上田 貢
陸軍憲兵曹長
富山県出身、比島セブ派遣憲兵隊所属
罪状@
昭和17年 7月 6日、レイテ島タクロバン俘虜収容所から逃走した米人将校1名、比島人3名を部隊
で処刑した折に、憲兵として立ち会いを命ぜられたこと。
この事件では、上田憲兵曹長は確かに現場に立ち会ったが、直接命令を下したのは上官であった。
罪状A
昭和17年 8月14日、レイテ州知事の依頼で比人死刑囚10名を処刑したこと。
この事件では、上田憲兵曹長はセブ市に出張していて不在だった。
しかし当時の中隊長・事件に関与した将校等が行方不明、或いは戦死しており、上田憲兵曹長は二つの
事件の責任を負わされ無罪を主張したが、昭和21年 3月 4日に死刑の判決を受けた。
処刑
昭和21年 6月 6日 比マニラ・ルバウにて法務死(米軍により銃殺)
死刑判決後、獄中からの手紙
. 新聞、其の他で既に公表して居ると思ひますが、私の戦犯事実が如何に伝へられても、決してお嘆き
. 下さいますな。
. 私の行為は、日本軍人として当然なすべき事を行つたに過ぎず、何にも人に卑下すべき、恥づかしき
. 行為はありません。
. 又、戦犯事実がなくとも、この大敗後に、然も数名の部下を戦ひ死なした自分として、申し訳にも生きて
. は居れません。
. 恵子の顔が一度見たかつたが、今となつては仕方がない
. 男として、軍人として、当然受けねばならぬ敗戦の罪か?逝く私はともかく、後に残る君等の将来が、
. 実に気にかかつて仕方がない
. 獄内に溜りし水に指をつけ 妻といふ字をそつと書きたり
遺書
. (一)
. 最愛なりし愛子へ
. 1.余と結び、日時短少なりといへども、よく余につかへ、命征きし後、恵子の養育にこれ務めたるを、
. 心より感謝に堪へず、然るに余、君を遇するに足らざるありたるを恥づ。
. 2.尚、我逝きし後、君に対する苦難の道多々あるを思ふ。ねがはくは大和撫子の真髄を発揮し、
. 君が希望せらるゝ道を邁進せられん事を。
. 3.君が処生上、若し恵子、重荷となる事あらば、我が両親にこれを托せよ。
. (二)
. 未だ見ざりし恵子へ
. 1.お前の父さんは、国に忠義な立派な人だよ。
. 2.お前の祖父母さんや母さんも立派な日本人です。父さんが無くても、祖父母や母さんのお教へを
. 良く守り、勉強して、立派な人になるのだよ。
. 3.お前が学校へ行く頃は、アメリカ流の教育になつてゐると思ふが、アメリカ流でも、良いところは
. 進んで習ひ、人に負けてはいけないが、日本人だといふ事を寸時も忘れてはいけない。
. お父さんは永い間外国に居て、外国の女は少しも偉いとは思はなかつた。やはり女の人は、日本の女が
. 世界第一立派であつたと思ひます。
. だから大きくなつたら、立派なお母さんになつて、立派な日本男子を沢山生んで、父さんがアメリカと
. 戦つて、立派な戦死をした事を伝へて下さい。
. 昭和二十一年四月二十三日
富山縣護國神社
富山県富山市
上田 貢陸軍憲兵曹長 上田曹長の遺書、書簡
更新日:2007/06/30