静かな雪深い夜に

 村のある谷は、初雪に覆われて、古い銅版画の様に静まりかえっていた。昨夜から続いた雪は、午後になっても止む気配はなく、家々の軒下や糸杉の根方だけに、黒い土がのぞいていた。
 谷の一番奥にある教会堂の裏手に、尾根伝いに山を越える細道から、次第に暮れていく村の風景を見下ろしている男がいた。彼の眼下の教会から、一人の少女が現れて、小走りに村の方へ向かった。男はそれを見て、思い出した様にくたびれた旅姿の肩に積もった雪を払い、おもむろに坂を下った。
 男は木造の小さな教会堂に向き合うと、かすかにため息を吐き、やがてその扉を開いた。内部は祭壇だけが薄暗くろうそくに照らされていた。そこには牧師がただ一人、翌日にせまったクリスマス・イブのために飾り付けをしていた。
 男が近づくと、牧師は顔を上げ、不思議そうに男を見つめた。やがてその表情が驚きに、そして笑顔に変わった。牧師は両腕を広げて言った。
「ジャックか? ジャック・ヘンダーソンだな。いや懐かしい。十六年ぶりか」
「十七年半だ。何の連絡もしないで悪かったよ、トム」
 二人は抱き合い、背中をたたきあった。
「そうだ、キャサリンに会わなかったか。ついさっき出て行ったんだが」とトム。
「それじゃ、さっきの娘がキャサリンか。裏の道から見たよ。まだ会ってはいないが、大きくなったな」ジャックは感慨をこめて言った。
「そりゃそうさ。もう十九だからな。彼女にはなによりのクリスマス・プレゼントだよ。君が帰って来て。またここに暮らすのかい」「いいや、だがしばらくは君の所にやっかいになるよ。それはそうと、君には本当に済まないと思ってる。あのときはああするしか考えが浮かばなかったんだ」
「そんな事は気にするな。帰って来たって事は、約束通り大成功をものにしたんだろう」「それほどじゃあ……ないさ。まあ、なんとかやってるがね」
 その時、教会の奥の、別棟になった住まいへ続く廊下の戸が開き、先程走り出て行った少女が中をのぞき込んだ。
「あら、まだそんな所にいたの。明かりもつけないで」
「おかえりキャシー。お客さんだよ。誰だと思う……」
「ジョン・スミスです。トムとはずっと昔の友達なんですよ。よろしく」ジャックはトムの言葉を遮って言った。
「はじめましてスミスさん。キャサリン・ヘンダーソンです」
 彼女はジャックと握手した。トムはジャックの気持ちを察して、キャサリンに言った。「キャサリン。お客さんにお茶をいれてくれないか。それから母さんに、こっちに来てくれるように」
「わかったわ。パパ」
 キャサリンは奥に戻って行った。
「パパ……か」とジャック。
「そう呼んでるだけさ。あの子は自分の親が何者なのか、ちゃんとわかってる。それにしてもなぜ君は名乗りをあげなかったんだ。君は写真一枚残して行かなかったんだから、黙っていたらあの子にはわからないぞ」
「ああ、いざとなると勇気が出なくてね」
「そうか、まあいい。クリスマスまでには名乗るんだぜ。ああそれから、君に話しておかないと……」
 キャサリンが消えたドアから、また別の女性の声が響いた。
「ジャック。ジャックね。まあなんて事かしら。キャサリンたら、お客さんだなんて言って。お茶なんかいれてる場合じゃないじゃないの」と彼女はキャサリンを呼びに戻ろうとした。
 ジャックは彼女を呼び止めて「待ってくれナンシー。まだ本当の名を名乗ってないんだ。あの子には自分から言いたい。頼むから黙っていてくれ」
「そう……わかったわ。その方がドラマチックね。娘さんはちゃんとお預かりしましたよ。十八年間」
「十七年だよ。ありがとう。本当にお礼の言葉もないよ」
 三人がろうそくの仄かな光に包まれ、お互いの老け方を比べたり、時間を忘れて話し込んでいると、キャサリンが戻って来て、大声で呼んだ。
「さあさあみなさん。お茶が冷めちゃうわ」
 トマス・ハワード一家の夕餉の一時は、いつになくにぎやかなものとなった。食卓の片側にはジャックと、その両隣にキャサリンとナンシー。向かい側にトムと、その一人息子のポールが席を占めた。トムが牧師らしく食前の祈りを捧げ、その最後にこうつけ加えた。「そしてまた、主よ、この懐かしき旧友ジ、ジョンと、再び巡り会わせ賜うた事を感謝します。アーメン」
 食事中の話題は、当然の事ながら『スミスさん』がその中心となった。
「スミスさんはこの村へはどうやっていらしたんですの。自動車で?」とキャサリンが訊いた。
「いいや、昔、ここを後にした時の道を逆に辿って、峠を歩いて越えて来たんだよ。この村は昔とほとんど変わらないな。教会が見えたときには、なんだか泣き出しそうだった」「相変わらず田舎だろう。ラジオもろくに入らないし、道路だってまだ舗装してないし。文明の影と言えば、最近よく見る様になった青空の飛行機雲と、夜空の人工衛星くらいだな。そんな物が見える事自体、田舎の証拠かもしれないが。君は今、どこに住んでるんだい」トムは訊ねた。
「カナン市だ。騒がしいだけの街だよ。何でも売ってる都会だが、本当に大切な物は、なに一つない」
「私もその街まで、何度か行った事がありますわ。でも、スミスさんには悪いけど、あんまり住みたいとは思わなかったわ。たまに訪れるには楽しい場所だと思うけど、私はここの方がすき」キャサリンは悪びれた様子もなく言った。
「そうだね。ここはこのままの方がいい。だけどトム、さっき来る途中に、子供の頃よく君と遊んだ洞穴の前を通ったんだが、あれはずいぶん小さくなったね」
「ははは、久しぶりに見たから、そう感じたんだろう。あの頃とは、視点の高さからして違うじゃないか」
 しばらくは三人の大人の間で昔話が続き、キャサリンとポールは時々質問をはさんだり、親たちの思い違いを訂正したりして、会話に加わった。
 やがて話の種も尽き、料理の皿が寂しくなった頃、ジャックは思い切って、だができるだけさりげなく、キャサリンに訊ねた。
「ねえキャサリン。お父さんに会ってみたいとは思いませんか」
 キャサリンはうつむいてしまった。ハワード夫妻はついに打ち明けるかと身構えた。ポールは不審げにジャックの顔を見つめた。キャサリンはすぐに面を上げ、屈託のない笑顔を見せて言った。
「もう……どうでもいいんです。以前はどうしても会ってみたいと思った事も、恨んだ事だってあるけど。でも私、今はこの家族の一員としてとっても幸せだし、父はもう亡くなってしまったんじゃないかって、思う事もあるんです。それに、私、ポールと結婚するんですの。あさってのクリスマスに式を挙げるんです。もう、そんな昔の事でくよくよするのはやめました」
 ジャックはひどい目眩の様なものを感じたが、どうにかそれを表には出さずに持ちこたえた。彼は微かに震えた声で言った。
「ああ、それは、おめでとう。式には、ぜひ、出席したい、ですね」
「もちろんです」とポールが答えた。「喜んで御招待します。まだ当分こちらにいらっしゃるんでしょう」

 その夜遅く、ジャックは一家の目を盗んで、教会の裏の斜面にある墓地に立った。雪はまだ続いていた。空は一面の雲で、星さえも見えなかったが、家の窓から漏れる光が新雪を輝かせ、目的の墓標を見分ける事はできた。それに彼には、刻まれた名を読むまでもなかった。いとしかりし妻の名を。
 長いあいだ涙さえ流さず、ジャックはただ一人墓地に佇んでいた。やがて彼は背後に人の気配を感じてふりむいた。トムだった。トムは無言のままジャックと並んだ。
「本当に、君には礼の言いようもない。ありがとう。私には、あの子をあれほどいい娘には、育てられなかっただろう。ただ不幸の種を蒔いただけだった」
「若い時に軛を負った人は、幸いを得る。軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。主の救いを信じて待てば、幸いを得る」
「そうかもしれない。だが妻は……ぐち話にしかならないが、せめて充分な治療をしてやりたかった。手遅れの癌だったにしても。彼女は泣きながら死んだよ。後に残ったキャサリンと、自分のために膨らんだ借金とを思って」
「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑う様になる」
「君が牧師でよかった。君の言う軛は、私にも負わされているんだ。今さらあの子に許されようとは思わない。許されてはならない」 トムはもう何も言わなかった。二人は暖かい家の中に戻った。雪はジャックの深い悔恨を埋める様に、足跡を隠していった。
 翌日、イブの準備も一段落し、ジャックは鐘楼に登って村を眺め、一人でパイプをふかしていた。雪はもう止みかかっていた。さっきまで教会堂の前で雪かきをしていたポールが、螺旋階段を登ってきて、ジャックに話しかけた。
「ここにいたんですね。ヘンダーソンさん」「ああ、ポール。雪かき御苦労さん」
 ジャックはなにげなく返事をしたが、すぐにパイプを振り落とさんばかりの勢いでポールの方に向き直った。彼はスミスのはずだった。
「いつ気付いたんだね。それともトムから聞いたのかな」
「いいえ。夕べキャシーに、お父さんに会いたくないかって訊いたでしょう。あの返事を聞いてる時、とても寂しそうだったから、何となくわかりました。それで、僕と彼女の結婚についてお許しをいただこうと思って」
「何を言うんだ。君の様に聡明な男が相手なら、これ以上何も望む事はない。あの子を幸せにしてやって下さい」
「はい。もちろんですとも」
 二人は固い握手を交わした。ジャックはポールに、確かめる様に訊いた。
「私が父親だと、あの子も気付いているだろうか」
「僕はまだ言ってません。でも、感づいているかもしれないですね」
「ポール。この事は、私の口から言うまで、絶対に黙っていて欲しいんだ。『私が自分で言うまで』だよ」
「わかりました、スミスさん。あなたが言うまで。もちろん今夜には話すんでしょう」
 ジャックは浅くうなづいた。この青年の勘の良さを恐れながら。

 夕方になると、村人たちが一人、二人と集い来て、古びた教会も次第に賑わいを増した。今宵はミサの後、ささやかながらパーティが開かれるのだった。
 概ね頭数が揃うと、トムはキャサリンに、スミスさんを呼んで来るようにと言いつけた。彼女はスミスさんの泊まっている部屋に向かったが、彼はそこにはいなかった。
 彼女は次に、トムの部屋を見に行った。そこにもスミスさんの姿はなかった。その代わり、机の上に置かれた一通の封筒が、キャサリンの目に留まった。そこに書かれた『ジャック』の名が、彼女を引きつけた。
「他の人宛の手紙を読むなんて、いけない事だわ。まして今日はクリスマス・イブだって言うのに」と彼女は思ったが、その手は既に封筒を開いていた。

     親愛なるトマス
  雪は止んだ。私は黙って出て行くが、決
 して探したりしないで欲しい。
  君に置き手紙を残すのは、これで二度目
 になるね。十七年半前の手紙で、私は君に
 約束をした。必ず事業を成功させて、娘を
 迎えに帰る、と。だが、私は惨めな失敗者
 として、この村に帰って来たのだ。今さら
 どの面を下げて父親だなどと名乗れよう。
 今の幸福なあの子に対して。
  私は都会に出るべきではなかった。娘を
 捨てて……いや、あの時は捨てるつもりで
 はなかった。だが今となっては捨てたも同
 然だ。
  繰り言はよそう。十七年の間に、私はそ
 の倍も歳をとった様に感じる。もうやり直
 すだけの若さはない。君にはまた一つ重荷
 を負わせる事になるが、あの子には、一夜
 の客の名は隠し通して欲しい。君の友人の
 一人、ジョン・スミスとして、私は姿を消
 すつもりだ。永久に。
     感謝をこめて
        ジャック・ヘンダーソン

 キャサリンは読み終わり、短い虚脱状態から立ち直ると、病み上がりの様なおぼつかない足どりで部屋から歩み出た。
「父さん……やっぱり父さんだった」
 トムは、キャサリンがあまりに遅いので様子を見に来たが。あるいはジャックが彼女に打ち明けたのかと、家の外でためらっていた。 その時キャサリンが家の扉を開け放ち、父を呼ばわりながら夕暮れの道に走り出て行った。トムは、自分に気付く気色も見せぬまま「父さん、こんな雪の中を……」と口走る彼女を、驚いて見送った。そして家に入って廊下に落ちたジャックの置き手紙を見つけ、事態の全てを了解した。彼は急いで教会に戻ると、壇上から居並ぶ人々に静粛を求めた。
「皆さん。ミサの前にお知らせしなければならない事が、そしてお願いがあります」

 キャサリンは何のあてもなく衝動的に家を飛び出したが、程なくジャックは山を下ってやって来た事を思い出した。この村を出る時に辿った山路。ならば今度もやはり……。
 彼女の考えた通りだった。教会の裏の尾根へと向かう道には、転々と人の足跡が続いていた。彼女はそれを追ったが、森に入るとすぐに闇に包まれて迷ってしまった。彼女はそれでも。記憶とわずかな星明かりとを頼りに、懸命に父の後を追った。彼女は声を雪に吸われながらも、父の名を呼び続けた。
 峠に向かう本来の道が尾根を逸れたのに気付かず、キャサリンはずっと高い所を歩いていた。彼女は雪に足を取られて転び、そのまま急な斜面を滑り落ちた。正しい道の上まで達して、ようやく転落は止まったが、足をくじいた彼女は、立つ事さえできず泣き叫んでいた。
 やがて、キャサリンの肩に置かれた手があった。ジャックが微かに届いた泣き声を頼りに、引き返して来たのであった。彼女は父親の姿を見上げ「父さん」と叫んでしがみついた。
 ジャックは娘に自分の上着を着せかけて抱き上げ、子どもの頃にトムと遊んだ小さな洞穴に向かった。ともかくも朝を待たねばならなかった。

 トムは二人の若者を引き連れて山を登っていた。若者の一人はポールである。ジャックとキャサリンの二人の足跡は、やがてライトや松明の明かりの中で、別々の方角に向かっていた。彼らが捜索隊を増員する相談をしていると、森の柊の梢の彼方に、ぼんやりとした灯が点った。山の中腹の、洞穴がある辺りだった。ジャックが一人で居るのなら、火を焚いて居所を知らせはすまい。彼らはその明かりを目指して進んだ。
 洞穴には、一人の父親とその膝に眠る娘とがあった。焚き火を透かして、ジャックはトムの姿を見上げた。トムは嬰児を慈しむ様に、ジャックを見つめた。五人の人々は誰一人、言葉を発しなかった。やがて彼らは親子をかばいながら、ゆっくりと山道を下って行った。 洞穴から最後に残った煙が流れ去り、全てがすっかり元の様に冷えた頃、奥深い谷間にオルガンの音が流れた。静かな、雪深い夜に。


 作中、墓地の場面でのトムの台詞は、旧約聖書の哀歌、三・二六〜二八、及び、新約聖書のルカによる福音書、六・二〇〜二一からの引用です。底本として『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』を用いました。ただし若干の語順の移動があります。