めぐ
   春は回りて

 だからうかつに他人を信用してはいけないのだ。たとえそれが、身なりのきちんとした、物腰の穏やかな老紳士であってもだ。
 そうは言っても、その時の俺はそんな冷静な判断などできる状態じゃなかった。なにしろ今日明日の飯にも事欠いていたのだ。なんとか作家としての仕事を貰うため、知り合いの編集者に原稿の依頼の依頼と、おまけに原稿料前借りの相談までしていたのだから。
「残念ですが」と編集者は言った。「いまうちには、鈴本さんが書かれるような作品を載せる雑誌がないんですよ」
「判りましたよ」と俺は目の前の皿に視線を落とした。このレストランで一番喰いでがありそうなサービス・ランチが、さっきまで載っていた皿だ。ここだけ見ると俺があっさり引き下がったようだが、実際には二時間近く食い下がった挙げ句の光景だった。
 編集者はテーブルの伝票を取り上げ、「じゃ」と俺に会釈して去った。俺は席に着いたまま、目で彼を追った。領収書をとった様子はない。してみると、ここの払いは彼のおごりか。俺はひそかに感謝した。
 さて、これで俺も立派な失業家だ。それこそなりふり構わず、日雇いのよいとまけでもしなくちゃならない。まったくこの世には神も仏もないのだ。
 皿を下げに来たウェイトレスに、おかわり自由のコーヒーを所望していると、俺の横に件の老紳士がやってきた。
「もし」と彼は言った。「非礼とは存ずるが、お話は拝聴仕りましたぞ」
「は? はあ」
 俺は彼の姿を上から下まで眺め回した。黒いコートを左手にかけ、飴色の竹を曲げたステッキをついて立っている。髪と山羊髭は見事に真っ白だ。ネクタイはしていなかったが、蝶ネクタイやシルクハットが似合いそうな枯れたじいさんだ。よれよれのワイシャツ姿の俺と比べれば、土建屋の社長と土方くらいの落差はあった。
「聞けばあなたは作家とのこと。それを見込んで頼みたい事がある」
「はあ」
「わしと妻との艶事を、記録に留めて貰いたい」
「艶事? つまり、ポルノを書けとおっしゃるんで」
 コーヒーを注ぎに来たウェイトレスが、眉をひそめて俺をにらんだ。言い出したのはじいさんの方だ。俺じゃない。
「さよう。むろんただとは言わぬ。稿料は存分に支払おうぞ。書き方はあなたの好きになさるがよい。さらにこれを引き受けて下さらば、その後あなたの書かれるものどもも、すべてわしが上木の世話をして進ぜよう」
「しかし……あなたはいったい何者ですか?」
「わしか。わしは右近翠柳と申す、暇なじじいじゃ」
 彼はにたりと笑った。しわの隙間にしわが寄った。
「受けて下さらぬか。わしを信用できぬとあらば、先に手付けを渡しておこう」
 じいさんは俺の前に札束を置いた。見たところ十万円か。手付けと言うからには、まだ出す気でいるんだろう。俺の心は動いた。大いに動いた。
 それでもまだ返事を渋る俺に、彼は言った。
「ともあれ、仕事を受けるにせよ受けぬにせよ、わしの家に来て下さらんかな。夕餉なりとも御馳走しよう。わしの妻に会ったれば、あなたとて濡れ場を書きたくもなろう」
 彼は茶色く変色した写真を俺に見せた。そこには瓜ざね顔の古風な美女が、こちらにたおやかな笑みを向けていた。

 見上げれば、どうやらそれは右近と名乗るじいさんの住まいらしい。谷間の斜面に建つ、木立に埋もれかけている洋館だ。付近には他に人家がない。俺はあのレストランから、三時間以上は車に乗っていたはずだ。じいさんの持つリムジンで、彼と座った後部座席はほとんど密室だった。ガラスは黒いフィルムを貼られ、ろくに外も見えなかった。だから洋館のある土地の名は判らない。
 そう、つまり俺は翠柳翁の誘いに応じたわけだ。一つには晩飯のため、もう一つは彼自慢の奥方に興味を持ったため。そして「老人ポルノ」作家としての地位を確立すれば、来るべき高齢化社会において、俺の存在価値も高まろうと言う打算からだった。まあ、最後のは自分に対するいいわけでもある。
 彼は意外なほどかくしゃくとした足どりで、つづら折りの道を登っていった。ついていく俺の方がくたびれた。
 館そのものはよく手入れされていて、ブロンズの屋根と頑丈そうな赤煉瓦の壁が夕日に映えていた。蔦でもからませると、より雰囲気が出るだろう。二階建てのようだが、なにしろ斜面に建っているのだ。奥行きはどのくらいか、裏はどうなっているのかは、よく判らない。庭らしい庭はなく、ほとんど坂道の頂上に玄関ポーチがあるような感じだった。
 ポーチには、半ばミイラ化した老婆が俺達を待っていた。だが本物のミイラではない証拠に、エプロン姿の老婆は俺に向かって会釈したのだ。なるほど、これがあの写真の主のなれのはてか。となると、俺はこのばあさんと翠柳翁との絡みを描かねばならんのか。なにが濡れ場を書きたくなるだ。二人とも乾ききってるじゃないか。俺は今になって少し後悔しはじめた。
 じいさんとばあさんに挟まれるようにしてドアをくぐると、今度は若い娘が吹き抜けの玄関ホール正面にある階段を下りてきた。歳の頃は二十歳そこそこか。あるいはまだ十代かもしれない。写真の女に良く似ているが、どうみてもこちらの方が若い。
「あの、お孫さんで?」と俺は訊いた。
 じいさんは声を上げて笑った。
「これがわしの細君じゃ」
「右近橘花と申します。よろしゅう願います」と娘は言った。
「あの、では、こちらは……」
 俺はよたよたと奥の部屋に消えていくばあさんをさした。
「うむ。あれには小間使をやらせておる。気にせんでよい」
 異常だ。これはどう見ても異常だ。この様子からすると、じいさんが家にこの孫娘をてごめにしたうえ、妻をメイド扱いにしているんだろうか。ただれた関係とはこの事だ。娘の方も、何を考えてこんな辺鄙な土地でこの年寄りと一緒にいるのか。まず遺産めあてと言うのが順当なところだろうが。
「書いて下さるかな」とじいさん。
 俺は頷いた。ついさっきの後悔の根拠がなくなったのと、一人で人里まで帰る自信がなくなったためだ。
 夕食はこの三人で囲んだ。つまり俺と、右近夫妻だ。メイドのばあさんは給仕だ。
 俺は夕食のメニューに注文を付けられる立場じゃないが、それにしてもこのにんにくの匂いはひどかった。不気味な屋敷だったが、これだけ匂えば吸血鬼が出る心配はない。
「これは……なんですか」
 俺は主菜とおぼしき一品を箸でつまんだ。山盛りになっているとかげの形をしたものが、箸の先にしっぽでぶら下がった。
「イモリの黒焼きじゃ。そちらは朝鮮人参、これはムカデの佃煮……」
 俺は吐き気を憶えた。要するに精力剤に類するげてものばかりが並んでいるのだ。このぶんだと、グラスの酒にはマムシかなんかが泳いでいたに違いない。
 まあ、いい。これも芸のうちだ。そのうち役立つこともあろう。俺はなるべく味わわぬよう、料理を飲み下した。
「さよう、鈴本殿には精をつけてもらわねばな」とじいさんが言った。
 俺に言寄せてはいるが、つまり自分がはりきっているだけじゃないのか。それとも、実は俺は、夫公認の愛人として、この若妻にあてがわれるために、連れて来られたんだろうか。
 それならそれで、話は合う。そう思えばこのげてもの料理だってまんざら食えないでもない。もっともじいさんの方も貧り食っているのはおかしいが。
「あの、奥さんはお歳はおいくつで?」と俺はたずねた。
「主人とは、二周り離れております」
「二周りと言うと、二十四違いですか。とてもそうは見えませんが」
「いいえ」と彼女は穏やかに笑った。「私が百二十歳下ですの」
 俺は絶句した。これは狂ってる。百二十と言えば確かに還暦を二周りだ。そんなことが有りえるはずはない。だが、夫妻はまったく気にとめていないようだ。メイドのばあさんは一言も口をきかない。

 俺のひそかな期待とは裏腹に、娘の相手はじいさんがつとめた。考えてみれば、家の前の坂道の時からして、このじいさんは元気いっぱいだったのだ。
 その舞台となる部屋は、屋敷の奥にあった。やはり半地下式になっているらしく、ここには窓がなかった。床には白い大きな円が描かれ、それに内接するように中心に「G」の文字がある五芒星が記されていた。室内にはなにか得体の知れない香が焚きしめられ、俺に吐き気を催させた。
 俺は部屋の片側にある台の上に座らされ、二人の行為を観戦するよう命じられた。それを記録し、作品化するためだ。我ながらいい面の皮だ。
 やがて夫妻が全裸であらわれると、薄暗い蝋燭を残して明かりが消された。そして締め切った部屋の中で、異様なカップルによる絡みが繰り広げられた。女の方はじつに惚れぼれするくらい瑞々しい肉体を持っており、それに対して翠柳翁は、ほとんど張り子の提灯の如く骨格が浮き出ていた。まるでステーキの上で萎れゆくクレソンのようだ。
 俺は台を降りてじいさんを押しのけそうになる自分を、必死で押し止めた。とにかく今は仕事だ。また後でいいこともあるだろう。蝋燭と二人の熱気、そして濃厚な香煙のせいで、ここにとどまるだけでも大変な重労働だった。精をつけておけとはよく言ったものだ。
 密室に女の声がこだまする。右近夫妻は互いに上になり下になり、描写も困難なほど奇天烈な体位で、延々と交わり続けた。蝋燭は一本、また一本と燃え尽き、部屋はどんどん暗くなった。二人の肉体は、もうどちらがどうなっているのか、見分けるのも困難だった。
 最後の蝋燭が消えたとき、男の雄叫びと悲鳴に近い女の絶頂の声が聞こえ、室内は静まり返った。耳が痛くなるような静寂の中で、俺は気を失った。

「どうなさった。ちと刺激が強すぎたかな」
 誰かが俺の肩を揺すりながら、張りのある声で言った。
「え、ええ」と俺は言った。
 疲労のせいか満足な声が出ない。目を開くと、そこにはギリシャ彫刻のごとき裸の若者が立っていた。
「あんたは?」と俺は訊いた。
「私は翠柳だよ。右近翠柳だ」
 彼は俺の腕をとって引き起こした。その自分の腕を見て、俺は心底驚いた。翠柳翁の腕よりもさらにやせ衰え、皺と染みに覆われた腕だったのだ。
「これは、いったいどうして」
「あなたが見たのはな、かつて私が伴天連から教わった回春の法だったのだ。あなたには気の毒だが、贄となって戴いた。もちろん、約束は守ろうぞ。あなたの書かれるものは、今後すべて私が出版して進ぜる。これからの一生、あなたは食うには困るまい」
 俺は呆然と彼の言葉を聞いていた。信じられないことだが、俺は実際に立つのもやっとの有り様にまで衰弱していたのだ。ふと思いついて、俺は翠柳翁に、いや今や翁ではない彼に訊ねた。
「その方法を、私にも教えてくれませんか。これじゃあまりにもひどい」
「教えぬでもない」と彼は言った。「だが学び取るだけの時間があるかな」
 その時、俺は自分の老い先の短さを知ったのだ。

     おわり