都市空襲
米英との開戦までは、日本の軍隊がどんなに凄まじい戦闘を繰り広げても、本土の民衆が直接戦火に
晒されることは無かった。
日露戦争までは航空機が発明されておらず、その後の中国との戦争でも航空能力が乏しかったので、
制海権を失わない限り本土は安全だった。しかし、対米英戦に突入してからは様相が一変し、昭和1
9年以降は日本本土四周の制空権・制海権とも敵に握られ、事実上、本土全体が戦場と化した。
それは日本の歴史上、かつて経験したことのない未曾有の大惨事であった。広島・長崎へ投下された
原子爆弾の被害者を除いても、およそ30万人に及ぶ民衆が、本土都市への空襲で亡くなっている。
本土では大部分の青・壮年男子が召集されて戦地に赴き、本土の都市に残る一般人の多くは女性、少
年・幼児、老人であった。
昭和20年3月9日夜半から10日未明にかけて、平均6トン以上の焼夷弾を積載した344機のB
29が東京の下町を空襲。先発部隊が江東区・墨田区・台東区の周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下
して火の壁を作り、住民の退路を断ったうえで後続部隊が約100万発の油脂焼夷弾やエレクトロン焼
夷弾を投下。死者、約10万人。
戦後、本土空襲の指揮官カーチス・ルメイは回想記のなかで次の様に述べている。
「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は
全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っ
ていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これ
をやっつけて何が悪いのか…。」
昭和20年7月26日、大阪市東住吉区田辺の空襲で原爆の投下訓練を目的とした模擬原爆(パン
プキン爆弾)が使用された。そして、広島・長崎・・・。
終戦前日の8月14日には、山口県光市の海軍工廠が空襲を受けた。8月14日の時点では当然ア
メリカも日本の降伏の意思を知っていた筈なのに。
しかも一旦上空を通り過ぎて注意をそらし、空襲警報が解除されてから引き返して来てからの爆撃
方法を取った。空襲の目的が施設の破壊ではなく、人命の損耗にある事が明らかです。この空襲で
は、地元の女子挺身隊員を中心に約700名が亡くなっている。
精密爆撃
米空軍第21爆撃集団司令官・ヘイウッド・ハンセル准将は、軍事施設や軍需工場への精密爆撃を
主として日本の都市爆撃を実行したが、この方法では高高度からの爆撃の標的破壊率が5%に過ぎ
ず効果が薄いと判断された。
無差別爆撃
昭和20年1月にカーチス・ルメイ大佐が後任の第21爆撃集団司令官として赴任し、日本の都
市への民家焼夷攻撃を前提とする無差別戦略爆撃を立案した。この時ルメイが考案した日本本土
爆撃の主なポイントは次の4点である。
@高高度からの爆撃をやめ、低空(1,800m以下)からの爆撃とする。
A爆弾は焼夷弾のみとし最大積載とする。 .
B搭載燃料を最小限とし、防御用の銃座は外す。 .
C攻撃は夜間とする。 .
更には、日本の「木と紙でできた家屋」を効率良く破壊延焼するための専用焼夷弾を開発した。
ルメイの考案に対して米陸軍内からも「民間人攻撃は国際法に反する」と反対の声があがったが、
「日本では民間人の居住地区でも軍需物資を作っている。それを考えれば民間人攻撃は戦略上重要
なことだ。」と押し切ったという。
米国内では前駐日大使で国務次官を務めていたジョセフ・グルー等が、戦後の反米感情惹起を懸念
してトルーマン大統領に無差別焼夷弾爆撃の停止を進言していた。
このルメイの焦土化作戦は、東京大空襲をはじめ大成功を収め、大都市を焼き払った後には地方の
中小都市まで対象となり、標的となった日本の都市は、軍需工場・民間住宅地の区別なく徹底的に
焼き払われ壊滅的な打撃を受けた。
「戦争の勝敗を決めるのは軍人ではなく、その国の国民である。国民全体が”この戦争は負けだ”
と思わない限り戦いは終わらない」
下町の下請部品工場を正規の軍需工場とみなし、その地域の民間人を全て交戦相手と位置付ける。
空襲の目的を施設の破壊ではなく、軍人以外の相手国民の人命損耗に置く。これを民間人に対する
虐殺ではなく、正規の軍事作戦として評価する。 これがアメリカの戦争理論である。
昭和39年、ルメイは航空自衛隊創立10周年に来日、航空自衛隊創設時の戦術指導に対する功績
により、日本政府より勲一等旭日大綬章を授与された。
本来、勲一等に叙する勲章は天皇から直接渡される「天皇親授」が通例であるが、昭和天皇はルメ
イと面会することはなかった。
時の総理大臣は、後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作だった。
都市空襲の人的被害
被害状況 |
被害人数 |
総 数 | 668,315名 |
死 亡 | 299,485名 |
重 傷 | 146,204名 |
軽 傷 | 167,318名 |
負 傷 | 31,298名 |
行方不明 | 24,010名 |
原子爆弾の人的被害
投下地 |
当時の死者 |
戦後の死者 |
死者合計 |
広島市 |
25,000人 |
235,000人 |
260,000人 |
長崎市 |
15,000人 |
60,000人 |
75,000人 |
|
40,000人 |
295,000人 |
335,000人 |
手柄山中央公園
兵庫県姫路市
太平洋戦争全国戦災都市空爆死没者慰霊塔
碑文
太平洋戦全国戦災都市空爆死没者の霊 此のところに眠る
この塔は先の大戦で空爆の犠牲となられた方々の慰霊に資するため、全国からの浄財により1956年(昭和31年)
10月26日に建立されました。
現在は109都市(東京都を含む)が加盟する財団法人太平洋戦全国空爆犠牲者慰霊協会が維持管理を行っており
ます。
中央の塔身部は刀を地中に埋めた形で「もう戦争はしない」ということを表現しており、側柱には建設にかかわった
全国戦災都市連盟(113都市加盟)の戦災記録などが刻まれています。
竣工以来、毎年10月23日に塔前においてこの浄域に眠る加盟都市20万9700柱の犠牲者を追悼する平和祈念
式典を挙行しています。
太平洋戦争全国戦災都市空爆死没者慰霊塔
戦災都市の記録が刻まれてた側柱
皇族方による献木
更新日:2011/11/27