湖底の女

            石垣一期

#目次
一 F・ショパン       夜想曲 第五番
二 A・ドヴォルザーク    弦楽セレナーデ 第四楽章
三 C・ドビュッシー     子供の領分から 象の子守歌
四 G・ガーシュウィン    眠られぬ夜
五 A・シェーンベルク    浄められた夜
六 F・メンデルスゾーン・B 真夏の夜の夢から 第二幕と第三幕の間奏曲
七 J・イベール       喜遊曲から 夜想曲
八 M・ラベル        夜のガスパールから オンディーヌ
本文中、[]の中は直前の単語のルビです。

  序章にかえて

    M・ラベル
   スペイン狂詩曲から
    夜への前奏曲


   一  F・ショパン
    夜想曲 第五番

 ウェルナー・グラント氏の自宅はハロ湖の辺にある。サンテレジアにある私達のスウィート&シルバースタイン探偵事務所からは、ほぼ四十キロメートル離れていた。普段なら、この様に僻遠[へきえん]の地からの、それもこちらから出向かねばならない依頼は断るところだった。ここ十日と言うもの客足が途絶え、無聊[ぶりょう]を託[かこ]ってさえいなければ。
 高速道路を西に進み、州都エンジェルロストとサンテレジアの境界をなすトゥオネラ川に沿った道へと左折する。上流に向かうに従って次第に地形が山がちになり、やがてクーパー・ダムに至る。この近辺は、ダムにせき止められてできたニルス湖と、その近くにある鍾乳洞によって観光地化しており、小さいながら町としての体裁が調っていた。
 私と相棒のエリーはこの町で遅い昼食をとった。湖を見下ろす斜面に建つ喫茶店で、彼女はホット・ドッグを食べながら言った。
「はあ、助かったねクリス。あと半月もお客さんが付かなかったら、欠伸[あくび]のしすぎで目尻にしわがついちゃう」
「私はやりくりで眉間にしわがつくわ。仕事を回してくれたジョージに、感謝しなければいけないわね。グラントさんは車の燃料代も出してくれるのかしら」
「出張料金に上乗せしましょ」とエリーは肘をテーブルに突き、手の甲にとがったあごを載せた。
 彼女は白いデニム地のホット・パンツに、薄紫が綺麗なスリーブレスの開襟シャツの裾をおへその上で結び、完全にリゾート気分だった。これに比べれば、メッシュの長袖がついたブラウスに紺のネクタイまで締めている私は、田舎の郵便局の事務員よりもまじめに見える。
「ハロ湖なんて聞いた事がないけれど、ここからまだ遠いの」と私は訊いた。
「地図で見ると、ここからダムを渡って対岸からトゥオネラ川支流のパンパイプ川を遡るらしいわ。ざっと三キロってとこね。のんびり歩いても小一時間かな」
 彼女は開け放たれた窓越しに湖を指した。むこう岸の山並は、一面にアウロラ原産のシダの高木[こうぼく]に覆われていた。シダとは言っても、もちろん地球のシダとは全くの別物で、葉の形が似ているためにそう呼ばれているだけだ。この惑星、アウロラにおける生態系の地球化も、まだこの周辺にまでは及んでいないのである。目前に横たわる人工湖やこの町、そして他ならぬ私達自身を除けば。
 そうしたシダの原生林に囲まれ、クーパー・ダムよりずっと小振りなダムが谷間にのぞいていた。それが目標のハロ・ダムだった。
「せっかく来たんだから、ついでに鍾乳洞でも見物してから行こうか」とエリー。
「帰りにしましょう。もし時間があったら」
 緑に映える水面[みなも]を渡ってきた風が、レースのカーテンをなびかせ、私のブロンドを揺らした。私はシナモン・ティーの茶碗を置いた。

 クーパー・ダムは大型のアーチ・ダムである。エリーの解説によれば、アウロラの重力が地球の九割ほどであるため、重力ダムよりはアーチダムの方が有利なのだそうだ。そう言われてみれば、かつて地球で見たダムよりもいくぶん華奢な作りに見えた。そのダムの上を通る道路を通過して、舗装もされていない林道に乗り入れる。これまでは道端に警戒標識が立っていたので、ナヴィゲーション・システムの付いた自動車なら、手を離して運転しても脱輪する恐れはなかった。しかしここからは多少とも用心しなければならない。
 ニルス湖を左に見て岨[そば]づたいに崖の道を進む。小さな沢の谷をめぐって橋を渡り、数十メートルのダムに臨んだパンパイプ川の岸をたどる。人里離れたハロ湖の傍らに、グラント宅を見つけるのは容易だった。なにしろ他に人家がないのだ。
 その家は、湖面に突き出した尾根を削って造成した平地に建っていた。地球産の蔦がからんだ田舎風の造りで、白い壁はそろそろ塗り直しを必要としていた。裏手に亭々[ていてい]とそびえる樅の木と共に、湖水に映じたその姿が細波に散らされていた。
 グラント氏は、よほど私達の到着を待ちかねていたらしく、家の前に出迎えていた。五十六歳なら老人と言うにはまだ早いが、実物は電話のスクリーンで見るよりも痩せぎすで、ずっと老けて見えた。白髪の混じった口髭のせいかもしれなかった。ネック・ボタンを外したよれよれの青いチェックのシャツにオリーブ色の作業ズボンという風采は、御世辞にも垢抜けているとは言い難かった。
 エリーが私達の乗る中古のロールス・ロイス『クリッパー』をグラント氏の横につけた。彼の立つ側からは、先日尾行に失敗して散弾で撃たれたドアの傷は見えない。その一件では規定の料金さえ満足に回収できず、従ってドアの修繕費は出なかった。今回、グラント氏を逃がすわけにはいかない所以[ゆえん]である。
「お待ちしてました。シルバースタインさん」と彼は無骨な笑みを湛えて私に言った。
 私と彼は、午前に彼が電話をかけてきた時、スクリーン越しに顔を見知っている。私はエリーを紹介した。
「遅れまして申し訳ございません。こちらはエレン・スウィート、私の共同経営者です」
「初めまして、どうぞ入ってください」
 私達は彼の客間に通された。広いとは言えないが小ざっぱりとした部屋で、窓に借景のハロ湖が光っている。壁には実際の機能は果たしそうにない暖炉があり、暖炉棚の上には写真が立ててあった。写真には、この家を背にして今より十年は若いグラント氏が、二、三歳の子供を抱いた若い女性と並んで写っていた。花瓶に活けた立葵[ホリホック]はしおれかけていた。
 家事ロボットのR・エスターがコーヒーを三つ持って来た。ややあって、グラント氏は用件を切り出した。
「電話でもお話ししましたが、孫娘のフローラが行方不明でして、探し出して戴きたい」
「警察にはお届けになりまして」と私は言った。
「はい。しかし、はっきりとした誘拐事件ででもない限り、手配はしてくれるが専属の捜査官は回せないと言われました」
「でしょうね。それで探偵に頼ろうと思ってジョージに電話したわけね」とエリー。
「はい。そのジョージ・フィリップスさんも他の仕事で手が回らないと、あなた方を紹介されたわけで、女の子の捜索なら女性の方が良かろうと」
「お孫さんのお歳は」と私は訊いた。
「十六です。ニルス・タウンのハイスクールに通っています」
「なるほど。学校の夏休みもそろそろ終わりですね。姿が見えなくなったのはいつ頃でしょう」
「昨日からです。休暇中、孫はニルス・タウンでアルバイトをしていたのが、朝こちらを出た後、アルバイト先から今日は休みかと訊かれまして、それが昼頃でした。その日一日待ったのですが、門限を過ぎてもついに帰らなかった。昨日は車で出たのが、いつも娘は自転車で通うので変だとは思ったが」
 彼の話し方は、まとまりを欠いていた。時々『孫娘』の『孫』を言い落としたりもした。嵐の夜に帆柱を失った船の如き心理が、そのまま現れているのだろう。
「誘拐ではないとすると、家出か事故か、あるいは何かの事件に巻き込まれたか。何か心当たりはないですか。書き置きがあったとか」とエリー。
「ありません。警察からも何も言ってこないので、事故ではないんでしょう」
「警察だってあらゆる事故を把握してるとは限らないでしょ。特にこの辺みたいな山道だと、途中で人知れず湖におっこちたとか……」
 グラント氏がみるみる色を失った。
「まあエリー。そう脅かすのはおよしなさいな。この時期の家出はよくある事ですわ。そう御心配なさるには及びませんでしょう。お孫さんは運転免許はお持ちですね」
「今年取ったばかりだが、もう慣れたものです。それに私も一度クーパー・ダムまで探しに出てみましたが、途中に転落した跡はなかった。ダムの監視カメラにも当日の朝通過して行くところが写っていた」
「どなたか一緒に乗っていらっしゃいませんでしたか」
「そこまでは見えなかった。車種とナンバーから判ったんです」
「探しに出たのはその一度だけですか」
「そう。他に車は持っていないし、ここのダムの管理もそうそう投げ出しては置けない。実際の保守管理はほとんどロボットがやるんで、留守にしてもいい様なものだが」
「承知しました、お探し致しましょう。ただ、まだ姿を消してから二日と経っていませんから、捜索中にお嬢様が自分から帰宅なるかもしれません。その場合でも所定の料金は頂戴しますが、よろしゅう御座いますか」
「結構。おいくらですかな」
「一日あたり百ドル。それとは別に必要経費は明細書いて請求します。あと、あんまり遠くまで探しに行くようだったら、出張料金を戴くかもしれません。その時はまた改めて相談しましょ」
 グラント氏はエリーの言った条件で納得した。私がそれを書面に残し、彼の署名をとった。さらに私はこの会話を録音していた。もちろん彼には内緒である。
「では、お孫さんについて少々うかがいます」と私は言った。
「まず家庭環境ですが、御両親はどちらにおいででしょうか」
「フローラの母親はメアリー・グラントと言いますが、あの孫娘を産んで間もなく亡くなった。死因は感染症だそうです。難産で体力も落ちていたし、当時はまだニルス・タウンもなく、手当もろくにしてやれなかった」
「感染症ねえ」とエリーが呟いた。
「御母様はあの写真の方ですか」と私は先程の暖炉の上を指して訊ねた。
「そう。そしてあの赤ん坊がフローラです」
 彼は深いため息を一つついて、続けた。
「父親はジョン・フォートナーと言う流れ者だった。そこのハロ・ダムの建設工事の時、私と一緒に働いていて、私の娘のメアリーを見初[みそ]めたわけです。もう十七年以上前になる」
「十七年とは地球時間でですか。アウロラ歴ではなく」
「無論だ」
「で、その人は今どこなの」とエリー。
「さあ。メアリーが死ぬと、すぐに姿をくらましよったんでね。それきり、どこに居るやら連絡もよこさん。それどころか写真の一つも残さなかった。だからフローラは父親の顔さえ知らんのです。生きていれば今頃は四十二、三ですが」
「死んだんですか」
「知らん」
「その他に御親類はいらっしゃいまして」
「私とあの子の二人だけです。他に身寄りはありません。アウロラにも、地球にも」
 彼の口調は、孫の失踪した二日前の話をしていた時より、ずっと滑らかになってきた。論旨も明快である。ウェブスターやブリタニカほどではないにせよ。
 フローラの生い立ちがこの様なものであるならば、ただ単純に一夏の冒険として、家出を決行したとは言い切れない。彼女自身がこの問題をどう考えていたかにもよるが。
「それはそうと、フローラのお友達にはお訊ねになりましたか。何か知っている方がいらっしゃるかも知れませんわ」
「もちろん、私が知る限り全員に連絡をとった。誰の所にもおらん」
「実際にその方々のお宅まで、お運びになったわけではありませんね」
「そうです」
「判りました。私共はまずそちらに当たってみましょう。その方々の一覧がございましたら、戴けませんか。それから、お嬢さんのお部屋を見せて戴きたいのですが」
 彼は階段を登って、私達をフローラの自室へ導いた。それは湖水に面した景色の良い部屋だった。小さな窓台には金盞花[マリーゴールド]の鉢が置いてあった。もう花の時期は終わりである。
 室内はきれいに片付いていて、あわてて出て行った様子はない。と思ったところが、今日グラント氏が掃除に入ったばかりなのだそうだ。
「て事は、お掃除なさる必要がある程度には、散らかってたわけですね」とエリーが言った。
「いや、それほどでもなかった。これと言って無くなった物もない。いつもと同じでした」
 彼はそう言って、彼女の持物のうち、家出をするなら持ち出すであろう品をいちいち列挙して、実際にその所在を示した。確かに彼が言う通り、鞄類の数は揃っていたし、服や靴、下着も概ねそのままだった。不足分は現在着用中なのだろう。
「お孫さんの事を、実によく御存知ですこと」と私は言った。
「もちろん、私には父親としての責任があるのでな。……なにしろ本当の親がいないのだから」
「それじゃ、彼女はいつも通りにアルバイトに行く恰好だったんですね。最近、あるいはその朝にでも、何か変わった様子はなかったの。車で出たって以外に」とエリー。
「いや、特に心当たりはない。出て行ったのも、私がダムへ巡回に行っている隙だった」
 私達はしばらくフローラの部屋を探索した。ベッド・サイドのテーブルから、赤いベルベットの表紙の住所録が一冊見つかった。あまり頻繁に使われた形跡はないが、手書きの住所氏名が並んでいた。電話をかけたり郵便を送るためなら、こんな物に頼らなくとも家のセキュリティ・システムを兼ねたAI[Artificial Intelligence:人工知能]に訊けば用は足りる。
「ずいぶん几帳面ですこと」
「いや、私がフローラに書かせたのだ。こんな時のために」
「では先程おっしゃったお友達全員とは、ここにある名前と考えてよろしいんですか」
「その通り。その住所録をみて連絡を取りました」
 私達はこの中の特に親しい数人について、彼から簡単な説明を受け、これを借りて行く事にした。
 その他に発見した物としては、彼女の日記帳、電子手帳が一冊。どちらも大した手がかりにはならなかった。手帳はパスワードで保護されていたし、日記は一週間前で終わっていた。もともと毎日ではなく、週に一、二度くらいの割合でつけていたものだった。一見、横着にも思えるが、それがずっと続いているのは大したものだ。内容は、数日単位で出来事や予定を無味乾燥に書き記しただけで、家出を予期させる記述は見当たらなかった。
 テーブルに置かれた陶製の仔犬の投げかける寂しげな視線に送られて、私達はその部屋を出た。
 電話の通話記録は残されていなかった。セキュリティ・システムの留守番AIが受けた分は、辛うじて判明したが、いずれもグラント氏の仕事がらみか、フローラの友人からの他愛もない言付けばかりであった。
 エリーの言い種[ぐさ]ではないが、事故の疑いが濃厚である。家出や誘拐の可能性もまだ否定できない。いずれにせよ手がかりが少なすぎた。不安は残るものの、こちらも専門家である。手がかりがなければこれから探すまでだ。
 捜査に関して彼からの注文は一つ。「あまり事を大きくし過ぎないで欲しい」との事であった。しかし、こればかりは私達にも保証しかねた。犯罪がからめば警察に通報せねばならない。
 私達がグラント宅を辞したのは、かれこれ十七時になんなんとする頃だった。自転周期二十二時間のこの惑星、アウロラのただでさえ短い日は、ここの様な谷間ではさらに暮れ易い。既にハロ湖は宵闇[よいやみ]に沈み、薄紅を残す空を山の端が黒く切り落としていた。
 帰り際、ふと思いついて私はグラント氏に訊ねた。
「お孫さんの門限は何時でしたの」
「十八時です。半時間程度は大目に見ていましたがね」
 それならば我々不良娘としても早々に帰らねばなるまい。鍾乳洞はまたの機会だ。十六歳の門限が十八時では早すぎるとも思えるが、ここの地理条件ならばやむを得ないのかもしれない。クーパー・ダムまでの林道には街灯などなく、夏のこの時間でも谷側の路肩は闇の淵だった。サンテレジアを始めとする街の上空にかかる雲は、山越しにぼんやりと明るんでいた。私には彼女が帰らない理由が判る気がした。


   二  A・ドヴォルザーク
   弦楽セレナーデ 第四楽章

 人間が一人いなくなって、その立ち回り先が不明な場合、探し出すためにできる事は聞き込み程度しかない。グラント氏は電話で友人に訊ねたそうだが、相手の顔をスクリーン上に見るのと、実際に会って話を聞くのとでは、得られる情報量に格段の差がある。電話だけでは、たとえ相手がフローラをかくまっていたとしても、こちらには判断のしようがない。
 私達は聞き込みに先立って、まずハロ湖周辺の所轄になるエンジェルロスト警察署に電話で照会してみた。
 グラント氏は冷たく追い返された様な表現をしていたが、警察も全く動かなかったわけではなかった。クーパー・ダムの監視カメラは調査していたし、各地の警察や公共機関、慈善団体などにも手配してあった。もっともその後は何の進展もなく、フローラは事故の記録はおろか駐車違反の摘発リストにさえ、顔を出していなかった。
 私達の相手をしてくれた係官は、事務的な調子ではあったが、何か判ったら連絡する旨を約束してくれた。

 空模様は良くなかった。私達が自宅を出発してしばらくすると、傘をさすべきか否か迷う程度の小雨が降り始め、それは終日上がらなかった。
 聞き込みの一人目は彼女の担任の教師、マイケル・タルボット氏である。彼の住まいはサンテレジア市のはずれ、ブルーイターにあった。そこは私達の住居があるノース・プリーストから、ニルス・タウンへの途上にあたる。
「フローラ・グラントですか」とタルボット氏は短い首を傾げ「あの子が家出ですか」
「いや、まだそうと決まったわけじゃないんですけど」とエリー。
「そうですか。あの大人しい子がどうしたんでしょうねえ」
「何かお心当たりはございませんか」
「いやあ正直言ってありませんねえ。もっと手のかかる生徒がいやと言うほど居るんで、彼女についてはむしろ安心していたんですが。こうなってみると油断していたと言うべきですかね」
「その『手のかかる生徒』との交友関係などはありませんでしたか」
「そう……私としても何から何まで掌握しているわけではありませんのでね。しかし、少なくともあの子自身は、不良少女ではありませんよ。そういう友達も居ないと思いますが」
「彼女の性格はいかがでしたか。さきほど大人しいとおっしゃいましたが」
「ええ、優しい子で、あまり目立ちたがらないですね。成績はどちらかと言うといい方です。まあ、あんな家庭ですから、いじめられた事もあった様ですね。親無し子だと」
「そのいじめってのは、最近の話なの」
「最近はそう露骨にはやりませんがね。それにあの子は思いのほか強い子ですよ。何年か前、誰かがあの子の持ち物に落書きしておいた事があったそうですが、彼女は顔色一つ変えず、落書きも消そうとしなかったそうです。結局、書いた者がいきり立って騒ぎ始めたために、当時の教師に発覚したと聞きました。ただ、あのおじいさんが実に過保護でして、そんな事があの人に知れたら大騒ぎになったでしょうね」
「と言うことは、そのいじめはグラントさんには知らされなかったのね」
「いや、そこまでは私も知りません。しかし、いじめの程度にもよりますが、私なら知らせないでしょうね。下手におじいさんに知らせると、裁判沙汰にもなりかねません」
 私達はこの後、彼女と特に親しかった友人と、逆に仲が悪かった同級生を数人抜き出してもらった。彼は他の教師らにも連絡をとってみようかと申し出た。私はそれを辞退し、いずれ捜索が行き詰まった時には改めてお願いする事とした。

 雨はニルス湖の周辺をも包んでいた。薄明かりの下に広がる湖面には雨滴の波紋が幾重にも重なり、等高線の形に切り抜いた緑色の磨硝子を谷間にはめ込んだ様に見えた。遠く脊梁[せきりょう]山脈は雲に隠れている。それでも町からする湖の眺望はさほど悪くなかった。昨日は湖上にロウ・ボートが散見せられたが、さすがにこの天候に舟遊びをする物好きは居ない。
 私達が次に訪れたのは、フローラのアルバイト先である。ニルス・タウンのメイン・ストリートの一角にある『ルフ・デュール』と言う名の雑貨小物店で、ちょうど彼女くらいの年齢の女の子を相手にする店であった。薄桃色を基調とした店内には、安物だが可愛らしいアクセサリーや衣類、食器などの雑貨類が充満していた。鍾乳洞と言う観光資源をかかえている町だけに、その風景を刻印したメダリオンなどの土産物も置いてあった。
 店主は三十前後の女性だった。エリーは兎の漫画を刷ってあるマグを買い求め、用件を切り出した。
「ええ、夏休みの間だけのお手伝いと言う契約でした。まじめに良くやってくれていたんですけど、それが突然無断でお休みでしょう。私も心配してるんですのよ」
「で、その当日……は無理でしょうけど、その前日あたり、何か変わった様子はありませんでしたか」
「いいえぇ、別にいつもと変わった所はありませんでしたわ。何か悩みでもあったなら、相談してくれれば力になってあげられたかもしれませんのにねえ」
「不審な客や、いたずら電話などはございませんでしたか」と私は訊いた。
「そうですねえ。十日ばかり前に、あの子が万引き少女を見つけた事がありましたっけ。電話は、おじいさんのウェルナーさんがよくかけて来られましたけど、変な電話は別にありませんでしたわ」
「その万引きした娘はどんな娘でしたか。名前は」とエリー。
「名前は勘弁して下さいな。私が捕まえた時、何だか可愛そうなくらい悄気[しょげ]てしまって。ちょっとお説教しただけで帰してあげましたの。あと変わったお客様と言うと、三日前にかなりお歳を召した男性が、あひるの置物をお求めになりましたわ」
「その人の名前も秘密ですか」
「いいえ。この町じゃ見かけない方でした。フローラに贈り物用のリボンをかけさせてましたから、お孫さんにでも差し上げるんでしょう。時にはそういうお客様もおいでになりますのよ。珍しいので憶えていましたけど、別に不審と言うほどではございませんわ」
 エリーは少し考えて、話題を戻した。
「ウェルナーさんはどんな用事で電話をかけてきたのか、判りますか」
「私が受けた時は、ちょうどフローラが遅くまで棚卸しを手伝ってくれた時でした。大抵はあの子の帰りが遅れた様な時に、心配なさってかけて来られたんですわ」
「それって、頻度としてどのくらいでしたか」
「ええと。まあ週に二度か三度くらいですかねえ」
 一週間に二度としても、休日を除いて三日に一度である。我らがグラント氏はよほどの心配症とみえる。それはどうでもいいが、肝心のフローラの行方はここでも判らなかった。

 その次は、彼女の親友としてタルボット先生に指摘された、アンナ・クールリッジである。その家はルフ・デュールのすぐ裏手にあった。車は店の駐車場にそのまま置かせてもらい、私達は傘をさして路地の階段を登った。上から降るのか下から舞い上がるのか判らない霧雨の中、雨傘などものの役に立たず、私のスカートは歩くほどに湿気を帯びて重くなった。
「フローラはまだ帰らないんですか。一体どうしたのかしら」とアンナは言った。
 彼女は既にグラント氏から孫娘の消息を訊かれていたのである。とても素直な性格で、こちらの質問にも健気[けなげ]といえる態度で答えてくれた。
「それをいま調べているところですわ。何かお心当たりはございませんか」
「いいえ。誰かにさらわれたのかしら」
「いまんとこ、誘拐の線は薄いと思ってるけど。あなた最近フローラと話したの」とエリーが訊いた。
「はい。三日前に電話で」
「何か変わった言動にはお気付きになりませんでしたか」と私。
「別に……ただの世間話で、正直に言うと何話してたかよく憶えてません。あ、でも、おじいさんの事で、ちょっと愚痴をこぼしてました。いつもの事ですけど。それからあとは、HV[ホロヴィジョン]の番組の話とか、アーネストの話もちょっとしました。それから……」
 アンナは話しているうちに徐々に思い出してきたらしく、一息に会話の内容を並べだした。エリーはそれを遮って質問した。
「あの、おじいさんの愚痴ってどんなのかしら。よかったら教えてくれない」
「ええと……まあ、口うるさくてやだとか、お説教がしつこいとか。門限が厳しいってのも言ってました」
「その愚痴が『いつもの事』なんですね」
「はい。て言っても、別に会うたびに欠かさず言うってわけじゃないですけど。でも彼女、大学に入ったら絶対一人暮らしするんだって、よく言ってました。おじいさんには電話番号教えないから、あたしも訊かれても黙っててって。もちろん冗談ですけど」
「すぐに家出なんかしそうな様子はなかったわけね」
「はい」
 一人暮らしの件は、あながちアンナの評するが如き冗談とも思えなかった。
「フローラのお父さんであるジョン・フォートナー氏について、何か御存知でしたら教えて戴けませんか」
「その人の事は全然知りません。まえにフローラから、名前だけは聞いた事がありますけど。ずっと昔から行方不明だって事しか知りません」
「彼女がその方をどう思っていたかも、判りませんか」
「ええあんまり……でもどんな人か会ってみたいって、時々言ってました。いつか探してみたいとか」
「近頃その人の話をした事ないの」
「さあ、よく憶えてません。ごめんなさい」
 憶えていない位なら、話してはいないのだろう。私は名刺を置いて、何か思い出したら連絡をくれるように頼んだ。

 次の目標は四軒おいた向かいの家、やはり同級生のアリシア・トムソンである。アリシアとフローラとはあまり仲がよくないと、タルボット先生に注意されていた。
 フローラの住所録のうち、この往来に面した家はこれで終わりだった。山道や小路を除くと、ニルス・タウンには通りらしい通りはあと三本しかなかった。何の事はない、町中の戸を軒並み叩いている様なものだ。
「へえ、フローラが行方不明ねえ」とアリシアはあまり気の無い態度で言った。「それで、いつ頃居なくなったって」
 エリーがかいつまんで事の次第を話した。彼女もまた、フローラの消息は知らないと言った。
 アリシアはやや不良傾向があるらしく、髪を青い縞模様に染めていた。最近のはやりなのである。もともとは大人による社会体制に対する反抗と、そこからの自由の象徴なのだろうが、流行を追うだけならば単に別の体制に隷属しているだけだ。そもそもそれが体制なのかどうかもあやしいものだが。いずれにせよ、そんな事をアリシアに説いたところでどうなるものでもない。
「家出でもしたんじゃないの。あの娘もよくあんなじいさんを我慢してるよ」とアリシア。
「おじいさんを御存知ですか」
「会った事はないの。話に聞いただけ」
「フローラの家出しそうな素振りにお心当たりがありまして」
「ううん、知らないね。でも、どうせぐれて家を飛び出したかなんかでしょ」
「どこかの不良少女のグループにでも加わったのでしょうか」
「さあね。私の知る限りじゃ違うみたいよ。だいたいこの近所じゃ見かけないもん。それに私、あの娘ってあんまり好きじゃないのよね。なんか変にお高くとまってるみたいなとこがあるし、どうも反りが合わないって言うかな」
「それは例えばどの様なところでしょう」
「ちょうど雰囲気があんたみたいな感じなの。話し方はあんたの英語[ブリティッシュ]と違って、普通の米語[アメリカン]だけど。クリスティーン・シルバースタインって、あの星間運輸のシルバースタイン一族でしょ」
「おっしゃる通りですわ。よくお判りになりましたね」
「それじゃいいとこのお嬢さんじゃない。なんで探偵なんかやってんのさ」
 話題が私にとって不愉快な方向に逸れてきた。
「それは」と私は努めて平静を保ち「余計なお世話です」
 彼女は私があまり気に入らない様子だったが、それは私にしても同様だった。彼女にはどこかはすっぱな印象があった。あるいはそれは彼女の演技なのかもしれなかったが、愉快でないことに変わりはなかった。
「あは。余計なお世話か。そりゃそうね。でもあの娘ったらそんな大した家柄でもないでしょ。あのじいさんが捨て子を拾って育てたんじゃないか、なんて言ってる人もいたし」
「それって、なんか根拠があるの。よかったら誰が言ってたか教えてくれないかしら」とエリーが割って入った。
「忘れちゃった。どうせただの悪口よ。あんまり上品ぶってるからそんな事言われるんでしょ。ねえシルバースタインさん」
 なぜかアリシアは私にからんでくるので、我々は早々に彼女に暇[いとま]を乞うた。別れ際に彼女は言った。
「フローラの事だったら、私なんかよりアーネストにでも訊けばいいのに」
「アーネストってアーネスト・ゴールドウッドね」
「そ、フローラの彼氏」

 生憎[あいにく]とその彼氏は留守だった。応対に出た彼の母親によると、アーネストは翌日なら多分いるはずだそうだ。私達は改めて訪れる旨を告げて、ぜひ話をしたいと彼への伝言を頼んだ。

 この後、私とエリーは手分けをして聞き込みに回った。私の担当は、クーパー・ダムの管理事務所である。フローラ失踪の朝、ダムを通過した自動車の映像を確認するためと、当時の当直者への聞き込みが目的だった。運の良いことに、その日の当直だったダグラス・ウェラー氏は今日も事務所に居合わせており、快くカメラ映像の再生を承諾した。
「どうです。中の人物までは判らないでしょう。多分一人だと思いますがね」と彼は言った。「そもそもこいつは通行人を見張るためのカメラじゃないんですよ。ダムそのものの異常とか、上を通る道路で事故でもあった場合に備えて、取りつけてあるんです」
 私は何度か彼の手を煩わせ、グラント氏の小さな貨物自動車[ローリー]がダムを通過する所を見直した。彼の言う通り、車種とナンバーは確認できたが、運転者はぼんやりとした影でしかなかった。人影は一人だが、伏せていて写らなかった人物が居ないとも限らない。
「成程、判りましたわ。それであなた御自身はこの通過を御覧になりましたの」
「ええ、見たのか見なかったのか。ほとんど気に留めてませんでしたからね。あれがフローラかどうかも判りませんよ。この道はエンジェルに出る近道ですから、それなりに交通量があるでしょう。いちいちチェックしてられません」
「ごもっともですわ。あなたに伺うのは筋違いかも知れませんが、最近のフローラの様子に何かおかしな所など、お心当たりはございませんか」
 ウェラー氏は戸惑った様な表情を浮かべ「いや気付きませんでした。まあ、それほど深い付き合いでもありませんし。あの娘も愛想はあまりいい方じゃありませんから。悪い娘じゃないんですがね」
「そんなに不愛想なんですの」
「会えば挨拶ぐらいはしますよ。品もいいですしね。ただ、つんと澄ましたところがあって、とっつきにくいんです。あのじいさんに育てられたんじゃ、人付き合いが下手でも無理ないでしょう」
「グラントさんはこちらへはよく参りますか」
「そりゃあ仕事の話では来ますよ。しかしそれと買い物などを除くと、ほとんど出歩きません。何と言うか、一種の変人ですね。あ、あの人には黙ってて下さいよ」
「もちろん申しません」
「あの人も、昔、まだフローラが生まれる前あたりは、こんなに引き篭もってばかりじゃなかったそうです。歳のせいですかね」
「そのフローラの生まれた頃の話ですが、ジョン・フォートナーと言う人物にお心当たりはございませんか」
「ああ、フローラのお父さんですね。その人があの娘を連れていったんですか」
「まだ判りませんわ。お会いになった事は」
「ありません。そもそも私がここに勤め始めたのがアウロラ歴で十二年ばかり前でして、ダムの工事をやってた頃の話は知らんのです。フローラが生まれて母親が死ぬと、すぐにいなくなったって聞いてますがね」
 アウロラ歴の十二年は地球時間の十一年強となる。
「それはグラントさんからお聞きになったんですの」
「ええと……どうでしたか。ここに勤めてる人間ならその位はみんな知ってますよ。作業ロボット共でも知ってるかな。何があったのかは知りませんが、あんな辺鄙[へんぴ]な場所じゃ逃げ出したって無理もないと思いますがね」

 エリーと私はダムのたもとで落ち合った。今日はタルボット先生のリストのうち、会見を断られたものも含めてほぼ七割を消化した。成果はと言えば、ウェルナー・グラントの孫娘に対する過保護ぶりを嫌になるほど聞かされただけだった。エリーの方も同様である。
 ブラバンショウの台詞ではないが、私としてはグラント氏にほかに子どものないことが心の底からうれしかった。もしあったら、フローラに逃げられたのに教えられて、おさえつけて、足かせでもはめて置くところだろうからだ。
 フローラはかなり誇り高い性格らしい。グラント氏の薫陶[くんとう]の賜[たまもの]とすべきであろうか。人は自らを恃[たの]む事ができなければ、生きては行けない。しかし裏打ちのない矜恃は時に危険でさえある。


   三  C・ドビュッシー
     子供の領分から
      象の子守歌

 一夜明けて、再びニルス・タウンに向かう。小雨は相変わらず降り続いていた。
 今日はエリーは同行しなかった。彼女はアパートメントから私達の事務所へと向かい、コンピューターのセミスウィートを相手にしているはずだった。依頼人始め、関係者一同の履歴調査である。特にフローラの父親についてなにがしかの情報が得られたならば、今後の捜索に当たっての手がかりとなるかも知れない。エリーは作業分担の合理化と称して自分が残ったのだが、実はただ出張を面倒がっただけである。

 今日はまず、アーネスト・ゴールドウッドの番だった。アリシアの言う『フローラの彼氏』である。さすがに彼はフローラが行方不明である事を知っていた。
「そうですか、まだ帰らないんですか」と彼は顔を伏せ「僕も心配してるんですが、おじいさんに訊いてみるわけにもいかないし」
「あら、なぜですの。グラントさんの方からは、居なくなった翌日あたりに問い合わせがあったんじゃございませんこと」
「ありました。翌日ではなくて、その日の夜中の二十一時を過ぎた頃でした。朝出かけたきりまだ帰らないからって、まるで僕が匿[かくま]ってるみたいな言い方でした」
「具体的にはどの様に言っていたか、憶えていらっしゃいませんか」
「ええと……最初、母が電話に出たんですけど、始めから僕の家に居るものと思い込んでたらしくて、いきなり『早くフローラを帰せ』って言ったんです。すごい剣幕でした。ここには来てないって、納得させるのが大変でした」
「もちろん、あなたは失踪については御存知なかったわけですね」
「はい。その時初めて彼女が帰ってないと知ったんです。でも、まだ一日と経ってませんでしたから、そのうち帰るんじゃないかって答えたら、怒ってものも言わずに切られました」
「それであなたの方からは恐ろしくてお訊ねになれなかったと」
 彼の家には地球原産の植物が多かった。玄関先にはバラが植わっており、今も彼の背後にはカミルレの鉢が置いてあった。グラント氏の家もそうだったが、こうした趣味は地球からの移民一世に特徴的である。
「それにしてもなぜ、あなたが疑われたんでしょう。あなたとフローラの仲がよろしい事は、グラントさんからは伺っておりませんでしたが。やはり知っていたのでしょうね」
「もちろん知ってたはずです。一度あの家に遊びに行った事がありますから」
「なるほど。いわば公認だったわけですか」
「とんでもない」と彼は言下[げんか]に否定して「追っ払われました。『フローラはそんなふしだらな娘じゃない』と言われて……。後で聞いたんですけど、彼女が泣いて部屋に閉じこもったまま、まる一日口を利かなかったら、やっと譲歩してくれたんだそうです。ですから今は、彼女と会ったぐらいならそんなに文句を言われないんですが、やっぱり快くは思ってないはずです」
「それはいつ頃の話ですか」
「もう一年位経ちます。やっぱり今みたいな暑い季節でしたから」
 一年前で季節が同じならば、これはアウロラ歴の一年、三百七十日余り前との意味である。地球時間でも三百四十日前後となり、今回の失踪と直接は結び付きそうになかった。
「最近、彼女とはお会いになりまして」
「はい。居なくなる二日前に一度」
「何か変わった様子はありませんでしたか。またおじいさんと喧嘩をしたとか、家出を匂わせる様な事は」
「いいえ。普段通りでした。夏休みが終わる前にどこか行こうかって相談なんかしてましたから、家出なんて……」
「どちらへおいでになろうとしていらしたんですか」
「いいえ。具体的な場所はなにも。それ以前におじいさんをなんとか説得するか、うまく騙[だま]す方法を考えなくちゃって、それでこの話は途切れたんです」
「フローラがいま居る場所も、御存知ではありませんね」
「僕を疑ってるんですか」
 彼は幾分[いくぶん]おどおどとした様子で訊いた。私の声音[こわね]がやや詰問調になったためであろう。これだけの聞き込みが徒労に終わると、多少は神経質になったとて止むを得なかった。しかし、それはあくまでもこちらの都合であって、訪ねて来られる側の非ではない。私は微笑を取り繕った。
「いいえ。まだあなたを疑うべき材料はありませんわ。まさか匿ってはいらっしゃいませんでしょう」
「もちろんです。僕だって心配してるんですよ。もし彼女の居場所が判ったら、僕にも知らせて下さい」
 私はそれをうけがい、彼の方でも心当たりがあったら連絡できる様に名刺を渡した。
「あなたはフローラの御父様について、お聞きになった事はございませんか」
「噂には、それからフローラからも何度か聞きました。でも、彼女自身も会った事がないわけだし、おじいさんには訊けないし、ほとんど何も知らないんです」
 どこへ行ってもこれの繰り返しばかりである。私は焦燥を押し隠しながら続けた。
「彼女はその方をどう思っていたのか、御存知ありませんか」
「あんまり良くは思ってなかったみたいです。会ってもどうにもならないし、名乗りもしないかもしれないけど、やっぱり一度は会ってみたいって言ってました。写真も残ってないそうですね」
 それからしばらくの間、半ば雑談に近い調子でフローラの行動半径や習性を聞きだした。彼が言うには、彼女はあまり遠くまで出歩く事はなく、エンジェルロスト辺りに出てもまず間違いなく日帰りであったそうだ。
 馴染みのある街としては、エンジェルのグレイセズ三番街、ユーリカ・スクェア付近、そしてサンテレジアのギンコ・ブールヴァード。最後の場所は私の事務所の近くである。これらは、彼と幾度か出かけた曾遊[そうゆう]の地と言う程度で、特別な縁故があったわけではない。彼女が頼って行ける様な人物も、彼の知る限りでは居ない。

 ゴールドウッド家を出たのは、そろそろ午後も遅くなった頃だった。ゴールドウッド夫人が、と言うのはアーネストの母親だが、夕方にまた訪ねてくれれば手料理を御馳走しようとの申し出を辞退し、私は自動車に戻った。
 雨は降ったり止んだりしている。谷の上流の方でしきりに稲妻が光っていたが、いつまで待っても雷鳴は届かなかった。昨日タルボット先生にもらったリストのなかには、まだ三人ほど会っていない人物がいた。しかし、これ以上聞き込みに回っても、なにも得られそうには思えなかった。
 夕食にはまだ早いが、一昨日エリーと立ち寄った喫茶店に入って魚のフライを注文した。ウェイターにフローラ・グラントの父親を知っているかと訊いてみたが、首を傾げられただけだった。皿を待つ間に、カード電話で車のハーフビターを経由してエリーを呼び出した。カード表面に彼女の顔が映る。
「あ、クリスね。どうそっちは」
「あまり進展はないわ。ニルス・タウンには居そうにないわね。匿ってる人もない様だし、彼女自身は品行方正で、家出なんて柄ではなさそうだし」
「ああそう。こっちはちょっと進んでるのよ。まず父親のジョン・フォートナーだけど、どうも得体[えたい]が知れないの。開拓者台帳にも載ってないし」
 開拓者台帳に名前の記載がないとなれば、それは正規の入植者ではない事を意味する。すなわち密航者か届出のない私生児か。さもなくば死亡、ないし失踪宣告を受けて抹消されたかである。抹消されたのならその記録があるはずであり、それを調査しないが如き手抜かりは、エリーにはあり得ない。
「ダムの工事に参加していたと、グラントさんはおっしゃっていたじゃない」と私は言った。
「そっちもちゃんと調べたって。クーパー・ダムもハロ・ダムも、工事に関わった業者の名簿がうまい事に残っててね。こっちにもやっぱり載ってないのよ」
「確かに変ね。フォートナーさん、お給料は受け取っていたのかしら」
「受け取れないってば。業者が支給してないんだから。ジョン・フォートナーって、偽名じゃないのかな」
「婚姻届は出ていないの」
「出てなかった。フローラは台帳の上では私生児なのよ。どうもこの辺が鍵になりそうね」
 エリーはフローラの出生届のコピーを見せた。この電話のスクリーンでは判読できないが、ズーム・インしてまで見る必要もない。
「そう、判ったわ。これからグラントさんの所へ中間報告に行くから、その時に訊いてみましょう」
「お願いね。それからあと一つ。ハロ・ダムの工事現場で嘱託医をやってた人が居て、名前をフリッツ・カール・ミューラーって言うんだけど。その人の事も訊いてみて」
「その先生がどうかしたの」
「フローラのお母さんのメアリーの死亡診断書を書いた人なのよ。ところがこいつ、その後しばらくして麻薬がらみで逮捕されてるの。塩酸モルヒネを不正に処方した廉[かど]で、二十年の実刑だって」
「それがフローラとどう繋がるの」
「フローラのお母さんは産褥[さんじょく]の感染症で亡くなったって、グラントさんは言ってたでしょ。診断書でも二日後に死亡した事になってるのに、応接間に飾ってあった写真には、平気な顔してフローラを抱いて映ってたし。どうも引っかかんの。だから、お父さんの事と絡めて話してみて」
「判ったわ。訊いてみるけど、医学的な事をグラントさんに訊ねても、埒[らち]は明かないんじゃないかしら」
「そ、試しに当たってみるだけ。診断書の内容は書いた本人に訊いた方がいいわね」
「二十年ならまだ刑務所の中ではないの」
「もう去年出てるわ。今の住所はモントバレイの二番街だから、明日行ってみましょ。フローラのお父さんの事も知ってるかもよ」
「モントバレイねえ」
 モントバレイとはエンジェルロストの貧民街[スラム]である。家出娘が行き着く先としても、まず尋常でない事もない。今までの聞き込みから想像される彼女の気高さには、どこか似つかわしくなかったが。


   四  G・ガーシュウィン
      眠られぬ夜

 クーパー・ダムを渡り、山道を伝ってハロ湖畔のグラント宅に向かう。今度も彼は玄関の前に出迎えていた。彼に連絡したのは私が喫茶店に入る前で、そろそろ一時間になる。まさか、それからずっと外で待っていたのではあるまいが。
「よく私の参りますのがお判りになりましたね」と私は言った。
 彼は曖昧な笑みを浮かべて私を家に招じ入れた。しかし、私が腰を落ちつける間もなく奥のどこかで柔らかい警報音が鳴り、彼は再び表に取って返した。私も意味が判らないまま後に従った。
 外に出てみると、ほどなくハロ・ダムの横の先程私が通ってきた道から、数人の若者が乗った車が現れた。あるいは私の後をついて来たのかも知れなかった。ともあれ、グラント氏の出迎えの理由がこれで判った。道の途中にセンサーの類があるのだろう。一種、神経症的な仕掛である。
「あ、すんません。『笛吹きの滝』[Piper's fall]ってこっちですかぁ」と運転している男が窓から半身を乗り出して訊いた。
「この奥だ。林道はここからさらに細くなって二キロ先で終わる。そこからは一時間ばかり歩いて登る事になるぞ。今から行っても着く頃は真っ暗で何も見えんな」
 グラント氏はあからさまに不機嫌な態度で一息に答えた。訊ねた側にまで伝染する種類の不機嫌である。傍観する私までがいささか気分を害していた。
「ああそう」と男はぶっきらぼうな返事を返し、同乗の仲間に「おいどうする。やめとこうか」と言った。
 彼らは一斉に頷いた。
「判った。またにするよ。じゃあな、じいさん」
 彼らはグラント氏の庭先でUターンして去って行った。グラント氏はそれを監視しながら言った。
「雑誌に滝の記事が載って以来、あんな連中がよく来る様になった。こんな所まで観光地になってしまうのか」
「いっその事、ニルス・タウンあたりにでもお引っ越し遊ばされてはいかがですか。ダムの管理は交代制とでもなさって通勤なされば」
「いや、私はここを離れん。何があろうとな」
 彼はきっぱりと断言した。私がその理由を問うべきか否かと逡巡していると、彼は続けてありきたりな感想を述べた。
「それにつけても近ごろの若い者は礼儀を知らん。世も末だ」
「ソクラテスやプラトンもそう言っていますね」と私は言った。
「そうだろう。真理は変わらんものだ」
 彼にとっての真理が何なのかは判らない。ただ『若い者』の一人としての私の皮肉が、彼に通じなかったのは間違いなかった。

 再び家に入り、借りていたフローラの住所録を返した後、経過報告にかかる。フローラがニルス・タウンには居そうにない事。彼女の友人等も行方を知らない事。タルボット先生のリストなど示しながらする私の説明を、彼は表面的には静かに聞いていた。ただ私を見る目付きが異様に据わっていた。
「そこでグラントさん。少々伺いたい事があるのですが」
「何です」
「フローラの御母様のメアリーさんは、亡くなった時はおいくつでしたか」
「ああ、二十二歳でしたが、それが何か」
「あちらの暖炉の上の写真ですが、あれはいつお撮りになったんでしょう」
「フローラが生まれてまもなくです」
「その時はメアリーさんもお元気でしたね」
 グラント氏の右の眉に軽い痙攣[けいれん]が走った。
「確かに……その時はまだ元気だったが、なんでまたそんな事を訊くんですか」
「出産はこの家でなさったんですか」
「そうだ」
「その数日後に亡くなられたわけですが、どの様な御病状でしたか」
「私は医者ではないから。発熱のためにかなり消耗が激しかった様で……いや、もうメアリーの話はやめて下さい。今でもまだ辛いのだ。思い出すだけでも」
 彼は口の端を釣り針で引かれたように震わせ、沈痛な顔つきで私を見た。悲しみには違いないが、どこか怒りにも似たものを含んだ視線だった。しばらく私達は無言で互いを見つめていた。やがてグラント氏は暮れかけたハロ湖に目を移し、静かに語り始めた。呪文でも唱える様な、何かの暗唱だった。
「いつの日か、あの山々は雪に包まれて、また眼前に立ちあらわれることもあろう。しかし、姿かわることなく山々は聳[そび]えるとも、そのかげに、メアリーが私を迎えることはない。さらば、わが幼い日をはぐくんだ山々よ、さらば。美わしく流れゆくディイよ、その川浪よ、さらば。この頭が、森のわが屋に憩うことももはやないのだ。ああ、メアリーよ、君と離れていて、いずこに、わが屋があろうか」
「詩の御趣味をお持ちとは、存じませんでしたわ」
「バイロンですよ。メアリーが好いていたので、彼女を亡くしてからの一時期、読みふけりましてね。もうほとんど忘れてしまった」
 いたずらに過去を掘り返すのは私の本意ではないが、フローラの父親に関しては確認しておかねばならない。私は別の側面から、写真について訊ねた。
「あの写真を撮影したのはどなたですか」
「あれは……確か三脚に載せてリモートで撮ったんだが、今度の話となんの関係があるんです」
「御父様のジョン・フォートナーさんが、あの写真を撮影したのかと思いまして」
「そう、そうだ。この写真を撮ったのがその父親だった」
「メアリーさんの御結婚はいつでしたの」
「いや……正式には……届けていなかった」
「それでメアリーさんの姓はグラントのままなのですね」
「いい加減にしろ。それとフローラ探しとは関係ないだろうが」
「いいえ、ございますわ。今までに周りで聞いた限りでは、お孫さんは父親に会いたがっていたそうですので。『ジョン・フォートナー』は本名ですか」
「もちろんだ」
「ところがこのお名前は、ダムの工事関係者の中に見出せないのです」
 グラント氏はついに押し黙ってしまった。これではどうしようもない。彼はなにかを警戒し始めたのだ。一介の探偵としての私の立場では、必要以上にプライバシーに立ち入る事はできない。そしてどこまでが必要でどこからが必要以上かを決めるのは私ではない。彼は依頼を取り下げる事もできるのだ。
 私はあきらめて最後の質問に移った。
「メアリーさんの最期を看取った方は、どなたがいらっしゃいましたか」
 彼はしばし黙考の後、俯き加減で言った。
「私だけだった」
「フォートナーさんは」
「私だけだった」
「死亡診断書は、当時嘱託医をなさっていたミューラー先生がお書きになってらっしゃいますが、先生も立ち会ってはいらっしゃらなかったのですか」
「わたし、だけ、だった」
 私はゆっくりと息をついた。彼に聞こえるように。
「グラントさん。協力して戴けないと困りますわ」
「私の依頼は娘、孫娘の捜索だ。フォートナーではない」
 私はため息をついた。今度は聞こえないように。
「承知しております。捜索は続行致します。最善を尽くす所存ですので、お任せ下さい。昔のお話は、ミューラー先生が御存知でしょうから、明日にでも訪ねてみるつもりでおります」
 彼は不意に頭を上げた。大きく見開かれた瞳の底に驚愕の色が見て取れたが、彼は何も言わなかった。
「それでは、今日はこれでお暇[いとま]致します」
 私が腰を上げると彼も慌てて立ち上がり、去ろうとする私の横について一緒に歩きながら言った。
「今日はもう遅い。こんな寂しい土地ですから、泊まって行ったらいかがです」
 私は彼の意図をはかりかねて立ち止まった。今はまだ、一昨日この家を辞した時刻より早いのである。
「とんでもございません。そこまで御迷惑をおかけするわけには参り……」
 私は通常の辞退の言葉を並べたが、その途中で彼の言わんとするところに気付いた。私は彼の夜伽[よとぎ]を仰せつかったのだった。こうした場合、なにか小粋な文句で退けたいところだが、予期せぬ事でもあって頭に浮かんだのは安手のメロドラマの如き台詞ばかりだった。
 私が黙って立ち止まったので、彼はそれを了解ととったらしい。私の胴に腕をからませて抱き寄せようとした。相手と情況によっては成り行きに従わないでもないが、ただでさえ出生の秘密に関わりそうな仕事をしている時に、その依頼人と関係を持つのは賢明とは言えなかった。
「私は探偵です。この種のサービスは致しません」
「それがどうしました」
「いいえ。お孫さんもどこかでこの様な事をなさっておいでではないかと、心配致しまして」
「あの子はそんなはしたないまねはしない」
 彼の言葉は私に対する相対的な侮辱であるが、彼は気付いていなかった。
「明日はモントバレイを捜索します」と私は前を向いたまま、彼の顔を見ずに言った。グラント氏の動きが止まった。
「そこに居るのか」
「そうあって欲しくはございませんわね」
 私は彼の腕を逃れ、振り向かずに玄関を出た。やがて、背後で彼の膝が床を打つ音が聞こえた。結果として、私の言葉はグラント氏にとって極めて強烈な打撃であったようだ。

 夜道をクーパー・ダムの上まで引き返し、私はクリッパーを停めた。雨はほとんど上がり、山風が肌に涼しかった。わずかに降り残した滴が街灯の光芒を斜めに横切り、交流の明滅によって光の破線を描いていた。
 自動車を降りて、ダムの下流側に道を渡る。時刻のためか他の車はほとんど通らない。私は手すりに肘を載せて体を預け、眼下に広がる渓谷を見渡した。ダムの水門から放水路にかけては、蒼白い照明にほんのりと照らされている。それを眺める者は私一人だけだった。
 エンジェルロストは遠く、ここから見晴[みはる]かす事はかなわない。ただウリエル湾の人工島にあるスペース・ポートが、軌道往還機[shuttle bus]カタパルトの頂点だけを左岸の稜線上に覗かせていた。
 モントバレイの名をグラント氏からの逃げ口上に使ったのは、まずかったかも知れない。フローラが本当にそこに居るかどうかは、保証の限りではない。目下の手がかりがそこにあると言うだけの話だ。いやそこにしかないと言う方が正しかろう。いずれにせよ、私はグラント氏に言質を与えてはいないのだが。
 私は徐々にこの失踪事件を負担に感じつつあった。フローラはどこか私に似ている。もちろん実際に会ったわけではないが、聞き込みをすればするほど、相違よりも共通点が目についた。年齢も境涯も異にし、恐らくは性格も私が思うほどには似ていまい彼女に、私は他人と思えないくらいの親しみを感じ始めていた。
 はるかなスペース・ポートから軌道往還機が発射され、空中で主エンジンに火を移した。ここニルス・タウンからは機体まではみえず、爆音も届かなかった。ただ白光の軌跡からそれと知っただけだった。
 あれは上空の第二軌道ステーション『ラフマニノフ』への最終便だった。このアウロラと地球を結ぶ紐帯[ちゅうたい]、あるいは臍帯[さいたい]とも言えよう。ステーションに着いた乗客は恒星間客船に乗り継ぎ、地球へ向かって旅立つのだ。今夜、軌道上には『ファキス・アルゲンテア』が停泊していた。シルバースタイン星間運輸[Interstellar]所有の新鋭客船で、名前は『銀の流星』のラテン語訳である。
 フローラの失踪は、彼女を取り巻く人々が全く予想もできないほど突然の出来事だった。いわんや動機を知る者など居ようはずがない。祖父からの逃避だろうか。それとも父親探しの旅だろうか。どちらにしても、何かのきっかけがあったはずである。
 もし彼女がグラント氏の束縛から遁れようとしたのならば、再び連れ帰るのはいかがなものか。ただそれだけでは何も解決しまい。しかし、それ以上立ち入った事をするのは、こちらの職務の範囲を越えていた。依頼を忠実に果たし、後は知らん顔でいるのが最も賢いのだろう。
 私は星空を見上げた。アウロラには月が、衛星がない。地球より鮮やかな星空も、今宵は雲に塞がれている。私は無性[ルナティック]に地球の空が懐かしかった。
 地球にはリチャード・シルバースタインがいる。自分の娘を会社が保有する船と同程度にしか思わない、私の父親が。そうだ、今回の依頼に対して気が乗らない理由はここにあったのだ。フローラが私に似ていると思ったのも、私自身が父親から逃げているからだった。
 地球に帰り、父の前に膝を屈すれば、いずれ私はシルバースタインの一員としてそれ相当の重職に就く事になる。しかし、それは再びあの血族に戻る事を意味していた。わがシルバースタイン家をも含む、シュヴァルツシルト一族の濁った血に。
 今の私は一人、自ら望んで家を離れている。だが、それならなぜ地球の夜空が恋しいのか。なぜ私は星間運輸が持つ宇宙船のダイヤグラムまで諳[そらん]じているのか。
 私は再び谷底に視線を落とした。人は誰も故郷には帰れない。たとえその生地[せいち]から一歩も離れなかったとしても。

「こんな所で何をしてるんです」
 私は不意に背後から声をかけられ、驚いて振り向いた。そこには初老の男性が一人、警棒を兼ねたライトを片手に提げて立っていた。ダムの管理人の制服を着ているが、きのう会ったウェラー氏ではなかった。
「いいえ。ただ涼んでいただけですわ」と私は答えた。
「ならいいんですが。いやなに、まるで今にも飛び降りそうな感じに見えましたから」
 私は監視カメラの存在を思い起こした。なるほど私は自殺志願とも見られかねない様子だったろう。
「どうもお騒がせ致しました。もう帰ろうとしていたところです」
「そうですか。ではお気をつけて」
 彼は踵[きびす]を返した。私はふと思いついて彼を呼び止めた。
「すみません。一つ伺ってもよろしいでしょうか」
「はあ。なんでしょう」
「フリッツ・カール・ミューラーと言う方を御存知ありませんか。このダムの建設工事を行っていた当時のお医者様ですが」
「知ってますよ。しばらく遠くに行ってたんですが、ついこの間ここに来ましてね。久しぶりなんで懐かしがってました」
「い、いつですか。何をしにいらしたんですか」
「何をしにってわけでもないんでしょう。私が昼間の当直の時だから、五日前ですね。いろいろと雑談をして帰って行きました」
「お親しい間柄でしたの」
「え。ええ……まあ」と彼は口ごもった。
「出所以来、初めて見えたのでしょうね」
「あんた……何者だ」
 私は臍[ほぞ]をかんだ。彼は『遠くに行って』いたとは言ったが、刑務所とは一言も言わなかった。私がカードを見せすぎたのだ。具体的にどの様な関係だったのか、態度を硬化させた彼からはこれ以上なにも聞き出せそうになかった。フォートナーの事も訊くだけ無駄だろう。
「通りすがりの探偵に過ぎませんわ。御心配なく。よろしかったらどんなお話をなさったのか、教えて戴けません」
「あんたには関係ない」
 探偵と聞いて、かえって彼は不安をかきたてられたのだろう。だが、もはやそんな事は私の知った事ではない。私もそろそろ引き上げる潮時だろう。私は略式の礼を述べて自動車に乗り込んだ。彼は私を追ってくるでもなく、やがて事務所の方へと歩み去った。
 エンジンを止めたまま周囲の静けさに耳を澄ますと『真夏の夜の夢』の一節が心に浮かんだ。

  小夜鳴鳥[フィロメル]よ調べに乗って
  歌え、素敵な子守歌
  災いも、呪いも魔力も近付くな
  我らが麗しの貴婦人に
  それでは、おやすみなさいませ
  子守歌[ララバイ]を聞きながら

 ミューラー医師は何のために来たのか。五日前ならフローラ失踪の前々日である。単に久闊[きゅうかつ]を叙するためではあるまい。


   五  A・シェーンベルク
      浄められた夜

 モントバレイの治安は極めて悪い。事実上の無法地帯と言ってよい状態だった。しかし、当局は一切それを認めていない。アウロラの入植者は厳正なる移民審査を通過したエリートぞろいであって、貧民街そのものが存在しない建て前だからである。
 そこはアウロラ州の州都エンジェルロストのうちでも、最初期に都市化の進んだ地区だった。それは、この惑星の社会資本が無きに等しい時代に造られた街である事を意味する。いきおい、増大する植民圧にさらされて、地球から運ばれて来た高価な資材を倹約しつつ建てられた街並は、粗製乱造の誹[そし]りをまぬがれ得なかった。
 この地域の建物は早くから老朽化し、賃貸料が下落、住民の質も低下して収益が悪化したため建物の修復や改築もままならず、しこうして今日あるスラムの形成に至ったのである。
 モントバレイに来るにあたっては、普段と異なる事が二つあった。一つは私がスカートではなく革のトラウザーズをはいている事である。これに伴って、バックアップのデリンジャーが腿[もも]のホルスターから足首に移動した。もう一つ、今日の私達の車はレンタカーで、塗装の色褪[いろあ]せたフォードである。いくら傷だらけとは言え、いつもの高級車では盗んでくれと言わんばかりだからだ。
 エリーも防弾ベストで、ハンド・バッグには催眠ガスのスプレーとガバメントを忍ばせ、放電スタン・ナックル付きの手袋までつけた重装備である。ここまでする必要もあるまいと思うが。
 ミューラー氏には連絡が取れなかった。早朝からエリーが何度電話しても応答がなかったのだ。それならそれで構わない。電話をしたせいで彼が逃げ出すとは言わないまでも、事前に考える時間を与えない方が良いかもしれない。そうして相手の不意を衝くのは効果的だが、留守の恐れがあるのが難点である。
 エリーの調査で、彼の住居兼オフィスの所在は判っていた。旧エンジェルロスト市庁舎の近く、プライム・スクェアに建つフラッシュ・ビルディングの三階だった。名前だけは往年の繁華街を偲ばせている。
 だが、実際に行ってみると、車道のコンクリート・マカダムには穴があき、建物の外壁はタイルが崩落していた。歩道の敷石も所々まとまって無くなっていた。あるいは盗まれたのかもしれない。狭い路地には、ところ構わずごみが堆積していた。
 ミッドガルト大陸が入植者に解放されて以来、この辺りの低所得者層のなかでもいくらか余裕のあるものは、みな新天地を求めて大陸に流れていった。そのために人口密度が下がっているうえ、私達が訪れたのが午前中だったこともあり、通りは閑散としていて人通りもほとんど無かった。いかがわしい店のネオン・サインも今は消えている。
 フラッシュ・ビルの前にはエンジェル市警察のパトロール・カーが一台駐車されていた。これが本物だとすれば、あるいは盗難車ではないとすれば、心強いことである。エリーはそのパトロール・カーの後ろに車をつけた。
 ビルの中は到る所に卑猥な落書きがあった。階段ホールの一階[Ground floor]には、がらくたに囲まれて浮浪者が寝ていた。リフトは絶えず軋[きし]みながらも動いたが、内部には独特の腐臭がこもっていた。
 磨硝子に『F・K・ミューラー医院』の金文字がある扉は細く開いていた。くすんだクロム鍍金[めっき]がわずかに残るレバーを引いて、私達は中に入った。ドアの内側には、目の前に白い布を張った衝立があった。その手前にはパンヤのはみだしたベンチが置かれていた。受付の類は見当たらなかった。
 衝立の端から覗くと、向こう側はすぐに診察室で、婦人科用の古びた内診台と机、薬品棚や冷蔵庫などが置いてあった。そしてそこには男性が二人、室内の写真[ホログラム]を撮影していた。ミューラー医院は盛況のようだ。
 内診台の脇、ビニール・タイル張りの床には人型に白いテープが貼られ、その頭部を中心に褐色の染みが広がっていた。
 男達のうちの一人、警官の制服を着ていないほうが、私達の姿に気付いた。私服の刑事と制服警官の二人だけと言うのもおかしな取り合わせだ。
「こら。入ってきちゃいかん。捜査中だ」
「あらら、表に何もなかったもんで。ごめんなさい」とエリー。
「くそ、モルグの連中がホトケと一緒にロープまでかたしちまったな。おい、ドアノブの指紋はとったか」
「とりました」と制服君が答えた。
「どうやら休診のようですわね」
「もっと正確に言うと廃業だな。診察ならよそをあたった方がいいぞ。堕胎[だたい]専門医なら、この界隈にはいくらでもある。それとも婦人科のほうか」
「そうそう。この娘が変な病気もらっちゃって」とエリーが私を指さした。刑事は露骨に眉をひそめた。彼女にはあとでお仕置きせねばなるまい。
「まあいい。じゃまだからもう出てけ」
「はぁい。でも物騒ね。強盗かなんかなの」
「判らんね。見ての通りだいぶ荒らされてたが、現金が手つかずだったしな」
 言われてみれば机の引き出しを始め、あちこちの棚や引き出しが開いて中身が散乱していた。床で割れている薬品瓶からは、恐らくアルコールらしい液体が流れた跡があり、凝血[ぎょうけつ]に接してその一部を溶かしていた。警察によって物証として持ち去られたものもあるはずだから、恐らく事件直後はもっと取り散らかっていたのだろう。机の上には医学書が一冊と、あひるの文鎮だけが残されていた。
「凶器は? この血痕の位置からすると、なんかで頭でもぶん殴ったのかしら」
「ああ、ミューラーの商売道具のなんとか鉗子[かんし]らしい。鑑識が持ってったよ」
「散らかってるわりにカルテとかが見あたらないけど、それも鑑識さんが持ってったのね? それとも犯人が……」
「おまえら何しに来たんだ」
 刑事はエリーの言葉を無視して、私達を上から下まで眺め回した。彼の視線は私のくるぶしとエリーの手元、そして二人の手にしたバッグで停まった。武器のある位置だ。疑惑の気配に、エリーが私の手をつかんで後ずさる。
「この辺の人間じゃないな。銃を持って診察もないだろう」
「えと。あの……さいならっ」
「おいくそっ。あいつら捕まえろ」
 エリーが逃げ出した。手をつかまれたままの私もやむなく同行する。手首の関節が脱臼しそうだ。あとから刑事に命ぜられた制服警官が追ってきた。
「なんで逃げるの。この際、身分を明かして警察に協力してもらった方がいいんじゃないの」私は階段を駈足で下りながら言った。
「だってグラントさんはできるだけ表沙汰にするなって」
「でもこれはもう殺人事件よ。ミューラー先生がフローラ失踪に関係してるとは限らないし」
「関係してるわよ。机にルフ・デュールで買ったあひるがあったでしょ。ミューラーがフローラと接触したのは間違いないわ」
「それならなおさら警察の協力がいるでしょう。押収品の中から手がかりを探さないと。どうやってフローラを見つけるつもりなの」
「う。で、でも、もう逃げちゃったもんしょうがないじゃない。始めたことは最後までやれって言うでしょ」
「知らないわ」
「うちの家訓なの」
 フラッシュ・ビルディングから飛び出すとき、パトロール・カーを覗き込んでいた中年の男にぶつかりそうになった。彼は私達に向かってなにやら叫びながら、追いかけてきた。
「やいこらてめえら待て」
「待つもんかって。あたし達、警察に追われてんだから、一緒に逃げると、疑われるわよ」とエリー。
「なんだと」彼は振り返って「げ、まずい」と道路の反対側にそれていった。
 案の定、警官はその男を私達の共犯者か、あるいは主犯とでも思ったらしく、彼を追って向かい側の路地に消えていった。私は表通りを猪突猛進するエリーを、引きずられながら踏ん張って止めた。
「もう大丈夫のようよ。お巡りさんは、今の人について行ったわ」
「た、助かったあ」
 彼女はようやく私の手を離し、自分の膝に手を突いて肩で息をする。私はその場にしゃがみ込んだ。たった1ブロックの全力疾走だが、お互いに息が切れた。

 フラッシュ・ビルからの視線を避けるべく四辻を折れると、通りに面して旧市庁舎が建っている。私達はその玄関へと登る階段の途中に腰を下ろした。この建物は現在では日雇い労働の斡旋事務所と救世軍の慈善食堂になっており、他にもこうして為すこともなく座っている人間が多かった。私達にしてみれば目立たなくて良い。
「ミューラーせんせは死んじゃったか」とエリーは頭を抱えてショート・カットの髪をかき乱した。
「誰が殺したのかしら。まさかフローラが……」
「それはないでしょ。いずれミューラーはフローラに、父親の居場所を教えるとかなんとか言っておびき出したんだろうし。殺す動機がないじゃない。それともあるのかな」
「ならば、そのお父さんのフォートナーさんが怪しいわね」
「うん。でもそっちの手がかりもなくなっちゃったし。警察が帰ったらさっきの医院を見に行こうか。めぼしいものはとっくに鑑識行きだろうけど」
「犯行時刻はいつかしら」
「あの血餅[けっぺい]の色からすると、夜中から今朝にかけてくらいかな」
「今朝早く電話したときに出なかったのは、このせいだったのね」
 私は上着の内ポケットから電話機を取り出した。グラント氏の住所氏名を告げるとすぐに繋がった。電話口に出たのは留守番AIの女性の声だった。
「ウェルナーはただいまダムの定時巡回に出ております。お呼び出しいたしましょうか」
「お願い」
 私はそのまま二分ほど待った。AIがどうやって呼び出そうとしたのか判らないが、ついに彼は出なかった。私は思い直して電話を切った。ミューラーの死を彼に告げたところで、徒[いたずら]に不安を煽るだけであろう。
「さっきビルから出たとき、一緒に走ってきた男はなんだったのかな」とエリーは頭に手をやったまま階段に寝そべって言った。「たしかパトカーを覗いてたよね」
「私達を追ってきて、警官を見て逃げたと言うことは、私達が警察関係者ではないと知っていたんでしょうね。どうして判ったのかしら」
「あたし達が来たところをどっかで見てたんじゃないの。もう警察の現場検証も終わりかけてたから、いまさら増援がのこのこ来ることもないだろうし。そこに女二人で現れたんだから刑事だとは思わないでしょ」
「それならなぜ私達を追ってきたの」
「誰かを待ってたとか。あいつが顔を知らない女性を待ってて、そこにあたし達が来たと。ミューラーとは関係ないかもしれないし」
「もしやあの人がフォートナーさんその人で、フローラと引き合わせてくれるはずのミューラー先生が殺されたから、しかたなく誰か娘の居場所を知っている人が来るのを待っていた、とは考えられないかしら。例えばあの医院の看護婦とか」
 エリーが寝ころんだまま私の顔を覗き込んで言った。
「それも考えすぎの気がするなあ……」
 私達は同時にためいきをついた。
 かつて州都の中心だった市庁舎の玄関の下に、ぼんやり空を仰いでいる、ふたりの乙女がありました。今は財産を使い尽くして、その日の暮らしにも困っているような、あわれな気分になっているのです。


   六  F・メンデルスゾーン・B
       真夏の夜の夢から
      第二幕と第三幕の間奏曲

 旧市庁舎前に為すことなく座している私達の前を、交差点を曲がってきたパトロール・カーが横切っていった。先程までフラッシュ・ビルディングの前に停まっていたものだ。私達を追いかけてきた制服警官がハンドルを握っていた。刑事の方は助手席に座っている。幸いこちらには気付かなかったようだ。
 私達は最前の男を捜しに行くことにした。聞き込みをするにしても、この近所でもの欲しそうに私達を見ている浮浪者などを捕まえるよりはましだと思われたからだった。今のパトロール・カーに乗っていなかったからには、なんとか逃げおおせたのであろう。

 男が逃げ込んだ小路を入ると、建物の裏手が小さな広場のような空き地になっていた。私達が入って来た道の他にも、広場の四隅からは細い路地が伸びていた。建物の裏口もドアが壊れて失われているものもあり、追手をまくために逃げ込むには格好の場所だった。
 四方を囲むビルの壁はコンクリートの打ち放しだったが、建設当初からそうではなかった証拠に、申し訳程度のタイルが所々に張り付いていた。非常階段は錆だらけで、とてもこれを使って登る気にはなれなかった。
 土がむき出しの地面には昨夜の水たまりが乾き残っており、雨に洗われた青空の反映に鼠の死骸を浮かべていた。鼠などわざわざ地球から輸入するものはあるまいが、人間がはびこるところでは鼠も栄えるのだ。
 右手にある建物の傍らには小型の貨物自動車[ローリー]が止まっていた。グラント氏の車と同型同色だった。ナンバー・プレートとナヴィゲーション・システムの送受信機は無くなっている。のみならず、クーパー・ダムのカメラに写っていた荷台の覆いと、燃料の水素吸蔵カートリッジも無くなっていた。しかしこれは少なくとも最初の捜索にその建物を選ぶには充分な根拠である。
 一階には酒場が二軒あったがどちらも閉まっており、入り口にも勝手口にも錠がおりていた。一軒のドアの前には男が一人、泥酔して吐寫物[としゃぶつ]の中に眠っていた。酔生夢死とはこのことか。通路の明かりは暗く、天井からは紐状に固まったほこりがぶら下がっていた。フラッシュ・ビルディングの様な落書きはないものの、全体により薄汚れて見える。
 二階[First floor]に達したとたん、視界の右のはずれから、男が威嚇の雄叫びをあげて私に襲いかかってきた。私には銃を取り出す間もなかった。彼はかなり頑丈な作りの身体つきで、右手に白く光る金属を握っていた。先刻の男性だ。
 私は辛うじて凶器をかわしたものの、体勢を立て直す前に胸ぐらをつかまれ、その場に投げ倒された。落ちたとき受け身をとり損ね、背骨に痛みが走る。悲鳴も出せない。
 私のすぐ後ろにいたエリーが「あちゃ」と叫んで男の手を蹴った。彼のナイフが宙を飛び、廊下の端で切れ味のいい音を立てた。
 男は目標をエリーに変え、彼女を殴るべく右手を振り上げる。私は倒れたまま、かかとで彼の膝の裏を突いた。彼がのけぞったところにエリーのアッパー・カットが入り、ナックルの先端からアーク放電がきらめいた。
 よろけた男は私の上に倒れかかってきた。私は彼の服の背中をとり、右脚で彼の腰を持ち上げて投げた。男は階段の手すりに激突し、そのまま階段を転落していった。
 踊り場で止まった男が必死に立ち上がったところへ、階段の途中からエリーが飛びかかった。彼女は男のシャツの肩をつかんで彼の胸を壁面に押さえつけ、彼の脚を蹴って開かせて動きを封じた。私もなんとか立ち上がってそこにたどり着き、シークレット・サーヴィスの銃口を彼の首筋に押し当てて撃鉄を起こした。男の表情が苦痛と屈辱で憎々しげに歪[ゆが]んだ。私達が女と思って甘く見たのが彼の過ちである。
「さてと、あたし達になにか御用?」とエリーが言った。
「くほ。おまへらこそ何ひに来やがった」
 彼はスタン・ナックルの放電を顎に受けたため、言葉の発音がおかしくなっていた。
「ちょっと物を尋ねにね。あんた名前は」
「わふれた」
「当ててさしあげましょうか」と私は言った。「ジョン・フォートナーさんでしょう」
「ふぇっ。ここにも馬鹿がいやがった」
「馬鹿とはなによ。あんた自分の立場が判ってんの」とエリーは彼の後ろ髪をつかんで言った。
「フォートナーなんてデマにたまされてりゃ、馬鹿にちがひねえや」
 男は髪を後ろに引かれて頭を反らせながら、なおも悪態をついた。押さえつけられながらも人をくった態度である。
「つまり彼はこの近所には居ないってのね」
「近所ところか、あの世までさかしたって無理た」
「死んだの」
「死にゃあの世に居るらろ。フォートナーなんて始めっから居なかったのさ。とうしても会いたきゃリンボウても探しな」
 私達は顔を見合わせた。これを信用していいものかどうか。彼の反応からして、とぼけているとは思えなかった。それにフォートナーが実在しないのであれば、入植者台帳に記載がなく、写真の一枚すら残せなかったのも当然である。
 私は男の身体を探った。武器はなかった。財布には小銭と救世軍発行の失業者カードが入っていた。この男の氏名はロイ・マクファーレンとなっている。もちろん偽名かも知れないし、疑えばきりがない。
 実のところ、この男がフォートナーであるとは期待していなかったのだが、それにしても意外な答だった。
「おまえあこそ何もんだ。ポリに追われてやかったじゃねえか」
「フラッシュ・ビルディングのミューラー先生にお話を伺いに参りましたの。ところが先生は亡くなられた後で、そこに現れた私共を不審に思ったお巡りさんが追いかけていらしたんです」
 私は銃をしまい、代わりに探偵のバッジを取り出して彼に見せた。バッジの意味が通じるかどうかは判らないが。
「なんだ、おまえらが先生を殺[や]ったんじゃねへのか」
「違うってば。あたしは逆にあんたが殺したかと思ってたんだけど、そうでもないみたいね。それからあんた、さっき『ここにも馬鹿が』って言ったわね。てことは他にも馬鹿がいるのよね。それってもしかして十七歳くらいの女の子じゃないの」
「おい、ちょっと待て。はっきりさせようぜ。おまへらフローラって娘を引き取りに来たのか」
「そ、よく判ったわね。やっぱりあんた誘拐に一枚かんでたんでしょ」
「誘拐だ? 知るもんか。俺は先生からあの娘を預かってろって頼まれただけだ。知り合いに渡すまでってな」
「その知り合いって誰よ」
「おまえらじゃねえのか」
「違うわ。でもちょうど良かった。あたし達、フローラのおじいさんに頼まれて行方不明になったフローラを探しに来てるの。あんた彼女を預かってるんだったら、素直に渡しなさい。じゃないと誘拐の従犯でこのまま警察に突き出すわよ」とエリーがロイを脅す。
「ああ、勝手に連れてってくれ。誰が殺ったにしろ、俺はあんな死に方はしたくねえ」
「ミューラー先生の件で警察に通報したのはあなたでしたのね」
「そうだ。娘は二階[Second floor]の廊下の奥の右側の部屋にいる。好きにしろ」
 アウロラは米語圏なので、セカンドフロアは地面から一つ上、つまり彼が隠れていた階だった。
 エリーは念のためロイをそのまま確保し、私がその部屋を確認に行く。この階は住居用フラットになっていて、まっすぐ伸びた廊下の両側に小さな部屋が緑色に塗られた扉を連ねていた。
 階段を上り始めると、男の言った一番奥のドアが細く開いているのが見えた。そして私が二階に到達するまでに、その扉は音もなく閉じた。フローラは今の騒ぎが気になったのだろう。
 私が廊下を進む間、他のドアは微動だにしなかった。誰も居ないのかもしれない。居たとしても、ここの本来の住人ならば『暗い夜に泣いている声を聞くと、なんだろうと見に行く』様なまねはすまい。


   七  J・イベール
      喜遊曲から
       夜想曲

 私は扉を叩いた。返事はなかった。
「開けて下さい。危害は加えませんから。フローラ・グラントさんでしょう」
 鍵を開ける音もなく扉が開き、住人が顔を見せた。フローラだった。彼女は人間に裏切られた飼い猫の様な視線を向け、ノブをつかんだまま言った。私は気付かれない様に、片足を框[かまち]に差し入れた。
「私がフローラ・グラントです」と彼女は名乗った。「どなたですか」
 ドアはなんの仕掛けもないただの板戸で、内側にはチェーン受け金具の取り外された痕跡があった。廊下から瞥見[べっけん]したところでは、内部にはほとんどベッドだけしかない様だった。察するに、この建物に並ぶ部屋はかつての入植者向け簡易宿泊施設であり、現在は曖昧宿[あいまいやど]にでもなっているのであろう。
 階段の方を見ると、エリーが踊り場から伸び上がってこちらを見ていた。私は彼女を手招きした。
「私はシルバースタインと申します。あなたのおじいさん、ウェルナーさんの依頼で、あなたを探している者です。一緒に来て下さいますね」
「嫌です」
 フローラはにべもなく断った。彼女は戸を閉めようとして、私の足に気付いた。
「やめて下さい。誘拐するつもりなら人を呼びますよ」
「その人なら逃げちゃったわ」と廊下を近付いてくるエリーが言った。
「それにあなたはもう誘拐されているのですよ。フリッツ・カール・ミューラーと言う医師に呼ばれて、この街にいらっしゃったのでしょう。父親について知りたくはないか、とでも言われて」と私。
「そうです。その通りです。それでも私は帰りません。あんな家には、もう二度と戻りたくありません」
「学校はどうなさるおつもりですの」
「もう……もういいんです」
 フローラの声は湿り気を帯びてきた。彼女のドアにかける力は、いくらか緩んだ。エリーが説得を引き継いだ。
「あなた、まだ経済的にも自立してないでしょ。こんな場所で闇医者の餌食なんかになってちゃだめよ。とにかく一度、家に帰んなさい」
「帰りません。私だって女ですから、お金を稼ぐ方法くらい、いくらでもあります」と彼女は自虐的とも見える凄絶[せいぜつ]な笑みを顔に張り付け「それに、ここの方がはるかに自由があります」
「自由ねえ。こんな狭苦しい部屋に押し込まれて、刑務所みたいに監視付きで。このドアってちゃんと内から鍵がかかるの」
「構わないで下さい。あそこに帰るくらいなら、どうなってもいいんです。絶対に帰りません」
 私とエリーは顔を見合わせた。家出娘の説得は思っていたより困難だった。廊下と部屋の境界で五分間ほど押し問答を続けたが、フローラは帰宅を肯[がえん]じなかった。事情を知らない人間が見れば、それこそ誘拐と勘違いされかねない。
 私はフローラに言った。ただしミューラーの死は伏せたままで。
「判りました。これ以上の無理強いは致しませんわ。ただし、ここに居るのはどう見てもあなたのためにはなりません。お家に帰るかどうかは別として、ミューラーからお逃げになるなら今のうちですわ。もし気が向かれたら、こちらへいらっしゃいませ。他に頼られる所もございませんでしょう」
 私は名刺を差し出した。彼女が迷いながらもそれを受け取ろうと手を伸ばした隙に、エリーが強引にドアを開け放った。フローラは部屋の奥に跳びすさった。名刺は受け取られることなく床へと舞った。私としては彼女を騙したことになるが、しかたあるまい。
 バス・ルームらしい扉の前を通って奥に進む。狭い部屋の小さな裏窓には格子がはめてあり、室内は薄暗い。フローラはその窓からはいる光の中、彼女の最後の砦である小さなベッドの隅にうずくまって、こちらを睨んでいた。
 フローラは叫び声を上げようと大きく息を吸い込んだ。しかし、それが声になる直前に、エリーの一言が割って入った。
「ミューラーなら死んだわよ」
 フローラは悲鳴をそのまま飲み下した。
「もうお父さんの話は聞けなくなったわね」とエリーは続けた。
「そんな、そんなの……嘘です。だって昨日会ったばかりです」
 フローラはやっとかすれ声で言った。見張りの男も、まだ彼の死を伝えていなかったらしい。
「嘘だと思ったら、警察に電話してみなさい。『私はミューラー先生に呼び出されたんですけど、先生はどうしちゃったんですか』って。もう大喜びで訊問してくれるから」
 エリーは自分のカード電話を胸ポケットから抜き、フローラのベッドの上に放った。フローラはおずおずとそれを手に取り、一連の数字を告げた。相手の名前を口にせず電話番号で指定したのは、私達をはばかっての事だろう。彼女には残念ながら、私は知っていた。それがミューラー医院の番号だと言うことを。
 フローラのかけた電話はなかなかつながらなかった。彼女は何も映し出さないカードの表面を見つめて続けていた。そうしていれば、いつかそれがキラキラ輝く銀色のもやのように溶けだして、電話相手の部屋に抜けられるかもしれない。
「なんでしたらミューラー先生の医院に御一緒しましょうか」と私は言った。「警察の現場検証も一段落したところですし」
「検証……ですか。じゃあ、先生は誰かに……」
「多分ね。どうみても事故じゃなさそうだったし。でも現場見るのはやめといた方がいいと思うけど」とエリー。
 その時、思いがけなくフローラの手にした電話から男のいら立った声が聞こえた。
「はいよ」
 フローラは慌ててカード電話を抱きかかえるようにして覗き込んだ。私達にはカードの裏面しか見えない。
「あの、あなたは」とフローラは訊いた。
「あんたこそ誰だい。ミューラーの客か」
「え、ええ、まあそうです」
「ミューラーはもう店仕舞いだよ。まったく家賃も碌[ろく]に払わねえでくたばりやがって……」
 フローラは電話機を取り落とした。灰色のシーツに転がった電話のスクリーンには、両手を朱[あけ]に染めてぶつぶつ文句を言いながら、床の血痕を洗っている男の姿があった。恐らくはあのビルの管理人の類であろう。エリーはそれを拾い上げ、回線を切った。
 しばらく凍り付いたように電話機が存在していた辺りの虚空を凝視していた彼女は、やがて口を開いた。
「父です」
 その声は麻の繊維のごとく荒かった。
「父があの方を殺したんです」
 この言葉から察する限りでは、ジョン・フォートナーが架空の人物だとは、まだ聞かされていないのかもしれなかった。姿を消した父親を探す娘としては、当の父親が情報提供者の口を封じたと考えても不思議はなかろう。
 私はあらためて彼女の説得にかかった。
「御覧のように、あなたがここに留まる理由はなくなりましたわ。私共の事務所で、今後の事を相談いたしませんか。あなたがどうなさるにしても多少のお力にはなれるでしょうから」
 彼女がここに来て、まだ五日と経っていない。頼みの綱のミューラー医師は殺害され、その下請けの監視人も逃走した。ほかに寄る辺[べ]もないフローラは、今度は素直にこちらの申し出を受け入れた。

 置き去りにしたレンタカーは、幸いにも無事であった。運転席にはエリー、後部座席には私がフローラと一緒に乗り込んだ。フローラはサンテレジアまでの道すがら、切れぎれに今回の事のあらましを語った。私は専ら聞き役にまわった。こうして身柄を確保した以上、聞かずに済ますこともできたのだが。
「最初は電話でした。あのお医者様が家にかけてきたんです。祖父……祖父が、ダムへ朝の巡回に行く時刻でした。次にアルバイト先のお店に現れて、私の父について、知りたくはないかと、他人に話してはいけないと、言われました。始めはすぐ帰るつもりで、家の車で出かけました。呼び出された場所はタウゼントブレッターにある喫茶店でした。ところが、そこでは何も教えてくれなくて、モントバレイまで連れて行かれました。その時に、私は引き返せば良かったんです。その時なら、まだ……。でもあの部屋に入れられて、監視の男の人が付けられました。あの男は、あいつはお医者様に、私を……私には……」
 彼女は内にこもった興奮のために、声がかすれてきた。私はその後を引き取った。
「ミューラーが大事な人質に手を出させるとは考えにくいですね。しかしそれは、見張りの男の自制心を買い被[かぶ]りすぎていたわけですね」
 私は彼女が泣き出すかと思った。だが彼女は少々せき込んだだけで、助手席の背を見つめたまま淡々と話し続けた。極刑の独房に幾星霜を送り、肉体より先に感情が死滅した者の如く。
「あいつは、何度も私を閉じこめた部屋に来ました。私を、襲ったあとは、先生には絶対に話すんじゃないぞと言って、ナイフで脅しました」
「それで、お医者様のミューラーはいかがでしたか。やはり虐待を受けましたのかしら。なるべくなら伺わずに済ませたいのですが、いずれ殺害犯が捕まれば、その事情聴取や裁判の席で訊かれるでしょうし」
「あの方は私に対しては紳士的でした。父の事も教えて下さいましたし、感謝しています」
「他ならぬあなたのおじい様が、あなたの父親である事ですか」
 彼女は顔を上げ、右手に座る私を驚きの目で見つめた。
「祖父が……いえ、父が話したんですか」
「ウェルナーさんは一言もおっしゃいませんでしたわ。それよりも先程あなた自身が『父が殺した』とおっしゃったでしょう。ジョン・フォートナーという人物はまったくの創作ですし。そしてこの事実のために、あなたはお家に帰るのを拒んでいらしたわけですね」
「はい、身の代金が取れたら自由にしてくれて、お金もくれると言われて。それに逃げるのも無理でしたから」
「私はあなたの最後の言葉は聞きませんでした。もう誰にも話さないで下さいね。狂言誘拐の共犯容疑がかかりかねません」
「判りました」
 彼女は目を閉じてシートに寄り掛かった。その思い詰めた表情を崩さぬままで。

 私達がスウィート&シルバースタイン事務所に到着した時、晩夏の日差しはもう南中を過ぎていた。メイプル・ブールヴァードは、通りの中央分離帯に並ぶかえでの涼しい緑陰に覆われている。モントバレイから戻った目には、この見あきた街でさえ整然と美しかった。
 第三ビル三階にある事務所の表のドアには、普段は鍵をかけていない。入ってすぐの所は小さな控えの間で、ここは私たちの不在中にやってきた不運な依頼人のための待合い室である。客が待っていた事はほとんどなかったが、今日ばかりは様子が違っていた。
 待合い室に置いた長椅子には、アーネスト・ゴールドウッドと、その脇に彼を護衛するかの様に、サンテレジア警察署殺人課のグレイン警部が座っていた。彼らは私達を見るなり立ち上がった。
「こ、こんにちは」とアーネスト。
「あら、どうしてこんなとこに。懐かしの警部まで」とエリーが応じる。
「フローラが心配で、何かお手伝いできないかと思って来たんです。そしたらさっき警部さんが来て」
「ふうん。あんたなかなか健気で可愛いとこあるじゃない。でも、その必要はなくなったの」
「ええっ。どうしてですか」
「もう見つけたからよ」
 エリーは身体を翻[ひるがえ]した。フローラの姿が男達の前にさらされた。それまでうつむいていたフローラが顔を上げた。
「アーネスト……なの?」
 一瞬のフェルマータをおいて、彼女は絶叫した。
「い、いやああ」
 彼女は脇にいた私を突き飛ばし、すぐ横の階段に向かって走った。
 エリーはほとんど反射的にフローラを追いかける。よろけた私も体勢を立て直して後を追おうとしたが、警部に腕をつかんで制止された。
「君にはここに居てもらうよ。モントバレイでの行動について、話を聞かせてもらう」
「いいえ、しかし……」
「大丈夫。ビルの出口には私の連れがいるから、逃がすことはないさ」
 階段の方からは足音は聞こえず、フローラのものらしい泣き声だけが届いてきた。この様子では彼女は二階までも到達していまい。
「承知いたしました」と私は言った。「お話は中でうかがいましょう。セミスウィート、ここを開けて」
 セキュリティ・システムのセミスウィートが、私の声紋を識別して内側のドアを解錠した。私は二人をオフィスの一隅にあるソファに導き、白いカーテンを引いてそこだけを周囲から区切った。二人にお茶を、と言うわけにはいきそうになかった。
「それで御用件は」
「今朝、エンジェルロストのモントバレイで産婦人科医が殺害されてね。それについて君らに訊きたいことがあるんだ」
「存じません、と申し上げても無駄でしょうね」
 アーネストは息を呑んで私とグレイン警部を見くらべた。顔からは血の気が引いていた。これはしかし普通の反応である。普通でないのはこの場の状況の方だった。なにしろ彼は、クラスメートを探しに来て殺人事件に巻き込まれたのだから。
 その時、カーテンの向こう側をしゃくり上げる声が通過した。エリーがフローラを連れて、奥のプライヴェートに向かっているのだ。アーネストはそちらを向いて腰を浮かせたが、刑部がその腕を取って座らせた。どうもこの人は誰かを引き留めるのに腕をつかむ癖があるようだ。
 警部はいくらか表情をやわらげて言った。
「こちらの手の内を明かすとね、エンジェル署の連中がモントバレイの現場で捜査中に『やたらに挙動不審な怪しい女』が二人現れて、訊問しようとして取り逃がしたんだ。その後彼らは現場の建物の正面、鑑識課の車が去ったばかりの場所に駐車しているレンタカーを見つけてね、その借り主を照会したところ、君らの名前が浮かんだわけさ」
「手際がよろしいこと。ええ、挙動不審で怪しい行動を取ったことは認めます」
「なに、君たち二人を逮捕しようってわけではないよ。それに怪しいと言ったのはエンジェルの刑事だ。こっちには君を挑発してまで証言を引き出す意味はないし」
「私共の今回の仕事の内容も御存知ではございませんこと」
「アーネスト君から、粗方[あらかた]うかがったよ。さっきのフローラ・グラントお嬢さんを探してたんだろう。それがあの殺しとどう繋がるんだい」
「正直に申し上げまして、私も存じませんわ。私共はフローラ捜索の手がかりに、ミューラー先生のお話をうかがいに参上しただけですわ。残念ながらその時にはもう亡くなった後でしたし、先生に頼らなくともフローラを見つけることはできました。これ以上お話しすることは御座いません」
「どうやって見つけたかは職業上の秘密かね。犯人の心当たりは?」
「私達ではない、と言うこと以外はなにも」
 警部は首を少し傾け、口だけで微笑みながら上目遣いに私を見た。疑っている表情だった。アーネストは黙っているが、プライヴェートの方が気になる様子だ。
「さっきの女の子に話を聞いてもいいかな」
「御覧になった通り、彼女の精神状態は非常に不安定です。お尋ねになっても、裁判での証拠能力は認められませんでしょう」
「我々は証拠を求めているわけではないよ。手がかりを捜しているんだ」
 しかし警部はフローラへの事情聴取をひとまず断念して、警察用の回線で階下にいる部下を呼びよせた。今はただ待つべき時だった。
 私はお茶をいれるため、彼らをオフィスに残してプライヴェートに入った。臨時宿泊用のベッドではエリーがフローラと並んで腰掛け、ハロ湖の家へ帰るようにと諄々[じゅんじゅん]と諭[さと]していた。もっとも肝心のフローラは顔を逸らして床を見つめていたが。
 当たりさわりのない話題でティー・ポットが空になった頃、ようやくエリーがフローラの背中を押してオフィスに現れた。

 フローラをハロ湖畔に送って行く。我々がメイプル・ブールヴァードをたった時には、既に日が暮れていた。フローラは私達のクリッパーの後部座席に乗せて私が付き添い、エリーがハンドルを握った。昼間のレンタカーは経費節減のため解約した。
 アーネストは私たちの前を走るサンテレジア署の自動車に乗った。警察の車はいわゆるパトロール・カーではないが、特殊仕様の車両で、ナヴィゲーション・コンピュータの強制制御がはずされたマニュアル車だった。危険な運転や超法規的運転を必要とする場合もあるからだ。例えば私達が突然Uターンして逃亡を図るような。
 我々はペパー・キャニオンで高速道路から降りた。ここからは概ねトゥオネラ川沿いに遡行[そこう]する。道路の交通量は半減し、上流に行くに従ってさらにまばらになった。
 フローラが静かに話し始めた。昼間の話には続きがあったのだ。
「ミューラー先生が教えてくれた父の秘密は、まだありました。誘拐犯は、むしろ父の方だったんです。あのウェルナー・グラントは、地球にいた二十数年前に、ある女の子を誘拐したんです。アン・ウィルソンと言う名の富豪の娘で、当時十二、三歳だったそうです」
 この事件は私も耳にした憶えがあった。このウィルソン家は、私の家とはシュヴァルツシルトの家系を介して結ばれた、遠い親戚である。私自身はこの家族との個人的な面識を持たないが、月面のヘリウム3鉱山の事業で、星間運輸との関わりはあるはずだった。意外なところから絡みついてくる血統の綾織り。
「父は誘拐によってお金を手にいれた後、アンを解放しないままアウロラに渡航したんです。当時は移民審査も今よりずっといい加減だったそうです。その際にアンを自分の娘のメアリーだと偽って、それ以来ずっと娘として育てていたそうです。良くなついていて、傍目[はため]には本当の親子の様だったそうです。それが……十年経って……その……」
「アンとウェルナーの間に、あなたがお生まれになった」
「はい……それが……私の母のメアリー、つまりアンには大変なショックだった様で、妊娠中から徐々に精神状態がおかしくなって、私を産むとまもなく……自殺したそうです」
「その後始末を手伝ったのが、ミューラー医師ですのね」
「そうです。自殺事件として警察が介入すると昔の誘拐事件が発覚すると思った父は、あのお医者様に事情を話してもみ消しを頼んだそうです。それでお医者様は、今回も父を脅迫したところで、表沙汰にはしないと思っていたんじゃないでしょうか」
 事件は今や警察沙汰になっていた。だが、過去の誘拐事件が明るみに出たところで、そのためにグラント氏が逮捕される事はあるまい。メアリー・グラントがアン・ウィルソンであるとは、まず立証不能であろうからだ。
 前方の視界に、水色に照らされたクーパー・ダムが入った。フローラはそれをちらりと目で追い、再び俯[うつむ]いてしまった。モントバレイの安宿で私達を追い返そうとした、あの毅然[きぜん]とした態度は影をひそめていた。
「その男が私には……ただ一人の肉親なんです」
 彼女は最後にそう言った。


   八  M・ラベル
    夜のガスパールから
     オンディーヌ

 ニルス・タウンの入口で右に折れ、クーパー・ダムを渡る。左に広がるニルス湖は、町の灯火を映して、静かにたゆたっていた。今宵の空は雲に隠され、星の光は見えなかった。
 山道の闇を抜けると、そこはもうハロ湖だった。例によって家の前にはグラント氏が出迎えていた。今回はさらにエンジェルロスト署の刑事が二人付き添っていた。
 先導してきた警部の車が停まった。グラント氏からは二十メートルほどの距離を取って、前庭の隅に当たる場所だった。警部とアーネストはすぐに車を降りた。エリーはその右斜め前にクリッパーを停めた。
 フローラはじっと座り続けていたが、私に促されてようやくドアを開いた。彼女はまるで高熱に身体を持て余しているかの如く、大儀そうに降り立った。ちょうど警察の自動車が、彼女を後から照らす恰好になった。グラント氏には、後光[ハロ]に包まれたシルエットとして見えている事だろう。彼は今にも泣き崩れそうな顔で、娘を見つめたままだった。左腕が少し上がったが、すぐに力なく垂れ下がった。
 私がフローラの背中を押して歩かせるべく、クリッパーの後から彼女の立つ側に回った時、不意に彼女の姿が消えた。警部の車の前照灯が消されたのだ。私の瞳は舞台の暗転について行けなかった。次にフローラの姿を認めた時には、彼女は車から降りたばかりのグレイン警部の部下を突き飛ばして、入れ替わりに運転席に乗り込んでいた。
 ドアを荒々しく閉じる音。再び点灯されたヘッド・ライトの光芒に、浮かび上がった初老の男。車輪が砂を巻き上げる。エリーが追いすがったが、振り切られた。刑事の一人がグラント氏の胴を抱えて引き寄せる。間一髪でバンパーは彼の横をすり抜けた。そのすぐ先のハロ湖の岸までは何の障害物もない。ブレーキ・ランプは最後まで点灯しなかった。
 夜の闇を驚かす水音を合図に、その場の全員が岸辺に駆け寄った。切り立った谷間の斜面はそのまま湖底まで続き、底はかなり深いはずである。
 エリーとアーネストが真っ黒な水に飛び込む。私はグラント氏に言った。
「早く。明かりを」
 グラント氏は大地にくずおれて、娘の名を叫んでいた。完全に取り乱して、私の言葉など聞こえていない。私がもう一度同じ言葉を繰り返すと、彼を看ていた警官が家の裏手に走った。そちらに別のパトロール・カーがあるらしい。
 水面にエリーが顔を出し、アーネストも浮かんできた。
「だめよ。真っ暗でなんにも見えない。投光機かなんかないの」
「今、取りに行っているわ」
「クリッパーをよこして。何にもないよりましよ」
 私は車に戻り、ライトを灯して前進させた。岸辺に近付くにつれ、車体が前のめりになった。ナヴィゲーターのハーフビターが、強制的にブレーキをかけた。光の楕円はまだ遠かった。私はハーフビターに命じて運転をマニュアル・モードに切り替え、車をさらに水際[みぎわ]に近付けた。
 警官が、家の裏から大きなマグ・ライトを二つ、両腕に抱えて走ってきた。一つをアーネストに渡し、ともに水面を照らした。役に立たない事はじきに判った。アウロラ特有の黒い藻が光線を遮って、大した深さには達しないのである。
 エリー達が再び潜った。だが、まもなく二人は浮上して首を振った。
「見えないわ」
「だめだ。おい、応援を呼べ。救助班が要る」とグレイン警部。
 警官が私にライトを預け、グラント宅に走った。いくつもの光の中で、湖面に浮かぶ気泡は次第に少なくなり、やがて途絶えた。
「フローラ。おお……フローラどうして」
 グラント氏は、今や慟哭[どうこく]のあまり地面を殴りつけており、同じ言葉ばかり反復していた。
 エンジェルロスト署の刑事が、グラント氏にグラス一杯の水と白い錠剤を与えた。鎮静剤だそうだ。グラント氏は震える手で、水を半分近くこぼしながらも錠剤を飲み下した。刑事はグラント氏からグラスを受け取り、彼に部屋で休むように勧めた。彼が湖岸に留まっても、できることはほとんどないのだ。
 私はグラント氏の背を押して、家の中まで連れて行った。ドアを閉める時、刑事がグラスをプラスティックの袋に入れているのが見えた。彼の手袋は夜目にも白く見えていた。
 グラント氏は私を見つめ、揺れる声で言った。
「私はフローラを連れ戻せと……こんな事に、湖になど……」
「私共は娘さんをお連れ致しました。この事故はそのあと起きたものですわ」我ながら冷たい言葉だった。
「事故だと。そんな屁理屈は認めんぞ」彼はそこで不意に口調を変え「娘さんだと。娘と言ったのか」
「申しました」
「あの子は知っているのか。私が、あの子の父親だと……母親の素姓も……」
「もちろんですわ。ミューラー先生が彼女と会って早々に話した様ですね。彼はそれでフローラの逃亡を防ぐつもりだったのでしょう」
 彼は口を開いたまま、愕然とした面持ちで床にへたりこんだ。しばらくは言葉もなく、顎だけがわずかに上下する。
「わ、私が、悪かった。私が」
「その件であなたを裁く者はありません。裁く権利を持つ最後の一人は、湖底に没しました」
「もっと早く、話しておくべきだった」
「『その時が漸く来たのだ、時の命に随い、今こそ耳を開くがよい、よく聴け……』しかし、あなたの『その時』は遅すぎましたわね」
「なんだ、それは」
「テンペストですわ。娘に出生の秘密を語るプロスペローの台詞です」
「シェイクスピアか……古い物語だ……」
 確かに古い物語である。これまで無数に繰り返されてきた物語である。人類がシェイクスピアを克服する時が来たならば、それはもう人類ではない。
 私が家を出ると、グラント氏に鎮静剤を飲ませた刑事が家の裏手から戻ってきた。先程のグラスは持っていない。私は彼に訊ねた。
「指紋は採れまして」
「ミューラー医師殺害の凶器に付着していたものと一致しました。これ以上面倒な捜査をせずに済みそうです」

 ニルス・タウンから警察の増援が来たのは、それから約十分後だった。彼らは単なる巡査であり、ほとんどものの役には立たなかった。むしろ、彼らが持参した大型のサーチ・ライトの方が重宝だった。
 その直後に、クーパー・ダムの管理員がやって来た。こちらはボンベを始め潜水具一式と水中ライトを持っており、本格的に救助活動が開始された。
 彼らは難なくフローラが乗った車を確認した。車内は完全に水で満たされていたそうだ。既に水没から二十分以上経過してしまい、生存は絶望的だった。彼らはまた、その隣に並んで泥に埋まった古い自動車をも発見した。
 彼ら管理員は、遅れて来たブルーイター分署の救助部隊と共に、自動車の窓を破ってフローラを引き出した。彼らは彼女を陸上に引き上げて形ばかりの蘇生術を施すと、知らせを受けて家から出てきたグラント氏に対して、静かに悔やみを述べた。グラント氏は号泣しつつ、娘の遺体を抱いて自宅の玄関をくぐった。
 車体そのものの引き上げは翌朝に延びた。水浸しのその車は、もはやスクラップにするしかなくなっていた。
 続いて隣に沈んでいた古い車が引き上げられた。狭霧[さぎり]なす払暁[ふつぎょう]のハロ湖を背景に、その車体は泥と水草に覆われて、クレーンの先で水を滴[したた]らせた。
 再びグラント氏が呼び出された。彼はこの古い自動車が発見されたことを知らされていなかったが、この光景を見るなりその場に座り込んだ。
「やめろ」と彼はわめいた。「元に戻せ。メアリーを……メアリーを……」
 地上に下ろされ、錆び付いた扉がこじ開けられると、中に残っていた湖水が地面を濡らした。運転席には、まだ人の姿を留めている屍蝋[しろう]と化した人物が座っていた。着衣の保存状態は意外なほど良好で、のちにグラント氏の供述とあわせ、メアリー・グラントことアン・ウィルソンと同定する根拠となった。

    おわり



 参考文献

第一章
島崎 藤村 「夜明け前」 新潮文庫

第二章
シェイクスピア 「オセロウ」
    菅 泰男 訳 岩波文庫

第三章
アシモフ 「アシモフの雑学コレクション」
    星 新一 編訳 新潮文庫

第四章
バイロン 「若い情熱」から「若い山人のさすらい」
    阿部 知二 訳 新潮文庫「バイロン詩集」

シェイクスピア 「真夏の夜の夢」
    メンデルスゾーンによる劇付随音楽の歌詞より訳出

第五章
芥川 龍之介 「杜子春」
    旺文社文庫「羅生門・鼻・侏儒の言葉」

第六章
チャンドラー 「長いお別れ」
    清水 俊二 訳 ハヤカワ・ミステリ文庫

第七章
キャロル 「鏡の国のアリス」
    岡田 忠軒 訳 角川文庫

第八章
シェイクスピア 「テンペスト」
    福田 恆存 訳 新潮文庫「夏の夜の夢・あらし」