「もしもし、あたし……」

「もしもし、あたしチカよ。お電話ありがとう」
 残業に疲れた私が一人寂しく帰宅したとき、かかってきた電話の主はいきなりそう言った。私はめんくらった。
「え、もしもし? あの」
「チカ、今日学校でね、音楽の時間に……」
 きっと独身女性で一人暮らしの私を狙った悪戯に違いなかった。彼女、自称チカは甲高く幼い声で自分の近況をまくしたて、一方的に切った。私が何か言ったって返事もしなかった。自分でかけてきて「お電話ありがとう」も変だった。
 電話が切れてからもしばらく私は唖然としてたけど、やがてその正体に思い当たった。それは『チカちゃん電話』だった。チカちゃん人形のメーカーが、子供向けに行っているテレホン・サービスで、もちろん向こうからかかってくるようなもんじゃなかった。
 会社では八歳も下の新人相手にいらいらしてる時期にこんなものがかかってきて、私はすこし腹が立った。その娘ときたら仕事の役にはたたないくせに、デートだなんだと遊ぶことは一人前以上だった。
 誰かがオリジナルのチカちゃんをコピーしたテープでも流してるんだろうと私は思って、それ以上気にもせずに眠りについた。

「もしもし、あたしチカよ。お電話ありがとう。今日はチカのお誕生日なの。お友達みんなを集めて、おうちでパーティーを開いたのよ……」
 チカちゃんからの電話は、それから毎日のようにかかってきた。いつも決まって私の帰宅を待ちかねたようなタイミングだった。私はやめてくれるようにいろいろ相手に話しかけたけど、向こうはぜんぜん答えなかった。なだめてもすかしても、普段はとても使えないような言葉で罵ってみても効果がなかった。もしかすると、電話線の向こうの端にいるはずの誰かは、そうした私の反応を面白がってるのかも知れなかった。
 私の部屋の電話番号は、電話帳には載せてなかった。この番号を知ってるのはあの人とこの人と……と私は考え、やがてあることに気付いた。そう、私は結構あちこちに『連絡先』として電話番号を書いてた。それは旅行の時の宿帳であったり、いろんな事務手続きの書類とか、懸賞の応募はがきだったりした。みんなその会社なり組織なりを信頼してのことだったけど、それを見た係の人が個人的に悪用したり、いわゆる『名簿屋』に売ったりしないなんて保証はなかった。

「もしもし、あたしチカよ。お電話ありがとう。チカね、夏休みになったら家族みんなで旅行に行くの。軽井沢でペンションに泊まるのよ……」
 一週間ほど我慢してもチカちゃん電話はやまなかった。しかたなく、私は電話局に出向いて番号を変えてもらった。窓口の担当者はべつに理由を聞こうともせずに、手続きをとってくれた。
 番号は翌日に変わった。電話局から変更完了の確認電話がかかってきて、私は少し安心した。受話器を置いて、新しい番号を教えるべき人を頭の中でリストアップしていると、また電話のベルが鳴った。また局からの確認だと思って受話器をとると、聞こえてきたのはもう耳についたあの甲高い早口だった。こうなるともう疑問の余地なんかなく、電話局の人間が犯人としか考えられなかった。しかし私の苦情の相手をした局の人が調査してくれた結果、いたずらどころか番号を変えてからいかなる通話も私の所につながった形跡はない、とのことだった。
 私は、電話局全体がぐるになって私をだましてるんじゃないか、とさえ思った。ただ、私なんかにわざわざそんなことをする理由までは思いつかなかった。
 驚いたのは、仕事で出張した先のホテルの部屋にまでチカちゃん電話がかかってきたことだった。その同じ電話機で急いでフロントに問い合わせたけど、やっぱり電話など取り次いでないと言われた。
 これが誰かの陰謀なら、電話局ばかりかホテルのフロント係まで巻き込んでないとできないことだった。まさか、いくらなんでもそんなことがあるはずはなかった。
 いったい誰がどこからどうやってかけてくるのか、全く判らなかった。

「もしもし、あたしチカよ。お電話ありがとう。チカのおうち、お引っ越ししたのよ。新しいおうちはね、二階から海が見えるの……」
 慣れてみると、チカちゃんの電話はそうじゃまになるものでもなかった。私一人のために放送されてるドラマみたいな気もしてきた。途中で切るとまたかけ直してくるけど、最後まで受話器をあげていれば満足するようだった。それに私が返事をしないでいれば、そのうちかけるのをやめるだろうとも期待してた。
 気付いてみると、チカちゃんが電話してくるのは私が一人で帰宅するときに限られてた。友達に相談して部屋に来て貰うと、そんな日にはかかってこなかった。彼女には三回ばかり泊まってもらって、みんな空振りに終わった。
 誰かが一緒にいるとかかってこないんなら、解決策の一つは私が結婚することだった。ただこの方法には問題があって、そもそも私が結婚したいような相手がいないのだった。私はかつて実家から持ちかけられて断った縁談を思い出した。それにしたって「チカちゃん電話を防ぐために結婚する」なんて言おうもんなら、向こうから断ってくるのは明らかだった。
 それに、友達に来てもらうのにも限度があった。始めこそ面白がっていたオカルト好きの彼女まで、ついに私を変な目で見るようになった。表だってはともかく、陰でなにを言われているか判らなかった。電話のことを知らないはずの他の友達と飲みに行って、遅くなったから泊まるように誘ったら、急に態度がよそよそしくなったりもした。
 私があらためて苦情を持ち込むと、部屋に電話局の人が来て回線を点検してくれた。やっぱりうすうす思っていたとおり、どこにも異常はないと言われた。誰かに盗聴器でも仕掛けられたかと思ってたけど、その心配だけはないようだった。しかしこれで事態がいっそうややこしくなった。

「もしもし、あたしチカよ。お電話ありがとう。今日チカね、おかあさんとスーパーへお買い物に行ったの。もちろん妹のマミちゃんも一緒よ……」
 チカちゃんは妹と仲がいいようだった。
 私と六つ下の妹とはそうじゃなかった。だからと言って仲が悪かったわけでもなかったけど、とにかく私たちは姉妹のくせに性格が違いすぎたのだった。なんでも要領のいい彼女に対して、意地っぱりの私は何かにつけて損をしていた。
 姉妹喧嘩でもしようものなら、両親は「あなたはお姉さんなんだから」とまず私を黙らせた。私は「お姉さんだから」妹と一緒に退屈なままごと遊びもしてあげたし、「お姉さんだから」テレビのチャンネルも譲った。「お姉さん」で得をした記憶なんて、ほとんどなかった。
 そのためかどうか、妹は今じゃ私なんかよりずっと上品に育ってた。おかげで彼女は学生時代にいいとこの御曹司をひっかけて、卒業後すぐに旦那にしてたけど、私は一緒に入社した男性社員の昇進を横目で見ながら、一人で『キャリア・ウーマン』を演じていた。これにしたって、私じゃなきゃできない仕事をやってるわけでもなかったし、「お姉さんだから」意地になってるのかもしれなかった。
 私が就職するとき家を出て以来、妹とは疎遠と言っていいくらいたまにしか会ってなかった。

「もしもし、あたしチカよ。お電話ありがとう。マミちゃんてばね、きのう買ってもらったぬいぐるみさんが、とってもお気に入りなの。朝から晩までずっと抱いてるの……」
 そうだ、私もかつてお気に入りのチカちゃん人形を持っていた。チカちゃんハウスや着せ替えの服などもいくつか持っていた。妹もそれを欲しがったけど、両親は「お姉さんと一緒に遊びなさい」と言って買ってやらなかった。当然のように、あるとき二人の間でチカちゃんの取り合いになって、チカちゃんの首がもげてしまった。この時ばかりは私たち姉妹も気が合って、二人で大声を競うように泣いた。
 母さんは、そんなに欲しがるならと、妹にチカちゃん人形を買ってあげた。私は「お姉さんなんだから」と古いので我慢させられた。父さんが『大手術』の末に首をつなげてくれたけど、一度は死んでしまったそのチカちゃんで、私は遊ぶ気にはなれなかった。私のチカちゃんが持ってた衣装道具は、妹のチカちゃんが相続した。
 私のチカちゃんはその後どうしたか、いまはもう記憶もあいまいだった。さすがに捨てた覚えはなかったから、実家に帰れば、まだとってあるはずだった。
 どうしたんだろう、私は涙が止まらなくなった。三十近くのいい年をして、いまだにあのチカちゃんが可哀想な気がした。いや、正確にはあの時の私自身が可哀想なのかもしれなかった。

「……このごろおとうさんの帰ってくるのが遅いの。家族みんなのために一生懸命お仕事してるのよって、おかあさんは言ってるわ。だからチカ、おとうさんが帰ってくると、お帰りなさいって、抱きついちゃうの」
 電話の内容に、次第にかげりが出てきた。日記然としたいつもの近況報告に、両親の事が付け加わるようになった。今日は父親の帰宅が遅い話だけだったけど、昨日は母親が洗濯していて父親のワイシャツの胸に口紅の跡を見つけ、眉をひそめていた。その前には、母親が父親の出張の日取りを間違って夕食の準備を忘れたことで、軽い口論があったようだ。
 いままでの私は、たいがい受話器を電話機の横に置いたままにして、聞くともなしに聞いてたけど、こうなるとどうにも話の展開が気になってきた。楽しみ、と言うのも変だったけど。

「……おかあさんてば、デパートでたくさんお買い物したのよ。すてきな金のネックレスとか、新しいまっかな口紅とか、絹の下着とか。チカにもなんか買ってって言ったら、おこられちゃった」
 毎晩かかってくる謎のチカちゃん電話は、一度として同じ内容はくりかえさなかった。誰がかけて来るにしても、かなり手が込んでた。もしかしたら録音ではなく、相手がその場でしゃべってる可能性もあった。これが原稿なしのアドリブだとしたら、相当の創作力の持ち主に違いなかった。ただ、判らないのは電話の目的だった。

「……知らない女の人から電話があったよって言ったらね、おかあさんてばすっごく恐い顔してその人の名前とか、どんな感じの声だったのとかって、チカにきいたの。でもその人、おとうさんはいますかって言っただけだもん、こまっちゃった」
 チカちゃん電話を録音してみても、ざらざらした雑音のほか、なにも聞こえなかった。私は最後の可能性を疑いはじめた。でも私自身の精神はしっかりしていたし、べつに幻聴が聞こえることもなかった。

「……おかあさんがおそとで遊びなさいって言うから、マミちゃんと近くの公園でブランコに乗ってたの。おまわりさんに、恐いおじさんがいるから気を付けなさいって言われておうちに帰ったら、おとうさんとおかあさんが喧嘩してたの。なんだかおかあさんが無駄遣いばっかりするって言ってたみたい。チカがただいまって言ったらおとうさんてば、チカとマミはいい子だね、おとうさんのこと好きかいって、チカのことだっこしてくれたのよ」

「もしもし、あたしチカよ。お電話ありがとう。チカね、夏休みになって、すぐにおかあさんの田舎に来たの。一人で暮らしてるおばあちゃんが、とっても歓迎してくれたのよ。おとうさんも来ればいいのに、忙しくってだめなんだって。おとうさんに電話してみたら、女の人が出たからチカびっくりして切っちゃった。なんだか、こないだおうちに電話してきた人の声に似てたかな。おかあさんに話すと、またおこられちゃうかもね。あ、それからチカね、夏休みが終わったら、こっちの学校に通うことになったの。今までの学校のお友達と会えなくなるのは、ちょっとさみしいけど、またこっちの学校でお友達いっぱい作っちゃうわね」
 ついにチカちゃんの両親は別居してしまった。軽井沢旅行の話は流れてしまったみたいだった。この電話のあと何日かは、どうってことのない夏休みの日記が続いた。チカちゃんの母親はいくらか落ちつきを取り戻し、おばあちゃんは夏の暑さに参っているようだった。
 ときどき混じる「おかあさんは裁判所ってとこに行ったんだって」「このごろおばあちゃんが元気ないの」と言った言葉が、まだまだ平和になったわけじゃないことを示していた。そんななかで、チカちゃんとマミちゃんは実にけなげに生きていた。
 そして夏休みも終わりに近付いた。

「もしもし、あたしチカよ。お電話ありがとう。今日はおばあちゃんのお葬式だったの。親戚の人とか、もちろんおとうさんも黒いお洋服着てきたの。でもおかあさんてば、怒って追い返しちゃったのよ。チカもひさしぶりにおとうさんとお話しようと思ったんだけど、一緒に来た女の人が連れてっちゃったの。おかあさん、あとで泣いてたわ」
 私の母方の祖母も、やはり夏の終わりに亡くなった。やはりチカちゃんと同じくらいの歳の時だった。今でも野辺の送りに聞いた蜩の声や、祖母の達筆な短冊が下がった風鈴の音が聞こえるようだった。
 ちょうど妹が幼稚園に入る前の歳で、手が掛かる盛りだった。喪主だった母は、妹をおとなしくさせるために大わらわで、私にも妹の世話を手伝わせたり、庭であやさせようとした。
 チカちゃんの向こうにいるのが誰にしても、私のことをよく知ってるのは確かだった。それこそ私自身と同じくらいに知っているはずだった。

「もしもし、あたしチカよ。お電話ありがとう。チカね、またお引っ越しする事になったの。おかあさんがね、このおうちにいるとおばあちゃんを思い出しちゃうからだって。それに三人で暮らすには広すぎるしって言うのよ。それにチカ、いま通ってる学校じゃだれもお友達になってくれなくって、みんなチカのこと仲間外れにするの。なんでかなあ。近所の人たちも、なんだかチカたちのこと噂してるみたい。だから、おばあちゃんのおうちは売っちゃって、もっと街に近いところにアパート借りることになったの」

「もしもし、あたしチカよ。お電話ありがとう。おかあさん、田舎のおうちを売ったんだけど、お金がもらえなかったの。買ってくれる人を探すのを頼んだ人が、お金を全部もってっちゃったんだって。それから今日ね、おかあさんとマミちゃんと三人で海を見に行ったの。もう秋だから、海岸には人がぜんぜんいなくって、とってもすいてたわ。おかあさんてば、チカとマミちゃんの手を握ったまんま、どんどん海に入ろうとするのよ。チカが、きっと水が冷たいよって言ったら、おかあさん急に泣き出して、ごめんなさい、そうよね、冷たいよねってチカのこと抱っこしたの……」
「可哀想に」と私は思わず言った。涙が出てた。いままで一方的にしゃべるだけだったチカちゃんが、このとき初めて反応した。
「そう? 可哀想だと思う?」
「ええ、できれば代わってあげたいくらい」
「うれしい。ありがとう」
 チカちゃんがとても嬉しそうにはしゃいだ声を上げた瞬間、私の目の前が一変した。手にした受話器も着てた服も、部屋の床まで、その実感が消え失せた。私は見知らぬ自分の部屋を歩いて、ベランダの窓にぶつかった。どこかずっと遠くでガラスが割れる音がした。果てしない落下の感覚に私は気を失った。


 気が付くとそこは私の部屋じゃなくて、私はどこだか知らない他人のベッドに横たわってる。周りを見回そうにも、妙に体が固い。花柄の壁紙や調度品はみんな鮮やかな原色で、私の趣味には合わない。その調度品にしても、タンスなどは芝居の書き割りのように壁に描かれてるだけ。窓も、外の風景も、全て平面に描かれてて奥行きがない。
 やっと半身を起こしてみると、私が着てるのは見覚えのあるピンクのエプロン・ドレスだ。手や指はのっぺりとして細部がない。これじゃまるで……。
「なんてこと? どうして……」
 私は声に出してみる。もう耳になじんだあのキンキン声が部屋に響く。
 私はチカちゃん人形になっている。この部屋がチカちゃんハウスにそっくりだし、いま着てるこの衣装は私のチカちゃんが首が取れたときに着ていたもので、妹の手に渡らなかった唯一の服なのだ。とすると、毎晩私の部屋に電話してきたのは、私のチカちゃんだったんだろうか。
 私は途方に暮れる。なにしろ人形になった経験なんて一度もないんだから。とりあえずベッドをおりて、歩き回る。動きがぎこちないのはしかたない。自力で動けることからして不思議なくらい。
 この部屋はすぐ隣のキッチンに続いてる。こっちにはガス台など、立体になってる家具がいくつかあって、片隅には黒いダイヤル式の電話機が置かれてる。私の頭に、ある番号が浮かぶ。なすべきこと、この状況から逃れるすべに気付き、私は電話機に歩み寄る。受話器をあげてダイヤルを回す。呼び出し音に続いて妹の声。
「はい。どちら様でしょう」
「もしもし、あたし……」


「あの、先生。姉の様子はいかがでしょうか」
 冷たい色に包まれた総合病院の廊下で、一目で妊婦と判る女性が医師に話しかけた。
「ああ、お見舞いですか。あなたもそのお体じゃ大変でしょう。そろそろ七カ月くらいでしたか」
「はい。その診察のついでと言ってはなんですが、やはり心配ですし」
「ま、ここで立ち話というのも変ですから、診察室にでも」
 精神科の診察室は、ちょうど外来を受け付けていない時間帯のため、患者は誰もいなかった。医師は女性に患者用の背のない回転椅子を勧め、その姉のカルテを探し出してきた。
「お姉さんは、その後だいぶ落ちついています。発見されたときにあちこち怪我をしていたので、自傷と言う、自分の体を傷つける衝動があるのかと疑ったんですが、どうやら単にガラス窓を割ったときの怪我だったようです」
「最後に私から姉に電話したときひどい音がしまして、慌てて部屋に行ったときにはガラスまみれで倒れておりましたから……」
「なるほど。とにかく今は拘束衣はつけていません。反対に自分の意志で身体を動かせない状態で居ることが多いようです。カタレプシーと言って、たとえば他人に腕を持ち上げられたりすると、腕を放されてもずっと上げたままでいる症状です。ちょうど人形のように。念のため保護室に入ってもらっていますが、この様子なら解放病棟でも大丈夫でしょう」
 医師は自分の腕を上げてカタレプシーの様子を再現して見せた。妹は人形のようにと聞いて、すこし顔色を曇らせた。
「そうですか。こちらに入院した日にも、姉は私のところに電話をかけてまいりまして、まるで、あの、『チカちゃん電話』ってございますね、あれとそっくりな話し方をしておりました」
「それはこちらの落ち度でした。当日、看護人が油断して目を離したあいだに、保護室から出てしまいまして、廊下の公衆電話からかけていたんです。運良くテレホンカードの忘れ物がありましてね。それにそのチカちゃん電話は、今でも毎日のようにナースコールでやっています。いちいち相手はしていられませんが、これをうまく誘導すれば治療のきっかけになるかもしれません」
 医師は二つ折りのカルテに挟まれた紙に目をやって続けた。
「それから今朝お姉さんの会社のお友達が見えまして、少しお話を伺いました。お姉さんはどうやら四カ月くらい前から、自宅にかかってくるチカちゃん電話に悩まされていたようですね。そのお友達の話では全くの妄想だったようですが、御存知でしたか」
「いいえ、全然。四カ月前でしたらちょうど私の妊娠が判ったころです。それを電話で知らせました時も、驚いてはいたようですが、さほどおかしな様子はございませんでしたし……」
「なるほど」と医師は妹の迫り出した腹部に視線を落とした。彼はカルテに、妹から受胎告知の電話があった事実と、発病のきっかけとしての可能性を書き留めた。
「あの、姉に会ってもよろしいでしょうか」
 医師は再び妹の腹と顔に目をやり、気の毒そうに首を振った。
「おやめになった方がいいでしょう。お会いになっても、お姉さんはただじっと座っているだけです。多分、見るに耐えないと思いますよ」
「そうですか……では、今日はこれで失礼いたします。姉をよろしくお願いします」
 妹は立ち上がって大儀そうに一礼した。医師は彼女を見送りながら言った。
「あなたこそお大事に。お腹のぼっちゃんのためにも。いや、お嬢さんかな」
「女の子だそうです」と妹は笑顔を見せてマタニティ・ドレスの上から腹をさすった。
「この子も、きっとチカちゃんを欲しがるんでしょうね。いつかは買ってあげませんと」

              おわり