誘われて

「あのー。すみません」
 帰宅途中、木枯らしにさらされた駅前で僕に声をかけてきたのは、高校生くらいの一人の女の子だった。
「私達と気持ちいいこと、しませんか?」
「へ?」
 僕は目と耳を疑った。最近の女子高生は世間でいろいろ言われているが、こうして自分が声をかけられてみるとまんざらでもない。ほっそりとした美少女だし、それになにか思い詰めたような一途な瞳は、僕の気持ちを動かすのに充分だった。
 僕はすぐに笑顔をたたえて言った。
「いいよ。気持ちいいことなら大歓迎さ」
「じゃ、私についてきて下さい。すぐそばですから」
 女の子は僕をビルの立ち並ぶ表通りに案内した。なんだろう。こんなところに秘密のクラブでもあるんだろうか。それにしてもこの子はミニスカートの後ろ姿もかわいい。冬のさなかだと言うのに、どうやら素足みたいだ。
 女の子は入り口に『真実の館』と書かれた小さな看板のあるビルの、まっ暗な階段を下った。『まみのやかた』と読むのだろうか。もしかしてこの子の名前かな。
 突き当たりのなにも書いてない重そうな鉄の扉の前で、女の子は言った。
「あの、会費が千円かかるんですけど」
 千円なら安いものだ。僕がお札を渡すと、女の子は扉を開けた。内部は眩しいほどの光に満たされていて、瞳孔が追いつかなかった。
「さあどうぞ入って下さい」
 僕は言われるままに中に踏み込んだ。そのとたん、いまの子が外から扉を閉めてしまった。僕が驚いてきょとんとしていると、部屋の奥からさわやかな男の声が聞こえた。
「やあ。真実[しんじつ]の館へようこそ。君も僕たちと一緒に修行して涅槃を目指すんだ」
 は、話がちがう。
 部屋はがらんとしたダンス・スタジオのようになっていて、フローリングの床には所々青いビニールのシートがしいてあった。そしてカラフルな作務衣のようなものをまとった男女が、六人ばかり僕を取り囲んでいる。もう逃げられない。
「さあ、さっそくだが、この水を飲み干して吐き出したまえ。なに、ただの生理食塩水だから害はないよ。はっはっは」
 紫の作務衣の男は腰に手を当てて笑った。女の一人がバケツ一杯の水を僕に手渡した。僕があっけにとられていると、彼らはにこにこと僕をはがいじめにして、鼻を摘んで口を開かせ、漏斗を僕ののどに突っ込んでバケツの水を流し込みはじめた。
「がはっ。げっ」
 呼吸もできない僕が気を失いかけたころ、ようやくバケツが空になった。僕はたちまちそのバケツに、いま飲まされた水をもどしてしまった。うう。晩飯がまだだったのがせめてもの救いだ。
「よくがんばりましたね。これであなたの胃は浄められましたよ」
 紺の作務衣の女が手を叩いて褒めてくれた。何だか知らないが実に嬉しそうだ。つられて僕も涙目のまま笑った。
「さあ、次は鼻だ。このやかんの水を鼻から流し込んで口から出そう。はっはっは」
 今度はあっけにとられる暇はなかった。たちまちにこやかに取り押さえられた僕は、男が言ったとおりの水責めにあった。
「んががが。ごぼぼ」
 首から下がびしょぬれになった僕は、床に突っ伏した。そうか、このためにビニール・シートがあったのか。
「も、もういやだ。息ができない」
「うん、大丈夫だよ。次は耳だからね。右の耳から水を注いで左から出す」
「そんな無茶な」
「はっはっは。なに、冗談だよ。これでもう君の身体は充分に浄められた。気持ちいいだろう? それじゃこのビラを駅前で配ってくれたまえ」
 僕は重たい紙の束を渡された。それは宗教法人『真実の館』の布教ビラで、破局だの救済だのと世迷い言がぎっしり並んでいた。
 さっきのミニスカートの女の子が僕を連れ出しに来て、相変わらず何かに取り憑かれたような瞳で僕を見つめた。
「さあ、私たちと一緒に一人でも多くの人を救済しましょう。いいことした後は気持ちがいいですよ」

 昨日はひどい目にあった。結局僕は布教ビラをごみ箱に放り込んで、へとへとのがぼがぼになって帰宅したのだ。あれから丸一日たったいまでも、まだ胃袋が伸びてるような気がする。おまけに服が濡れていたから、この冬の夜寒に風邪をひきそうだった。
「ねえねえ」
 夕刻の駅前で僕の袖を引っ張る者がある。振り向いても誰も居ない。と思ったら、声の主は僕のへそくらいの高さから見上げていた。まだ十歳にもならないくらいの少女だ。
「あたしのうちで気持ちいいことしようよ」
 最近の小学生は世間で……いや、まさか、でも、しかし、何事も経験だ。やってみればこんなのもいいかも知れない。僕はついて行くことにした。
 少女は繁華街からちょっとはずれたところに建つ、木造二階建てのアパートへと僕の手を引いて行った。よく見ると、この子は歳の割に大人びた表情で、どことなく悲しげな雰囲気も漂っている。なかなかいいじゃないか。
 そのアパートは恐るべきぼろだった。たぶん築後三十年はたっているだろう。壁のモルタルは剥がれているし、軋む床板はあちこちつぎがあたっている。鴬張りで防犯にはいいだろうが、そもそも部屋の鍵がちゃんとかからないかも知れない。
 一階の突き当たりのドアを開けて、少女は中にかけ込んだ。入ったところは薄汚い四畳半で、裸電球の下にこれだけはこぎれいなマットレスがのべられていた。
「おじいちゃん。お客さんだよ」
 お、おじいちゃんだ? おねえさんやおかあさんならならまだしも……。
 じいさんは奥の部屋から襖をあけて現れた。このアパートよりずっと古く、生後七十年はたっていそうだ。顔中どこもかしこも皺くちゃで、つるつるなのは頭だけだ。
「おお、おお、よくいらっしゃった。ささ、揉み療治をして進ぜよう。そこに横になんなされ」
 なんだ少女はマッサージの客引きだったのか。ちょっと期待はずれだったが、まあせっかくだし、気持ちいいことには違いない。僕はそのマットレスに俯せに横たわった。
 じいさんは「おお、凝っとるの」などと呟きながら、僕の肩や背中を揉みはじめた。さすがにプロだけのことはある。じいさんの腕は確かだった。ときどき吹き込むすきま風の寒さにも関わらず、僕がうとうとしはじめたとき、じいさんは突然言った。
「そうそう、あんたさん。わしが按摩に戻って初めてのお客だから、お代は勉強しますからの」
「は、はあ。なにか他のお仕事でもなさってたんですか?」
 僕は眠りに落ちそうになるのを崖縁でこらえて訊ねた。
「いやなあに。ちょいと遠くまで行っとったでな」
「おじいちゃんね、けーむしょに行ってたの」
「これ。余計なことを」
 僕はたちまち目が覚めた。しかしちょっとこれは声のかけようがない。しばらく気まずい雰囲気の中でマッサージが続いた。叱られた女の子は部屋の隅で膝をかかえ、それこそ苦労を重ねた老人のような顔つきでしおれている。
「この際だから話しますがの。あれはしかたなかったんですわい。たちの悪い客がおってな、わしに揉ませておきながら、なんのかのとわしの腕をくそみそにけなしおった。それでわしもついかっとなって、そやつの首に手をかけてな。はたと気づいたときは、もうその客は死んどった……」
 じいさんは僕の首筋を、それは静かに揉みながら言った。
「なあ、あんたさん、それから十年ぶりだが、わしの腕は落ちとらんだろ」
「はは、は、はい。もちろんお上手ですとも」
 その後じいさんは、自分の『おつとめ』が原因で息子夫婦が孫娘を残して蒸発した話をくどくどと並べた。留守の間に面倒を見ていた祖母も、その苦労のためか、つい先頃世を去った……。
 女の子は両親を思い出したのか、うつむいたまますすり泣きを始めた。
 僕はもう逃げ出したかったが、じいさんが背中に跨ってるので動きがとれない。それにいま逃げるとじいさんが逆上して追ってきそうだ。
「わしなんざもうどうでもいいが、この子が不憫[ふびん]での。どら、あんたさん背骨が曲がっとるな。伸ばして進ぜよう」
 ばきっ。
「ぎえええぇぇぇ」

 まったく昨日はひどい目にあった。あのじじいめ、勉強すると言いながらあれで一万円は高い。それに最後の整体もどきはひどかった。おかげでいまだに背骨がうずく。
「ねえちょっと」
 日暮れの闇に沈む駅前で、毛皮のロング・コートに身を包んだ女性が僕に声をかけた。コートの上からも豊満な体型がうかがえる。僕と目が合うと、彼女はその長い黒髪をゆらして言った。
「あたしと気持ちいいことしない?」
 よし。今度こそ大丈夫だ。今までは子供に対していけない事を考えたからいけなかったのだ。こういう見るからに見たままなのだったら、どう間違っても間違いない。興奮のあまり思考まで乱れた僕は、有無を言わずに「うむ」と言った。
 小雪舞う街を歩き、彼女は近くのホテルと思しきビルに連れ込んだ。思しきと言うのは、表になんの看板も出ていなかったからだ。ラブホテルら派手なネオンの一つや二つありそうなもんだが、まあこの方が知る人ぞ知る感じでいい。
 ビルに入ってすぐのところに、中の人の顔も見えないほど小さな窓口があった。彼女はそこにちょっと声をかけ、飾り気のない廊下の奥に僕をいざなった。高く細いヒールの音がコンクリートにこだまする。
 突き当たりの部屋は明かりがついていなかった。僕の後ろでドアが閉まるとなにも見えなくなったが、すぐに彼女が寝室の照明をつけた。僕は明かりに吸い寄せられる蛾のように奥に舞い進んだ。
 彼女は鋭い笑みを浮かべて、コートを床に脱ぎ捨てた。その下に身につけていたのは、黒光りする革に銀の鋲で飾られたボンデージ・ファッションだった。
 僕が目と口をあけっぱなしにしていると、彼女はそばの壁から先が二股になっている細い鞭を手に取った。いまさらのように見回すと、この部屋には鞭のほかにも太く赤い蝋燭や荒縄、目隠しとか轡[くつわ]など拘束具の類に巨大な浣腸器、僕には使い道が判らないもろもろがずらりと取りそろえてあった。
 僕はものも言わずに出口に引き返した。
「お待ちっ」
 彼女が命じた。もちろん僕は無視した。しかし、さっき入ったばかりの扉は押せども引けども動かない。
「ほほほほ。そのドアはね、内側からは開かないのよ。私がフロントに連絡するまではね」
「ひええ。勘弁して下さい。僕はこういう趣味は……」
 彼女はつかつかと歩み寄り、腰を抜かしてへたりこんでる僕の太腿をかかとでぐりぐり踏みにじった。
「大丈夫。すぐに気持ちよくなるわよ。あたしが調教してあげる」
「調教なんて、きみ」
「きみですって? あたしのことはね、女王様とお呼びっ」
 彼女は僕の背中に鞭をびしびしくらわせ、襟首をつかんで寝室へと引きずって行った。
 僕が部屋のまん中に転がされたとき、あかないはずの入り口のドアが荒々しく開き、黒いシャツにパーマの男が中を覗き込んだ。なんだか人相は良くないが、そんな事は言ってられない。いまの僕には救いの神だ。
「た、助けて」
 しかし、その男に這い寄る僕を追い抜いて、彼女はそいつにしなだれかかった。
「あら、あなたぁ。助けてぇ。こいつがあたしにひどいことするのよぉ」
 男は眉間に皺を寄せ、青筋をもりもりと浮かべた。
「おうてめえ、俺の女房になんて事しやがる」
「そっ、そんな……」

 それにしても昨日はひどい目にあった。だいたいあの状況でつつもたせってのは、どう見ても設定に無理がある。でもそんなこと言っても聞くような相手じゃなし、僕は泣く泣く十万円もふんだくられたのだ。
 僕は決心した。もう二度と女の誘いには乗らない。いやもう三度は乗ったから四度と乗らない。たとえどんな美人でも性格がよくても金持ちでも、きっぱりと断ってやる。
「ねえ、お兄ちゃん」
 なんだかどこかで聞いた覚えのある声だ。僕はマフラーを引っ張られてのけぞるようにして振り返った。それは一昨日のマッサージじじいの孫娘だった。
 僕は「ふ」とニヒルな薄笑いを浮かべて無視しようとした。しかし少女はなおも食い下がってくる。
「これ、もらってって。でないとおじいちゃんに怒られるの」
 見ると少女は、マッサージの広告マッチを配らされているのだった。ド派手なデザインで、なにか他のマッサージと誤解しそうなつくりになっていた。ふふ、僕はもう騙されないぜ。
 でも、おじいちゃんに怒られると言うことは、マッチ配りにノルマがあるのかもしれない。僕はちょっと可哀想に思って、少女が寒さに震えながら抱えているかごから、紙マッチを一握りすくい上げた。
「ありがとう。おにいちゃん、またうちに来てね」
 まあ多分もう行かないだろうな、と思いながらも、少女の「ありがとう」に僕は少し気持ちが良くなった。
 僕はもらったばかりのマッチを一本擦ってみた。するとどこからか老婆が現れて、僕の手を取って言った。おいおい今度はついに老女か。
「さあ、私と一緒においで」
「ちょ、ちょっと……」
 老婆は僕の返事も聞かず、強引にどんどん手を引いて歩いて行く。なんだかどこかさっきの少女に似ているような気もする。もしかしてあの子のおばあさんかな。そっと物陰から見守っていたとか。でもおばあさんは……。
 足下に水の流れを感じて、僕の思考は停まった。こんな所に川なんか流れていたっけ。川の向こうには、光に満ちた美しいお花畑が広がっている。気持ちのいい春風が僕の頬をなでた。おばあさんは僕の手を引いたまま、真直ぐ川を渡っていく。

              bb 完 bb