The Winchester Mystery House

 ゲーリー・トマソンがアメリカ人であるのに、アメリカの街には超芸術トマソンの類が少ない。トマソンというものの多くは、建物の増改築や一部取り壊しの結果、必要最小限の作業によって、美的にはともかく実用上は残っていても差し支えない部分が取り残されるようにして発生する。庇タイプや原爆タイプ、無用橋、無用門などはその典型であろう。
 ところが、アメリカ人は建物を直すとなったらどーんと全部そっくり建て替えてしまうので、トマソンのような形にはなりにくいのだ。さもなければゴーストタウンのようにどーんと全部そっくり捨ててしまうので、こうなるともはやトマソンではなくただの廃虚である。あるいはトマソン的なものはアメリカ的プラグマティズムに基づく価値観においては、許すべからざる悪なのかも知れない。
(もっとも、観光客などが行かないスラムのような所にはトマソンもあるのかも知れない)

 しかしながら、ハイテクのメッカ、コンピュータ業界のメジナ、半導体産業のエルサレム、アメリカの西方浄土であるシリコンバレーの一角に、スラムどころかとんでもない富豪が建てたとんでもない建物がとんでもなく存在する。それが『The Winchester Mystery House』である。
 そう、秘密結社黄色い三月兎の第二回アメリカ出張、もとい、アメリカ遠征はこのウィンチェスター・ミステリー・ハウス潜入調査である。決してサンノゼ出張を命じられたついでに見物してきたわけではないのだ。その証拠に黄色い三月兎を英語で略すとYMH、ミステリー・ハウスの方はWMH、なんとなく似ていないこともないような気がしないでもない。略したついでに以後はWMHで通す事にする。

 さて、このWMHのどこがとんでもないかというと、家の増改築そのものが目的と化した結果、家中が無意味な窓やドア、階段などに満ち満ちているのである。たとえば窓やドアを開けるとそこは壁だったりするのだ。つまりドアならドアを作ること自体が目的なので、ドアを通ってどこに行くのかと言った、普通ならドアを作る理由となるべきものが存在するとは限らないのである。
 このWMHはSF作家のアイザック・アシモフの著書『アシモフの雑学コレクション』(星 新一 編訳、新潮文庫)にも「奇行」の項に紹介されており、ドアが二千、窓が一万などと書かれている。しかしこの本の紹介だけではあまりにも不十分なので、現地の売店で売られているガイドブックから少々要約してみる。前置きが長くなるがお付き合い願いたい。お読み戴いている間にもリンク先の画像はロードされているはずである。

 本編の主役たるSarah Lockwood Winchester(旧姓 Pardee)は1840年コネチカット州ニュー・ヘブンに生まれた。1862年にWinchester Repeating Arms 社の創業二代目William Wirt Winchester (WWW!) と結婚、幸せな生活のうちに1866年に娘のAnnieが誕生する。ところがこのアニーは、生後わずか三十九日で原因不明の病気により死んでしまう。さらにその十五年後、今度は夫が結核のため、四十四歳で死を迎える。これらの悲劇からの救いを、彼女は超自然的なものに求めていくのであった。
 いくつかの情報筋によると、ボストンの霊媒師がウィンチェスター夫人に「あなたの家庭はウィンチェスターのライフルによって殺されたアメリカインディアンや南北戦争の兵士達の霊に呪われている。あなたの娘や夫が夭折したのもそのせいだ。そしてそれは霊たちが、次の犠牲はあなただとほのめかしているのだ」と説明したらしい。そしてそれを避けるための方策も示した。「西部に移り住んで霊のための大きな家を建てて彼らを慰めよ。その家の建築が続く限り、彼女には永遠の生命が約束されるだろう」と。
 彼女はその提案に忠実に従った。それはまた一種の趣味として、彼女自身にとっても大いなる慰めだったことだろう。

 ウィンチェスター夫人がカリフォルニアのサンタクララ――サンノゼ市の西の方で今日のいわゆるシリコンバレーの片隅――に居を構えたのは1884年だった。購入当時は八部屋しかなかった未完成の農家を、彼女はその後三十八年間にわたって休みなく増改築を続ける。建設費用は五百五十万ドル。現在の為替レートでおおざっぱに一ドル百円としても五億五千万円。しかも約百年前の金額である。貨幣価値の差を考えれば途方もない額になろう。
 1922年に彼女が亡くなった時には、六エーカー以上の敷地に百六十の部屋、二千のドア、一万の窓、四十七箇所の階段、四十七の暖炉、十三の浴室、六つのキッチンを持つビクトリア調の屋敷が広がっていた。
 死の知らせが届いたとき、大工は半ばまで打ち込んでいた釘を、そのまま放置したという。実際に未完成に終わっている部屋も多く存在する。百六十室というのも現存する部屋数の話で、同じ部屋でも再三改造を繰り返していることから、生前にはのべ五、六百の部屋ができたり消えたりしていたと思われる。最盛期には内部が七層に分かれた物見の塔まで建っていた。

 現在ではこの家はシリコンバレーの数少ない観光スポットの一つになっている。ウィンチェスター銃を始めコルトの拳銃やケンタッキー・ライフル、火縄銃などの古式銃を揃えたミュージアムや土産物の売店、アーケード・ゲームのコーナーまで併設され、案内人について邸内をめぐるツアーが十分ぐらいの間隔で出発している。ツアーには庭園見学(これはガイドなし)、邸内一周、さらに加えて地下室なども回るものの三種がある。三番目のツアーでは、参加者はヘルメットをかぶって見学するようだ。ここで紹介するのは邸内のみの一周ツアーである。それでは出発しよう。

 ここがツアーの出発点、屋敷の入り口である。実際は売店兼チケット売場の建物を抜けたところにある。右端にちょっと見える白いドアが先ほどのミュージアムで、左端に写っているのはポップコーンのスタンドである。おばさんの横の立て札は単なる案内板で「MANSION TOUR↑ GARDEN TOUR→」と書いてある。正面の「MANSION TOUR ENTRANCE」の看板の下に次にツアーの番号が表示される。自分のチケットの番号が出たら集合だ。
 我々のガイドは『鏡の国のアリス』に登場するTweedledumにそっくりだった。見方によってはTweedledeeにも似ていないこともない。写真はないので上のリンクの挿し絵を参照していただきたい。このガイドが部屋ごとに見所を――例えば「この家で単品としては最も高価で、当時千五百ドルもしたティファニーのステンドグラスは、最初は外光を取り入れるようになっていたが、その後の増築で外側を塞がれてしまって、今ではライトで照らしている」などと――説明してくれるわけだが、次の部屋に移動するとき、必ずと言ってもいいくらい「Watch your head and follow me.」ないし「Watch your steps and follow me.」と注意する。頭上に注意して、あるいは足下に気をつけてついてきて下さい、と言うほどの意味だ。もはや決まり文句になっているらしく、やたらリズミカルで調子がよい。

 実際、この屋敷には細かな段差が多いし、ウィンチェスター夫人は背丈が 4feet 10inches (147cm)しかなかったため、彼女が通れる最低限の寸法しかないドアや通路がふんだんにある。ドアに関しては普通サイズのドアの横に自分サイズのドアを並べてある所もある。どちらを通っても行き着くところは同じなのだ。
 他に階段の問題もある。彼女は晩年には階段を上るのが難儀だったそうで、わざわざ段差を低く作りなおしたり、普通の階段の横に緩い階段を併設したりしている。たとえばこれを見ると、もとの階段と作りなおした階段の勾配の違いがよくわかる。今で言うバリアフリー住宅のはしりと言えよう。
 それにしても、階段を三段ばかり登った先にあって天井まで届くどっしりとしたドアの横に、車椅子用スロープのようなくねくね階段と勝手口のような小さなドアが並んでいたりすると、かなり異様な印象である。
 さらにこちらの階段では、一階から約 9feet (2.7m)上の二階へ行くために、高さ 2inches (5cm)の階段を四十四段、七回もぐるぐる折れ曲がりながら登ることになる。十段ばかり計算が合わないがガイドブックにそう書いてあるのだ。さすがミステリー・ハウス。

 無意味なものもたくさんある。この部屋の入り口と反対側の壁には三つの出口(?)があるが、通れるのは人が出ていこうとしている左端のものだけ。他の二つは壁龕のように30cmほどへこんでいるだけで、どこにも通じていない。窓も上下二段になっているが、外が見えるのは上のものだけ。下の窓の向こうは壁面である。この他にも天井に達しているだけの階段や、開けると壁になっているドアなどもある。
 二階のとある小部屋にはドアが三つあり、一つはツアーで入ってくるドア。もう一つは出ていくドアで、出口のドアは反対側にノブがない。つまり一方通行で、出てからドアが閉まったらもうそこからは戻れないのだ。ガイドが自分は部屋の中に留まったまま「さあどなたか出てみて下さい」と言うが、みんな逡巡する。それももっともで、この複雑怪奇な家は案内がないとどうやって出るのか見当がつかないのだ。迷路状の屋敷を五分も歩いていると、位置の見当識は確実に失われる。
 三階から眺めた屋根を見れば、複雑さの一端もわかるだろう。窓から外を見てもただ建物の反対側(しかもむこうの窓は塞がれている)や下の階の明かり取りが見えるだけだったりして、必ずしも自分の居る位置が推測できるとは限らない。
 そればかりか、その部屋の最後のドアは吹き抜けに通じている。ドアを出て一歩踏み出すと一階に転落してしまう。落ち行く先はキッチンの流しだ。こんなトラップがいつどこに潜んでいるかわからない。
(ちなみにこのキッチンの肉挽き機もウィンチェスター社の製品らしい)
 そこにあるものが目に写る通りのものである保証もなく、一見したところ戸棚に見えても開けると廊下だったり壁だったりする。

 この家を建てる動機が多分に呪術的な理由だっただけに、ウィンチェスター夫人には妙なこだわりがあった。十三と言う数字があちこちに見られるのだ。この写真(硝子越しなので少し歪んでいるが)には、もとは屋根だったらしい部屋の床の真ん中にある明かり取りの窓と、それを取り囲む手摺が写っているが、この手摺の長辺を支えている柱の数を数えてみて欲しい。十三本ある。
 さらに十三番目の浴室には十三の窓があり、そこに至る壁には十三枚のパネルが貼られ、十三段の階段を登って行くようになっている。他にも流しのドレインのカバーの穴が十三個だったり、通りに面した庭に植わった椰子の並木が十三本だったり、戸棚の中についているフックが十三個だったり、これでもまだほんの一部に過ぎない。彼女はこのフックに十三色のローブを掛け、それを季節に合わせて取っ替え引っ替え身につけていたらしい。
 公式ページにあるように十三日の金曜日に特別ツアーが行われるのは、この彼女の十三趣味に基づいている。

 この家を見ていて面白いのは、不完全性や無意味性と、美しさや豪華さとが奇妙に同居している点であろう。広間の窓に硝子がなかったりする一方で、すぐ横にオルガンが設置してあったりする。
 この豪華さ、そして膨大な建築費用は、彼女の個人資産に由来する。彼女が夫や義母から相続したウィンチェスター社の株は全発行済株式の半分にあたり、それは黙っていても税引き前で一日に千ドルの収入をもたらした。おまけに家と一緒に買った百六十一エーカーに及ぶサンタクララの果樹農園もある。それで建物ばかりではなく家具調度類も豪華絢爛だったわけだ。家具の大部分は彼女が亡くなった後に競売にかけられたが、これを運び出すのに六台のトラックで六週間かかったと言う。今でも『二万五千ドルの倉庫』と称するステンドグラスなどを集めた倉庫があるくらいだ。

 現在は観光スポットになっているWMHだが、これを維持するのは並大抵ではない。外装をそっくり塗り替えるには 20,000gallons (75,700l)ものペンキが必要で、やっと塗り終えた頃には最初に塗ったところが傷み始めているとのことだ。
 おまけにカリフォルニアは米国でも地震が多いことで有名で、現にウィンチェスター夫人が存命中の1906年のサンフランシスコ大地震では、物見の塔が傾いたのを始めとして、あちこちが壊れる被害にあっている。そのうちの一カ所では、暖炉の煙突が崩れたついでに彼女はそこを植物を這わせるスペースに改造してしまった。
 この地震の発生時には、ウィンチェスター夫人はお気に入りの『デイジーの寝室』に居たが、召使いが彼女を発見してドアをこじ開け、救出するまでに数時間を要したという。この屋敷の広さと複雑さからすればさもありなんと思わせる逸話である。この地震をきっかけに、彼女はデイジーの寝室を含む屋敷の正面にある十三室と正面玄関などを、修理するとともになぜか封印してしまった。このため、ある扉はそれを作った二人の大工と夫人の総勢三人しか通ることがなかった。

 ともあれサンノゼやサンフランシスコに行く用事があったら、このWMHを見に行くのも一興であろう。一見の価値があることは保証する。WMHの庭師はトミー・ニシワラと言う日本人だったし、サンノゼの街には日本のビジネスマンが多いし、古くから日系移民が集まっているジャパン・タウンもあるので、妙に日本人慣れしていて親しみやすい。
 なにしろサンノゼ空港には案内が英語と日本語で併記してあるし、入国審査官はパスポートを見るなり「ショーヨーデスカ」とのたまう。こちらが「はてしょーよーとはいかなる英語なりや」と、実は日本語の「商用」だと理解するまでの一瞬、面食らってしまうくらいだ。
(サンノゼと言うのは実は日本英語で、正式にはサン・ホセと発音する。もとはスペイン語なのだ)
 WMHへはダウンタウンや空港近くのホテルから送迎バスが出ているし、ホテルのフロントには入場割引券も置いてある。

Go HomeToy BoxPromenadeNovelschinbanLinks