ルロイ・アンダーソン
「ワルツィング・キャット」
「クリス、そっち行った。違うったら。ゴミバケツの陰よ」
「きゃっ」
クリスが叫んで、裏路地の水溜まりに尻餅ついた。彼女の握ってたカリカリのキャット・フードが、あたしの方まで飛んでくる。
あたし達の追う猫がクリスの頭を踏み台にして、ビルの非常階段に飛び移った。赤い首輪に光る鈴があたし達をあざ笑い、路地を圧するビルの壁に反響する。
「あああ、いいとこだったのに」とあたし。
「ねえエリー。また改めて出直しましょう」と彼女は弱気な事を言う。
「なに言ってんの。せっかくここまで追い込んどいて」
あたしは彼女の手を引っ張って立たせると、踊り場から見下ろしてる茶トラの猫を追って階段を駆け昇った。クリスは猫が飛び降りないよう、しばらく下で牽制してから後に続く。猫は危機を察知して、階段を昇っては見下ろし、昇っては見下ろししながら、どんどん上へと逃げてった。
五階まで達したところで、あたしは息が切れて立ち止まった。まだ鈴の音は切れぎれに続いてる。クリスが自称ブロンドの赤毛を振り乱しながらあたしに追いついて、荒い息で言った。
「スカートの、クリーニングは、この場合、やっぱり、必要経費で、依頼人持ちよね。はあ」
「そりゃジョンソンさん次第……て言うか、あんたの交渉力の見せどころね。ほら、しっかりして。あんた地球生まれなんだから、あたしより有利なはずでしょ」
「いくらこのアウロラが低重力でも、五年半も暮らせば同じ事よ」
この建物は見たところ八階くらいあったけど、幸いにも出入り口や窓はみんな閉まってた。あとは屋上まで追い詰めればこっちのもんだ。まさかあの猫も世を儚んで飛び降りたりはしないでしょ。
鈴の音も止まったみたいだし、あたしはいくらか歩調を緩めて、残りの階段を昇った。
あの猫、通称『J』を捕まえて、飼い主のジョンソンさんに届けてあげりゃ、二日分の料金二百ドルと諸経費に加えて、礼金三百ドルが上乗せされるんだもん。足どりも軽くなるって。えへへ。
やっと屋上に着いた時、あたしはその場に呆然と立ち尽くした。そこはけっこう広い青空カフェテリアだったのだ。あたしの視界全体にテーブルがびっしり並び、お昼時の折から、近所のオフィスから来た人達であふれかえってる。もちろん猫の姿なんて全然見えなかった。
遅れて来たクリスが、息も絶えだえに両手をついて頭を垂れ「もうやだあ」とだらしなく言った。その声で、近くの数人がおしゃべりをやめてこっちを振り返った。クリスはその気配を察してまわりを見回し、顔を真っ赤に染めて立ち上がると、膝のほこりを払った。
「え、えへん。運動の後はお食事が美味しく戴けますわ」
なあにを全く負け惜しみの強い娘だ。いくら体裁繕ったって、お尻は泥だらけだってば。
「きゃーっ、かわいっ」
どっか遠くのテーブルから嬌声]が届いた。きっとあれだ。
あたしは大ざっぱに場所の見当をつけて、色とりどりのパラソルとジェリー・ビーンズ形したテーブルの間を縫って近付いた。クリスのやつは、他の客に後ろを見せないように、屋上の柵に沿ってカニ歩きで進んでる。
Jは真ん中へんのテーブルの下で、四人組の男女から、魚のフライかなんかもらってた。尻尾をピンと立てて嬉しそうに、もう、あたしらには全然なつかないくせに。
いやいや、嫉妬なんてしてる場合じゃなかったっけ。あたしはクリスを手招きして、Jに気付かれないように静かにアプローチする。クリスと挟み撃ちする態勢だ。
そのテーブルについてる人達に、あたしはその猫を追ってるんだって、身振りで伝えた。その四人は頷いて、そっとテーブルの両脇を固めてくれた。
「ちっちっち」とあたしはしゃがんで舌を鳴らした。
猫のJがあたしを見て、びくっと体を斜に構え、逃げる態勢をとる。か、かあいくない。クリスが反対側から四つん這いでテーブルの下に頭を突っ込む。Jは進退窮まった。
「ふーっ」とJ。
「はーっ」とクリス。
「やあ、お姉ちゃんお尻どうしたの」と隣の席の男が笑った。
クリスは反射的に両手を後ろに回し、テーブルに頭をぶつけてひっくり返した。反対側にいるあたしの頭上に、ラビオリのスープとミート・ローフとクロワッサンとコーヒー三つと最後にラーメンの丼が殺到する。あたしはコーヒーまではよけたけど、ラーメンを額に喰らってのたうち回った。
「熱ちゃあちちちっ」
Jはそれを合図に脱兎の如く走り出す。あたしとクリスはそれを追い、セルフ・サービスのカウンターがあるペントハウスへ転げ込んだ。あたしはうっかりお客さんの列に突っ込んで、三人ばかり薙ぎ倒した。
Jはカウンターの上に飛び乗って、お皿やスプーンを蹴散らしながら縦断してく。牛肉がお昼の上を飛び越える。子犬が見たら大笑いだ。カウンターの向こうに並ぶ店のスタッフはロボットばっかり。猫を捕まえるほどの機転は利かない。
Jはカフェテリア前の階段を、途中の階には目もくれないで、踊り場ごとにスリップしながら駆け降りる。あたしは手すりを飛び越え乗り越え、なんとか猫に追いすがる。
一階に着いて階段がなくなると、Jはちょっと迷って裏口の方へ走った。
しめた。表のロビーは人だらけで、そっち行かれたらまた見失っちゃう。と思ったら、たまたま開いてたドアを抜け、猫は裏通りに飛び出した。
あたしがビルからすべり出て、鈴の音のする方を見ると、しましまの尻尾が隣のビルとの間に消えた。
その間隙はさっきの路地よりずっと狭くて、人間一人がやっと通れる幅だった。途中に幾つか大きな木箱が積んであって、行く手をぴったり塞いでる。ペン・ライトで奥を照らすと、青みを帯びて銀色に光る瞳が、暗闇からこっちの様子を窺った。やったやった、ついに追い詰めたわ、うふふふふ。
「クリス、ここに居るわ。念のため、あたしの後ろ固めといて」
「りょうか……ぷっ」
彼女はあたしの顔をさして吹き出した。あたしがほっぺたに手をやると、なるとが一枚張り付いてた。さっきのラーメンだ。せっかくのショートの黒髪もスープでベタベタ。
あたしは笑いをこらえるクリスのおでこになるとを押しつけ、壁の間にもぐりこんだ。薄暗い中、中腰で木箱に迫り、目の光った辺りに狙いすまして手を突っ込んだ。何やら柔らかい毛皮が触ったんで、闇雲につかむ。どうやら猫の前脚らしい。
「はぐっ」と猫の声(?)がして、あたしの親指に痛みが走る。
「きゃー噛んだ噛んだ。痛ててて」
でもあたしは離さなかった。えらい。礼金の額がおつむをよぎる。
抵抗する三百ドルをむりやり箱から引きずり出すと、それはJの三倍はあろう、デブで目付きの凶悪なブチ猫だった。目方で猫が売れるなら、千ドルは堅い。あたしは無言で後ろに放り投げた。
「みぎゃぎゃ」
「ひええっ」背後でクリスが悲鳴を上げた。
あたしはまた箱に手を差し入れる。この箱ったら野良猫の巣窟だわ。一ダースいたら安くなっちゃう。
隅っこの方に五、六匹固まってるのを、あたしはとにかく手当たり次第にひっぱり出した。こんなのいちいち確認なんかしてられ……ん? 鈴の音がしたかな。
「やった、捕ったわエリー。捕まえた」クリスの声だ。
振り向くと、鼻の頭をひっかかれた彼女が両手でJを地面に押さえつけてる。あたしは猫の首ねっこの皮をつまんで持ち上げた。Jは観念した様に、後足を縮めておとなしくなった。
「うん、捕まえたね」
「ええ、捕まえたわ」
「よし、捕まえたぞ」
三番目の声はクリスの背後から、肩越しに聞こえた。そこには白衣の男が、フライパン片手に立っていた。
「お前さん達、上のカフェで派手に暴れてくれたそうじゃないか」
「あ。ごめんなさいっ。それと言うのもこの猫が……」
「とにかく」彼はあたしの声を遮って「一緒に来てもらおう」
彼はあたし達二人の襟頚をむんずとつかんで引っ立てた。その拍子にJが身をよじってあたしの手から逃げ去った。
「ああっ。じぇいいっ」
「やかましい」とコックは言った。
ああ、また振り出しに戻っちゃったか。あたしは襟で吊るされたままうなだれた。
これじゃあたしが猫である。
あたしらがカフェテリアのコックにエスコートされて行ったのは、そのビルの守衛所だった。そこには人間の守衛が二人、警備用のロボットが一台居た。人間の方はキャスター付きの椅子に腰掛け、一人は足を警備モニターのコンソールに乗っけて寛いでた。ロボットはドアの横に立っている。普及型家事ロボットのR・ダニエルより強力な、R・デイヴィッドである。
「こいつらが屋上でひと暴れしやがったんで」とコックが苦々しげに言った。
「ごめんなさい」
相変わらず襟元を掴まれてぶら下げられてるクリスが、消え入る様に言う。
守衛は足を下ろし、にやにや笑いを噛み殺しながら「まあ離してやんなさいな」と言って、コックに椅子を勧めた。彼は憤然と腰を下ろした。あたし達は立ったままである。もっとも、これだけ泥やらスープやらかぶってれば、座れたもんじゃないけど。
「まず、お名前は?」
「あたし、エレン・沢渡・スウィートです」
「クリスティーン・シルバースタインと申します」
あたし達は探偵のバッジを身分証明として守衛に見せた。裏側にはあたし達それぞれの(美しい)写真が付いてるけど、彼らもそこまでは見たがらなかった。もったいない。
「とにかく事情を話して戴きましょうか。事情があれば、ですが」
あたしとクリスは入れ替わり立ち代わり、Jをおっかけて食堂乱入に至るまでの経過を語った。
そもそもの発端は二日前の昼下がりだった。あたしがサンテレジア市のメイプル・ブールヴァードにある、スウィート&シルバースタイン探偵事務所の奥の院で、ソファ兼用のベッドに寝そべってると、事務室からクリスが蒼白な顔であたしを呼びに来た。
「ついに来たわ」
「何が? 家賃の値上げだったら、先月撃退したけど」
「違うわよ。猫探しの依頼が来たの」
猫探し。
それはうちみたいにうら若い乙女が探偵社を開くと、必ず舞い込んでくると言われる伝説のお仕事である。
まあ、結婚相手の素行調査とか、離婚訴訟の証拠収集とか、その辺の仕事だったら望むとこだけど、まさかほんとにこれが来るとは。クリスが蒼くなる気持ちも判る。危険がないぶん、割はいいに違いないんだけど、これって本来は探偵の仕事じゃないのだ。
「やれやれ」
あたしは起き上がって革のタイト・スカートをずり上げた。
オフィスに行ってみると、その依頼人は一人がけのソファにふんぞりかえって、ガラスのテーブルの上で足を組み、右手に摘んだ煙草の吸い口を親指で弾いてるところだった。モス・グリーンのカーペットに点々と灰が落ちてた。
猫探しの依頼っていうから、てっきり可愛い女の子かなんかだと思ってたら、こいつはおじさんもいいとこだ。歳格好は、まあ三十代前半てとこかな。
「よう、なんだ。スウィートとシルバースタインてなぁ両方とも女だったのかい。それじゃいよいよお似合いってとこだあな」
「何がお似合いなんですか?」とあたし。
「いやさ、こっちの頼みたい仕事てえのぁ、そっちの姐]ちゃんにゃちっと話したんだが、猫を一匹探し出してもらいてえんだ」
なんだかえらく態度のでかい客だった。妙ちきりんななまりもあるし、髪はオール・バックで、縞馬模様の派手な上着は着てるし。もしかすると、その道のお兄いさんかも知れなかった。それにしてもこの貫禄のなさからして下っ端だろうけど。
あたしは即刻叩き出してやる痛快と、楽と言えば楽な仕事による収入との、損得勘定に思いを巡らせながら、彼の真向かいに座った。
「失礼ですけど、お御足を下ろして戴けません?」とあたしは言った。
彼は悪びれた様子もなく足を床に下ろした。そうしないと自分の足で美女の顔を遮る事になるからだ。
「その猫てえなあ、ああ、なんてったかな。まあいいやな。普通は『J』って呼んでんだがね。茶色のしましまのオスだ。ほれ」
彼は内ポケットから写真を一枚出して卓上に放った。猫はなかなか愛くるしいんだけど、この男の物言いは憎たらしい。
「それでだ。銭の相談なんだがね。うちの方でもまあ、いろいろと手ぇ尽くして探し回ってるんで、あんたらより先にこっちが見つけちまうてえ事も考えられるわな。そうなるってえと、あんたらに頼んだ所で、こちとら頼み損てな事になっちまうわけだ」
「お探しの猫が見つかるのでしたら、頼み損でもよろしいんじゃ御座いませんこと」とクリスがいつもながら慇懃に言った。
「まあな。そこであんたらに対しては、成功報酬てな事にしてもらいてえんだがね」
彼はまた煙草の灰を床に落とした。灰皿は目の前にあるのに。それに、考えてみればまだこの野郎は名乗ってさえいなかった。
あたしは立ち上がって、左手で出口をさした。
「そんな条件じゃ引き受けられません。お引き取り下さい」
「姐ちゃんよ、そんなにつれなくするもんじゃねえやな。どうせこんなけちな探偵なんざ、禄な仕事も来やしめえによ。お得意さんてえ物ぁ多い方が……」
あたしは右足をテーブルの上で踏み鳴らした。男は驚いて黙った。あたしはそのまま膝の上に肘を突き、相手にのしかかって言った。
「誰がお得意さんだって? ふざけんじゃないわよ。言うに事欠いてけちな探偵たなにさ。成功報酬なんて、けちなのはあんたの方じゃないの。そんなお得意さんなんて、こっちから願い下げよ」
「パンツ丸見えだぜ、姐ちゃん」
あたしは啖呵を切ったまま赤面した。
彼があたしに気を取られてる隙に、クリスがそっと後ろに回って、ソファの背に手をかけた。彼がクリスに気付いて見上げたのと同時に、彼女はソファに体重を載せ、後ろにひっくり返した。男はものの見事に床の上で一回転した。
「このアマ」
「出てお行きなさい」
御嬢様クリスのあまりにも毅然とした口調に、男は気圧されて出口に向かった。あたしはカーペットが焦げないうちに、彼が落とした煙草をひろった。男は待合室へ出るドアを開いたところで気を取り直し、振り向いて悪態をついた。
「てめえらこんな事してただで済むと……」
「忘れ物よん」
あたしは彼の煙草を放った。それは煙の尾を引いて、怒鳴り狂う男の大口に吸い込まれた。
「ぐぎゃ」
彼は口を押さえ、ものすごい勢いで廊下を走り去った。呑み込んでなきゃいいけどね。
男が開け放して行った表のドアを、クリスがぶつぶつ言いながら閉めに行った。彼女は待合室を抜けてオフィスに戻り、黒檀の机に寄りかかって溜息をついた。
あたしが床とテーブルの掃除を始めようとすると、待合い室の呼び鈴が来客を知らせた。クリスは顔をしかめ、海老茶のブレザーの下から拳銃を抜いて引き返した。
この娘は銃器マニアで、用もないのにアンダー・カバーとバック・アップの拳銃二丁を常に帯びている。
銃の所持は、職業柄ゆるされてるってのもあるけど、むしろアウロラ州の銃規制が合衆国のなかでも緩いおかげだ。なにしろアウロラは今のところ人類唯一の太陽系外植民地だし、いろいろ危険も多いから……とは言うものの、自然の脅威があるのはもっぱら「大陸」の方で、そこはどっちみち立入禁止。ここサンテレジアみたいなシグナス島にある都会なら、アメリカ本土より安全なくらいだ。
クリスは扉の横に背中をつけて立った。そして左手でドアを開くなり身を翻し、リボルバーを相手に突きつけた。
「うわ」
銃を向けられてのけぞったのは、あにはからんや壮年の紳士だった。グレーのジャケットで決めた、なかなか渋いハンサムである。大体さっきの野郎が呼び鈴なんて鳴らすわけないんだけど、そこがクリスの純真な所だ。
「きゃっ申し訳ありませんっ。どどどうしましょう」
クリスは手で口元を押さえ、ウィンド・チャイムを階段から蹴落とした様な声でおろおろと謝った。純真とは言っても、このカマトトは演技だ。
「ああ、いや、驚きました。しかしお気になさらないで下さい。今のあなたの行動で、既にあの男が来ている事がはっきりしました」
「あら、あの男って、縞馬男を御存知なんですか。なんだかマフィアの出来損ないみたいでしたけど」とあたし。
「出来損ないどころではありません。ああ、私はナイジェル・ジョンソンと申す者ですが、立ち話もなんですから……」
「まあまあまあまあ、気が付きませんで大変失礼致しました。どうぞこちらにおかけになって」
こっちから言うべき事を先に言われたもんだから、クリスはますます慌てて、さっき自分でひっくり返したままのソファを勧めた。しょうがないからあたしがそれを元通りに起こして、彼にはもう一つの方に座ってもらった。
ジョンソンさんは、別にさっきの男を追って来たわけじゃなくて、ちゃんと仕事の依頼に来たお客様なのだった。でも、その内容ときたら、さっきと同じ猫のJ探しだった。ううん、何と言うか相手が猫だけに、断っても九回[nine times]は戻ってくるのかもしれない。
プライヴェートから、クリスが銅のお菓子皿にビスケットとラング・ド・シャを並べ、ミルク・ティーと一緒に持って来た。
ジョンソン氏は話を続けた。
「実を申しますと、あのJは私の飼い猫なんです」
「それならばどうして、先程の男性が探していらしたのかしら。お客様のお友達の方ですの」とクリス。
「とんでもない。あれはブルースと言うチンピラです。あいつは私の唯一の家族であるJに、なにやら怨みを持っていまして、Jが家出して行方不明になったのを良い事に、探し出して殺そうとしているのです。そうでもなければ、私とてわざわざ探偵さんに猫を探してくれなどと、頼みに来たりするものですか」
「怨みって、なんの怨みですか」とあたし。
「さあ。私にもよく判りませんが……」と彼はちょっとうろたえて「なんでしたら本人に直接訊いてみて下さい。あるいは、ただ単に猫嫌いなのかも知れません」
「私はあの方とはもうお目にかかりたくありませんわ」
「あっちもあたし達を雇ってまで探そうとしてたんだから、よっぽどの怨みなんでしょうね。お昼御飯でもJにさらわれたかな」
「とにかくあの男に見つかる前に、ぜひJを連れ戻す手助けをして戴きたいのです。Jは私の妻の形見で、単に飼い猫という以上にかけがえのない猫なのです。もちろん、結果はどうあれ規定の料金はお支払いしますし、無事に戻ってきた場合には御礼を別にさしあげます」
そういう事情なら、あえて断る必要もなかった。あたし達は引き受ける事にした。この御礼てのが例の三百ドルで、こっちは一応辞退はしたんだけど、結局ボーナスとして付く事になった。
それにしても、規定の料金がいくらなのかこっちが言わないうちから、これだけの好条件を持ちかけるとはね。さっきのブルースって奴とは何もかも大違い。依頼人てのはすべからくこうあらねばならない。うん。
「それでは、猫ちゃんのお写真はこれで間違いございませんね」とクリスがブルース君の忘れ物を差し出し「他に何か特徴はございまして」
「鈴の付いた赤い首輪をしていまして、ジェリーと呼ぶと返事をします」
「なるほど、JはジェリーのJですか」
「ジャックと呼んでも答えます」
「は?」
「他にもジョセフ・ジェイコブ・ジョナサン・ジョーダン・ジェームズ・ジョン・ジェスター・ジーン・ジュニパー・ジェイナス・ジューダ・ジェフリー・ジョージ・ジャンボ・ジョエル・ジュン・ジュライ・ジャスティン・ジョウブ・ジュリアス・ジュゲムのどれでも構いません。Jだけでも大丈夫です」
「はあ。それでほんとの名前はどれですか」
「ですから、ジェリー・ジャック・ジョセフ・ジョナサン……」
あたしは手を上げて制した。さっきと順番が違う気がしたけど、それはこのさい不問に付す。後で録音を調べればいいのだ。
「判りました。Jでいいんですね」
ここでクリスが小首をかしげて質問した。
「でも、ジョージはGで始まりませんこと」
ジョンソンさん(あ、これもJだ)は平然と答えて曰く「そこが畜生の浅ましさで」
「二世の名前も想像がつきますわ」とクリスは言った。きっと最後にジュニアが付くのだ。
ジョンソンさんは契約内容を再確認して、クリスがドキュメント・パッド上でタイプした契約ファイルに、ペンと声紋でサインした。 彼が、よろしく、と握手して帰ろうとした時だった。不意に表のドアが開く音がして、次いで内側の扉が細く開いた。その隙間から縞馬模様の袖口がちらっと見えて、何か太った鼠くらいの物が放り込まれた。
爆弾だ。
「伏せてっ」とあたしは叫んだ。
あたしはゴムの樹の鉢の陰、ジョンソン氏はソファの背後、クリスは机の後ろに飛び込んだ。一瞬遅れてそいつが破裂した。
ガスだった。
もし手榴弾だったら、一番小さな鉢を盾にしたあたしの被害が最もひどかったはずだけど、ガスならみんな平等だ。しかもそれは、ユーラシア紛争で使われた『同志討ガス』だった。一種の幻覚剤で、敵味方の区別が付かなくなるやつだ。
くそっ。ブルースの野郎、今度会ったら……あ、のこのこ入って来やがったわ。と思ったところであたしの記憶は途切れる。
気が付いてみると一時間ほど経ってて、あたしとクリスとジョンソンさんは、三人ともオフィスの床に伸びていた。誰にやられたんだか憶えがないけど、あたしの頭のてっぺんには瘤ができてた。クリスは拳銃片手にビスケットの屑にまみれてて、あたしがへこんだお菓子皿を持ってるとこからすると……これは隠しとこっと。まあ、彼女が発砲する前に伸してよかった。全員たいした怪我もなかった事だし。
「とまあ、こんないきさつで猫を追いかけて食堂に飛び込んだわけです」
あたしは説明を終えた。
「しかし、こんな街中でよく見つけたね」
守衛の一人が、警備モニターにあたし達の立ち回りの光景を映して、にやにや見ながら言った。あらら、録画までされてたとははずかしい。
「そりゃもう苦労したのよ。やっとのことで捕まえたら、このやさしいコックさんのおかげでまた逃げちゃったし」
「そうか、そいつは悪いことしたな」とコックは洟をすすり上げて言った。
「ちょっと待ってな。俺がなんとかしてやるよ」
彼はぷいと出て行った。彼、ジョンソンさんの「妻の形見」の辺りから涙ぐんでたし、案外情にもろいのかもしれない。
なんとかするったってどうするんだろうと思ってると、ほんの十分ばかりで彼はJを抱いて戻って来た。
「すごい……どうやったの」
「残りもんのタンドリー・チキンで、すぐ寄ってきたよ」
あたし達はそれでひとまず放免されたけど、帰りがけに現れたカフェテリアの主人から、被害分の請求書を渡された。その額面はしっかり三百ドルだった。まあしょうがない。このJを無事に届ければ、本来の料金は回収できるんだから、我慢しましょ。
あたしはJを抱きかかえて、頭を撫でた。頭の皮にかさぶたでもあるのか、ちょっとごつごつした出っ張りがある。家出中に喧嘩でもしたのかな。
「礼金の話はしない方がよかったわね」とあたしはクリスに言った。
「それはそうと」と言って彼女は横目でこっちを睨み「やっぱりあの時、私を殴り倒したのはあなただったのね。知らん振りして私にお菓子のお皿を持たせたのも、ガスの作用なのかしら」
「あ、しまった。それも黙ってりゃよかった」 もう、遅い。
やっと引っ込んだ瘤の上をひっぱたかれるってのは、なかなか痛いもんだ。ひっぱたいた当人のクリスは、車の後部座席でかごに入れられたJの相手をしていた。もともと飼い猫だから、馴れれば人懐っこいのである。
あたし達は依頼人たるジョンソンさんの住まいに、Jを届けに行く途中である。
でも、あたし達はその前に、自分達のアパートメントまで帰った。着替えてシャワーも浴びとかないと、Jがスープをかぶったあたしの顔を舐めまくり、鼻をかじって困る。
アパートメントを出て、シルフ・ストリートからオレンジの並木道を北上し、さらに右折してビルの衝立を抜けた。そこから先は、街路樹がアウロラ原産のスクェア・ルートに替わる。幹や根っこの断面が正方形になってる樹木だ。
目標のゼフィルス・アパートメントは、オレンジ・ブールヴァードから五、六十メートル入ったところにあった。東に広がった住宅街を見下ろす、九階建ての古い建物だった。西側は新しいオフィス・ビルに遮られてて、名前と裏腹に西風には縁がなさそうだ。
「あら、ドアが開けたままね」と二階に上ったとたん、めざといクリスが言った。
「さっき電話したときは留守番AI[Artificial Intelligence]がでたけど、ジョンソンさん帰ったのかな」
こっちとしては、留守でも玄関先で待ってるつもりで来たんだけど、これはなんか様子が変だわ。
一応、開いてる扉を三つばかり叩きながら、中を覗いて驚いた。
玄関口には、真っ赤な足跡がダンスの教本みたいにべたべたついてた。何となく饐えた匂いが漂ってる。Jがあたしの持ってるかごの中で、もそもそ動き回りだした。鈴の音が人影のない廊下に響く。
「クリス、鉄砲持って来た?」
「バックアップのデリンジャーだけしかないわよ。他は車に置いて来たわ」
「まあいいか。じゃそれ持って先に入って」
あたしは青い顔してるクリスの背中を押した。どうせ賊はお帰り遊ばした後だろう。彼女はいやいや先に進む。
最初の部屋に入ると、彼女はいきなり「ふひ」と叫んだきり、あたしに倒れかかってきた。お、重い。
そこの床には、顔を血だらけにした男が、仰向けに倒れてた。その周りの床まで、べっとりと朱に染まってる。玄関からは陰になって見えなかった場所で、クリスはそれを見て気絶したのだ。情ない事に、この娘は死体に弱いのである。
Jの篭を床に置き、クリスを横に寝かせて、玄関を閉めてからその男を見に行く。なんとそいつはブルース君ではないの。それに血塗[ちまみ]れでこそあれ、まだ死んだわけじゃなくて、大いびきで寝てるだけだった。
ブルースは銃は持ってないみたいだけど、右手にはホットドッグ、左手にはこないだのガス弾を一個握ってる。ホットドッグがまだあったかいから、こいつが倒れてからそんなに時間はたってないはずだ。
あたしはガス弾を取り上げて、ポケットにしまった。こんなのどこで手に入れたんだか。持ってるのは宇宙軍ぐらいだろうに。誰か横流しでもしたのかな。
このジョンソンさんのアパートメントには部屋が四つあった。でも、乱闘の痕が残ってるのは、この居間だけだった。
居間にはブルースを始め、椅子やら電話やら食器やらの小物が散らばってる。弾痕はなかったけど、十二番ゲージの撃ち殻が一個、部屋の隅に転がってた。
引き出しや物入れはほとんど手つかずで、何かを探したってわけでもなさそうだった。例外的に荒らされてたのは冷蔵庫くらいで、多分ブルースのホットドッグの出どこだ。
この家は、全体に意外なほど家具や衣類、雑貨が少なく、身の回りの必要最低限の物しかないみたいだった。妙に閑散としてて、独身の引っ越し魔の仮住まいって感じだった。
床に落ちてる写真のフレームには、どこかの密林をバックに六人の男が写ってた。でもその中にジョンソンさんらしき姿はない。そう言えばこの家には、家族の写真が見当たらなかった。妻の形見のJが唯一の家族って言ってたけど、もしかしてあの人ってば、そのての趣味があったのかしら。
「ちょっと、起きなさい」とあたしはブルースの腕をゆする。
彼は顔を上げた。そのすぐ横に、十字型に広がった、ゴム製のスタン弾が落ちている。暴徒の鎮圧なんかに使う、散弾銃用の非殺傷性の弾丸だ。
「うう……。おお、なんだ姐ちゃん。よく来たな。痛ててて。俺に惚れたのかい」
「つまんない減らず口叩いてると踏んづけるわよ。ジョンソンさんはどこなの」
「くそっ。頼むから先に医者を呼んでくれ。肋骨が折れちまったい」
あたしは彼の希望をいれ、あたしのカード電話を胸ポケットから出して、救急隊に連絡をとった。
「それで、質問の答は?」
「ハミルトンのくそ野郎だ。ジョンソンを連れてっちまったよ。いてっ畜生め。けっ、派手にやりゃがって。鼻が潰れちまったい」
なんだこの血は鼻血か。心配して損したわ。おまけに、一人分の鼻血にしちゃ盛大だと思ったら、彼の体の下からハインツのトマト・ケチャップの瓶が転がり出た。何のことはない、血の海の大部分はケチャップだったのだ。せっかくのクリスの気絶も無駄だったわね。
「じゃジョンソンさんは生きてるのね」
「ああ、居なくなったJの」「にゃ」「代わり……なんだ見つけたんじゃねえか」
「あんたにはあげないわよ。それより、Jの」「にゃ」「代わりってどういう事? そのハミルトンって人は何が目的なの。まさか飼い主を人質にとって、猫から食事に使う絵高麗の梅鉢でも巻き上げようとか?」
「なんだいそりゃ。貴様その猫の価値ってえもんを知らねえな。へっ、おとなしく俺によこしゃ一儲けできるんだが、どうだい、一口乗らねえか」
「その体でよく言うわ。そっちこそ、その価値ってのを話してくれないかしら」
「ただで、か? 笑わせやがる」とブルースはそっぽを向いた。
「救急隊呼んであげたわよ」
「けっ、そんなのぁ数のうちにゃ入らねえ」
「ふむ、じゃ警察も呼んであげよう」
「なぁにってやんでぃ、畜生め」以下、彼は知ってる限りの罵詈を早口に並べた。この方面の語彙はあたしより彼の方が豊富だ。あたしには意味不明のやつが多いから、あんまり効き目がない。
悪口が一段落して、ブルースは言った。
「その猫はな、あるお宝のありかを握ってるんだ」
「お宝?」
「そうだ。って言っても大したもんじゃねえ。いわゆる好事家連中なら目の色変えるって程度だがな。『ナットールの財宝』の一つって言やあ判るだろ」
「ダイヤ? それともルビー?」
「その二つはナットール鉱物資源株式会社のショウ・ルームにあるだろうが」
「そうか。じゃ水晶ね」
ナットールの財宝。それはちと話が長くなるけど、アウロラ開拓初期の伝説的探検家、トマス・ナットールが残したと言われる三つの宝石である。
開拓初期と言っても、たかだか三十年前の事で、いま現在だって立派に初期には違いない。なにしろこの惑星で一般人の立ち入りが許されてるのは、あたしらが住むシグナス島一つだけなのだ。大きさは地球のグリーンランドくらいで、他の三つの大陸と比べれば象の背中のフィンチである。島の周りは沿岸警備隊が堅めてて、ときどき大陸への密航者が捕まる。
さて、そのナットールだけど、もともとは二○五八年の第一次アウロラ探検隊に同行してやってきたジャーナリストだった。
彼はアウロラに来て早々に遭難したが、半年も経ってからベース・キャンプにひょっこりと戻って来た。それがセンセーショナルに報道されて以来、なんとなく特権的な地位を得てしまい、単身ミッドガルド大陸のあちこちを歩いて、冒険記を四冊上梓した。
ナットールが挙げた成果のうち、最大の二つはダイヤモンドとルビーの鉱床で、いずれもシグナス島にある。これらはブルースが言ってた鉱山会社によって事業化されて、アウロラの第一次移民ラッシュの原動力となった。
彼が見つけたそれぞれ最初のダイヤとルビーの原石がいわゆる『財宝』で、この二つは会社の所有に帰してる。
財宝の残る一つは、二○六四年、ナットールがその最後となった探検で発見した、と信じられてる六角水晶である。彼の報告によれば、水晶は長さ五センチメートルくらいの結晶で、中に猫の形をした異物が含まれてるらしい。
この水晶は、大陸の真ん中辺で見つけた、と彼からの連絡があったまま、彼と共に行方不明になってしまった。時あたかも移民ブームの頂点だった。 彼はそのまま死んだと一般的にはみなされてるけど、今なおどこかで生きていると考える人も多いのだ。
この水晶は、毎年のように見つけたの手がかりをつかんだのとデマが飛ぶけど、その実在からしてほんとかどうか怪しいくらいだ。なにしろ、実物を見たのは失踪したナットール本人だけなんだから。
ま、いずれの宝石にしても、それ自体の値打ちは大したもんじゃなくて、ブルース君が言う通り骨董的価値のが高い。それに実際に手にするより、伝説のままにしといた方が夢があってよろしいじゃない、とあたしは思う。
「で? この猫のどこをどうすると、そのありかを教えてくれるのよ」
「ふん。誰がてめえなんぞに」
「知らないんでしょ」
「ああ、そんなとこだ。どっちみち水晶は大陸のどっかだあな。俺が一人で行ける様な場所じゃねえ。Jを捕」「にゃ」「まえて、ハミルトンの旦那に売り飛ばしてやるつもりでいたんだが」
つまりハミルトンの旦那ってのは、Jの使い方を知ってるわけだ。ところが肝心の猫がなかなか見つからないんで、業を煮やして飼い主ジョンソンを連れ去った。と、まあこんなところなんでしょ。
「俺の行ける場所じゃないって、ハミルトンだってお互い様でしょ? それにハミルトンて誰なの」
「大陸なんか、行くだけならヨットでだって行けらあ」
「行けても違法でしょ」
「もちろん密航だが、レーダー吸収塗装ぐらい素人にだってできるし、曇ってりゃ衛星の監視もきかねえ。あとは大陸探検の費用がありゃいいだけだ。それにあの旦那は洋上ホテルと称する豪華客船のオーナーだぜ。船も金も持ってらあな」
「それで、あんたはどうしてここに? ハミルトンと一緒に来たのかしら」
「ああ、御本人は来ちゃいねえがな」
「その手下と来たわけね」
「そうさ。あんにゃろうども、このての事に関しちゃトウシロもいいとこだからな。ジョンソンを連れ出したって、どうなるてもんでもねえやな。こっちの……あとさきの都合をまるで考えちゃいねえ。俺をぶちのめしゃがって、後で吠え面かくなってんだい」
と、その時、さっきあたしが呼んだ救急隊が到着した。ノックもそこそこに、四足歩行ベッドが先頭に立って家に突入しくる。
そのベッドは、入り口の廊下に倒れてるクリスの横で、らくだみたいにひざまづいた。後続の隊員が彼女をベッドに乗せる。
「ちょ、ちょっと待ってったら。そっちは違うの。怪我人は奥に寝てるんだってば」あたしは慌てて隊員の袖を引っ張る。
「え、なんです」とその人は部屋を覗き込み「おや、こっちじゃないんですか。おいベティ、それ下ろせ」
ベティと呼ばれたベッドは歩きかけた足を止め、片足を曲げてクリスを横に転がした。床に不時着した彼女は「ふぎゃ」と言って目を覚ました。よしよし、気付けの手間が省けたわ。
「な、何よ。何がどうしたの」
彼女はあわててあたりを見回す。
「後で話したげる。それよりあんた平気? どこかぶつけたりしてない?」
「あまり大丈夫とは言えないわ。あら。いらっしゃいませ」と彼女は救急隊員に頓珍漢なあいさつをした。
あたしがクリスを介抱してる横を、不平不満を並べて悪態をつくブルースを乗せ、ベッドが駈足で走り過ぎて行く。
「あ、あたしあいつと一緒に行くから。あんたここを一通り調べて、Jを」「にゃ」「連れてアパートメントに帰ってて。どこか安全な場所にJを」「にゃ」「隠しといてね」
「判ったわ」
そう言う事で彼女はそのままここに残る。あたしはブルースを追って、屋上でアイドリングしてる救急隊のティルト・ローター機に乗りこんだ。
クリスなら大丈夫、うまくやるだろう。たぶん……
ブルースの怪我は、鞭打ち症と鎖骨の骨折、それから鼻血だけだった。顔に散弾銃のゴム製スタン弾を喰らって倒れ、肩を誰かに蹴られたかなんかしたのである。全治一週間、入院の必要なしときたもんだ。まったく大げさな野郎だわ。
それにしても、血を拭き取った後のブルースの顔ってば、おかしいったらない。スタン弾の痕跡がくっきりと十字に内出血してて、鼻を中心に青紫のバツ印を書いたみたいになってるのだ。医者もこんな軽傷まではいちいち治療しないから、このばってんは当分残るだろう。
彼は、医者には銃の整備中にスタン弾が暴発したって言い張って、警察に連絡されない様にがんばった。あたしもいい加減に口裏を合わせたから、医者もなんとか信じてくれた。警察に届けるのは、もうちょっとこいつから事情を聞いた後でいい。
医師団(ブルースがもがくので、三人がかりの治療だったのだ)は彼を病院のロビーに放り出した。
「おう、手荒な連中だぜ。怪我人はいたわれってんだ」
彼は言葉だけはやたら威勢がいい。でも、最初からこの調子でわめき散らしてたから、医者に嫌われて特大のギプスをあてがわれ、頚と肩を一緒くたに固められてるのだ。おまけに鼻も詰まってるから、発音もはっきりしない。
「それで。ハミルトンて誰? ジョンソンさんをどこに連れてったの」
「グレン・ハミルトンてのぁ、もとは質屋だった男だ。それがエンジェルロストにあるカジノの経営で財をなしてな、今じゃその他に、ホテルやらウリエル湾の遊覧船やら、いろいろと手ぇ広げてる富豪だよ。紳士録にだって載ってるぜ」
エンジェルロストはアウロラ州の州都で、ここサンテレジアの北隣の市だ。
「その富豪が、たかが水晶目当てに誘拐までしたの?」
「そうだ。愛人のソフィアってのが旦那を焚き付けたんだ。どうせあの旦那ぁ自分の手は汚しゃしねえ。裏の世界にも顔が効くし、取り巻きにもやくざもどきの野郎どもが大勢居るからな。そいつらが独断でさらってきゃがったんだ」
「あんただってやくざじゃないの」
「俺は誘拐はとめたんだぜ。猫のことぁ俺にまかせろってぇのに。畜生あいつら、もう勘弁できねえ」
「それでもさらって行ったってのは、ジョンソンさんも水晶の場所を知ってるのね」
「さあな。やつらはそう思ってるんだ」
ブルースが言うには、彼自身は一匹狼で、今回も『フリーのアドバイザー』として活動してたんだそうだ。ところが、ジョンソンさんを自宅から連れ出すか否かで、彼とハミルトン側との意見が対立、彼はぶちのめされて床でお寝んね、ジョンソンさんは連れてかれちゃったと。
確かに向こうはブルースの言う通りトウシロである。しょせんは賭場の用心棒なのだ。ここまで露骨な営利誘拐なんて、そう滅多に見られるもんじゃない。おまけに御丁寧にも仲間(?)まで置いてってくれたんだから。
病院に迎えに来たクリスと、ブルースを車に押し込んで、ひとまず事務所に帰る。
「それで、あんたはこれからどうするの」とあたしは彼に訊いた。「当分は治療に専念するってわけ?」
「余計なお世話だ。てめえらの知ったこっちゃねえや」
「それはそうと、クリス。Jはちゃんと隠した?」
「ええ」
どこに隠したかは、あたしも訊かなかったし、もちろん彼女も黙ってた。ブルースの前だもんね。
「で、これからどうしようか。お巡りさんにまかせた方がいいかな」
「そうね。犯人は判明してるし、証人もいる事だし。警察の方が手際もいいでしょうね」
「証人てなあ誰だい」
「あんたよ」
「なにってやんでぃ。なんだって俺がてめえの首締めにゃならねえんだ」
「あら。そうすればあなたはハミルトンさんに一矢報いる事ができましてよ」
「それにあんた、そのギプスだもん。ちょっとくらい首締めたって平気でしょ」
「そう言う問題じゃねえ。あの旦那にゃ今まで嫌んなるほど世話んなったからな。今度の事だって、悪いなあ下っ端の馬鹿野郎どもだ。そう簡単に裏切るわけにゃいかねえやな」
「あら悪いわねえ。あんたの話、最初っから全部録音してあるの。ジョンソンさんの家で『ハミルトンのくそ野郎』ってあたりから」
「なんだと? くそっ、畜生」
彼は脚だけで怒り狂った。車の底が抜けそうだ。抜けたら自力で走ってもらおう。
「くそ。そいつをどうしやがるってんだ」
「私達に御協力戴ければ、決して悪い様には致しませんわ」
「そうそう。まずハミルトンか、できればジョンソンさんの居場所を教えてもらおうかしらね」
「旦那に会ってどうする」
「素直にジョンソンさんを帰してくれるかどうか訊いてみるの。いやならブルースと一緒に警察に行くからってね」
「やなこった。誰が教えてやるかってんだ」
「じゃ自分で調べて会いに行って、ブルースの野郎がこんな事言ってますぜ旦那……」
「ああ判った。判ったよ。教えてやらあ」と彼は大声であたしを遮った。
これでまあ、ブルース君はおとなしく言う事きいてくれるだろう。録音してあるってのは半分はったりだ。実際に録音し始めたのは救急隊の飛行機の中からで、彼が充分慎重に口をきき始めてからだった。
あたし達はメイプル・ブールヴァードに着いた。ブルースは事務所のビルの前で放してやった。閉じ込めといても手がかかるだけだし、連絡先は病院で把握したから、必要ならいつでも呼び出せる。どうせここ二、三日は彼もそんなに出歩けないだろう。ハミルトンのもとに走るかもしれないけど、その時はその時だ。
「ああ、忙しい一日だったね」と言って、あたしはプライヴェートのベッドに座った。クリスも肩から拳銃のホルスターを下ろし、机の前に腰掛けた。
「Jを見つけたのがお昼で、今はもう二十一時でしょう。これからハミルトンのカジノに行くの」とクリスが訊いた。ちなみにアウロラの自転周期は二十二時間だ。
「仮眠とって明日の朝にしましょ。どうせオール・ナイトなんだろうけど、あたし眠いわ。今から行ったらカモにされちゃう」
「あなた何をしに行くつもり……」
彼女は不意に途中で黙り、立ち上がってリボルバーを抜いた。次いで押入からブランク・カートリッジを持ってくると、銃のシリンダーにそれを詰めた。変な事をする。
「ところでJはどこに隠したの?」とあたし。
「Jはね……」
彼女は拳銃をクロゼットの横にある棚に向け、いきなりトリガーを引いた。
「……お隣りのチェスレットさんに預けてきたわ」
銃声の直後で、彼女の声はよく聞こえない。
「な、なによいったい?」
彼女は棚からカルバドスを取り上げ、瓶の底から伸びてるアンテナ線を引っ張って、貼り付けられたコイン型の盗聴機をはがした。
「今までの会話は聞かれていたのよ」
「はああ、よく気が付いたわねえ」
「狐猟[fox hunt]は地球で何度かやった事があるの。あなたの方が、探偵のキャリアは学生時代のパート・タイムの分だけ長いんだから、しっかりしなさいよ」
彼女が地球でやったと言うのは、犬を使って追い詰めて馬上から射殺する、文字通りの狐狩りだ。この場合は電波探知ゲームの意味もあるけど。
「う……でもあたし、盗聴した事はあってもされた事ないし……。誰が仕掛けたのかな」
「ブルースでしょう。瓶の中身も大分減っているし。恐らくこの前、ガスで私達が倒れていた隙に仕掛けたのよ」
クリスはアンテナを尻尾みたいに振り回した。酸敗した[foxy]ブランデーね。彼女は窓を開け、三階下の歩道を見下ろして、あたしを手招きした。
「ほら、御覧なさいな」
言われるままにのぞいてみると、街灯に照らされたブルースが、ヘッドフォンつけて失神してた。受信機なんて、いったいどこに隠してたのやら。
「ありゃ。鼓膜はだいじょぶかな」
「いい気味だわ」
「ま、この部屋じゃJに関しては、衛生局への野良猫の問い合わせくらいしかしてないから、聞かれたって平気だったけどね」
クリスは他にも盗聴機を探して、部屋の中をうろうろし始める。あたしも彼女を(ベッドから手の届く限り)手伝った。
「それにしても、ジョンソンさんも人が悪いわね」とクリス。「あの猫の持つ意味はおくびにも出さないで、ブルースが怨みを抱いて殺したがっているなんて。出まかせもいいところだわ」
「そうねえ。セミスウィート、聞こえてる?」とあたしは言った。セミスウィートは、この事務所とあたしらのアパートメントを管理してる、セキュリティ・コンピュータである。
「はい、何でしょうか」とあたしの目の前にある机から、その声が答える。
「まず、この部屋に盗聴機の形跡ってあるかしら。さっきの他に」
「私に判る限りでは、存在しません」
「クリス。今の聞いた?」
彼女は聞いてたけど信用しないで、そのままオフィスの方まで探しに行く。まったく神経質なんだから。
「それじゃ今度は、プレイ・インフォメーションにアクセスして、プレイヤー呼んで」
「はい」と言ってセミスウィートは黙る。
机上のスクリーンがせり上がり、プレイヤーの上半身が映った。彼はインフォメーション・サービスのホスト・コンピュータで、この映像は合成に過ぎず、実体はない。
「おや、エリー。こんな遅くどうしました。やけ酒をあおるバーでもお探しですか」
「いきなりなに言ってんの。仕事の話よ」とあたしはジョンソンさんの名前と住所のメモを見せ「この人の信用調査おねがい」
「はい。ナイジェル・ジョンソン氏ですね。少々お待ち下さい」
彼は『立ち上がって調べに行く』動作を表示した。珍しい事である。いつもは『ちょっと考えて思い出す』仕草ぐらいで、ほぼ即答するのに。
しばらくたってから彼は再び画面に現れた。怪訝そうな顔を見せている。
「失礼ですがエリー。その住所に間違いありませんか? アウロラの開拓者台帳を調べましたが、ナイジェル・ジョンソン氏はグリーン・メドウに家族と一緒にお住まいでして、他に同名の人物の記載はありません」
開拓者台帳ってのは、まあ戸籍みたいなもんだ。それに載ってないってのは、密入国かアウロラ生まれの私生児かのどっちかである。このアウロラが発見されてから、まだ三十年ちょっとだし、ジョンソンさんはどう見ても四十以下とは思えない。てことは密入国って事になるけど、恒星間貨客船での密航は事実上不可能だし、検疫や移民審査もある。
「変ね。その人、サンテレジアに別宅を持ってたりしない?」
「ありません」
「まだ引っ越したばっかりなのかな」
「それもありません」
「じゃ職場がこっちにあるとか」
「そうでもないでしょう。この方は当年とって六歳でして……」
「なんだ、そんなのは早く言いなさいよ。まるっきり別人じゃない」
「はあ。信用調査でしたら両親を調べる事になるでしょう。どうなさいますか」
「やめとくわ。それじゃ、この住所の住人は誰になってるの?」
「ナイジェル・ジョンソン名義ですね」彼は肩をすくめた。「しかしこの人物とグリーン・メドウの方との関係を示唆するものは、全く見当たりません。誰か別人の偽名か筆名か、そんな所でしょう。それほど珍しい事ではありません」
「ありがと、もういいわ」
ううん、なんて事かしら。肝心の依頼人の身元が怪しくなってしまった。うちに来たのがあのブルースの直後で、あんまりにも態度の差が大きかったもんだから、つい信用しちゃったのだ。やっぱり調べとくべきだったわね。ちゃんとお金払ってくれるのかしら。
クリスが盗聴機探しに飽きて、隣室のオフィスから戻った。しっかりもう一つ見つけて来て、ぶら下げてあたしに見せた。
「ジョンソンさんは開拓者台帳に載ってないって」とあたしは彼女に言った。
「あら、密航者だったのかしら」
密航も、実を言うと丸っきり不可能てわけじゃなくて、移民審査官やらシルバースタイン星間運輸[Interstellar](クリスの親父さんの会社だ)やらに賄賂でもばらまけばなんとかなる。もちろん正規の運賃のがはるかに安いだろう。
あるいは貨物に紛れて運んでもらって、軌道ステーションで検疫が始まったら、パラシュートしょってエアロックからえいやっ……。丸焼になるな、これじゃ。
「ま、何にしてもあんまり大手を振って世間を渡れる人じゃないって事ね」とあたし。
「前金で引き受ければよかったわね」
「そう。そりゃ経理担当たるあんたの手抜かりよ。で、どうしようか。誘拐とかの刑事事件だったら、警察に届ければ逮捕権が下りるかも知れないけど」
「私達が逮捕できるわけね。いいえ、まだやめておきましょう。もし無事にジョンソンさんが帰れば、警察の褒賞金より高額の謝礼を請求できるわ。後ろ暗い所のある人なら、なおさらでしょう。それこそがサービスと言うものではなくて」
はあ。やっぱりこの娘を経理担当にしといてよかった……のかな?
それが違法のじゃない限り、カジノってものがあるのはたいてい繁華街である。繁華街の中にカジノがある場合と、カジノがあるから繁華街である場合とがあるけど、ここエンジェルロストの十七番アベニューは前者である。劇場やコンサート・ホール、キャバレー、星の並んだレストランからプレッツェルの屋台に至る料理店など、ごみごみと集中してる一郭なのだ。
目指すカジノは、グレン・ハミルトン所有になるホテル『クウィンティリオネア』の地下一階と地下二階にある。ブルースの話では、ここで地下一階を取り仕切るチーフ・ディーラーに彼の名前を出して頼めば、ハミルトンにわたりを着けてくれるってことだ。
それにしても、この名前はインフレもいいとこだわ。クリスなんか、これを聞いた時は絶句してたもんね。彼女はイギリス語で考えるから、あたしより十二桁ばっかり余計にあきれたはずだ。
カジノ行きである下りエスカレーターの周囲には、プラズマ発光パネルを多用した御丁寧な案内が麗々しく施されていた。たとえ田舎の修道院から生まれて初めてエンジェルに出てきた小羊でも、迷わず賭場に辿り着けるように配慮したわけだ。クリスがそれを見回してぽつんと言った。
「汝等、我を過ぐる者、一切の望みを棄てよ」
「労働は自由を創る」ってあたしが応じたら睨まれた。彼女の先祖は、第二次大戦の時にイギリスに亡命したドイツ人である。ちょっとたちが悪かったかな。
地下に下りると、朝っぱらから賭に熱中してる男女の熱気で、オーブンみたいな赤外輻射を肌に感じた。歓声や低い唸り声に混じってコインの触れ合う音がさざめき、煙草の煙が天井を隠す。満員とは言えないまでも結構混んでる客の間を縫って、飲物などサービスしてるロボットが行き交う。
ウェイターはロボットでも、ディーラーは人間が多かった。まあ、スロット・マシーンあたりならいざ知らず、わざわざカジノへ来てまで機械相手にカード・ゲームってんじゃ面白くないんだろう。
「さて、まず資金を調達しましょう」クリスは周囲を見回して言った。
「資金? 調達するって、どこで?」
「あそこ」と彼女が指さした先にはブラック・ジャックのテーブルがあった。
「あんたねえ……」
「エリーはその辺で待ってて」
あたしが止める間もなく、彼女は焦茶色のスーツを翻して席に向かった。
まったく昨日はあたしに、何しに行く気なの、なんて言っといて。きっとブルースの名前で頼むのが癪に障るんだろう。
いずれにせよ彼女には、いますぐチーフ・ディーラーを通してハミルトンを呼びつけるつもりはないみたいだった。しょうがないからあたしがフロアの偵察に行く。
それにしてもクリスってば、今までの五年からの付き合いでちっともそんな素振りを見せなかったけど、もしかしてとんでもないギャンブラーだったのかしら。もっとも、ここに来るために彼女がピンクのカクテル・ドレスを引っ張り出した時から、やな予感はしてたんだ。ドレスはどうにかやめさせたけど、サロンのブリッジかなんかと間違えてるのかもね。
しばらくして、あたしは充分な金額をクラップスの担当者に寄進して、チーフ・ディーラーが誰なのか訊いた。彼はちょっと見回して、親指で指し示した。それはなんとクリスが座ってるテーブルだった。あたしと目が合うと、彼女はあたしを手招きした。
いつのまにやらそこのディーラーは、さまよえるオランダ人ばりにやせぎすで眼光炯々たる人に替わってた。この人がチーフか。勝負は、黙ってりゃ保護者を探されかねない童顔クリスと、差しでのファイブ・カード・スタッド・ポーカーになっていた。
当初、ここでブラック・ジャックをやってた人数の、倍くらいの野次馬が二人を取り囲み、今や三回目のベッティング・インターバルだ。二人が交互に掛け金をつり上げる。
彼女は伏せてある自分のホール・カードを取って、あたしに見せてくれた。クラブのエースである。開かれてるアップ・カードはダイヤのエース、ハートの五、ハートのエースだった。今の所エースのスリー・カードが確定で、ディーラーからも少なくともエースのワンペア以上である事は判る。ディーラーのアップ・カードはクィーンが三枚。
「レイズ。三十ドル」とクリス。う、十ドル単位たあ桁が違う。野次馬も集まるわけだ。
「コール」
最後のアップ・カードが配られた。クリスにはスペードの五。これでフルハウスができた。ディーラーはクラブの七で、クィーンのスリー・カードかフォー・カード、または七とクィーンのフルハウスである。
「チェック」とディーラー。
「レイズ。二十ドル。これで今までの合計がちょうど二千ドルですわ」
「あなたが勝てば、ですね。もう五十レイズ」
ディーラーからは、クリスは五とエースのツー・ペアかフルハウスである事が判る。彼女のレイズは、それがブラフじゃない限り、フルハウスを示してるわけだ。さらに向こうがつり上げたって事はフォー・カードなのかしら。なかなかの大勝負だわ。
「コール」
ディーラーのホール・カードはダイヤの二だった。
「では、お約束通りハミルトンさんに引き合わせて下さいますね」
「これをお持ちなさい。オーナーは最上階のバンクィット・ホールです」
彼は自分の名刺に、あたし達がハミルトンに重要な用事があるから会わせるように、と記してよこした。
「ありがとう」
「夜までに片付くといいですね」
「ええ、さっぱりして眠れば、いい夢も見られますものね」
「ベッドでも勝負の続きはできますよ」
「その時もポーカー・フェイスでいらっしゃるのかしら」
ディーラー氏は相好を崩して、しかしまともには返事をしなかった。
「成功を祈っています」
クリスはさっきの名刺と二千百ドルの小切手を巻き上げて、群衆をかきわけて意気揚々と凱旋する。あたしは彼女に言った。
「一体どんな条件で勝負ふっかけたのよ」
「ハミルトンさんはお取込み中だそうなの。それで私が二千ドル勝ったら、会える様に計らってくれるって、あのチーフ・ディーラーの方がおっしゃったのよ」
二千百ドルって言ったら、あたしらの本来の料金三週間分に相当する。それを彼女は一時間たらずで儲けたわけで、なんだかあたしゃ働くのがやんなってきた。
「逆に負けたら?」
「私の今夜のスケジュールを書き替えるの」と彼女はあくまでもやんわりと遠回しの表現で言った。「もっとも、私が勝った場合でも雪辱戦に応じると約束させられたわ。仕事が早く済めば、だけど」
「なるほど、それで待ってるって言ってたのか。あの人も女の趣味が悪いわね」
クリスの拳は今度も正確にあたしの瘤の上をひっぱたいた。
「いててて。でもクリスってばポーカー強いじゃない。駆け引きのコツかなんかあるの?」
「賭事で絶対に勝てる方法はないわ。でも」と彼女は声を落として「絶対に賭事で負けない方法はあるのよ」
「なにそれ。教えて」
「賭事をしない事」
訊くんじゃなかった。
最上階のホールでは、何やらパーティーと言うか昼食会が開かれていた。
クリスは入り口の横に衛士の如く立ってるボーイに、さっきディーラーからもらった名刺を見せ、ハミルトン氏が居るかどうか訊ねた。彼は不審な目つきであたし達を見下して「当然です」と言った。クリスはちょっと不満げだ。
中に入ると、会場は既にくだけた雰囲気になってた。五十人程の客は大部分があっちこっちで小さな集団となり、それぞれに話の花を咲かせていた。奥の小さなステージでロボットのバンドがデキシーランド・ジャズを演奏してて、なかなか賑々しい。
パーティーのスタイルとしては、料理がテーブルの大皿に山盛りになってる……いや、なってた、スカンジナビア式立食パーティーだった。もうめぼしい皿はあらかた食い散らされた後で、八つに切ったクリーム・パイの、一片か二片だけ欠けたのがやたら目についた。 あたしはそのパイを一つつまんでみて、残ってる理由を理解した。きっと、厨房に見習いが一人いるのだ。
ハミルトンはすぐに判った。インフォメーション・サービスの紳士録で調べた通りの四角い顔で、黒いスウェードのジャケットを着てた。格幅も良く、笑顔を絶やさず客に応対してる所は、なかなかの風格である。
「なにしろ、州知事が視察と称して大陸見物に出かける御時勢ですからな」と彼は気取った声で客と話してる。
「いや全く。我々持てる者でさえ渡航してはいかんとは、民主主義に反しとります」とお客さんも同調してるけど、これじゃ民主主義と言うより資本主義だわ。
あたし達の接近に気付くと、彼は招いた覚えのない顔に対する曖昧な笑みを浮かべて向き直った。お客さんは気を利かせて遠慮した。ハミルトンは訝しそうに言った。
「どちら様でしたかな」
あたしがすかさず探偵のバッジを見せた。ここまで来ちゃえば、いまさら身分を隠す必要もない。
「ナイジェル・ジョンソン氏をお迎えに上がりましたの」とクリス。
「ほう、あなた方ですか。ブルースからお噂は拝聴しておりますよ。お仕事の首尾はいかがですか」
「そちらこそ、ジョンソンさんをうまく吐かせたんですか」とあたし。
「吐かせたとはなかなか愉快なおっしゃりようですな。私はあの方の御協力を仰いで、人類史上にも希なる文化財の探索を行っておるのですが」
彼が自分勝手な論理を展開し始めた時、横合いから真紅の絹に金糸で龍を刺繍したチャイナ・ドレスの女が現れ、彼の肩にしなだれかかった。あたしらよりちょっと歳上の感じで二十五くらいかな。面長の、まあ美人だ。
「ねえ、この人達だあれ?」と女は言った。
「うん、ソフィア。例のクリスタルの事でお見えになった探偵さんだよ」
「ああら、御苦労様。じゃ、いま言ってた文化財ってそれのことなの? 約束が違うじゃなあい。博物館とかに持ってかれちゃうんじゃやあよ」
「大丈夫さ。それにもしそんな事になったら、博物館ごと君の物にすればいいだろう」
「わあ、ありがと。愛してるわ。博物館持ってるなんて、貴族みたい」
何と言うか知性のかけらもありゃしない。ソフィアなんて名前が泣くわね。
ソフィアの台詞の『貴族』って言葉に反応して、クリスが口を開いた。
「おおよその事情は判りましたわ。しかし、あの水晶は結婚指輪としてはふさわしくありませんわね」
「もちろん大き過ぎますな。ペンダント・ヘッドにでもしますか」
「いいえ、その納まるべき指との、値打ちの釣合を考えましたの」
ハミルトンの顔が強ばった。ソフィアはキョトンとしてる。幸せな女だ。
「侮辱と受け取ってよろしいのかな」
「どうぞ御自由に。それはそうと、私共の依頼人を解放して下さいませんかしら」
「結構ですよ。ただし、代わりに猫のJを渡して戴きましょう」
「それは飼い主のジョンソンさんに交渉しなさいよ」とあたしは言った。
「彼はもう承知しましたよ。それに猫などはなければないで、宝探しは始められるんでね。なにせ、おおよその位置はそれを隠した本人がしゃべったんだからな。このパーティーはその前祝いだ。むしろ正確に判らない方が宝探しらしくていいくらいだろうが」
彼の口調がだんだん荒くなってきた。この調子で隠した本人も脅し……「本人?」
「ああ、探検家トマス・ナットール本人だよ。きさまらがナイジェル・ジョンソンと呼んでる男さ」
「あの人が。嘘おっしゃい」とクリス。
「あらあ、そうだったのお。サインもらってこようっと」とソフィア。実に気の抜ける発言だ。
「あ、あたしもサイン欲しいわ。彼どこにいるの?」とあたしは言った。ソフィアは素直に罠にはまった。
「八階の八一三号……」
「この馬鹿野郎、黙れっ」
「ありがと。あたしほんとは彼のサイン持ってるの」契約書の署名でジョンソン名義だけどさ。
用事を済ませたあたし達は、早々にこの場を失礼する……わけにはいかなかった。
「くそっ。おいてめえら。こいつら逃がすんじゃねえ」
ハミルトンは舞台の方に一声叫んで、あたしらを捕まえに追ってくる。舞台の上に居並ぶロボット・ジャズ・バンドは、実は最後壇の数人が人間で、今やトランペットの代わりに自動拳銃を構えて立ち上がった。
クリスがスーツの下からリボルバーを抜いた。舞台の天井に狙いを付け、スポット・ライトを撃ち落とす。凄まじい音響に広間の客は悲鳴を上げて、出口に向かって殺到する。みんなハミルトンの身内なんだろけど、こうなると冷たいもんだ。ドア番のボーイは、客に押し流されたのか姿を見せない。
あたしは手近にあったクリーム・パイを迫り来るハミルトンに皿ごと投げた。顔面にパイを喰らって怯んだ隙に、あたしは彼の股間を蹴り上げた。彼は声も上げずに倒れ伏し、これでこっちは片付いたと。
ハミルトンが邪魔で発砲を控えてたバンドの連中は、ステージの瓦礫に阻まれて前進をやめ、ロボットを盾にして撃ってきた。
半壊したロボット達は、何をとち狂ったか曲目を『荒野の七人』に変えた。
五発全部撃ち尽くしたクリスは、丸テーブルをひっくり返し、その陰で次弾の装填にかかる。その間あたしがテーブルをささえて応戦する。もちろん今度はパイなんかじゃない、正真正銘の実弾である。
出口に向かってテーブルを引きずりながら、クリスがあたしに言った。
「あれを使いなさい。ブルースのガス」
「あ、そうか。持って来てたんだっけ」
折しも舞台の男共が、瓦礫を乗り越え、こっちに迫って来たとこだった。あたしはガスのピンを抜き、ホールの真ん中にほうった。それを見た連中は「わっ」と叫んで、ガス弾を中心に綺麗に放射状のロゼットを描く。こっちはそれをチャンスに出口へ走る。
廊下に飛び出たあたしを追って、ガス弾の破裂する鈍い音が届いた。ちょっと遅れて火災警報が全館に響きわたり、スプリンクラーが水を撒く。おかしい。うちの事務所の警報は、あのガスじゃ作動しなかったのに。
「さて、どうしましょう」とクリスが訊いた。
「八一三号室に決まってんでしょ。早くしないとまた新手の連中が来るわ」
廊下の端の階段を八階まで駆け降りると、そこにはブルースとさっきのチーフ・ディーラーが待ち構えてた。
「おい、ハミルトンはどうした」とブルースが出合い頭に訊いた。
あたしは思わず正直に答えた。
「う、上で伸びてる」
「よし、おまえは奴の金庫へ、俺はこいつらと一緒にジョンソンを連れてく」
おまえと呼ばれたディーラー氏は、頷いて階段を上って行った。ブルースは相変わらずでかいギプスをしたまま、てきぱきと指示を下す。この階まではスプリンクラーの散水もないけど、火災警報は鳴り続けてるから、みんな互いに怒鳴らないと話ができない。
「おい、こっちだ。一緒に来い」
「ちょっとあんた、金庫ってなんのつもりよ。火事場泥棒でもしようっての?」
「八一三へ行くんだろうが。依頼人を助けたくねえのか」
「そりゃ……」
「だったら来い」
あたし達は不承ぶしょう彼に従い、八一三号室に向かった。
「この警報もあなたが鳴らしたんですの」とクリス。
「そうさ、タイミング良かっただろうが」
「あと一分早けりゃね」
「ふん」
やがて警報も鳴り止み、あたし達は目的の部屋の前についた。
「よし、ここだ。銃は?」
「持ってるわ」
「バックアップ頼むが、抵抗があるまで撃つんじゃねえぞ」
彼はマスター・キー・カードを部屋番号の前にかざして開錠した。扉の取っ手には『邪魔するな』札がかけてある。
「カウント三だ。一、二、三」
彼は部屋のドアを開いて中にとび込んだ。あたし達も後に続き、腰を落として拳銃を突き出す。彼は懐から何か差し出して言った。
「よおし、動くな。FBIだ。先生、そこまでにして貰うぜ」
「FBI?」
あたしとクリスはユニゾンで叫んだ。彼が掲げてるのは紛う事なき連邦捜査官のバッジだった。
室内に居たのは、彼が先生と呼んだ白衣白髪の医師と、他に見張りが一人。そして部屋の隅の椅子に座って、催眠訊問装置のヘッドセットをかぶせられてるのは、多分ジョンソンさんだろう。顔の上半分は機械に隠れて見えず、左腕には点滴の針が固定してある。状況からみてきっと自白剤だ。訊問装置も自白剤も、こんなとこで使うのは違法である。
「畜生ブルース。寝返りやがったな」
スツールに腰掛けてた部下の男が叫んで立ち上がり、右手を背中に回す。クリスが威嚇に一発撃った。弾丸はそいつの膝をかすめてズボンに穴をあけ、スツールの脚を射抜いた。
男は手を後ろに回した姿勢で凍り付き、椅子に尻餅をついた。衝撃に耐えかねて、撃たれた脚が折れる。
ブルースはすぐさま床に這いつくばった男を脚下にした。ヒップ・ホルスターから拳銃を奪って後手に手錠をかけ、そいつのポケットを探ってハンカチを引っ張り出すと、それで猿轡をかませた。手際はいいけどあんまり効果はなくて、わめき声がうるさい。
「寝返りだ? てやんでえ、こちとら親の代から警官やってんだ。今さら寝返りもへったくれもねえや」
「それにしちゃチンピラが板についてたじゃない」
「おう、爺さんの代はチンピラ……いや余計なお世話だぃ。ジョンソンを連れ出すぞ。肩貸してやんな」
「あんたがしょってきなさいよ」
「おい俺ぁ怪我人なんだぜ」と彼は肩をすくめようとしたけど、ギプスが邪魔でできない。
「さ、先生、ゲームは終わりだ。そのおもちゃは片付けてくんな」
「私の立場はどうなるんだ。起訴は猶予してくれるのかね」と医師が訊いた。
「今回のは俺達に協力したわけだから、その心配はいらねえさ。ただし、これまでの悪さについちゃこっちの知った事じゃねえ。ま、せいぜい検事にばれねえよう祈るんだな」
「約束が違うぞ。全て帳消しにすると……ハミルトンを偽って、正気を保ったまま催眠に見せかけるのが、どれほど困難か……嘘の情報をしゃべらせて、危ない橋を渡ったのはこっちなんだ」
医師は顔を真っ赤に染めて、怒りに言葉を詰まらせながら抗議した。
「全て帳消しなんて言った覚えはねえ。いいから早く片付けろい。がたがた抜かしゃがるとまとめてしょっぴくぞ。そろそろ相棒が市警察を呼ぶ頃だ」
ジョンソン氏ことトマス・ナットールは、かなり憔悴した様子だった。意識こそあるものの、朦朧として目の焦点も合ってない。
あたしは彼の右腕、クリスは左腕を担いで立たせた。力が完全に抜けてるので、死体の様に重い。医師は椅子から立たせる時にちょっと手を貸しただけで、装置の後片付けにおおわらわである。
ジョンソンさんを引きずりながら廊下に出ると、たちまちホテルのポーターの制服を着た男に見つかった。と言ってもそいつは事態をよく把握してなくて、単に火災警報を聞いて駆けつけただけらしい。
「や、ブルースさん、素早いですね。火元はどこ……そちらの御婦人方はどちら様で?」
「こいつらは、ああ、その、なんだ。先生んとこの看護婦だ」
「ふうん、見ない顔だがちょうどいいな。怪我人が出たら看護を」と言う彼の目はクリスの右手に吸い付いて「おい。その拳銃はなんだ? 看護婦がそんな物持っ」
ポーターの台詞は完結しなかった。こっちに詰め寄って来るところを、ブルースがすれ違いざま、うなじに手刀を叩き込んだからだ。
「なるほど、怪我人が出ましたわね」とクリスは言って、鉄砲を上着の下に隠した。
「看てやるかい。看護婦さん」
「私は法医学が専門ですから」
「血を見て気絶したくせに」とあたし。法医学に看護はいらない。
エレベーターは警報と共に止まって使えない。しょうがないから外の非常階段を使って、三人がかりでジョンソンさんを担ぎ下ろす。うまい具合に避難する宿泊客に紛れて、ホテル側の人間には見とがめられなかった。
地上に着いて横丁から表通りに出ると、ちょうど消防隊が到着したところだった。ホテルのフロント係が表に出て、消防隊を阻止しにかかって押し問答してる。こっちはフロント係に見つからないよう、慌てて横丁に引っ込んだ。
ちょうどその時、あたし達の目の前に救急車が停まった。ハッチを開けて救急隊員が降りたけど、先に来た消防隊がもめてるのを見て首を傾げてる。そこへブルースがバッジを振りかざして、隊員の一人に小声で言った。
「FBIだ。この救急車を接収する」
「なんだと」とこっちは大声だ。
「静かにしろ。FBIだってんだ。こちとら病人かかえてんだから、大人しく従え。こん畜生」
彼の高圧的な言葉に、隊員達は明らかに気分を害した。彼らは口々に罵り始めた。
「接収なんて越権行「きさま、偽警官じゃあ「タクシーじゃな「火事はどうした「そんなバッジが「この非常時にふざけたまね「腹が減」」こに居るんだ」「どこに病」明を見せてみろ」とはなんだ畜生とは」
玄関前に居たフロント係その他がこの騒ぎを聞きつけ、こっちの方をさして何か叫んでる。ブルースがそれに気付いて、あたし達に言った。
「おい、やばいぞ。早く載っけろ」
ハッチを開いた車の後ろで待機してる四足歩行ベッドに、あたしとクリスでジョンソンさんを寝かせる。そのいかにも病人然とした容態を見て、救急隊員も職業意識に目覚めたのか、手伝いこそしなかったけど邪魔だてもしなかった。殺到して来るホテル従業員に、気を取られてたのかもしれない。
「ベティ、車に乗って」とあたしは言った。ベッドは素直に膝を折って乗り込む。やっぱりこいつはベティなのだ。
ブルースは素早く運転席を占拠すると、無茶苦茶な勢いで発進させ、アクセル・ターンで反転した。あたし達二人はベッドごと振り落とされそうになりながら、なんとか車内の手摺にしがみつく。
あっけにとられてる救急隊員を後目に、救急車はホテル・クウィンティリオネアから走り去る。後ろのハッチを閉めるとき、ホテルマンにぶちのめされる隊員の姿が見えた。ちょっと可哀相な気もする。
ホテル側の一人がライアット・ガンをこっちに向けて撃ちかけたけど、すぐに消防隊の放水を喰らって薙ぎ倒された。いい気味だわ。
ブルースはサイレンを鳴らして、左車線を猛スピードで駆け抜ける。この種の緊急車両のナビゲーション・コンピュータは、トラフィック・コントロールと連絡を取って信号を操作し、交通規制をしいてくれる。でも反対車線を走ったんじゃ何の意味もない。
ホテルの車が一台、あたし達を追ってきた。さすがにそいつは右の車線だ。
あたしらにたまげた対向車が次々に急ハンドルを切り、歩道に一台飛び込んだ。さらに一台、よけた拍子にスピンして停まり、追手の車に横腹へ突っ込まれた。気の毒だけど、まあ、こっちとしては好都合だ。
救急車のナビゲータは、手近の病院に行くために、曲がるべき角の上空あたりに見えるよう、ウィンド・シールドにホログラムの矢印を浮かばせてる。しかし、ブルースは全くそれに従わない。
「ちょっと。どこ行くのよ」とあたしはブルースに訊いた。
「病院だ。エンジェルの警察病院だよ」
「その前に、サンテレジアの私共のフラットに寄って下さいませんか」とクリス。
「なに? 向きが逆だぜ。それこそタクシーじゃねえんだぞ」
「なにも自宅に送って戴きたいのではありませんわ。お隣のお宅に、Jを預かって戴いておりますの」
「ほう、そいつぁ好都合だ。ジョンソンとJが一遍に手に入るって寸法かい」
ブルースはにたりと笑ってジョンソンさんを見ると、交差点でサンテレジア方面に車を回した。無視されたナビゲータが、虚しく抗議の警告音を発する。
「こら。変な事考えてんじゃないでしょね」
「変なてぇと?」
「水晶を横取りしようとか……」
「おお、いいねえ。いい加減、公務員の薄給にゃうんざりしてたとこだ。闇で売っぱらやぁ、二年や三年遊んで。おいこら。やめねえか馬鹿野郎」
あたしは彼の背後から首のギプスをつかんで、前後に揺すった。
「停めなさい。やっぱりあんた信用できないわ。すぐ停めて。いま停めて」
目を回したブルースはハンドルを切り損ね、道路をくねくね蛇行する。なにせ救急車だから周りの車も用心してるけど、一歩間違えばこっちが救急車の御世話になるとこだわ。
ターンの加速度で、ベッドからジョンソンさんがずり落ちそうだ。ベッドのベティが身をよじって支えてるけど、それにも限度がある。彼は半分落ちかけたまま、上体を反らせる格好でうめく様に呟いた。
「Jは……ジャック・ジェリー・ジョセフ……ジェイコブ……」
「大丈夫、無事ですわ。御安心下さいな。もうすぐお引き合わせ致しますから」
彼は微笑みらしき表情をうっすらと浮かべ、なんとか起き上がらんともがいた。クリスが手を貸して座らせようとした途端に車が歩道に乗り上げて、彼は天井に頭をぶつけて本格的に失神した。ベッドの上で良かった。
「ほらみろ、姐ちゃんが余計な事するから」
「あんたの運転が悪いんじゃない」
「二人ともいい加減になさいっ」
クリスの一喝でひとまず車内は静まって、まもなくあたし達のアパートメントにたどり着いた。
クリスがジョンソンさんを揺り起こし、あたしがお隣のチェスレットの奥さんを呼びに行く。この家は猫がいっぱい居るから、Jを隠しとくにはうってつけである。喧嘩なんかしてなきゃいいけど。
「チェスレットさあん。あたし、スウィートです」
おばさんは飼い猫の一党を引き連れて玄関に現れた。彼女は表の救急車を見て、丸顔を一層丸くして言った。
「あらあら、一体どうしたの。あちらの方はどなた?」
「あの人があたし達のお客様で、Jの飼い主のジョンソンさんです」とあたしは車の後ろのハッチをさし「これから病院で手当を受けるんですけど、その前にJに一目会わせたげて下さい」
「まあまあまあ、大変だこと。ちょっと待ってて下さいね、いま捜して来ますから」
あんまり細かな事情は訊かない。この人のいいところだ。
彼女はじきにJを抱いて戻って来た。表に出てジョンソンさんを見つけるや否や、Jは一声鳴いておばさんの胸から飛び降りた。玄関前の小径に鈴の音を響かせながら、ジョンソンさんへと駆け寄って行く。
「おお、J」
「にゃにゃ」
ようやく起き上がったジョンソンさんに、Jが夢中で飛びつくと、彼はその勢いに押されてまたベッドに倒れ込んだ。猫は喉を鳴らしながら頭をすり付け、彼の頬をなめた。
「J。帰って来たよ……おまえのために」
彼はそのまま眠りに落ちた。催眠とは関係ない、幸福そうな寝顔だった。
あたしの右手に座るブルースはビールをかなりきこし召していて、そろそろ呂律が回らない。正面に控えてるのはあのディーラー氏で、夕闇色を湛えたラムのグラスを重ね、それでも顔色は変わってない。左に腰掛けたクリスはフロリダ・カクテルを半分残し、アルコールに弱いふりをしてるけど、実はまったく酔ってない。あたしは二杯目のバーボン・オン・ザ・ロックを傾けた。そろそろ目の奥に酔いがまとわりついてる。
ここは、エンジェルロストのダウン・タウンにある、ブルース君馴染みの酒場である。まだ夜も浅く、客の入りはまずまずだ。
「トゥー・クラブ」
クリスが十三枚のカードを器用に片手で扇に広げて言った。手品師みたいだ。
後の三人は全員パス。彼女は自分の意図がパートナーに伝わらないんで苦い顔をした。なにしろクラブのエースはあたしが持ってるもんね。ダミーにまわったブルースが手札を開く。絵札が多いのがせめてもの救いだ。
「それで、ナットールさんの退院はいつになるの?」とあたしは訊いた。
「ああ、じきだよ。別に病気じゃねえんだし、しばらくは静養を兼ねて、ハミルトンの裁判までゆっくりしてるさ。今じゃ看護婦も付いてない。雑用ロボットと市警の警護だけだ。特別にJも病室に入れてもらったしな」
暇になったブルースがゆっくりと答えた。
ディーラーがあたしの言葉を訂正した。
「それにナットールじゃありませんよ、今のところはジョンソンです」
「判ったわ。それは誰にも言いません」
「水晶の事もだぜ」
「あら。あれは本当のお話でしたの。単なる囮の作り話だと思っておりましたわ」とクリスが取ったトリックをかき集めながら言った。
「そう思っててくれるんだったら、その方がいいな。薮蛇だったか畜生め」
「もう遅いわよ。大体、あたし達をさんざん利用したんだから、詳しい事教えてくれたっていいんじゃない?」
「感謝はしてるよ。だからこうして酒を一杯ずつおごってやってるじゃねえか」
「安い報酬ですこと。ワン・ダウンでそちらに五十点。か弱い私共は危うく命を落とす所でしたのよ。さあ、次のディールをどうぞ」
クリスは不平とゲームを一緒に進行させる。こんどはディーラー氏がカードを配りながら、クリスに向かって言った。
「それにしても、パーティーでは派手な銃撃戦になった様ですね。死人が出なかったのが不思議なくらいです。一体、銃を何丁お持ちなんですか」
「ここに一丁と」とクリスは上着の左の襟を開き「あとは秘密です」
「大した姐ちゃんだよ。どこがか弱いんだか」
クリスが手札を一瞥して言う。
「あら、私の心[Heart]は傷付き易い[vulnerable]んですのよ」
「いけませんね。ビッドの前に余計な事は言わないように」
結局コントラクトはクリスのスリー・ハート。さっきの雪辱戦である。
「でも死人が出なかったって事は、あのガス効果ないのね。同志討ちなんて名のくせに」
「ありゃ攻撃中枢を刺激するんだが、一緒に知能が低下するんでね。せいぜい殴り合いくらいしかできねえんだ。すぐ気絶するしな」
「それってただの興奮剤じゃないの」
しばらくは静かにゲームが進んだ。ブルースはハートを一枚しか持ってなくて、クリスは専ら自分のハートで、ダミーの弱い札とこっちのハートの処分にかかる。
「FBIが出てきたって事は、ハミルトンの容疑はなんなの?」とあたしは訊いた。
「脱税ですよ」とディーラー氏。
「へ? 誘拐はどうしたの。水晶は?」
「それはジョンソン氏のプライバシー保護のために、目をつぶる事になっています」
「じゃ、脱税と水晶とどんな関係があるの」
「ないよ」とブルースはつっぱねた。
「脱税と猫は?」
「知らん」
「判ったわ。FBIはたかが脱税犯を捕まえるために、無関係の一般人を精神的拷問にかけて、か弱き乙女を銃火の下に放り出して、動物の虐待を黙認するわけね。あと、あんたの盗聴機もまだ持ってるけど」
「だからちっともか弱くねえじゃねえか。それにJは虐待されちゃいねえぞ」
「それはそうですけれど」とクリスが澄まし顔で「人権擁護団体と婦人解放連盟と動物愛護協会が納得しますかしら」
今時ウーマン・リブもないけど、ブルースはそれを聞いて苦い顔をした。おばちゃん集団は苦手なのかもしれない。
「おい、哀れな公僕をいじめないでくれよ。俺の後盾は退役軍人会くらいだぜ」
「今回のからくりを話してくれたら、いじわるしないであげる」
「判った、話すよ。でもすぐ忘れろよ」
ディーラー氏が札を集める。このラバーはクリス側が十トリック取り、コントラクトを達成した。今度のディールはブルースの番なんだけど、彼はカードをのろくさシャッフルしながら話し始め、なかなか配らない。
「まず、ハミルトンの収入源は大きく二つあった。カジノと遊覧船だ。どっちも当局の悩みの種でな、カジノの売上はごまかすし、船の方は一部の上客を選んで、ミッドガルド大陸密航ツアーをやってたんだ」
「上客にはどんな方がいらしたの」とクリスが訊いた。
彼女は肘をつき、両手で頬を支えて身を乗り出した。
「特に問題なのは州議会のお偉いさんと、地球の本国から来た政治家連中だね。こいつぁ一種の贈賄でな、見返りに大陸入植の自由化を遅らせるように、働きかけてたんだ」
「あら、遊覧船やホテルをやってるなら、自由化した方がいいじゃない」
「普通ならな。だが、大陸が解放されりゃ奴の裏稼業は上がったりだ。もうしばらく続けたいほど、密航ツアーは金になるって事だ。投資の必要もねえし、当然その収入は申告しちゃいねえから、税金分まで丸儲けさね」
「それで囮捜査が始まったのか」
「そう。まず俺がハミルトンに近付いて、ナットールの財宝の話を持ちかけた。愛人のソフィアを焚きつけて『ぜひ大陸探検してみたいわ』って言わせたわけだ」
ブルースは裏声でソフィアのまねしてしなを作る。薄気味悪い。
「そこで猫の事をお話しになったんですね」
「ジョンソンは最後の探検の時に失踪を装って引退して、Jの脳天の皮膚の下に地図を記録したチップを隠してたんだ。もちろん自分も顔を変えてな。ま、かつては英雄として、アウロラ開拓の功労者でもあったわけで、州政府も彼の意向を尊重して必要な保護は与えてたし、地図のコピーも取ってなかった。今回は特別に彼に協力してもらって、すんなりハミルトンに地図を渡すはずだったんだが」
「Jが逃げちゃったと」
なんか大の男が猫一匹を追い回して逃げられたとこって、想像するだに微笑ましい。
「それにしても、どうして私共のところに猫探しを持ち込んだんですの。ハミルトンさんに探させればよろしかったのに」
「俺は信用されてなかったのさ。こいつはしっかり潜入して、あのカジノでチーフ・ディーラーの地位をものにしたんだがね。とにかく猫は俺が探すはめになっちまった。それで人手が欲しかったんだよ」
「地元警察に頼めば?」
「馬鹿野郎。たかが猫一匹に警察が動いてみろ。裏になんかあるってのがばれちまうじゃねえか」
「だいぶ断られたんじゃございません」
「おたくで三軒目だったよ。俺が直接頼んだんじゃ相手にされねえんでな、ちと戦略を変えて、まず俺が絶対に断られる様な条件で依頼に行って、次にジョンソンが泣き落としにかかるってわけさ」
「それにあたし達はまんまとひっかかったわけか。道理でいいタイミングだったわ」
「とにかく最初の計画じゃ、あいつらが大陸に渡った所を待ち伏せしてとっつかまえるって段取りだった。そのついでに留守を預かるドクターを丸め込んで、チーフ・ディーラーのこいつが金庫の裏帳簿をさらってくと。それをあの野郎が、どうやってか知らねえがジョンソンの正体を割り出して、さらってっちまった。その後はあんたらも知っての通りだ。上からの圧力を避けるためにゃ、密航の現行犯で押さえた方が良かったんだが、とりあえず脱税で起訴しときゃ余罪として何とかなるだろう。アル・カポネ方式だ」
「ハミルトン自身が大陸に渡るつもりだったの? そんなうまく行ったかな」
「行くさ。ソフィアが行きたがりゃ奴も付いてく。嫉妬深いからな、奴は」
「大陸で待ち伏せの予定でしたなら、あなた方も水晶の場所を御存知でしたのね」
「ああ、ごく大ざっぱにはな。タピオラの森にある鍾乳洞の一つって事まではわかってる。将来、大陸の入植が始まったら国立公園になる予定地の中さ。いずれ予備調査の間に、水晶は連邦政府によって公式に発見される。それまでは大衆に夢を与えててもらわにゃいけねえから、この事は黙ってろよ」
「口止めでしたら、そちらの方々におっしゃった方がよろしいんじゃございません」とクリスが指を揃えて、ブルースの肩越しにその背後をさし示した。
そっちのテーブルには五人の客が居て、全員がブルースの話を傾聴していた。ブルースが振り向くと彼らは一斉に席を立ち、カウンターにお札を投げて、お釣りも受け取らずに逃げ出した。ブルースがカードを握ったまま千鳥足で後を追う。
「やいこら、待ちゃあがれてめえら。待たねえと逮捕するぞ」
「待ってもらわなきゃ逮捕できないくせに」
「さて、どうしましょうか。ここの御勘定はブリッジの得点で配分する約束でしたのに、あの様子では戻られそうにありませんわね」
「私が全て持ちますよ。その代わり、明日の午後は空けておいて下さい」
「明日の相談はポーカーで致しませんこと」
「受けて立ちましょう」
「ちょっと。それであたしが勝ったらどうするの」
二人は信じられないと言った顔つきであたしを見た。失礼な。
おしまい