都営大江戸線1周旅行
第壱回目 「光が丘」
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写真1(光が丘駅構内)
そんな訳で、やって来ました・・・
都営12号線の始発「光が丘」駅です。
「光が丘」の駅名が石柱に彫ってあるという豪華な設えになっています。
写真2(ショッピングモール)
駅を降りて、まず目にするのは巨大なビル群・・・
光が丘IMAとLivin(旧:光が丘西武)、そしてダイエーなど
のショッピングモールがあります。その上、ホールなど もあり、様々な催し物が行われています。
ちょっとした、お買い物&カルチャースポットです。
写真3(銀杏並木)
そして、その奥にあるのが光が丘公園・・・
緑深き、癒される空間です。
かなり広い公園の敷地内には区立体育館、そして野球場や
フィールドアスレチックなどの施設が完備。
さらに自然に親しめるような野鳥観察
舎や渓谷などのランドスケープも充実しています。
園内には四季折々の花が咲き、公園を訪れる人々の目を楽しませてくれます。
でも、その中でも、まずは駅から長く続く銀杏並木・・・散歩には絶好の場所です。
春には桜も咲くとのこと。今から春の到来が楽しみですね。
写真4(噴水と青空)
ところで平和台公園の由来を御存知でしょうか?
そもそも江戸時代には、この辺は江戸から全く外れた埒外の 場所・・・田畑が続く農村地帯でした。
それがにわかに脚光を浴びたのが1940年(昭和15年)・・・
当時、神武天皇即位から数えた『皇紀2600年』記念の 大緑地化計画により、
当時は板橋区の一部だった光が丘は スポットを浴びます。
もっとも太平洋戦争直前の話、軍事利用なぞも視野に入れていたのでしょう・・・
と思いきや、その予想は、あまりにも早く現実のものとなります。
昭和17年4月18日、東京に米軍のB-25爆撃機からの初の空襲
(後にドゥリットル 空襲と呼称)があり、軍部内では、その対策に急遽、緑地
として存在していた平和台緑地を「成増飛行場」として防空体制の要にする
ことを決定。「平和」の名を冠した緑地は軍事基地へと変貌を遂げ、戦争の
歴史に飛び込んでいくことになります。
作業は大量の人員がつぎ込まれ、その結果、昔から続いていた田畑は接収
され、基地より流れ出る排水により環境も汚染される結果となります。
1945年(昭和20年)8月15日、日本は連合国に無条件降伏。連合国のジープで
やってきたアメリカ兵により、残存する戦闘機は焼却され「成増飛行場」は
戦後、アメリカ軍の手によって接収。一帯はアメリカ人兵士用の家族宿舎
建設地として新しい道を歩み出します。1948年(昭和23年)、宿舎が完成。
「グラントハイツ」と呼称されます。この名称はアメリカ第18代大統領であり、
親日家であったグラント将軍に、その名前をあやかったとされています。
しかし1959年(昭和34年)頃から返還交渉が開始され、曲折を経た上で、
1972年(昭和47年)7月31日、第一次返還が実現・・・続く1973年(昭和48年)
9月には「グラントハイツ」の全面返還が行われました。そして東京都による
「光が丘公園」の都市計画がスタート。地下鉄(現在の都営大江戸線)の
誘致や、西武・忠実屋などの大型店舗、病院、学校、清掃工場、そして、
多数の公団住宅の建設が行われ、ついに平和台は、真の意味での「平和台」
として、新しいスタートを切ることができたのです。現在では、その来歴を
知る人も少なくなり、緑豊かで平和な市街地となりました。
写真5(光が丘夜景)
立ち並ぶ光が丘公団住宅は都心のベッドタウンとして、
都内で働く人々の居住空間になっています。
ちなみに遠くから「光が丘」を眺めると夜景がとても綺麗なんですよ。
光が丘関連WWW-Site
・光が丘IMA http://www.imasc.co.jp/
ショッピングモールとホールを兼ね揃えた施設です。
・光が丘Walker http://www.hikarigaoka.gr.jp/
地元の団地の住人の方々が光が丘のポータルサイトを作ってしまい
ました。なかなか良くできている上に、情報性も豊富です。
・Hikarigaoka Park Expert http://www.mars.dti.ne.jp/~hhotta/
これも地元の方が作られた光が丘公園"非公式"WWW-Siteです。
次回「練馬春日町」へ。
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