件再審請求は、理由がないから、刑訴法四四七条一項によりこれを棄却することとして、主文とおり決定する。

昭和五九年一月二五日

東京高等裁判所第一刑事部
   裁判長裁判官 海老原 震一
   裁判官    和田  保
   裁判官    杉山  英巳


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