ウェーバー 〜 メンデルスゾーン
「舞踏への招待」
一 グリーク
「交響的舞曲」より 第一曲
アレグロ・モデラート・エ・マルカート
さっきから全然動かない渋滞に、あたしはロールスの運転席で大あくびしてた。その拍子にあたしの上空をサンテレジア市警のパトロールカーが追い抜いてった。
パトカーも滅多にホバリング機能なんか使わないんだけど、道路は追い越しをかけようとした浅はかな車で反対車線までびっしり埋まってて、さすがにどうしようもないんだろう。なぜ滅多に使わないかと言うと、街中じゃほこりが舞い上がって善良な市民の苦情が殺到するからだ。
この惑星、アウロラにある三つの大陸のうち、ミッドガルド大陸への入植解禁が、地球時間にして三ヶ月とちょっとに迫った。
今までのざっと三十年、アメリカ本国の連邦政府のアウロラ植民政策は、ここシグナス島だけに限って入植を許可してて、それも数年前から新規の移民は事実上受け付けてなかった。資格要件の『身体頑健なること』とかの後に『……かつ特別の事情があるもの』って一項を設けて、それを盾に取ってたのだ。それが生態系などの調査が一段落したことから、大陸が一つ解放されることになって、それに合わせて移民規制も緩められた。
それで、この一月ばかりの間に島の人口が倍増した、と言われるほどの勢いで開拓者が押し寄せてる。でも、もとは五千万だった人口がそんなに簡単に倍になるわけないし、本当にそれだけの勢いで増えたんなら、そもそも統計とるのが追い付かないでしょね。おかげでこのところ、アウロラ州の州都エンジェルロストはものすごい人口過密である。
あたしの住むサンテレジア市も、エンジェルロストの衛星都市だけあって、結構な混雑ぶりだった。あたしエレンと相棒クリスの『スウィート&シルバースタイン探偵事務所』があるメイプル・ブールヴァードは、表通りとしては割に静かな方でいいとこだったんだけどね。ま、人が増えればトラブル増えてお客も増える、商売繁盛、言う事なしだわ。
さて、今朝もバーバラ・ロマノーソフと名乗る女性から、ある調査を依頼したいから来て欲しい、との電話があって、あたしはいそいそとその自宅まで出かける途中なのだった。
彼女の家はサンテレジアのグラスヴィルにあった。普通ならうちのオフィスから車で十分くらいの距離なのに、今日は途中で渋滞に巻き込まれて、ダウンタウンを抜けるだけで二十分もかかった。普通なら、車のナヴィゲーション・コンピューターであるハーフビターが、道端の通信ポールから交通情報をもらって、混雑を避けるように指示してくれるんだけど、それがうまく働かないってのは困ったもんだ。
さっき追い越してったパトカーのおかげか、車の列もやっとのたのた流れ始めた。渋滞の原因は何かと思ったら、なんとでかい機銃を積んだ装甲車が一台、八つのタイヤを上に向けてひっくり返ってたのだった。パトカーもすぐ横に停まって、警官がよってたかって装甲車を調べてる。最近は治安もちょっと悪いから、お巡りさんがこんな物騒のを持ち出すのもそんなに珍しくはなくなった。これもデモ隊かなんかの鎮圧に来たのかな。
そのあおりを喰ったのか、横転したり歩道に乗り上げたりした自動車も、通りのあちこちにたくさんあった。おまけにみんなそれを見ながら通過するもんで、見物渋滞がまたひどいのだ。あたしも他人のこと言えないけど。それにしても、警察が交通の邪魔してちゃしょうがないじゃないの。
グラスヴィルの一帯は、北に広がるウリエル湾にかけて緩やかな斜面になってて、海上のスペースポートがよく見えた。人工島の上に高さ八百メートルもあるカタパルトが建っていて、ここからだと指数関数の定積分を図解したみたいに見える。そこからは、地上と軌道ステーションとの間を結ぶシャトルバスが、ひっきりなしに打ち上げられていた。
あたしはロールス・ロイスのクリッパーをロマノーソフ家の前庭に乗り入れ、玄関先に停めた。ちなみにこの車は、あたしの相棒のクリスの親父さんの会社のVIPの送迎用のお古(長い……)を譲り受けたものだ。
あたしは車を降りて、クライアント宅に向き合った。周囲はさしものロールスもあんまり違和感がないくらいな高級住宅地である。家の前には芝生が広がり、隣家との境界にはバラやなんかの垣根がある。裏に回ればプールくらいはありそうだ。歩道には背の高いポプラの並木。自動車もそれほど多くない。
ドアをノックすると、さいころを積み上げたかの如く妙に四角張った家から、いかにも待ちかねていた様子で、今朝の電話のスクリーンに映ったロマノーソフ夫人の顔が飛び出した。なんだかこの家全体がびっくり箱みたいな感じだった。実物は映像で見たより一段と肥っていて、いわゆるビヤ樽型の、それもたがが外れたみたいな体型だった。黒いスカートの色がまたよけいそれを強調してる。
「あらあらいらっしゃいませ、お待ちしておりましたんですのよ。さ、どうぞ中へ」と彼女は言うや、あたしの手を取って中へ引きずり込んだ。
彼女はその強引な態度の割には悲しげな顔をしてて、下手な事を言うとたちまち泣きだしそうな感じがした。あたしはリビング・ルームに通され、彼女と向き合う形でソファに腰掛けた。
「ど、どうも遅れまして……。あたしはエレン・沢渡・スウィートです」とあたしは名刺を差し出して言った。「早速ですけど、依頼の内容を詳しくお聞かせ下さい。お電話で言われた『ちょっとした調査』だけではなんだか判りませんし、場合によってはお引受けできない事もありますから」
「それはどんな場合でございますの」と彼女は不安そうな声で訊く。どうも彼女のこのムードでは浮気の調査かなんかの可能性が高そうだ。
「例えば法に触れる事を頼まれたりした時の話です。そんな事はないでしょうけど、とにかくお話を聞かせて下さい。秘密は守りますから」
「そうでございますわね……。しばらく待って戴けません?」と問うと、彼女はあたしの返事も聞かずに部屋を小走りに出て行った。持ってたキャンディをどぶに落っことした子供みたいな表情だった。
しょうがないわね。残されたあたしは部屋の中を見回した。何世代かに渡って持ち続けたらしい、古ぼけた本棚と灯りのスタンド。それにあたしの座ってるソファと、その前のテーブル。家具と言えばそんなところだった。あたしの正面の壁にはHVのスクリーン、その向い側には、原色だらけのよくわかんない抽象画が掛けてあった。全体としては土地柄の割に簡素な印象を受けた。とりたててどうって事もない、平均より少し上の市民の応接間だった。
家事ロボットのR・ダニエルがお茶を持ってきた。それと一緒にまっ白い猫が一匹入ってきて、ソファのあたしの横に跳び乗った。あたしは他にする事もないから、その猫を抱き上げて、背中を撫でてやった。猫はそのままあたしのひざの上で眠ってしまった。きっと大事に飼われてて、人間性なるものを信じきってるのだ。
かれこれ十五分くらい経って、ロマノーソフ夫人が戻って来た。相変わらずべそかいたような表情で体を震わせてる。どうやら実際に泣いて来たらしかった。
「ごめんなさい。まだお話もしないうちから失礼してしまって」
彼女は元の所に座って、ハンカチで目頭を押さえながら話し始めた。
「あなたにお願いしたいのは、主人のグレゴリーの事なんでございますの」
そら来た、やっぱり離婚騒ぎだ。と思ったら、続く言葉で風向きが変わった。
「実は、宅の主人は先週、亡くなりましたの……」
彼女はまた泣きだした。なるほど黒いスカートは喪服か。あたしは話の展開が予期してたのと違ったので、とっさにかける言葉に困った。どうもこう言う愁嘆場は苦手だわ。相手は感情表現が大仰だし。
「それで、一体何を調べればよろしいんでしょう」とあたしは言った。
「主人は自殺したんでございますの、少なくとも警察の人達はそう言ってらっしゃいますわ。でも、私はそんな事、信じられないんでございます。なぜって、あの人は自殺なんてする性格ではございませんし、第一そんな事をする理由が全然ございませんのよ」
彼女はうつむいて、さっきR・ダニエルが置いてったラズベリー・パイに目を落とし、やにわにそれにかぶりついた。ものすごい勢いの逃避機制(この場合、俗に言うやけ食い)だった。もしかしてこれが原因でこんなに肥ったのかしら。
「で、自殺の動機を調べて欲しいって言うわけですか」とあたし。
「ええ、まあそうでございますわ」
「はあ。その以前に何か御主人の様子がおかしかったとか、そんな事は?」
「ええ、別に……。前の晩に頭が痛いって言ってたくらいでございますわ。風邪でもひいてたのかも存知ませんけど、まさかそんな事が原因とは思えませんでしょう」
それは程度によりけりだろう。風邪だと思って済むくらいなら、実際たいした事なかったんだろうけど、病苦のあまり命を絶つってのは、いくら二十一世紀も末ったって珍しい事じゃない。昔は歯痛に耐えかねて、虫歯をピストルでふっとばした人だって居たくらいだし。
「それに私、主人は本当は殺されたんじゃないかと思うんでございます」
「はあ?」
彼女は唇にパイ皮の小さな破片をくっつけたまま、そのわけを説明した。
「あの人、ひと月かあるいはもっと前に『俺が変な死に方をしたら、殺されたと思ってくれ』って言った事がございますの。その時は冗談めかしてましたので、気にも留めなかったんでございますけれど、こんな事になってみると……。私、夕べそれを思い出しまして、たまらなくなって、あなたの所にお電話差し上げたんでございますわ」
「そうですか。それで、御主人が亡くなられた時の状況はどんなだったんでしょう」
夫人が悲痛に歪む口を開いた時、同時にこの部屋のドアも開いた。彼女は金魚が泡を呑んだような顔をして、あたしと一緒にそっちを見た。黒猫が部屋に入ろうとして、レバー式の取っ手にぶら下がって開けたのだった。猫は一声鳴いて、ロマノーソフ夫人の足にすり寄った。
「まあ、メリーったら。淋しくなっちゃったのね」と彼女。
「メリーちゃんて言うんですか」
「ええ、本当はメラノーマと言う名前なんでございますのよ。ロイはどうしたの? メリー」
「メ、メラノーマ……。それじゃ、この猫は……」とあたしはひざの白猫を指した。あたしが白いスーツを着てるから、彼女は気付いてなかったらしい。
「あら、ロイケミアったらそんな所におじゃまして」
なんだか寒気がしてきた。聞くんじゃなかったわ。あたしはさりげなく白血病をひざから下ろした。猫は大あくびして、ロマノーソフ夫人の横に行って黒色腫[メラノーマ]の脇で丸くなった。
夫人はそれから「二匹とも主人が名前を付けたんでございますのよ」に始まって、以下滔々とこの猫達、ロイとメリーがいかに利口であるかを談じ始めた。だいたい、飼猫の自慢話なんてのは新婚夫婦ののろけ話とおんなじで、度を過ごすと聞かされる方はうんざりしてくる。でもその話をしてる間は、彼女もいくらか元気を取り戻したみたいだったから、がまんしておとなしく聞いてたけど。
「この子達も、あの人が居なくなって淋しいのね。あんなに可愛がってたんでございますもの」と話を締めくくり、彼女は再び泣き崩れた。
ああ、タイミングを誤った。途中でやめさせりゃよかった。同情してしかるべき場面だけど、この人の場合は泣き声のうるささが先に立つ。
彼女が落ち着くのを待って、あたしはさっき中断された話題を思い出させた。以下、グレゴリー・ロマノーソフの最後の行動は、彼女が途中何度も何度も泣いたり嘆いたりしながら話したところによる。
彼はその日は珍しく会社から(グランド・モータースの生体工学研究所だそうな)早く帰り、頭が痛いと言って二階の書斎にこもったまま、夕食も取らなかった。彼は書斎で寝てしまう事もよくあったので、奥さんがそっと様子を見に行くと、やはり机に向かって居眠りをしていた。それが夜中の二十時頃(アウロラの日付が変わる二時間前)の話で、もちろん彼はちゃんと生きていて、彼女は毛布をかけてやって部屋を出たと言う。
その夜、彼はそのまま寝室には現われず、翌朝遅くなっても姿を見せなかった。奥さんが朝食をうながそうと書斎に行ってみると、照明のペンダントにネクタイをかけて、縊死してたのであった。夫人はあわてて救急隊は呼んだものの、既に手の施しようがなかったそうだ。遺書の類はこれと言って残されてなかった。
家のセキュリティ・システムに異常はなくて、戸締まりもちゃんとしてたそうだから、彼女の主張どおり誰かに殺されたんだとしたら、一種の密室殺人と言えなくもない。もちろん、夫人かR・ダニィがやったんじゃないとしてだけど。まさか猫じゃないだろうし。
あたしは死亡現場である書斎を見せてもらった。彼女はこの部屋に入るのは嫌だと言って、外でわあわあ泣いていた。でも、ドアを閉めるとその声はほとんど聞こえなくなった。防音状態はかなりいい。普通の会話くらいなら外には全然漏れないわけだ。
クラシックな内装の書斎だ。天井の照明器具は夫人の話のとおり銅の笠が付いたペンダントで、部屋の中心に吊ってある。樫材のどっしりした机と椅子が一組あって、その椅子を踏み台として首をくくったそうだ。
既に室内はどこもかしこもきれいに片づけられてて、手がかりと言える物はなんにも残ってなかった。机の上にも、電話兼用のコンピュータ端末と、ペン・スタンドだけしか置いてない。夫人に訊いたら、警官が現場検証で踏み荒したんで、ロボットに掃除させたんだそうだ。多分、夫の生前の状態に戻したんだろう。それだったら警察の検証記録でも見せてもらった方がてっとり早いわね。
ロマノーソフ夫人、いや未亡人か、とにかく彼女の注文は、殺人犯にしろ、自殺の原因にしろ「あの人の死を納得できる材料を探して戴きたいんでございますの」て事だった。
あたしは、確約はできないが、と前置きをした上で引き受けた。彼女は両腕を広げ、あたしに抱きつかんばかりの姿勢で、何度も何度も礼を言った。あたしはセント・バーナード犬に押し倒されて顔をなめまわされたような気分だった。まだ結果が出たわけでもないのに。
そのくせ彼女は料金を値切ったんでございますの。あたしはなんだか情けなくなってきたけど、しかたないから五パーセントだけまけた。
人は、何の動機もなく自殺する事だってないわけじゃない。
メイプル・ブールヴァードの事務所に帰ると、パートナーのクリスティーン・シルバースタインがプライヴェートにあるベッドに脚組んで寝そべって、HV[ホロヴィジョン]のニュースを見てた。普段のお上品なふるまいとは明らかに違う。クリスはあたしをちらっと視線をくれて言った。
「お帰りなさい、仕事の話はどうだったの」
「引き受けて来たわ。でも、こう言う渉外担当はあんただったんじゃなかったっけ? 特に料金とか」
「まあ、たまにはあなたがやるのもいい経験でしょう」と彼女はそっけなく言う。
「あたし知ってるわよ、『御父様』から手紙が来たから機嫌が悪いんでしょ」
クリスはシルバースタイン星間運輸の社主の次女である。ゆくゆくはその会社のアウロラ支店長か何かにするつもりで、親父さんがこっちに留学させたのだった。ところが、そうした(彼女の言う『専制君主的』な)計画が気に食わなくて、こいつはアウロラ州立大卒業後も、その会社への入社を拒んでるのだった。今度の手紙にだって、きっとその事が書いてあったはずだ。まあ、そんな親子の確執なんざ、あたしの知ったこっちゃないんだけどね。
あたしの言葉に対する彼女の反応は予想した通りだった。ごまかしたのだ。
「あら、この事故すごいわね」とクリスはHVの立体画像を指して言った。そこには、あたしが今朝見かけた装甲車の事故現場が映ってた。
「あ、あたしさっきそこ通った」
彼女は気分を害してるもんだから返事をしない。しばらくは事故を説明してるキャスターの声だけが部屋を満たした。
「……この戦車はグランド・モータース社のLM8『スレイプニール』で、合衆国宇宙軍の次期正式装備のための研究用として、特殊な自律式制御機構を登載した試験車両であると言われています。同社は、アウロラにおけるロシア資本の会社としては唯一、アメリカ軍の正面装備を受注しているわけですが、この戦車が今回の暴走事故と言う形で一般の目に触れた事実は、今後の軍の審査にも大きく影響するものと思われ……」
「あら、あたし警察の機動班がデモの鎮圧でもしようとして、逆にひっくり返されたのかと思ってた」
「最近は変な人達が多いものね」とクリスがやっと口をきいてくれた。
「うん、それで仕事の話なんだけど……」
あたしはさっき聞いて来た事を、一通り彼女に繰り返した。それを聞いた彼女の見解はこうだった。
「ロマノーソフと言う姓からして、ロシアとの共同開拓時代に帰化したロシア人でしょうね。それなのにこのアメリカで飼い猫におかしなドイツ読みの名前を付けるなんて、そんなひねくれたユーモアの持ち主なら『俺が死んだら』云々と言うのも、たちの悪い冗談に決まってるわ」
まったくだ。
二 ポンキエルリ
歌劇「ジョコンダ」から
時の踊り
エリーが請け負ってきた仕事は至極単純だった。
要するに依頼人の夫の自殺がほんとうに自殺である事を証明すればよい、ただそれだけの話だった。それならば警察に行って、捜査の記録を見せてもらえば用は足りる。あとは彼女が納得するように、故人の身近にいた人々に聞込みでもすれば充分であろう。筋が通ればそれでよし、どこかに矛盾が見つかって殺人犯でも判明すれば、警察に貸しをつくる事になる。
街の混雑は確かに昔よりもひどいが、今朝エリーが巻き込まれたと言う大渋滞は、既に解消していた。平日の真昼の事とて歩くに困るほどの人出ではない。車で行くほどの距離でもなし、私達は警察署まで歩く事にした。
シグナス島は今や晩秋である。メイプル・ブールヴァードのかえでもあらかた散り、往来は風が描いた赤や黄色の落葉によるアクション・ペインティングをなしていた。
雑踏を縫って歩くあいだ、エリーは依頼人の猫の話ばかりしていた。なんのかのと言いつつ、よほど気に入ったらしい。私はそれを聞き流しながら、父からの手紙の事を思い出していた。
エリーが先刻指摘した通り、私はその手紙のために気が滅入っていた。内容はいつもの如く、星間運輸への参画のお誘いだった。取り合わなくても一向に構わないのだが、今回はなぜかそれが心の内にわだかまって離れなかった。この季節のなせるわざなのかも知れなかった。そして故郷のかえでの思い出の。
エアリアル・ストリートの交差点を左に曲がれば、警察署はすぐである。その建物は異常に多くの人々が出入りしていて、中に入るには人混みをかいくぐる必要があった。その道の専門家が揃っている場所なのだから、交通整理でもすれば良さそうなものだった。
署のロビーでは、何かの行事が催される予定でもあるらしく、警官らがテーブルを持ち出し、折り畳み椅子を床に並べていた。この混雑もそのためなのだろう。
私達はそのロビーの一隅で、とりあえず一般人向けのインフォメーション・ネットワークの端末から、問題の事件に関する捜査のファイルを引き出した。情報公開の原則にのっとって設けられた制度で、一通り片付いて特に秘する必要のない事件であれば、その捜査記録が公開されるのだ。我々の事務所にいても引き出せるのだが、ここまで来れば実際に捜査を担当した人に話も聞けるし、うまくいけば非公開の資料や証拠物件も見せてもらえるかも知れない。
ファイルの中には、もちろんエリーが口頭で聞いて来た以上の内容が記されていた。
死亡者の氏名はグレゴリー・ロマノーソフ、男性、三十二才、既婚、子供はなし。死亡状況は概ねエリーが聞いた通りで、殺人を疑わせる物証は特になし。死亡推定時刻はおよそ朝の一時半から二時半。発見時、机の上のコンピュータがつけたままになっていたが、何かの作業をしていた形跡はなかった。現場には本人と奥さんのものを除いて指紋はほとんどなく、あっても古いもので事件とは無関係と思われる。
検屍報告にも別に異常はなく、縊死に見られるごく当り前の変化しか認められていない。いわく頚部に帯状の圧痕、頚椎の損傷、眼球の突出、と言ったぐあいである。あまり想像したくはない描写である。警察は遺体の写真も撮ったはずだが、幸いこの資料には含まれていなかった。遺体は未亡人に即日返還されている。
その他に彼の交友関係、職場の同僚など、五十人ばかりのごく簡単なリストも添えてあった。それらの人々はほとんど捜査の対象にはなっておらず、ごく一部に事情聴取を行っただけだった。要するにこの一件は単純な自殺事件として扱われているのである。実際、このリストにある人々の全てに当たってみたところで、時間の無駄と言うものだろう。
私はこのファイルをハードコピーした。レター・サイズで十二枚。エリーがもらい忘れてきた本人の顔写真もあった。やや太りぎみで、左側の頬に細い目の横から口の端にかけて微かな傷跡が走っている。それが最大の特徴と言えた。
私としては、このたばを夫人に突きつけておしまいにしたかったが、そんなわけにもいくまい。彼女としても、この内容くらいの事は承知の上で依頼してきたのだろうから。
「さて、これからどうしましょうか」と私はエリーに言った。
「一応、担当者に話でも聞きましょ。これ以上の事は出てこないかも知れないけど。あとはそのリストの人達に何人かインタビューかな」
端末から離れて振り向くと、そこには殺人課のグレイン警部が立って私達をながめていた。私達が警察関係ではなにかと御世話になっている人である。以前、私達がとある人物の素行調査を頼まれて尾行していたところが、それが彼の追っていた殺人事件の共犯者だったことがあった。その共犯者逮捕の功が警部に帰して以来、彼は私達に目をかけてくれているのだ。
彼は思いのほか長い時間、私達を背後から覗いていたらしく、開口一番こう言った。
「自殺事件の捜査かい。保険屋の手伝いかなんかかね」
「故人の奥様が、これは殺人ではないかと疑い始めたんですの。この事件は御存知ですか」と私はコピーを見せて言った。彼はその表紙にさっと目を走らせて答えた。
「私は関わってないがね。うちの課からも一人出向いてるな。ほら」と書類上に記された署名の一つを指した。
「その人、今どこにいるの」とエリー。
「彼はエンジェルへ、昨日の集団自殺の捜査に行ってるはずだ。ここには居ないよ」
「エンジェルロストなんか管轄外じゃない」とエリー。
「彼は偽装殺人の専門家でね。集団自殺も先月からこれでもう三件目だから、何か裏があるんじゃないかって引っ張り出されたんだ。その彼が自殺だって言うなら、君らのやつは本当に自殺なんだろう。頼むから下手にいじくり回したりしないでくれよ。いつぞやの騎兵隊ごっこなんかもう御免だぜ」と彼は後ろを振り返りながら言った。
「それでは今度はロビン・フッドごっこにしましょう」と私は言った。
彼の話にあった集団自殺とは、一昨日エンジェルロストのコンピュータ会社、プレイ・インフォメーション・サーヴィスで起きた事件であった。十三人のオペレータが社屋の屋上から何の理由もなく次々と飛び降りたが、建物が三階建てで下の地面が雨上がりの芝生だったため、全員が軽傷で済んだと言う。
しかしそれに先立つ二件では、片やスペース・ポートの管制官、片や小学校の児童が同様に投身自殺を図り、合わせて三十余人が死亡していた。スペース・ポートの事件では、危うく乗客を満載したシャトルバスまで巻き添えで事故を起こすところだった。
もしもこれら一連の事件の原因が共通であるのならば、今回の生存者は格好の手がかりとなるはずである。ところが彼らは手当の後もいまだ一人として意識が戻らず、捜査ははかどっていない。先程出掛けに聞いたニュースでは、そう報じられていた。
「ロマノーソフ氏の場合とその事件とは、関係ありませんでしょうね」と私は訊いた。
「私が知るわけないだろう。知ってるくらいならこんな事件はとっくに解決して、隣のアップル・コアで打ち上げパーティでもしてるさ」と彼は肩をすくめて「とにかく、このところ自殺やら殺人やらテロやら発狂やらやたらに起きて、こっちは参ってるんだ。そんなに何もかも関係があるとは思えないだろう」
「社会学者は人口過密のせいにしてるわよね。レミングじゃあるまいし、ほんとかどうか判んないけど」とエリー。
「それが正しけりゃあと三ヶ月の辛抱だがね。大陸の開放で世間が落ち着くようだったら、私はしばらく休暇を取って、大陸へ土地の奪い合いでも見物に行くよ」
彼はまた後ろを振り向いて、ロビーに群がる群衆を眺め渡した。よく見るとそれらはみな報道関係者で、先程フロアの一角に設置されたテーブルを取り囲んでいた。
「何が始まるの」とエリー。
「今朝の戦車の一件は知ってるかね」
「存じておりますわ」と私。
「それの開発関係者が事情聴取を受けて、これから記者会見をやるのさ。こんな所でやらないで、いっそ裏の駐車場にすればいいんだがね。戦車の実物も置いてあるし」
「その会見を御覧になるためにいらしたんですの」
「なに、警備の名目で一服しに来ただけだよ。おかげで君らにも会えて嬉しいね」と彼は気もそぞろで私達の方を見もせず、報道陣の背中に向かって言った。
「御世辞言ってないで、こっちの事件についてあなたのご意見を聞かせてくれないかしら」とエリーは、彼が着ている黒い警官用ジャケットの袖を引っ張った。
彼は渋々こちらを向き、検屍報告に目を通した。彼は鼻を鳴らし、報告書を手の甲で叩きながら私達に言った。
「何の問題もなさそうだね、死体に殴られた痕ひとつあるわけでもなし、首にはネクタイの跡のほかには何もないし、薬物の反応だって出ていない。これ以上調べたければ墓荒らしでもせにゃならんね。一体どうして、その奥さんは殺しだと思ったんだい。事情聴取じゃそんな事は一言も言ってないらしいが」
「旦那さんが昔、俺が変死したら殺されたと思えって、余計な事言い残してたのよ。それを夕べになって思い出したんだって」とエリー。
「殺されたと思って欲しいなら、なんだってまたその旦那は自殺なんかしたんだい」
「あたしに訊かないでよ。それをこれから調べるんだから」
グレイン警部は肩をすくめ、人混みの中に消えて行った。私もこんな事件より、記者会見でも聞いていたい気分だった。エリーはもう外に出ようと言い出した。
会見が始まり、HVのカメラに囲まれたテーブルを前に、五十路も半ばを過ぎた歳格好の男が立った。その人物が紹介されるや、帰りたがっていたエリーも前言を翻した。
その人はグランド・モータース生体工学研究所の主任研究員、アンソニー・ベネットだった。先程のリストにあった、故グレゴリー・ロマノーソフの直属上司である。何か因縁めいた巡り合わせであった。記者会見中は無理にしても、その後にロマノーソフ氏の人柄なりと訊ねる事はできよう。
紹介が済むと、彼の横に座っている捜査課の刑事が、この事故の概略を説明した。
「ええ、暴走しました戦車は、グランド・モータースにおいて、宇宙軍の次期降下支援戦車の開発をめざし、インターナショナル・バトル・マシーンズと共同で、研究が進められていたものです。幸い死者も出ず、大事には至らずに済みました。それではベネットさん、どうぞ」
ベネット氏はうながされて、うなずいた。本来の亜麻色がそこだけ白髪となっている一房の前髪が揺れた。彼はゆっくりと話し始めた。
「まず始めに、この度のような不祥事を引き起こしました事について、サンテレジア市民の皆様方に深くお詫び申し上げます。私共と致しましては、二度とこのような事故を繰り返さない旨、堅くお約束致します」
型通りの口上を述べると、彼は報道陣を軽く見回した。その痩せ型の顔に似合わない低い声だった。彼は続いて事件の発生状況を説明した。
「問題の車両は、宇宙軍の現用装備である降下戦車『スレイプニール』に対し、ASPS、自動作戦設定機構(AUTO STRATEGY PLANNING SYSTEM)を登載し、運用試験を実施していたものです。このASPSは、現在ブレイン級のコンピュータ上で行なわれている作戦指示とほぼ同等の判断能力を持ち、これを兵器ごとに個別に装備する事によって、戦況の変化に対する即応性をより高めようとするものです」
ここで、メモやカメラの隙間から、質問が一つ出た。
「そのような場合、戦車が各々勝手な行動を取って、部隊としての統一が失われる恐れはないのですか。今回の暴走のように」
「もちろんその可能性はあります。しかし、それは本来の指揮系統に重大な混乱を生じた場合のみに限られます。その際にも、従来のいわゆる自動兵器より的確な判断を下せるように設計されていました」とベネットは苦々しげな表情で「そしてそれが今回は裏目に出てしまったのです。詳細は解析中ですが、どうやら撤退命令の解釈が我々の予期していた反応と異なり、周囲に存在する動目標を全て敵と判断して暴走に至った、と考えております。つまり、問題の戦車はただ逃げ回っていただけなのです」
先程とは別の記者が立ち上がり、彼に訊ねた。
「その試験は、いつ頃から、どこで行なわれていたんですか」
「試験自体は開始したばかりです。まだ一ヶ月程度ですね。普段は地下の実験場を使用していましたが、機密保持上その場所はお教えできません。たまたま今朝は走行試験のため、当社のビルの屋上にある、普通乗用車の試験場で実施していました」
「それはかなり危険な事じゃありませんか。仮にも兵器なんでしょう」
「もちろん武器には実弾は装填していませんでした。また、たとえ運転を誤っても屋上からは落下しないように、頑丈なフェンスが設けられていました。ところが今回は、なにしろ空挺作戦用の降下戦車であったため、着地のためのスラスターが装備されておりまして、屋上から軽く跳び降りて逃げ出してしまったのです。我々の不覚でした」
報道陣の間に静かな笑い声が起こった。さしたる被害も出なかったためか、会見の雰囲気は総じて和やかだった。
記者会見はその後さらに二十分ほど続き、開発のそもそもの経緯の説明から、この種の兵器の自動化に関する倫理的側面にまで質問が及んだとき、一人の顔色の悪い女性記者が発言を求めた。
彼女はいささか的を外れた戦争反対論を延々と述べたて、居並ぶ報道陣と、ベネット氏を捕まえるべく待ち構える私達とを、少なからずいらだたせた。彼女は自動機械が人間を殺すことにいたく不満なのだった。ベネット氏は困惑した表情で黙したままそれを聞いていた。
記者席が彼女に対する非難の声でざわつき始めたころ、やっと彼女は話し終えた。ベネット氏は言下に言った。
「おっしゃる通りですな。ぜひ安保理事会での演説をお願い致したい」
一座の儀礼的な笑い声の頂点をねらって、彼の脇に座っていた刑事が、会見の打ち切りを宣言した。
「それではそろそろ予定の時間も超過しておりますので……」
ベネット氏が席を立つと、なお食い下がって質問を試みる者、急ぎ電話に走る者、座席で電話をかける者、足早に会場を後にする者で、広くもないロビーは極度の混乱に陥った。私達は一番後ろの席に居たため、彼に近付く事すらできなかった。
騒ぎがいくらか収まった頃、私はベネット氏の代わりに、のんきに記者席に居残っていたグレイン警部を捕まえた。
「今のベネットさんに、お会いしてお話を伺いたいのですけれど、どちらにいらっしゃるのか御存知ありませんかしら」
彼は、なんだまだ居たのか、と言わんばかりの態度で私達を見上げて答えた。
「おいおい、戦車の話なんか君らにゃ無関係だろうが」
「おっしゃる通り、あなたほどには戦車に興味はございませんわ。ただ、あの方は私達の故人の上司なんですの」
「ふん、なるほど。多分捜査課に居るだろう」と彼は言った。
私とエリーは捜査課のある二階に向かった。警部も一緒に来てくれたが、肝心のベネット氏は帰ってしまった後だった。私達は彼を追って、ちょうど二階に止まった下りのリフトに飛び込んだ。一般人の駐車場は地下である。しかし、リフトのドアが開くと同時に、私達の目前をベネット氏自身の運転する自動車が横切り、彼に追い付く事は終にかなわなかった。
ともあれ、私達は警察署までやって来た当初の目的は果たしたわけである。それ以上の成果が得られずとも、不平を言う筋合いではなかった。むしろベネット氏の尊顔をあらかじめ拝する事ができただけ、好運と言うべきだった。彼にはまた改めてアポイントメントを取ればいい。私達は宴の後の如く閑散としたロビーを抜け、警察署を出た。
街路樹の枝を透かして瀝ぐ日の光に照らされて、歩道に散り敷く木の葉を踏みながら、エリーは今度は戦車の話ばかりしていた。私は青空に網を張る木々の枝を見上げながら、古人の詩の一節を思い浮かべていた。
「何一つ空しいものはない。科学へ、進め」近代の『伝
道の書』が、というのはつまり誰も彼もが喚いている。
だがやっぱり、根性曲りやのらくら者の死屍は、あとか
らあとから人々の胸の上に斃れてくる、……ああ、早く、
早く見せて欲しいものだ、夜闇を越えて、彼方には、
人々の未来永劫の酬いがある、……酬いをどうして逃れ
よう。……
三 ドヴォルザーク
スラブ舞曲 第六番
昨日警察署からオフィスに帰って、クリスはグランド・モータースのベネットさんに電話した。
「グレゴリー・ロマノーソフ氏の件でお話を伺いたいのですが」と彼女が言ったら、スクリーンの中の彼はなんとなく迷惑そうな顔を見せた。
クリスが続けて「できましたら会社の同僚の方々にもお会いしたい」旨、バカ丁寧なイギリス語で頼むと、今度は露骨に嫌そうな態度で眉をひそめた。
彼はその朝から戦車がらみのごたごたで、いいかげん質問されるのにうんざりしてたらしく、そっちの取材と関係ないのなら、と断わった上で翌日会う事を承知した。まだなんにも訊かないうちから、彼の顔にはこう書いてあるみたいな気がした。
『ノー・コメント』
とにかく彼を会社に訪問する約束は取り付けたんで、あたし達は今朝、まず先にロマノーソフ夫人のもとを訪れた。彼女の自筆になる紹介状をもらって来い、とベネットに言われたからである。かなり神経質になってるみたいね。
夫人はあたし達を迎えると、まず初対面のクリスを見て「まあ、可愛い探偵さんも居るものね」と言った。クリスがむっとしたのが判る。夫人はほめたつもりだったのかも知れないけど、こいつはかなりまずい事を言ったもんだ。クリスは他人から幼く見られるのを何よりも嫌う。その次に嫌いなのは米語の俗語[スラング]だ。
でも、クリスの方にもちっとは責任があった。襟にレースの付いた白いブラウスにたんぽぽ色のネクタイをしめて、茶色のブレザーとフレアスカートと言う出で立ちである。背丈と童顔はどうしようもないけど、どっから見たって二十三には見えない。この少女趣味はこの娘の一種の擬態で、時と場合と相手によっては効を奏する事もあるんだけど。
あたしは紹介状を頼み、それを承知した夫人が一筆したためてる間に、昨日警察で調べた報告書の話をした。やっぱり彼女はそのレポート程度の事は充分知っていた。あたしは彼女に、その中の人名のリストに目を通して、つきあいが深かった人物や、チェックすべき人物を拾い出しといて欲しい、と頼んだ。
「亡くなる前に、御主人はなぜ俺が死んだら殺されたと思えって言ってたんですか?」とあたしが訊くと、彼女はペンを置いて震え声で話しだした。まずい、また泣き出すかな。
「あの人は……確か自分の研究内容が産業スパイに狙われてるって言ってましたわ。何の研究なのかは教えてくれませんでした。聞いてもわからなかったでしょうけど」
なんだか、今時の三文ドラマでもやらない展開になってきた。語り手はもちろん大真面目である。クリスがあごをしゃくって何か言おうとしたんで、あたしはそれを遮って口を出した。どうせ皮肉の一つも言うつもりだったんでしょ。
「でも、殺しちゃったらかえってスパイには都合が悪いんじゃないかしら。そう言う場合は相手の弱みを握るとか、あるいは弱みをでっちあげて脅すってのが常套手段じゃありません?」
「さあ、私はそう言う事にはあまり詳しくありませんの。だからこそ、あなた方にお願いしたんですわ」
なるほど、もっともだわ。
「では、電話をかけている最中に変な音がしたり、相手の顔が映らないとか、いたずら電話や間違い電話が増えたとか、そんな変化は最近ありませんでした?」
「いいえ。御座いませんわ」
「HVの画像にノイズが乗るとか」
「それも別に……いえ、そう言えばあの日、夜中に一度様子を見に行った後ですけど、私がAHV[アウロラ・ホロヴィジョン]のブービー・ショウを見てましたら、ちらっとあの人の顔が映ったような気がしたんですの」
「それは、その時だけですか? 時刻は何時頃だか憶えてます?」
「その時だけだと思いますわ。時間もよく憶えてません。その時は、きっと気のせいだと思って、大して気に留めて居ませんでしたから。でも、今考えるときっとあれはあの人が亡くなって、最後のお別れに、やって来て……」
彼女はまた泣き始めた。ブービー・ショウは夜の二十一時から零時までの一時間だから、死亡推定時刻より前だ。スパイが盗聴してたって事でもないだろうし。
にしても、あんなしょうもない番組見てる人なんて居たんだ。まあそれでなきゃ放送が続くはずないから、当たり前って言や当たり前だけどね。
あたしはとにかくベストを尽くしますと言って、まだ泣き続けてる夫人を残してその家を辞した。結局あたしはクリスにロマノーソフさんとは口をきかせなかった。まあ彼女とてみすみす客を逃がすような事は言わないだろうけど、昨日から情緒不安定みたいだから、用心した方がいい。
グランド・モータースの生体工学研究所は、サンテレジア市の東の外れで、ダウンタウンからサンライズ・ビーチに行く途中にあった。ここには同社の試作工場とテストコースがあって、かなり広大な敷地をしめていた。以前に聞いた話によると、ここでは車のテストコースを社用機の滑走路にも使ってるんだそうだ。STOLだろうけどね。
サンテレジアの街中から海岸にでる時には、その会社のすぐ横を通るハイウェイ・A37を抜ける事になる。やたら目立つ看板も建ってるから、グランド・モータースと言えばこの場所だけは誰でも知ってる。ここの敷地の中に例の研究所も入ってるのだった。
念のため車のハーフビターに、ウィンド・シールドへ地図を写してもらう。ところが、珍しい事に故障してるのか、指示と全然違う場所の地図が出てきた。この装置は、主要道路上では道端のアンテナから交通情報をやりとりしてるはずだから、こんな壊れ方はちょっとおかしい。まあ、知ってるとこだから迷う心配はないし、地図がなくたっていいようなもんだけど。
さて、場所は判ってても入口が判んない。A37号線から入れると思ってたんだけど、会社の横を通過してもそれらしい枝道さえない。結局、会社の看板のそばに車を停めて、道順を確認した。ずっとサンテレジア寄りの所から私道にそれなきゃいけなかったのだ。
さんざ遠回りした挙げ句、あたし達はやっとこさ会社の正門にたどり着いた。あたしは車を降り、東洋系の顔立ちをした警備員に言った。
「生体工学研究所のベネットさんにお会いしたいのですが」
「誰だね、あんた達は」
彼はあたしを上から下まで不審そうに眺め回し、濁声で言った。あたしが正直に探偵だと答えると、彼はなおのこと曲者を見る目付になった。彼はあたしから目を離さぬまま、左肩にぶら下げた電話のボタンをちょんちょんとつついた。
「ああ、正門です。ベネットさんを……いまこちらに探偵だと言う方がおみえですがね……そうですか。わかりました」
警備員はあたしに『行ってよし』の仕種をして見せた。
こっちまで面会の連絡が来てなかったのかしら。彼は走り去るあたし達の車からも、ずっと目を離さなかった。うっかりしてた、あいつの名札を見ときゃよかった。
あたし達の車はぼろとは言え地球製のロールス・ロイスで、メンテナンスにやたらにお金がかかる代わりに変に信用が高まる。しかし、ここの警備員にはそれも通用しないらしい。まさか盗品だとでも思ったわけじゃないだろうし。それとも、ここはいわゆる大衆車がメインの会社だから僻んだのかしら?
道沿いにある立札に導かれて目指すのは、淡いグリーンのタイルを張った四階建てのビルである。角を丸めた角柱型で、高さより幅の方がはるかに大きく、背後の丘に半分めり込むように建ててあった。遺跡から出土した、巨大なオイル・サーディンの缶詰みたいだった。周囲には外に高い建物は見当らない。構内にはたくさん木が植えてあって、その隙間から平屋の工場風の社屋がいくつか見え隠れしてた。
目的の建物は一階(?)が半地下式になってて、二階にある入口までは十段ばかり階段を登らなきゃいけなかった。
ガラスの回転ドアを入ると、その上の階まで吹抜けのロビーになってて、クリスの好きそうな室内楽が微かに流れていた。床には一面にペンローズ・タイルが貼ってあった。色は淡い青と緑で一個の大きさが十数センチメートルくらいだから、見下ろしながら歩くとちょっと目が回る。
ベネット氏は白い前髪ですぐ判った。彼はさっきの連絡で、ロビーに来て待ち構えてたらしかった。彼も昨日の電話でこっちの顔は知ってるから、入口の階段にあたし達の姿を見つけると、すぐに近寄って来た。
あたしの予想よりにこやかに、彼は「こんにちは」と言った。まずまともなあいさつだった。
「誠にお忙しい所を申し訳ありません」とクリスも無難な答えを返す。
彼は夫人の紹介状に目を通すと、商談用の小部屋にあたし達二人を案内した。片隅に自動車雑誌『MOTOMANIA』の最新号が載ってる小さなテーブルをはさみ、彼はあたし達と向き合って座った。一応名刺を交換する。
彼はクリスの名刺を見ると、本人と比較してちょっと変な顔をした。この娘が『あの』シルバースタインなのかどうか、確かめようとしたらしい。グランド・モータースは、シルバースタイン星間運輸[Interstellar]が使ってるシャトルバスの、アウロラにおける製造元である。つまりクリスはこの会社にしてみれば、大の御得意様の御嬢様にあたるわけだった。
そう言うしがらみの嫌いなクリスが知らん顔してるので、彼はその問題はひとまず棚上げにしたらしく、特に確認もせずに用件に入った。シルバースタイン姓の人間に会う度に、へどもどしてもいられないだろう。
「ロマノーソフ君の話でしたね。何かおかしな事でも見つかりましたか」
「いいえ、何もありません」とあたし。言った後で、とっても間抜けな発言である事に気が付いた。もう遅い。あたしはあわててつけ加えて「ただ、奥さんが、もしかしたらあれは殺人だったんじゃないか、と言い出したもんですから」
彼の目が殺人と聞いたとたん、さっと曇った。大してあてにはしてないけど、もしかしたらなんか知ってるのかも知れない。
「ほう、どうしてまたそんな事を?」と彼はグレイン警部とおんなじ事を訊く。
「奥様がおっしゃるには、ロマノーソフさんが生前、産業スパイに命を狙われている、と話されたらしいんですの。何かお心当りはございませんか」とクリス。
スパイと聞いて、ベネットの目が今度はクリスの方を睨んだ。そう言う事ならおまえらの方がよっぽど怪しい、と言いたげな目付きだけど、シルバースタインの手前、そうあからさまにもできないらしい。無責任に見てる分にはなかなか面白い。
「いかにもグレッグが言いそうな冗談ですね。あの男は大真面目にその種の冗談を言って、人を担ぐのが得意でしてね。年中エイプリル・フールのような男でした。まさか家庭でもそうだったとは知りませんでしたが」と彼は苦笑した。目が笑ってない。
「私共の方で、警察の検屍報告を確かめましたが、やはり自殺の線は動かしがたいようですわ。恐らくあなたがおっしゃる通り、冗談だろうとは思いますが、それでは奥様が納得なさらないものですから」
「そうですか、あの奥さんはなかなか押しの強い人ですからね。私も何度かお会いしましたが」
「そうですね」あたしは同意した。
ベネットさんは椅子に寄りかかり、足を組んで話を続けた。
「残念ながら奥さんが喜びそうな……いや失礼、喜びはしないでしょうが、そんな話には心当りはありませんね。産業スパイに敏感なのは主に自動車の開発セクションでして、我々のように基礎的な研究をしている者は、それほどでもありません。どのみち成果は学会などでも発表するわけですし、たとえ我々の情報を盗んで行ったとしても、使い途もないでしょう」
「ニュースでは、昨日の戦車についてはだいぶ秘密裏に開発をなさっていたように報じていましたわね」
クリスの言葉にベネットさんは腕を組み、渋い顔になった。
「ええ、あれはインターナショナル・バトル・マシーンズとの共同開発でしてね。向こうが秘密にしたがっていたわけです。とりあえず制御部はうちでやる事になってまして、目下、既存の車体に登載して実験していたところですよ」
「それは昨日の記者会見でもおっしゃってましたね」
「おや、お聞きになりましたか。HVのニュースででも?」
「いえ、昨日、サンテレジア署へ事件について……ロマノーソフ事件について調べに行った時に、ちょうど会見が始まったものですから。それにしてもあなたの御専門は生体工学ですよね。生体工学って守備範囲はよく知りませんけど、戦車の制御装置の話でどうしてあなたがお出かけになったんですか?」
あたしが彼に訊くと、彼はいよいよ不機嫌な顔つきになった。昨日の記者会見でもやっぱりその類の質問が出て、そこで女性記者が割り込んで演説し始めたもんだから、はっきりした答えはしてなかったのだ。
「いやなに、ASPSの開発には、生物の脳における思考パターンを参考にしたものですからね。うちも、と言うのは生体工学研の事ですが、多少とも関わっているのです。それで責任者として私が引っ張り出されたわけで。損な役まわりですよ」と彼は自分を嘆いてみせた。演技はそんなに下手じゃないんだけど、あたしにはあんまり哀れには見えなかった。
「ロマノーソフさんはそのお仕事をやっていらっしゃったんですの」とクリスが訊いた。
「直接この件には従事していませんでした。彼は動物脳の能力増大に関する研究を行なっていまして、まあ間接的になら関係ないでもないと言っていいでしょう。しかし、彼の死亡とこの暴走事故とは無関係でしょうね。時間的に順序が逆であるならまだしも」
「そうですわね。いずれにしてもあなたとしては、ロマノーソフさんの事でお心当りはございませんか。自殺だとしても、その動機ですとか」と言って、クリスはちょっと首をかしげた。
「ええ、私の方こそ友人の一人として、奥さんと同様に彼の亡くなった理由を知りたいところですよ」
「奥様によれば、ロマノーソフさんは当日、頭痛を訴えていたようですが、職場ではいかがでしたか」
「さあ、思い当たりませんね。なんでしたら他にも誰か、彼の同僚でも呼びましょうか」
あたし達はそうしてくれたら有難いと言った。彼はテーブルの隅に作り付けになってるインターフォンで、フレデリック・リーなる人物を呼んだ。確か警察の調書にも載ってた名前だ。ベネットさんはあたし達に説明してくれた。
「今から来る人間は、彼とよく一緒に仕事をしていましてね。このところ傾向の違う仕事をやっていましたが、まあ簡単な説明くらいはできるでしょう。昨日、あなた方を御案内するよう言って置きましたから、ついでに見学でもなさって行って下さい」
それからしばらくは当たり障りのない話が続き、やがて呼ばれた当人がやって来た。リーさんはドアを半分だけ開け、細面の顔を突っ込んで中を覗き込んだ。彼はベネット氏と目が合うと「や、こっちでしたか」と言って入って来た。彼はあたし達二人に軽く会釈して、ベネット氏の右隣に腰掛けた。
「いやあ、間違って隣のボックスに入ってしまって。遅れて申し訳ないです」と彼は頭の後ろに手をやって言った。
「いいえ、そんなに恐縮なさるほど待ちませんでしたわ」とクリス。
「それでは、私は失礼します。ロマノーソフ君の仕事なら、こちらのリー君の方が詳しいですよ」とベネットさんは椅子から立ち上がって言った。
「詳しいって言うなら、シンシアの方が……」
リーさんが口をはさむと、ベネットさんは彼に鋭い視線を向けた。
「しかし居ないものはしかたないだろう。じゃ、後は頼んだよ」とリーさんに言い残し、彼はこの部屋から去った。
「それじゃ、私らも行きましょうか。歩きながら話しましょう。グレッグの研究成果なりとお目にかけますよ」とリー氏は言った。
あたし達三人は応接室を出て、少し奥にある階段を一階分登った。
「さて、このフロアが、わが生体工学研究所ですよ。建物自体がだだっぴろいんで、全部お見せするのは勘弁願います。屋上は車のテストコースの一部になってるくらいです」
リーさんは、すれ違う女性社員にウィンクなんか送りながら『資料展示室』と書かれた部屋にあたし達を案内した。
「ここはグレッグの研究とはあんまり関係ないんですが、近い所から順に見て行きましょう」と彼は言った。
そこは主に義手や義足、あるいは義眼と言った、障害者向けのサポート機器を中心に展示してあった。なるほど生体工学ってのはこう言う事だったわけだ。展示品やその説明板など、見るからに外部の人間の見学用としてしつらえられた部屋で、企業イメージの向上にはもってこいの内容だった。なんだかマネキン人形の倉庫みたいでもあるけど。
「この辺の機械が私の領分でして」と彼は自慢げに言った。「もっとも近頃じゃ、大抵の怪我や障害は医者が整復しちまうんで、このての装置はあまり人気がないんです」
「これはやっぱり、自分の本物の手足みたいに、自由に動かせるわけですよね」とあたしは訊いた。あたしゃ学校で、彼のライバルである医者のための講義も受けてたんで、この程度は今さら訊くまでもないんだけど。ま、つきあいってやつね。
「もちろん。つねられればちゃんと痛いんですよ。やろうと思えば、内臓の一部も含めて、ほぼ全身をサイボーグ化する事だって不可能じゃありません。ただいろいろと倫理的な問題もありまして、他にどうしようもないくらいの重傷でないと、そこまではやりません。実際、そんな人はあまり見かけないでしょう?」
「闇でやってる医者もあるって話ね」
「ええ、噂では。どうやって部品を仕入れてるんでしょうね。うちとしちゃ、そんな医者には製品を卸してないんですが」
彼はそこらの展示品についてひとくさり説明してから、ちょっと離れた別の部屋に連れてってくれた。途中から床のタイルの色が赤系に変わった。そっちの部屋は見学コースからは外れてるらしくて、客に媚びる造りになってなかった。
そこには小さなたんすくらいのコンピュータが一台と、お猿さんが一匹居た。アカゲザルかなんか、中型の真猿類だった。檻に入れられたりもせず、床の上を自由に歩き回っていた。あ、目が合っちゃったわ。
「この猿がグレッグの研究テーマです。名前はイカラス、そっちのコンピュータはディダラスです」とリーさんは両手を広げて紹介した。「私も技術的に細かい事はよく知らんのですが、とにかくそのコンピュータを使って、この猿の知能を高めようとする実験ですね」
なるほど、よく見ると猿の頭の後ろから細いケーブルが一本出ていた。
クリスがリーさんに「放し飼いにしておいても大丈夫ですの」と訊いた。答は思わぬ方角から帰ってきた。
「もちろんですとも。引っ掻いたりは致しません」
答えたのはコンピュータだった。リー氏は短く笑ってあたし達に言った。
「今の発言の主はイカラスなんですよ。ディダラスのOIを借りて、けっこう高度な会話ができるんです。チェスも強くて、この間は社内のチェス大会で優勝しましてね。そうだろう、イカラス」
イカラスは「はい」と言った。あんまり高度な返事ではない。
このOI(オペレーティング・インテリジェンスの略だ)の声は、うちの事務所で使ってるセキュリティ・システム(愛称セミスウィート)の声と同じ、渋いバスだった。この機械もうちのと同様、アドミラル・エレクトリック社製なんでしょ。アウロラの企業は、このグランド・モータースも含めて、寡占状態にある業種が多いから。
「そのチェス大会は、参加資格が社員のみだったんですが、こいつがディダラスから会社のブレインに介入して、選手として登録しちまったんです。試合はネットワーク上で匿名で行なわれる覆面トーナメントでして、自分が誰と戦っているのか判らなかったわけです。それが最後になってトーナメント表が公開されて見たら、優勝者がなんと猿だったってわけで」
なるほどそう言われてみればこのお猿さん、何となく知的な眼差しをしてるわ。クリスがしゃがんで猿の頭を軽く叩きながら、リー氏に訊いた。
「本当にこのイカラスが話したんですの。これくらいの事は、猿を繋がないコンピュータでも話せると思いますわ」
うん、あたしもそう思う。
「ははは、猿を繋ぐんじゃありません。コンピュータを猿に繋ぐんです。それじゃ主客転倒ですよ。グレッグにその間違いを言うと怒りましたね。『そんな事を言う奴こそディダラスに繋いで、ニューロンを編集してやるぞ』って。いや、彼はノイロンと発音してたか」とリーさんは言った。
「あの機械はそんな事もできるの? まさかねえ」とあたし。
「いやあ、冗談ですよ。本当にできれば大したもんですが、ディダラスはそんなに大規模なコンピュータでもありませんしね。そこまでの芸はありません」
「もちろんコンピュータを繋がないままでは、イカラスもただのお猿さんなのでしょうね」とクリス。
「まあ私はただの猿よりは値が張るでしょう。少なくともこのケーブル代の分は」と言って、イカラスは自分の頭から伸びるケーブルを引っ張りながら、あたし達に微笑みかけた。
声がちょっと離れたところから聞こえるのはともかく、あたしは猿がにっこりしたところなんて見るのは初めてだ。
あたしはイカラスに、ロマノーソフさんの死について何か知ってるかどうか訊こうかと思ったけど、なんだか訊く気になれなかった。相手はたかが実験材料の猿で、個人の心の中までは知らないだろう。それに横で説明してるリーさんの話を聞く限りでは、実験そのものはうまく進んでたらしい。仕事の行き詰まりで自殺したってわけでもなさそうだ。
その代わりに、あたしはリーさんに別のことを訊いた。
「さっきちょっと話に出た……ええと御名前はなんでしたっけ、ロマノーソフさんのお仕事をよく知ってると言う……」
「ああ、シンシアですか。シンシア・フォーチュンです。グレッグと一緒にイカラスの世話をしていたんで、私なんぞよりずっとこのテーマには詳しいんですがね」と彼はなにやら秘密めかした口調で声を落とし「なにせ、グレッグにあんな事があったもので、ここしばらく休みがちなんです。昨日は出社してましたが、やっぱり相当ショックだったんでしょう」
イカラスがリーさんの方を向いた。こころなしか表情が曇ったみたいだ。
「『やっぱり』とは面白い表現ですこと」とクリス。
リー氏は少しあわてて、左手で耳の辺りを掻きながらクリスの問いに答えた。
「それは……まあ、毎日顔を合わせていた人が、なんの前触れもなく亡くなったわけですから……きっと彼女の繊細な神経には耐え難かったんですね」
彼は、まるで自分に言い聞かせるみたいな話し方をした。自分でも信じていないみたいに聞こえた。
彼はシンシアの住所を教えてくれたが、できるなら訪ねたりせず、そっとしておいてやってくれと言った。その代わり彼は、彼女が出社したらあたし達が話を聞きたがっていた事を伝えておく、と約束してくれた。つまり会ってくれるかどうかは彼女次第って事だ。
イカラスの視線に見送られて、あたし達三人はその部屋を後にした。帰る途中、あたしが曲がるべき角を一つ間違えて違う廊下に入ったら、リーさんにジャケットの裾をつかんで引っぱり戻された。彼はあたしに真顔で注意した。
「そっちには、P4のバイオハザード・エリアがあるんですよ。放射線管理区域も近くですし、あんまり勝手にうろつかない方が身のためです」
ううん、そいつは恐い。それからは常にリーさんの後ろについて歩くようにして、あたし達は無事もとのロビーへと帰りついた。
あたし達はグランド・モータース社から帰るにあたって、彼とベネット氏との協力に感謝の意を表明して、別れのあいさつに代えた。なんだか物々しい言い方だけど、クリスの流暢な社交辞令は、実際にそんな感じだったのだ。あたしにゃとても憶えきれない。
グランド・モータースの門を出る時、またあの警備員が変な目付であたし達を見送った。あたしはなんとなく、さっきのお猿さんに見つめられている気がした。この人の顔が、猿に似てるせいなのかも知れなかった。
四 ベルリオーズ
劇的物語「ファウストの劫罰」より
鬼火のメヌエット
私達はグランド・モータースから、依頼人の住まいに向かった。とりあえず今までの経過報告のためと、これからの方針についての相談のためである。その途中、サンテレジアで昼食を取る心算だった。道すがら、私はエリーに言った。
「あまり手がかりはなかったわね。一番参考になりそうな人には会えなかったし」
「シンシア・フォーチュンね。そうだ、これから押しかけてみようか」と運転中のエリーは言って、私の方を振り向いた。
「今日はやめましょう。未亡人と相談して、それからね。私は、どうもこの仕事は気が乗らないわ。あの奥さんを説得して、早く手を引きましょう。その方が彼女のためにもなるんじゃなくて」
エリーが、ふっと溜息を吐き、またよそ見をして言った。
「クリス、あんたらしくないぞ。気が乗るの乗らないので、仕事を選ぶようなまねはしないじゃない。いつもは」
「ええ……でもミス・フォーチュンの行動が引っ掛かるわ。同僚が自殺したからと言って一週間も会社を休むかしら」
「昨日は出て来たって話じゃない。それにまあ、人それぞれだから。たかが手紙一通で一日ふさぎ込む人だって居るわけだし」
私は彼女の嫌みに答えたかったが、思い留まった。運転中の彼女は、話す度にこちらを向くので、危険きわまりない。車はハーフビターが掌握しているので、重大な事故の恐れはないのだが。
エリーは久しぶりに私をやりこめたつもりで、得意げに言葉を継いだ。
「でも、確かに捜査を続けるだけ無駄かも知れないわね。余計な所つっついて、変なもの掘り出したら、それこそあの奥さんもお金を捨てるようなもんだしね」
「それもお金を払ってくれればの話でしょう」と私は言った。
『変なもの』が何であるかは、エリーも明言しなかった。それは『余計な所』こと、フォーチュン嬢を探れば判然とするだろう。
サンテレジアの街に近づくと、次第に道行く車の速度が落ちた。遠く南方に見えていたこの星原産のシダの林や、ワイエスの絵のように広がった草原が、種々雑多な建物の羅列に置き替わっていった。
さらに、なぜか私達の行く先々の交通信号は全て赤だった。ナヴィゲーションの不調と言い、どうも今日は機械に嫌われているようだ。
お昼御飯は、オレンジ・ブールヴァードに面したグリル・ピエトロで済ませた。私の好みではないのだが、エリーの主張が勝ったのである。このレストランは客を待たせる。この店で早いのはピッツァくらいの物だが、それがまたすこぶるまずかった。私達がここに来るのは、ひとえにエリーがここのマスターのファンであるためだった。
私達はカウンターに席を占めた。店ではちょうどHVの昼のニュースを流していた。これと言った大事件もなく、浮世は平穏である。最後のニュースで、酸性雨のために傷んだ自由の女神の鼻を修復するため、ニューヨーク市が全世界に募金を募っていると報じた。それまでうっとりと子持ちのマスターを眺めていたエリーが、その話題に反応した。
「地球か……」
「行ってみたいの」
「まあ、ね」
彼女ら、アウロラ生まれの移民二世にとって、地球とはどのような存在なのか、地球出身の私には判らなかった。あるいはこれらのニュースに見られる、文明の残滓と都会の華美との無秩序な混交であるのかも知れない。少なくともエリーの場合には、地球は祖先の地としての憧れの対象だった。彼女は地球に行った経験はない。
移民としてアウロラに来る場合には、連邦政府の補助によって船賃が安くなるのだが、帰る場合にはそうした制度はない。そしてその旅費は、決して安いものではなかった。かつての自由と夢の国、アメリカ合衆国そのものへと移民が殺到していた時代に、一等船室で世界一周をする方がまだ安上がりだろう。
私が父に頭を下げれば、エリー一人くらいただで地球まで往復させる事もできるだろう。そして私は絶対に、頭を下げないだろう。その事情は彼女も理解していて、そうした話はおくびにも出したことはなかった。
注文したスパゲティがやっとできて来た。私はエリーに訊いた。地球の話題ではない、仕事の話である。
「ロマノーソフ夫人には、夫の死によってどのくらいの保険が下りたのかしら。警察の調書にあったかどうか、覚えていないけれど」
「あ、あんた何考えてるの」と、彼女はあきれた声で言った。フォークに絡めたスパゲティが、ほどけて皿に落ちた。
「あなたの想像通りよ」と私は言った。
彼女はフォークを口にくわえたが、あるはずのものがないので眉根を寄せてそれを見て、皿の縁に置いた。
「そりゃ判るけど、調書は今持ってないわ、車の中よ。ちょっと待ってて」
彼女はバッグからカード電話を出し、車のハーフビター経由で、インフォメーション・ネットのホストOIであるプレイヤーを呼び出した。彼は要するにコンピュータなのだが、アクセス時には電話のスクリーンに人間の胸像を出力して話すので、感覚的には人間を相手にしているのと大差なかった。会話能力にしても、ややもすれば私より上のときさえある。
「プレイヤー。サンテレジア署のパブリック・データ・バンクを調べて、グレゴリー・ロマノーソフ事件のファイルに、保険金に関する記述があったかどうか探して。奥さんに渡った分だけでいいから」と言って、エリーはカードを私と彼女の間に置いた。
機械の応答は速かった。エリーの台詞の半分の時間で情報を検索し、回答した。
「はい……生命保険が下りた、と書かれてはいますが、その金額についての記述はありません。現場の状況と夫人の心理分析から、保険金を目当てとした殺人の可能性は否定されています。未亡人を強請って横取りしようとしても無駄ですよ」
速い代わりに余計な事も言う。
「ほらね、この事件の担当は偽装自殺の大家だって、グレイン警部も言ってたじゃない。安心しなさいって」とエリー。
店のマスターがちらりとこちらを見たが、特に気にかけた様子は見せなかった。顔見知りなので、私達の職業は既に知っているのである。さもなければ、今の会話はかなり物騒な相談に聞こえた事だろう。
エリーの言い分は、警察の捜査に対する盲信の域を出ていなかったが、さりとてこちらで判断できる材料も今の所はなかった。保険金の額までは、このような公開資料には記載されていないのだった。
ロマノーソフ夫人の住むグラスヴィルは確かに草が多かった。しかしそれらは皆、建ち並ぶ邸宅の庭先にある芝生や花壇であり、とても地名から連想される田舎じみた町並みではなかった。ヴィル(村)はむしろ、金持ちのサロンを暗示しているのかも知れなかった。ロマノーソフ氏の如き、一介のサラリーマンには過ぎた土地柄である。
私にとって、訪れるのはこれで二度目になるロマノーソフ家は、あたかも巨大なドミノ牌を組み立てたような造りで、見たところ二つ並べた骰子そっくりだった。窓の配置までがそれらしさを強調していた。これを設計した建築家は、その前日にクラップスですったに違いない。
私達が戸を叩くと、未亡人は二階の窓から首を出して答えた。
「どうぞお入りになって。今参りますわ」
私達が玄関のホールで待っていると、彼女は二匹の猫を足元に従えて現われた。いっその事、猫に曳かせた車にでも乗って来れば良さそうなものだが、このフレイアの重量では猫が気の毒だろう。
再び午前と同じ応接間に通されて、捜査の進捗状況について報告する。まずエリーが口を切った。彼女は私に話させまいとしているのだ。要らぬ気苦労である。
「ロマノーソフさん、まず会社の同僚の方達に聞いた範囲では、産業スパイがどうしたのと言う話は、どうもただの冗談だったみたいです」
予想はしていたが、夫人はその答えには満足しなかった。
「でも、本当にスパイに狙われているとしたら、かえって会社はそれを隠そうとするんじゃございませんこと。あの人は家庭に仕事を持ち込まなかったものでございますから、あまり詳しい事は存じませんけれども」
私はエレンの先を制して言った。
「確かにおっしゃる通りですが、御主人のお仕事はあまりに基礎的な研究なので、スパイの対象にはなりにくいと伺いましたわ。やはり単なる自殺と言う事で納得なさった方がよろしいのではございませんかしら」
彼女は、私達の背後の壁に掛けられたカンディンスキーに目をやって、思案を巡らせていた。彼女の二匹の猫は、飼い主の苦悩などどこ吹く風で、絨毯の上を駆けずり回っていた。やがて彼女は涙ぐんで言った。
「それでは私の気持ちが収まりませんわ。自殺だとしても、一体なぜそんな事をしたのか……その辺の事を調べて戴きたいんですの。お金は多少掛かっても結構ですから、もう少し続けて戴けませんこと」
始めに値切っておいて、多少掛かっても結構とは、それこそ結構な言い草である。
「私共は構いませんが……。御主人が亡くなられて、差し出がましいようですが、収入の方も少なくおなりでしょうし、あまり無駄使いはなさらない方がよろしいかと存……」
私の言葉を遮って、彼女は澄まして言った。
「本当にお金の心配はございませんのよ。昔主人がとった特許の使用料も、幾らか入りますしね」
私とエリーは顔を見合わせた。そう言う事なら、その特許技術が狙われたのかも知れない。しかし、特許収入があるのなら当然公示されているはずで、特許権の侵害騒動ならいざ知らず、スパイと言うのはおかしな話であったが。夫人は私達の素振りなど目もくれず、ややうつむいて言った。
「でも、あなたのおっしゃる事ももっともでございますわね。それではあと三日。三日だけやってみて下さいな。なんでしたらその分だけ前払いしておきましょうか」
私達は彼女の申し出を受けた。彼女が料金の振込手続きをしている間に、エリーがその特許とはどんな物なのか訊ねた。それはVR(仮想現実)に関して、非接触で触覚を刺激する方法だったそうだ。この種の話題は、私よりエリーの方が詳しい。当の語り手である婦人よりも詳しいはずだった。夫人は特許の話とは脈絡もなく、今回の事件が自分にとっていかに大きな打撃がであったかに論点を変え、滔々と弁じ始めた。
「この辺りに住んでますとね、いろいろと近所の目がうるさいんでございますのよ。宅の主人があんな風に亡くなったものですから、とかく噂がたちましてねえ。世間様と言うのは、何につけ口さがないものでございましょう。お向かいのエリオットさんのお宅なんかも、娘さんがぐれて家出した事を棚に上げて……」
以下、彼女の口からは、近所の住人にまつわる罵詈の類が社交上の婉曲に包まれて、延々と連ねられた。何の事はない、いちばん口さがないのは自分なのである。
その噂話のほとんどは、聞くそばから忘れてしまった。この会話はバッグの中のレコーダーに録音してあるので、もし必要なら聞き直す事もできる。むろん私は聞き直したいとは思わなかった。もともと、契約内容について後からもめた場合に備えての録音なのである。
私は話が一段落するのを待ち、ロマノーソフ夫人に改めて忠告した。
「くれぐれも、この調査に対して過度の期待はなさらないようにお願い致しますわ。もちろん私共と致しましても、最大限の努力は惜しみませんが」
依頼人宅をやっとの事で辞して、庭先に停めたクリッパーに戻る途中、エリーが宙を見上げて歓声を上げた。
「あっ。鳥が飛んでる」
白い鳩だった。空の色を反映し、微かに青みを帯びていた。碧空はどこまでも遠く、深く、はるか地球の空にまで続いているかと思われた。
彼女が大喜びで声を上げたのも、無理はなかった。これまでアウロラでは、その固有の生態系を保護するため、シグナス島から大陸へと出て行ける鳥類は飼育できなかった。たとえ地球から持ち込んだとしても、全て税関で没収されるのだ。従って、エリーは大空を自由に飛翔する鳩など、見た事がなかったわけだ。
大陸の解放と共に鳥の飼育も解禁になる予定で、その当日にはセレモニーで何千羽かの鳩を放つと言う。あの鳩はそのうちの一羽が逃げ出したものかも知れない。
私も飛ぶ鳥を久しく見ていなかった。故郷を後にして以来、実に七年振りになろうか。私は不意に襲われた望郷の念と共に、父の面影まで思い出した。
鳩はウリエル湾の方角へ飛び去って行った。その先には、また別の『鳥』が蒼穹の下を舞い降りていた。シャトルバスが軌道ステーション『チャイコフスキー』から降下して来たのだった。希望に満ちた人々を乗せて。
この宇宙を統合して一つの国に、そうだ、誰でも自由
に往き来できる一つの国一つの大陸にしてくれたからだ。
この道を通り、今やすべてがお前たちのものとなった数
知れぬ星々の間を縫って、真っ直ぐに楽園[パラダイス]
に降りて行くがよい。……
この惑星は、果たして楽園なのだろうか。あるいは、未だに楽園と呼べるのだろうか。
五 ブラームス
ハンガリー舞曲 第三番、第十番
メイプル・ブールヴァードに帰ると、それを待っていたかのようにオフィスの電話が鳴り出した。きっと仕事の依頼か何かでしょ。
クリスが事務室に入り、黒檀の机の上に置いてある電話に出た。あたしには声しか聞こえないけど、エンジェルロストに事務所を構える探偵、ジョージ・フィリップスに違いない。そもそもあたし達がこの商売に手を染めたのも、あたしが彼の下でアルバイトをしてたのが始まりだった。その縁があるから、今でも互いに仕事を融通し合ったり、手伝ったりしている。
「やあ、元気そうだね」と彼は右の眉をはね上げて言った。
「ええ、お陰様で。今日は何の御用事かしら」
あたしは彼女の後ろに回って、話に割り込んだ。
「どうせ人手が欲しいとか、そんなとこでしょ。違うの」
「その通りだ。ある筋からの依頼で、ある証拠物件を揃えなきゃならないんだが、俺が直接行くわけにいかない、とある場所にあるのさ。そこじゃ俺は面が割れてるんだ。ハンサムで印象に残りやすいんでね」
彼は親指で自分の顔を指した。自分で言うほどの美男子じゃない。齢だって、とうに三十路の半ばである。まあ、いつものことだからあたしは構わずに言った。
「それであたしらにある場所である人からある手段である物を取って来いってわけね。あんた最近どこから仕事を受件してんのよ。そうやってぼかした言い方する時は、いつもやばい筋からじゃない」
「今回はまともだよ。だが、どこからかは聞かない方がいいだろう。君達のために」
「気を使ってくれてありがと。やっぱりその件はやめとくわ。それからこの電話にかけてくるのやめて。こっちのは『ちゃんとしたお客様』用なんだから。何のためにプライヴェートの電話番号教えたと思ってるの」
「デートに誘うためさ」
それからしばらく二人の間で、電話の用途についての意見の食い違いを調整しなきゃならなかった。彼が言うには、プライヴェートの方にもかけたけど塞がってたから、オフィスの方にかけた、との事だった。
おかしい。いままで留守だったのに。クリスにプライヴェートの方を調べてもらったけど、当然のように使われてなんかいないみたいだし。
「あんたかけまちがえたんじゃないの。番号の登録内容はあってる?」
「あってる。なんならもう一度かけてみよう」
彼は電話を切った。まもなくプライヴェートでの着信をセミスウィートが伝えた。クリスが出ると、それはちゃんとジョージからだった。
まあ、たまにはそう言う故障もあるのかもしれない。
彼との通話が終わると、またすぐに電話が鳴った。今度こそお客さんだろう。あたしはクリスと交替した。渉外担当はもともとクリスなのだ。この探偵事務所の開設当初、彼女は電話番と調査料金と税金の心配をする事になってた。今じゃそんな役割分担もどっかいっちゃったけど。
彼女は依頼者向けの上品な笑顔を浮かべて電話に出た。あたしはプライヴェートを片付けにいく。
「スウィート&シルバースタインかね」と電話の主は言った。幾分かすれた男の声だった。
「どちら様ですの」とクリス。なんだか声が普通じゃなかった。
「あんた方が追っかけてる事件について、少しばかり情報があるんだがね。聞きたくはないかね」
クリスは電話の録音スウィッチを入れたらしい。相手の声にはなんとなく聞き覚えがある気がするのに、どこで聞いたのか全然見当がつかなかった。あるいは声を加工してるのかな。
「どの事件ですの」
「死んだグレゴリーの話だ」
あたしは面白そうだから、プライヴェートから出て電話のスクリーンをのぞき込んだ。そこにはあたしと彼女の姿が反射しているだけだった。相手は自分の姿をスクリーンに映してないのだ。それどころか名乗りさえしてなかった。こっちの顔は向こうに見えているはずなのに。
電話を受けた側が映像を出さないってのはよくある事だけど、かけた方がそうするのはエチケットに反する。やむを得ない事情があるのならそれを釈明するべきなのに、この相手はそれもしない。いろんな意味でとっても気持ちが悪い。それでクリスの機嫌を損じたのだ。
「いかほどでお話して下さるのかしら」と彼女はあくまでも抑えた声で言う。
「ほう、さすがに話が判るな。百ドルくらいもらっておこうか。この間のデノミから、まただいぶ物価が上がってるからね」
「私共が……そんなに支払うとお考えなら、それはお門違いですわ。それに、あなたの御名前くらいは教えて戴きませんと、お話もできかねますし」
彼女は多分『得体の知れない相手に』とかなんとか言おうとしてやめたのだ。もっと強い表現で断わってもよさそうな感じだったが、それこそ得体の知れない相手をやたらに刺激すべきじゃないだろう。
「ふ、ゴトウと名乗って置こう。いずれにせよ、いま電話で話すわけにはいかない。明日の朝、七時にブルーブラック・マーシュで会う事にしよう。値段の交渉もその時だ。言うまでもないが現金で頼むよ」
あたしは口を挟んだ。
「またずいぶん遠いし、おかしな場所じゃない。行ってもいいけど、あの沼は待ち合わせするには広過ぎない?」
「エンジェルからペニンシュラ・ロードを東に進むと、リトル・スワニー川を渡ってまもなく、自動車で入れる乾いた場所がある。そこで会おう。道の北側に、小さな建物が一つある。行ってみれば判る」
「なんで電話で話せないの。そのわけもやっぱり話せないの?」とあたしは訊いた。
「待ってるよ」
電話は切れた。
クリスは相手の失礼さに憤慨した。あたしは一分間ばかり相手をけなしてから、左手にある客用のソファの背に座って言った。
「なかなか面白くなってきたじゃない」
「何が面白いのよ。殺人か自殺かの捜査をしている時に、こんな怪しげな申し出は受けるべきじゃないわ」
「危険だってわけね。ちゃんと用心してれば大丈夫。行ってみましょ」
「どうしたのよ、いつになく乗り気に見えるけど。ブルーブラック・マーシュに七時なのよ。アパートメントから直接行くとしても、余裕を見て五時半にはノース・プリースト街を出る事になるわ。朝寝坊のあなたなら、もっと嫌な顔をして然るべき時刻なのに」とクリスが溜息混じりに言った。
細かいやつだ。でも、彼女もあたしの意見に対して、それ以上積極的な反論はできなかった。どうせ他には碌な手がかりもないんだから。うん、そうと決まれば今夜は早く帰って早く寝よっと。
さて、待ち合わせの場所として指定されたブルーブラック・マーシュってのは、読んで字の如く青黒い沼沢地である。地理的に言うと、エンジェルロストとその北東のガガーリングラードとの境をなすリトル・スワニー川の、下流域に広がった後背湿地にあたる。
川の水はごく普通の(まあそれなりに濁ってる)水だけど、この湿地にはアウロラ原産のゴールドベリーって言う黒い藻がいっぱい繁殖してて、水面はほとんど真っ黒だった。ただ、太陽の角度によっては反射光が青っぽく見える事があって、それが沼の名前の由来になっていた。
このゴールドベリーはアウロラの植物としては珍しく生が強くて、人間が持ち込んだ地球の植物にも、まだ駆逐されていなかった。単に陸上植物と違って、まだ地球産の藻が入っていないってだけの話かも知れないけど。だとしたら、そのうちアオコやキンギョモなんかが増えてくると、絶滅する可能性だって大いにあるわけだ。
あたし達は今朝五時前に起きて、エンジェルロストを突っ切ってこの沼までやって来た。あたし達の住まいからは、ウリエル湾をかすめて、三十キロメートル弱の距離だった。
めったにやんないけど、早起きってのはいいもんだ。こんなに朝早いと、さすがにエンジェルの道路にも車が少ない。おかげであたしゃ存分にアクセル踏めるってもんだわ、うふ。
指定の場所はペニンシュラ・ロードの北側だって話だから、こっちから行くと左の反対車線の側になる。昨日の電話の主が言った通り、湿地の真ん中辺には、土地が高く乾いた島があって、小さなコンクリート製の小屋が建ってる。遠くから見ると、チョコレート・シロップを塗り拡げた皿にパンケーキを載っけたみたいな感じだった。
道は沼の水面上では橋になってるけど、島を横切る部分だけは普通の舗装道路だった。つまり道路から降りられるわけだ。
とりあえず一度通過して周辺の様子を見て、沼を過ぎたところから引き返した。小屋の中はともかく、島の上に人影はなかった。あたしは車を道路の脇に広がる直径五十メートルくらいの空き地に停めた。エンジンは止めなかった。
ドアを開けたままにして車を降り、小屋に近付く。それはこの道路の下を通ってる地下鉄、アプタリクス・ラインの換気施設だって書いてあった。全く無人だった。
島の岸辺は割に切り立った感じで、見下ろすとあたしの背丈くらい下の方に、黒い水面がたゆたってた。周囲を一通り見たけど、人が隠れてる様子はない。沼の底は見えないけど、時々この沼で溺れる人もあるって話だから、わりに深いはずだった。もっとも、顔が浸かる深さがあれば溺死には充分だから、それだけじゃ判断できないかな。
沼のゴールドベリーは、今ちょうど黄金色の実を着ける時期だった。細波に反射する日光と相まって、沼はまるで金銀蒔絵の漆器の盆みたいに見えた。ちなみにこの実は多糖類のペクチンその他を含んでて、食べようと思えば食べられる。ただし何の味もしない。
約束の時間には、まだちょっと時間があった。それにしても、誰か人が来る気配さえない。あたしとクリスは車の沼側に立って、それぞれ道路の両側を向き、あたし達を呼び出した相手の到来を見張った。
静かだった。道行く自動車も、まだ朝早いもんだからまばらだった。そんな騒音やクリッパーのエンジンのアイドル音より、何もない沼地を吹き渡るそよ風が耳元で鳴る音の方が大きかった。
「昨日の人は、なんて名乗ってたかしら。確かゴトウさんだったわよね」とクリスがあたしに訊いた。
「そう、偽名だろうけど」
「なんだか、いくら待っても来そうにない名前ね」
「ゴトウを待ちながらってわけ? あれはゴドーじゃなかったっけ」
彼女は車のフードに半分腰掛けて、左手で頭上の帽子を飛ばされないように押えながら言った。彼女は赤いハイ・ウエストのスカートに、クリーム色したフェルト地のハーフ・コートを着て、おつむに赤茶色のベレーをのっけてるのだった。相変わらず餓鬼っぽい。ここに来るのは危険だって自分で言ってたくせに、こんな機動性が悪くて的になりやすい服装して来るんだから。
あたしの方は上下共にエラスト・ジーンズだから、いざって時は動きやすい。ロールス・ロイスとジーンズってのも、なかなかのミス・マッチだわ。
あたしはハーフビターにラジオでもかけてって指示した。クリスの横目による無言の抗議は無視した。音楽か何か聞いてたからって、別に悪い事じゃないやね。島の周りは一応チェックしたんだし、物音を警戒する必要はないでしょ。
風に流されながら聞こえてきた歌は『ディズィー・ナイト』だった。これは以前にお酒のコマーシャルに使われて、自殺願望を呼び起こすサブリミナル・メッセージが隠されてるって、騒がれた曲であった。結局、真相があいまいなうちにヒット・チャートから消えたんで、ほんとの所はどうだったのか判らない。めまいがするほど君が好きってな歌詞はとてつもなく平凡で、もともとそんなに売れた曲でもないのだ。いっそレコードそのものの広告にも、その種の心理操作を使えばよかったのに。
歌が終わってDJがしゃべり始めても、あたしは特に死にたくはならなかった。ただ退屈と眠気は確実に増した。あたしが大あくびを一つすると、クリスがそれ見た事かって顔であたしを見た。こいつにそんな顔されるいわれなんかないけど、眠いからもうどうでもいいや。
さてさて、約束の七時を過ぎたものの、依然として誰も現われない。こいつはやっぱりガセだったのかも知れない。人を呼び出しといて、通りすがりに眺めて面白がってるだけの愉快犯だったりして。
「もしかしてさ、あたし達を留守にさせといて、その隙に事務所荒しでもやってんじゃないかしら」
「そんな、シャーロック・ホームズじゃあるまいし」
あたしは冗談のつもりで言ったんだけど、クリスはなぜかあたしを睨みつけて、怒った声で答えた。
ああ、判った『赤毛同盟』だ。彼女は、自分の自称ブロンドの髪を思ったらしい。割に色が濃いのを気にしてて、赤毛って言われると腹を立てるのだった。それにしてもちょっと気の回しすぎだわ。こんな時のクリスは、相手にしないに限る。
あたしが見張ってる北の方は、リトル・スワニー川の方向である。ずっと遠く、川の上流に長々と横たわるラシャン・フリーウェイの橋を除けば、これと言って見るべき物もない。その橋を右に追って行くと、クリスが警戒してる方向にあるガガーリングラードの町並みが小さく見えた。この星系を発見した米ロの合同探検隊によって設けられた、ロシア側の居住地を基礎として発展した街だった。そのため、ウリエル湾の北岸は今でもロシア系の住民が割に多い。
あたし達が通ってきた、ペニンシュラ・ロードのセメント舗装を東にたどると、ガガーリングラードの南隣のストロベリー・フィールドだった。ここは今でも科学アカデミーのアウロラ分院がある文教地区である。グランド・モータースの本社機能もそこにあるはずだった。西に行けば、さっき抜けて来たエンジェルロストで、こっちはいまさら言うまでもない大都会だ。高層ビルが林立してるのがよく見えた。
クリスはまだ左手を頭にやって、右手をナポレオンみたいにコートの下に突っ込んでる。見るからに妙な格好だけど、これはアンダー・カバーのシークレット・サービスを握ってるためだ。五連発のDAリボルバーである。さらにいつもは右の腿に隠してるデリンジャーを、今日はアンクル・ホルスターに入れてた。他にも何か隠し持ってんのかも知れない。重装備だこと。
あたしも車のドアを開けて、持ってきた拳銃、ストロベリー・フィールド・アーマリーのハーフインチ・マグナム・オートを引っ張り出した。クリスがそれを見て、冷たい声であたしに言った。
「それ、まだ持ってたのね。ホエール・ハンター」
「うん。一番強力なやつ持ってきたの」
「どうでもいいけどその鉄砲、いつか一発撃って身体ごとひっくり返ってから、一度も発射していないんでしょう。きちんと当たるの」と言いながら、クリスは道路の方に向き直った。
「ひっくり返っちゃいないわよ。確かに使ってもいないけど。なんなら今ここで照準調整しようか。ゴールドベリーの実でも的にして」
彼女は少し考えて言った。
「使わずに済む事を祈りましょう」
あたしの腕前を信用してないわけだ。無理もない。(自分で言ってちゃ世話ないか)
しばらくすると、南のウリエル湾の方角から微かにシャトルバスのエンジン音が聞こえてきた。振り向くと、ちょうど朝の第一便がスペース・ポートに着陸するところだった。それに続いて、カタパルトの上に載った別のシャトルバスが動きだした。リニア・モーターで加速されて垂直に放り上げられ、まもなくメイン・エンジンに点火して朝の空へ突き刺さって行った。鈍い発射音が少し遅れて届いた。
あたしはまた北の方に向き直った。視界の果てには、さっきまではなかった物があった。細く水平に、次第に長くなる白煙だ。その先端に何があるのか、とにかくそれは進路を変え、こっちに向かって飛んで来た。
ミサイルだわ。
「クリスっ。危ないっ」
あたしは叫んで彼女の襟をつかみ、沼に向かって投げた。
「きゃ」
彼女は悲鳴を上げて、拳銃を握ったまま大の字になって沼に落ちてった。あたしも続いて飛び込む。ミサイルの爆発音が水の中まで追って来る。
あたしは水面に頭を出して振り返った。沼は思ったより浅くて、なんとか背が立った。島の岸はほとんど垂直な段になってるから、ここから見えるのは黒い煙ばっかりだった。きっとロールスに命中したんだ。ミサイルが飛来した航跡には、白い煙が風に流されながら、だんだん太く、淡くなってくのが見えた。
クリスがあたしのすぐ横に浮いた。彼女は髪から顔からコートまで真っ黒けだった。きっとあたしもこうなんだ。笑い事じゃない。
「何があったの、いったい」と彼女。
あたしは続いて飛んで来る二発目の誘導弾を指して言った。
「あれよ、あれ。あんた撃ち落としなさい」
「無理よあんなの」
「もうっ大事な時に」
あたしのホエール・ハンターは大して濡れてないのを確かめて、ミサイルに向けて撃った。ただでさえ反動がでかい上に足場がないから、一発だけであたしはもんどり打って沈没した。あたしの弾ははずれ、敵弾はちゃんと車に当たった(らしい)。
立ち直って見回すと、クリスは橋の下の方に向かって泳いでいた。さすがに賢明な行動だ。あたしも後を追って橋脚の影に隠れる。
「ハーフビターは大丈夫かしら」とクリスが言った。
「さあ。ヒドラジンに火が入らなきゃ、メイン・ユニットはなんとか助かるかな。そもそもどのくらいの被害なのかも判んないけど」とあたし。
三発目はいくら待っても……ううん、別に待っちゃいないけど、とにかく飛んで来なかった。ミサイルの飛跡を示す白煙がみんな流れ去った頃、クリスが水面に横たわって浮かび、虚ろな声で呟いた。
「いっさいが急に消えてしまった。喚声も、銃声も消えてしまった。耳にはなんにも聞こえず、ただなんだか青いものが眼に映るだけだった、きっとそれは空だったんだろう。そのうちに、それも消えてしまった」
「なにそれ、『戦争と平和』?」
「ガルシンの『四日間』」
あたしは岸に寄って、島の上をそっと覗いた。車はフードが跳ね上がって煙を噴いてて、とても走れそうにない。燃料タンクまでは火が回ってないらしく、もうそろそろ下火だった。あたしはクリスに大丈夫そうだと言って、一緒に陸にはい上がった。クリスは、真っ黒に水を吸ったベレーを拾い上げておつむに載っけた。帽子には金色の実が三つぶら下がってる。
「ああ。このコート、キャッツ・フィドゥルで千ドルもしたのに」と彼女。げ、高い。
「こんちくしょ。絶対とっつかまえて、地獄に突き落としちゃる」とあたし。
クリスが冷たい目でこっちを見た。品がないってんでしょ。いいのよ、もう。あたしゃ怒ってるんだ。
自動車の被害はエンジン・ルームに留まり、キャビンの中は無傷だった。車体の横ちょに、大穴が二つ並んであいてる。クリスが運転席に消火器があったのを思い出して、それを取るついでにハーフビターに話しかけた。うんともすんとも言わない。生きてたとしても電源がやられてるだろう。
火を消してひなたの地面に座り、車にもたれて一息ついた。南側ならミサイルの飛んで来た方に対して車が盾になる。クリスのやつは地下鉄の小屋の陰に隠れた。念のため、拳銃を簡易分解して、まだ撃てそうな事を確かめる。北の方角に対する警戒も怠れなかった。
ふとバック・ミラーを覗くと、やっぱりあたしの顔も真っ黒だった。手で拭ったくらいじゃ効果ない。
ミサイルの発射された辺りから、一台の車がしぶきを上げながら沼の水面上を渡って来た。あたしは車の焼けついたフードに拳銃を依託して構えたけど、すぐに気が付いてやめた。こんな芸当ができるのはハイウェイ・パトロールしかない。ホバリング機能を持ってるから、水面や不整地の上でも高速で走れる(飛べる)わけだ。
パトカーは島に乗り上げ、あたし達二人の間に停まった。乗ってた二人の警官のうち、運転してた方が車から降りてきて、あたしに手を差し出して訊いた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫に見えまして」とクリスがこっちに近付いて来て、代わりに訊き返した。
「とりあえず、生きてるようには見える」
もう一人が車の後部座席から、くそまじめな顔を出して言った。そのパトカーには、さらにあと一人、男が乗ってた。
「こいつに見覚えはあるかね」とお巡りさんはその男の首ねっこをつかんで、窓からそいつの顔を突き出させ「あんたらを狙ってた奴なんだ」
そいつは昨日のグランド・モータースの守衛だった。あたしとクリスは声をそろえて叫んだ。
「あ」
その続きは二人ともバラバラだったけど。
六 ストラヴィンスキー
バレエ音楽「春の祭典」から
第二部 生け贄
ハイウェイ・パトロールはガガーリングラード署の管轄だった。私とエリーはミサイル騒ぎの参考人として警官に同行を求められた。しかし水浸しのひどいありさまなので、一度アパートメントに帰って、服を着替えてシャワーを浴び、あらためてガガーリングラードまで出頭する事となった。
私達の自動車はエンジンを破壊されていた。足を失った私達は、取りあえず沼からの帰りは警官に護送されて来た。だが、彼らの奉仕もそれまでで、ガガーリングラードへ行くためには、鉄道を使わねばならなかった。
あの車はキャビンの防弾を始め、一般車にはない装備が施されているので、エンジンを取り替えてでも修理する価値はある。
参考物件として昨日の電話の録音チップを持参した。拳銃の携帯許可証、探偵業の登録証もだ。
その鉄道、アプタリクス線は、減圧チューブの中を走る小さな車両で運行されていた。ほぼウリエル湾ぞいの地下に敷かれた、文字通りの地下鉄[チューブ]である。これはウリエル湾北岸では唯一のローカル路線である上に、ちょうど通勤ラッシュに重なったため、車内の混雑は並み大抵ではなかった。アスパラガスの缶詰でもこれほどではなかろう。移民増加の弊害の一つだった。
警察署は、ガガーリングラードの中心に建つ、ロシア正教の斜線つき複十字を掲げたモスクの真向いにあった。そのモスクは銅葺きで、表面に浮いた緑青のために、黴が生えた巨大な玉葱のように見えた。隣にはロシア大使館が並ぶ。
最近はこの街の住民も、ロシア系の人種ばかりではなくなった。特に警官を始めとする公務員は、ロシアのアウロラ撤退以来、ほとんどアメリカからの移民がとって代わり、その人種も様々である。それでもやはり、アウロラに留まったロシア人の多くがこの街に住んでおり、どこか異国情緒の漂う都市であった。
私達は、重要参考人としてここまで出頭したわけである。このために今日一日は仕事になりそうになかった。みだりに人を信用したばかりに、いや、半分疑っていたにも関わらず、この有様である。人間を信じていたいのなら、探偵など長くやるべき商売ではない。
取調べにあたったのは、私と全く面識のない一人の刑事だった。エンジェルロストならまだしも、このガガーリングラード署には、知り合いが居ないのである。彼はシュルツと名乗り、事務的ではあるが丁寧な対応をした。こちらは容疑者ではないのだから当然である。
彼は私達の身分証明を求め、私が探偵の鑑札を見せると、今までにも幾度となく聞かされた台詞を吐いた。
「探偵か、迷子の子猫探し専門かね」
「ええ、あなたもポーカーで賭金[Kitty]を逃がされましたら、ぜひ御用命下さいな」
彼は私の言葉にまつげさえ動かさなかった。小さな机を挟んで私達と向き合い、本題に入った。
「さて、君らも大体何を訊かれるか判ってるだろう。手間は取らせないで欲しい。まず、あんな何もない所で何をしていたんだね」
「昨日の晩、誰かに電話で呼び出されたんです。あたし達が、いま扱ってる仕事について、情報をくれるからって。これがその時の通話の記録です」とエリーは録音チップを差し出す。もちろん複製はとってあった。
彼はちらりと手元の入出力スレートを見てから、チップを受け取った。スレートの表示は私達には見せない。ハイウェイ・パトロールからの報告と、エリーの供述を突き合わせているのだろう。
彼は傍らにあるモニターにチップを差込み、通話記録を再生した。始めに出てきたのは、エリーとジョージの口げんかだった。仕事を受ける、受けないでもめている箇所である。シュルツ刑事はエリーの方を横目でにらみ、冷笑的に言った。
「こいつに呼び出されたのか」
「違うわ、次のインデックスからの分よ」
彼は記録をスキップせずに速送りした。画面上の二人の口論が素早く進行していく。私はエリーに小声で言った。
「なぜあんなの記録しておいたの」
「だって、後でジョージに何だかんだ言われると癪じゃない」
「言われた事があるの」
「んんと、ないけど」
突然、映像が途切れ、問題の箇所に達した。再生速度が通常に戻され、私達三人はしばらくそれに耳を傾けた。いくらか昨日の不快な気分がよみがえる。聞き終わると、シュルツ刑事はチップを抜き、電話で署員の誰かを呼んだ。彼は私達に、相変わらず淡々とした声で言った。
「今の話にあった、君達の『仕事』の内容は何かな」
私達はその後、約二十分かけて彼に洗いざらい説明した。今回の事件では、特に何かを隠さねばならない理由はなかった。その間に彼は先程呼びつけたと思しき人物に録音チップを渡して、声の主の同定を命じた。そして引き換えに小さな紙片を受け取り、それを一瞥して傍らのダスト・シュートに捨てた。
「なるほど、君らは昨日グランド・モータースであの男と会ったわけだ。アキオ・サトウと。しかし、よく覚えていたね。初対面の警備員に過ぎないのに」と彼は言った。
「ゴトウじゃないんですか」エリーが訊いた。
「それは偽名だよ。実に下手くそな偽名だが。それくらい見破れないんじゃ、探偵なんぞやめた方がいいね」
「今後、私達を襲撃なさりそうな方にお目にかかったら、きちんと御氏名を確認しておきますわ、ええ……シュルツさんでしたわね」
「フランシス・シュルツだ」
「どうも御丁寧に。あの警備員さんは、私達に対して特に念入りに警備して下さったので、人相だけは記憶に残っておりましたの」
「あの人、一体どこからミサイルなんか仕入れて来たのかしら。まだ判らないの」とエリーが訊いた。
彼はスレートを裏返して私達に見せた。そこには、異様に長い銃身を持つ散弾銃の写真があった。噂には聞いた事のある、軍用のスナイパー・ショットガンだった。口径は十二番ゲージだが、薬室と弾倉が普通の散弾銃より長めにできていて、いろいろな特殊弾を発射できるものだった。その中には、今回使用されたジェット推進による誘導弾も含まれる。
「君らは運が良かった」シュルツ刑事は机の上で指を組み、親指をくるくる回しながら「サトウは、グランド・モータースの兵器部がサンプルとして購入したスナイパー・ショットガンの一丁を持ち出したんだ。弾薬と一緒にね。いましがたその会社の方から、サンテレジア署に盗難届けが出された。こっちから彼の身元を照会したのに応じて、会社が武器庫をチェックして判明したんだ」
「あとの事なんて、なんにも考えないで持ち出したのね。それに人を殺すんだったら、もっと近くから撃ちゃいいのに、かなり遠くから狙ったみたいじゃない」
「約一キロメートルだそうだ、ほぼあの弾の射程限界だね。沼の真ん中の、君らが居たのとは別の島から撃ったんだ。わざわざそこまで、ゴム・ボートで渡ったらしい。ハイウェイ・パトロールが、ラシャン・フリーウェイの違法駐車を見つけて調べてなけりゃ、今ごろ君らはお陀仏だった。実に運が良かった」
「て事は、あの人まだ他にも弾持ってたのね」
「そう、使った二発はIR(赤外線)誘導で着発信管付きの粘着榴弾だった。それで車のエンジン・ルームに当たって、被害も大した事はなかったんだ。もっともあれが普通の車だったら、ばらばらになっただろうがね。パトロールがあの男を捕縛した時は、ちょうど対人榴弾を銃に装填してる最中だったそうだ」
「よく捕まえたわね」
「わがガガーリングラード署員は、精鋭揃いなんでね」と彼はさほど誇らしい様子も見せずに言った。
「ううん、そうじゃなくて。よくそんな重装備の相手のそばに、のこのこ近付いたなって意味」
彼はエリーの言葉に怒るでもなく、医者が患者を見るような視線を私達に向けていた。
「あの男は、君らに気を取られて背後は全く警戒していなかったそうだ。何かに取り憑かれたような目付きだった、と逮捕した連中は言ってる。あいつの職場にはまだ詳しい聴取をやってないが、普段は『まじめな人』で通っていたらしい。君らは何か彼の遺恨を買いそうなまねをしたのかね」
「いいえ、心当たりはございませんわ。まさか、射的の的が欲しかったわけではありませんでしょうね」と私は訊いた。
「それならかえって話は簡単なんだがね」とシュルツは席を立ち、私達を部屋の外へと促した。「来たまえ、面白いものを見せよう。実は君らが来る前に、既にあっちの取調べは済んでる」
「ずいぶんあっさり白状しちゃったのね、張合いのないこと」
彼は「ふっ」と笑みを浮かべてエリーを見た。部屋を出る際、室内のどこかで、何かのスウィッチが切れた。それまで聞こえていた微かな高音が途切れたのである。止まって初めて聞こえていた事に気付くような、意識に上らない質の音だった。我々は何らかの方法で監視されていたのである。
彼に連れて行かれたのは、ドアの数にして二つ離れた小さな会議室風の部屋だった。そこではHVのスクリーンを数人の刑事が取り囲んでいた。彼らは我々が入ると一斉にこちらを見た。スクリーンには何も映っていない。
「この二人にさっきのを見せてやってくれ」シュルツ刑事は彼らに言った。
一人がビデオの再生スイッチを押した。スクリーンの手前に、人形の家の一室の如く、薄青い取調室が浮かび上がった。
「なぜあんな派手な事をやらかしたんだ」スクリーン中で、取調べの刑事が言った。「あんな女、殺さにゃならん理由なんぞないだろうが」
「あんな女……」とエリーが不服そうな声で呟いた。
「それは……あれがうちの社の機密を盗みに来たから……」と、これは警備員のサトウである。彼は部屋の中央に置かれた椅子に座らされ、完全に萎縮して、か細い声で途切れがちに答えていた。電話の声とはあまり似ていない。部屋に居るのは彼と二人の刑事だけで、備品と言えば彼の椅子一つしかなかった。
「なるほど。職務に忠実で結構だが、もっとまともな手続きがあるんじゃないのか。お前さんのやった事は法に触れるんだよ。言うまでもなく」
「判ってます……しかし……」
「しかし、なんなんだ」
「……」
サトウは額の汗をぬぐったが、質問には答えなかった。彼は目を半ばふせて、前方に倒れ込みそうなほど、うつむいていた。見かたによっては居眠りをしているとも見えた。
「そもそも、その二人は何の情報を狙ってたんだ」と訊問の刑事。
「いや、私には……ええ、それは企業秘密なので……話すわけにはいきません」
「ふん。それじゃあ、お前が彼女達をおびき出すために、話してやろうと言った情報は」
「何もありません。ただ、呼び出すための口実で……。とにかく私には……あの小娘共が怪しいと……初めて見た時から……」
「なぜ怪しいと思ったんだ。根拠は何だね」
「……」
「誰か、お前に命令した者が居るんじゃないだろうな。それとも職業的な勘てやつか」
「わ、判らない。ただ……ただ、とにかく殺さなければいけない気が……したんです」
「頭の中で、殺せって声が聞こえたわけか。気違いのふりなら、医者か弁護士に相談してからの方がいいぞ。本物かどうかは、すぐに判る」
「私は……気違いじゃない」とサトウは弱く震える声で言った。
「知ってるさ。だから質問にはちゃんと答えたまえ」
しばらくの間、三人とも黙っている静かな時間が続いた。サトウは緊張して手を握りしめ、椅子に座ったまま動かない。やがて、もう一人の刑事が気さくな調子で口を挟んだ。
「しかし、ブルーブラック・マーシュに、あんな島があったとは知らなかったよ。あんた、釣りにでも行くのかい、あそこに」
「あの沼に魚は居ません。昔よくホバー・ライドで走り回ってたんで……あの島は休むのにちょうどいい場所だったから、よく覚えてたんです」
サトウはやや元気を回復して、話し方も普通に近くなった。少なくとも今までの所は概して誠実そうで、協力的態度とも言えば言えた。私達に対してとった行動や、あの電話での口調と較べると、まるで別人だった。
「それで、お前さんはあの女二人を殺すために、あそこで待ち伏せたわけだ。一体誰の命令なんだ。脅迫でもされてるのか。もしそうなら早めに話した方がいい。こちらにも対処の方法がある。自分一人で罪をかぶりたくはあるまい」
「わ、私は……誰にも……私がやらないと……私が……」
彼は話題を戻されると、たちまち元のように口ごもり、うなだれてしまった。しばらく黙っていたかと思うと、彼は次第に前かがみになり、眠りに落ちるように椅子からくずおれた。その直前に異変を察知した刑事の一人が駆け寄り、彼を抱きとめて椅子に戻した。しかし、彼は流しの排水孔よりも虚ろな瞳孔を宙に向けたまま、もはや何の反応も示さなかった。
取調べの記録映像はサトウの顔のアップで終わっていた。周りの刑事はその映像など見ておらず、専ら私達の方を観察していたのだった。シュルツ刑事は私達に言った。
「何か感想は」
「結局、私達を狙われた理由はお判りになりませんでしたのね」と私は言った。「あの方は今どうしてらっしゃるのかしら」
「あのまま昏睡状態です。それについてはどう思いますか」と今度は別の刑事が訊いた。
「きっと早起きして寝不足だったんでしょ」とエリーが言った。一同の静かな笑い声に包まれて、彼女も照れ笑いを見せた。
「とにかく、あなた方としては、あの男から命を狙われるいわれはないわけですね。彼の他にも、誰かの怒りを買ったとか」
「職業柄、怒りを買うのは日常茶飯事ですわ」
「ほう、どなたか心当たりがありますか」
「いいえ、この事件に関係する限りでは、何もございません。もしもロマノーソフ夫人が言った通り、産業スパイが実在するのならば、私達に罪をかぶせてスケープ・ゴートにする事も考えられます。それも現在の所、夫人の思い過ごしのようですわ」
「なるほど、では今日の所はお帰り戴いて結構です。いずれまた、お話を伺う事もあるでしょうから、連絡は取れるようにしておいて下さい。それから、何か思い出した事でもありましたら、知らせて下さるように」
「そちらこそ、あの電話の声紋分析の結果が出たら教えてね。もし他にも犯人が居たりしたら、恐くて夜も眠れないから」とエリーはウィンクで答えた。
私達は解放された。警官らは、私達が答えたより以上の内容を、容疑者の取調べを見る私達の反応から得たはずである。今ごろは、私達とサトウの記録を突き合わせ、分析している最中に違いない。
エリーはここまで来たからには、ぜひお昼はボルシチにしようと言い張った。マトリョーシュカと言う名のレストランを見つけ、ペチカのそばに落ち着くと、彼女は先程の取調べの話を蒸し返した。
「あの警備員は確かに脅迫されてるわね」
「脅迫って、誰に脅されてるの」
「直接には自分自身よ。それもかなり重度の脅迫体験だわ。昏倒するほどだもんね」
彼女はこの方面には詳しかった。それでこそ、警官の前ではとぼける事もできたわけだ。彼女はボルシチに浮かぶサワー・クリームをかき混ぜながら言った。
「問題は、あたし達が会社の秘密を探ってるって発想を、どこから仕入れたかよね。あの人、一目で怪しいと判ったって言ってたわよね、確か」
「ええ、やはり何か隠しているのかしら。それに、誰に命じられたのかと訊かれた時が、一番苦しそうに見えたわ。それこそ誰かに脅されているか、かばってでもいるのかしら」
「だとしても、多分あの様子じゃ彼自身、誰に操られてるのか判ってないわよ。本物の分裂症にしちゃ受け答えはまともだったし、もしそうなら警備の仕事なんか勤まらなかっただろうし。可能性としては、知らないうちに誰かに後催眠でもかけられたか……」
「それじゃ真犯人が裏に居るわけなの」
「警察はそう考えてるみたいね」
「それでその犯人は、私達がロマノーソフ氏の自殺を調べるのを、快くは思っていないわけね」
「でしょうね」
料理の味は良かったが、私にはそれを堪能するだけのゆとりはなかった。私はエリーに言った。
「やっぱり、この事件からは手を引きましょう」
彼女は聞いていなかった。
「あたし達が依頼を受けて、グランド・モータースに行ったのがその翌日でしょ。その時もう、あの人の様子はなんとなく変だったわよね。アポイントの電話は前日にいれたから、それを聴いたのかしら。まさかあの奥さんが……でも動機がないし、催眠術なんてできそうもないし……」
七 ラヴェル
ラ・ヴァルス
「もう他人事じゃないわ。とにかくやるとこまでやんないと、こっちが危ないわね。帰ったら早速、グランド・モータースの事、調べ上げなきゃ」
帰りの列車の中で、あたしはやたらに腹が立っていた。あたし達と一緒に乗って、向いの席に座った年寄りの男が、雑誌から目を上げてこっちを睨んだ。ラッシュ時は過ぎて、近くに他の乗客はいない。クリスが微笑んで会釈を返した。彼は別に答えもせず、視線を手元に戻した。
「判ったから、大人しくなさい。調べると言っても、何を調べるのよ」とクリス。
「あたし達を狙うやつが居るんなら、なぜ狙うのか、よ。決まってんじゃない」
前の老人が、また上目で見た。今度はあたしが手を振った。今朝みたいな満員電車もやだけど、あんまり空いてるってのも考えもんだわ。
「いずれにせよ、あたし達がロマノーソフの事、調べてんのが気に食わない人が居るのは確かでしょ。いま追ってる話とは、直接関係ないのかもね。あたし達が動いたことで、その誰かの昔の不始末かなんか、闇に葬って忘れてたのがまた出て来たりすると困るとかさ」
「だから、そう言う余計な事実が出てくる前に、打ち切った方が……」とクリスは気の弱い事ばっかり言う。
「ううん、この際徹底的に突き詰めて、あの奥さんに分厚い報告書を、どんと渡してやろうじゃないの。あの人、お金の心配はなさそうだし。当探偵事務所の経理部長としては文句ないはずよ」
「己が命を損ずれば何の益やあらん……。判りました、所長。それにしても、いやに乗り気なのね」
クリスは納得したらしい。それとも諦めたって言うべきかしら?
「なにも全世界を手に入れようってわけじゃないわよ。とにかくいい仕事をすれば、信用も倍増って事。ま、帰ったらひとまず、昔のニュースからグランド・モータースの記事を片っ端から検索しましょ。なんか判れば儲けもんよ」
正面の爺さんが立ち上がった。クリスがまた愛想を振り撒いてごまかそうとしたけど、彼はそれには構わず、ゆっくりとあたし達に近付いて来た。なんだか威圧的な感じだった。クリスの笑顔がひきつった。まさかこの人があたし達を消すために、尾行して来たんじゃ……。
「ちょっとあんた達、グランド・モータースの事を調べ回っとるのかい」と言って、爺さんは持ってる雑誌の記事を指さした。そこには『極秘開発中のニュー・モデル』のスクープ写真が載ってた。
「そんならこの新型車がいつ出るか知らんかね。孫が知りたがっとるでな」
ああ、なんだ。
事務所に帰りついて、あたしは真っ先にセミスウィートに怒鳴った。
「プレイヤー呼んで。早く」
クリスはやれやれと言った顔で、キチネットに引っ込んだ。お茶でも沸かしに行ったんでしょ。回線はすぐに繋がった。
「こんにちは、エレン。急いで何の用事ですか? 女王様のクローケでも始まりますかね」
「相手を間違ってるわよ。そのネタはクリス向きじゃないの」
「ははは、あなたはキャロルよりドジスンの方でしたね。それはそうと、ロマノーソフ騒動は片付きましたか?」
「ううん、まだこれからが本番。車一台潰されちゃった」
「おや、それは大変ですね。あの自動車では修理するにも結構なものいりでしょう」
「さっき訊いたら、グランド・モータースが修理してくれるって。それに、明日にも代車をよこすって言ってたわ。車種はなんだか知らないけど」
彼は機械のくせに心配そうな顔を見せる。そんな高度な感情まで、本当の意味で再現できてるのかしら。まあいずれにしてもインターフェイスには都合のいい芸当だ。このOIのパーソナリティーは、プレイ社との契約時に性別も含めていろんなタイプから選べるわけだけど、あんまり芸が細かいから、恋人代わりにしてる人まで居るくらいなのだ。もっとも、そんな事するのは、ほとんどが男性の客だそうな。
「でね、仕事の話だけど、ロマノーソフさんの特許ってどんなのか調べて」
「ええ……その人の特許となると『皮膚感覚の非接触再生装置』ですね。他にそれらしいものはないようです。技術的な詳細が必要ですか」
「いまのとこ要らない。でも、それって公示されてるのね」
「もちろんです」
クリスは二人分の紅茶とビスケットをキチネットから持って来た。あたしは机に頬杖をつき、足を組んだままお菓子をつまんだ。行儀が悪い、と無言のうちに非難する彼女の視線が首筋にくすぐったい。
「その技術を利用してるのはどこなの」
「大きな所では、グランド・モータースとインターナショナル・バトル・マシーンズですね。あとはアミューズメント関連が少々と言ったところです」と、プレイヤーは天井を仰いで記憶を探るみたいな表情を画面に映し出して答えた。
「大企業ばっかりなのね。用途は判るの」
「主として産業用マニュピレータや装甲外骨格の運転者へのフィードバックです。娯楽用としては、いわゆるVR[Virtual Reality:仮想現実]ですね。いろいろな映像と組み合わせて臨場感を高めるのが目的です」
「いろいろって?」
「まあ、いろいろですね」
彼の思わせぶりな苦笑で、大体の所は見当がついた。誰が教えたのか、機械とは思えないくらい適切な表現だった。
「女性の前じゃ言えない『皮膚感覚』ってわけね。いいわ、追求しないであげる。それより彼の奥さんがその特許で受け取れる金額を調べて」
「それはできませんね。できても教えられません。当社の情報管理規定によると、個人の財産……」
「わかったわ、言ってみただけ。その先は何度も聞いてるから、寝言でも言えるわ。どうしても必要なら本人に聞くから。それはそうと、その特許の管理はだれがやってたの」
プレイヤーは今度は素直に答えた。
「グランド・モータースでやってますね。彼の場合、特許料と言っても、その会社からの報奨金と言う形式を採っています」
「ふうん」
「それは本人が亡くなった後も、その未亡人に支払われるのかしら」とクリスが続けた。
「さあ。今の報奨制度の話は、その会社の求人広告からの受け売りで、そこまで細かい事は書かれていません。夫人の信用調査と言う名目でしたら、もう少し突っ込んで調べても結構ですよ。生命保険の金額も判らないでもありません」
「それには追加料金が要るんでしょう。先払いで仕事を受けましたから、そこまでする必要はありません。それにあなたの他にも調べる手段はあります。私達も探偵のはしくれですからね」
「はしくれですか」
「はしくれで悪かったわね」とあたし。クリスが余計なこと言うから。
「あとね、もう一つ調べてもらいたいんだけど、過去のニュースから、グランド・モータースが話題になってるのを洗い出して欲しいの。キーは『VR』『特許権侵害』『スパイ』『催眠』あとはグレゴリー・ロマノーソフの名前でOR[オア]取って」
「はい。ニュース・ソースの範囲はどうしますか」
「とりあえず技術系の新聞と雑誌。あと総合誌も。メディアはオンラインと紙ね。期間は過去五年かな。それで判んなかったら、また考えるわ」
それから三時間ばかり、あたしとクリスはプレイヤーが画面にはじき出した記事のリストと挌闘してた。タイトルだけでもかなりの分量で、うっかりハード・コピーなんかした日には、部屋が埋まって動けなくなりそうだった。彼は気を利かせて、あたし達が検討してる間にデータをセミスウィートに渡して回線を切った。そうでなかったら、アクセス料金がかさんじゃってしょうがない。
催眠をかけられた守衛が出てきて、この事件のスパイ云々と言う話も、まんざら冗談でも済まなくなってきた。ロマノーソフ氏の研究内容が、そもそも脳みそがどうのってやつだから、催眠とも関係ありそうだし。どっちも潜在意識を無視しては語れないって点じゃ共通してるわけだ。あ、そうだ、さっきのキーワードに『識閾下』かなんかも入れとけば良かったかな。そしたらリストがさらに長くなるけど。
クリスはさっきからあんまり関係なさそうな記事ばっかり選んで調べてた。例えば『企業間情報戦の実態。グランド・モータースとアドミラル・エレクトリックを例に』だとか『仮想現実を介した催眠実験とPSY』なんて、ほんとかどうかも怪しい興味本意の記事やなんかである。問題の本質てぇものを判ってやしないのだ。
このての検索は割に経験がモノを言うわけで、あたしみたいに学生時代に科学技術論文の類をさんざんあさった事があれば、目的と関係あるかどうかは題名を見ればぷんぷん臭ってくる。プレイヤーなんかじゃ、ちょっと無理な相談ね。
もうかれこれ夕方になって、かなり臭い文献にぶつかった。これもやや堅めの大衆誌である『ウィークリー・コズミック』に載った、一種の暴露記事には違いなかった。ただこれはその一件に関わったうちの一人が書いてて、関係者も実名で出てくる。グレゴリー・ロマノーソフもまた、その中に含まれてた。
タイトルは『外科的手法を伴うマン・マシン・インターフェイス』と一見学術論文風だった。サブ・タイトルは『ウィルス・プログラムに冒された人間の脳は何を見たか』ってこっちはなんだかB級映画みたいだけど。一応、署名記事になってて、筆者の名はアレクセイ・イワーノヴィチ・グラボウスキー。全文は結構長いから細かいところは端折って、大体の要旨はこんな感じだった。(以下、括弧内はあたしの注である)
グランド・モータースでは、創業当初から生体と機械システムとの有機的結合に関する基礎研究を行なってきた。その最大の結晶として、現在の先天性ならびに後天性身体障害者に対するサポート・システム(つまりあたし達が見せられた義手やなんかね)が挙げられる。そしてまた比較的目立たない分野では、各種の娯楽施設における心理的効果の向上をももたらした。
それらの研究には、一般にはあまり知られていない側面がある。それは兵器の制御機構への応用、すなわち人間の思考そのものによって、文字通り手足の如く兵器を操る事を可能にする方法の開発である。それを理想的な形で行なうには、外科的手段を用いて脳と兵器とを結ぶ必要があり、主として倫理的な観点から未だ実用化されていない。
グランド・モータースが目指している思考コントロールには、障害者向けの装置のような感覚レベルのインターフェイスではなく、より高度な抽象的思考レベルでの脳との情報交換を必要とする。もちろんその実現の過程には、インターフェイスの手段、思考形式の個体差の問題など、様々な課題が山積している。
一方で、最近のコンピュータ・システムにおける人格の模倣は、既にほぼ完成の域にある。適切な教育を施した相応の規模の機械であれば、それと知らずに言葉を交わしている限り、相手が本物の人間か、コンピュータのOI(プレイヤーみたいなやつの事だ)に過ぎないのかの判別は困難になりつつある。
これら二つの技術と、顕微鏡下の微細な外科手術との結合により、グランド・モータース生体工学研は、脳とコンピュータとの直接的な双方向通信を実現した。実際には、対象となる人間の後頭部にターミナルを設け、コンピュータと有線、または無線で接続を図る事になる。
ところが、ただ単純に脳とコンピュータを接続すれば済む問題ではない。なぜなら、脳の内部における神経のネットワークを走る活動電位がなんらかのパターンを示した時に、それが具体的にどのような概念を担うのか、となると、これは各個人によって異なってしまうからだ。
そうした個体差の問題を克服するために、機械とのインターフェイスに大幅な冗長性を持たせ、脳とコンピュータの双方に適切なフィードバックを行った上で、相当の訓練期間(人間じゃなくて機械の側に訓練させるそうな)を設ける必要があった。それにより、特定の意味ないしは概念に対して脳が発する信号と、そのコンピュータ上での表現との整合をとるのである。それはちょうど、共通の言語を持たない外国人同士が、意志の疎通を図ろうと試行錯誤する様子を、電気的に再現していると考えても良い。
と、ここまでが前置きと言うか背景の説明で、これぐらいだったらそこらの科学雑誌や通俗書にいくらでも載ってる。問題はその続きだった。
この手法を実現するため、十年余の動物実験を経て、人間に対する臨床試験が開始された。最初は事故で左脳の言語中枢を失ったある患者の機能回復を目的としていた。しかし、まもなく社員の中から志願した健常者に対しても実施されるようになった。これは当然、医師法に抵触する行為であり、極秘裡に実施された。対象は筆者を含む八名であった。
第一段階の試験は成功した。被験者はコンピュータによって創られた空間情報を通常の視覚、聴覚などに頼る事なく、脳に直接送られる信号から実感する事ができた。
この通信は双方向で、コンピュータ上の世界に対して働きかける場合にも、実際の身体の動作を伴わず頭の中で考えるだけで良かった。例えば、目前に『見える』物体を『手に取って』見たければ、仮に椅子に両手を縛り付けられていたとしても、この人工空間では何の障害にもならない。体験の質としては、非常にリアルで論理的にも首尾一貫した夢の如きもの、と考えると良い。
本実験開始後約半年を経過して、計画を八分通り消化した九月中旬(ただし今からは地球時間でほぼ三年前)本稿の副題の事件は発生した。何者かによるコンピュータ・ウィルスがこの実験系に侵入したのである。
そのウィルスは明らかに、この実験の目的を熟知した者によって生み出されていた。なぜなら、当のウィルスはコンピュータのみならず被験者の脳をも極めて効果的に侵したからである。これは、この実験でのコンピュータと脳の接続状態と、人間の脳に侵入して破壊する方法を、ウィルス制作者が知っていたことを意味する。
その時の実験内容は、視覚的に構築された仮想空間内で何かに触った場合、触っている様子が見えると同時に圧迫、重量、温度などの感覚が適切な部位に再生されるようにする内容であった。
その実験の最中に、視覚情報処理系にウィルスが介入した。それにより、被験者らは何らかの非常な恐怖を伴う情動を体験したと推測される。その直後、彼らは例外なく激しい癲癇様の発作をきたし、著しい強直性痙攣を経てカタレプシーに陥った。
当時、筆者はたまたま実験に加わっておらず、難を逃れたが、残る七人(もうこの段階では、最初に出てきた患者は参加してなかったらしい)は全員がウィルスによる被害を受けた。
また、これもウィルスによるものと思われるが、事故の際に被験者の脳とコンピュータとの間で交わされていた通信内容が、全く保存されていなかった。実験中は全情報をチップ上に記録するようにプログラムされていたにも関わらず、記録された形跡さえ見当たらなかったのである。
一ヶ月を経た現在、被験者らは意識を回復する兆候を見せず、脳に設置した端末を摘除した後も症状は好転していない。外見上、彼らは植物状態にあるが、対光反射などは消失しておらず、脳波のパターンもむしろ覚醒時のそれに近い。
ウィルス・プログラムそのものは、不活性化した状態で保存されているが、その製作者、動作機構の詳細は今後の解析を待たねばならない。
とまあ、事実関係の記述は大体こんなもんだった。他に雑誌の編集者の短いコメントが付いてるけど、的はずれなので省く。ロマノーソフ氏は猿のイカラスを使った動物実験での成果をふまえて、この人体実験においても中心的な役割を果たしてたらしい。
それにしても、一般誌にしちゃやたら難しい専門用語がぞろぞろ出てくるんで、果たして読者がどれだけ理解できたのかは疑問である。事典を片手に雑誌を読む人なんか居やしないだろうし。
「こんな記事が出てたとは知らなかったわね。結構重大な事件だし、ちょうどあたしが大学で応用心理の授業を取ってた時期じゃない。このての話だったら、あたしも小耳に挟んでそうだけどな」とあたしは再びプレイヤーにアクセスして言った。
「御存知ないのはもっともです。この号は発禁処分になっていますので」
「え? なんで?」
「この号には他にアウロラ州上院議員E・C・マーシャル氏のゴシップ記事が載っていまして、発売前にそちらからクレームが付いて回収されたのです」
「へえ。あんたよくそんなの見つけてきたわね」
「マーシャル議員が名誉毀損で告訴した予審の一件書類に、この雑誌がそっくり含まれていました。司法省のデータベースにあります」
念のため警察の方のデータベースを見ると、この記事にあるウィルス事件も医師法違反って事で、通り一遍の捜査はされてた。でも責任者(ロマノーソフやベネットじゃなくてもっと上の人)を一人捕まえただけで終わりにしてて、おまけにその人も不起訴で済んでる。
なるほど。きっと会社の方がなんとか手を回して、無理やりもみ消したんだろう。もしかしてマーシャル議員経由かな。その辺も探ってみたい気がしないでもないけど、一銭の得にもなんないからやめとく。下手すると命を狙われる理由が一つ増えるし。
なんにしても、これで事件解決への突破口の一つは見つかったわけだ。まずはこの記事の筆者を訪ねて、話を聞くって事にしよう。それでも何も出てこなけりゃ、その時はまたその時。
とにかくもう何もかもあしたあした。今日はミサイル騒ぎだけで疲れちゃったもんね。そうか、考えてみたらまだあれから一日経ってないんだわ。