タイトルのない夏 Trinity 両谷承
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「第三京浜って、まだ先だっけ」
ミキが訊く。
「わかんないよ。ぼく、自分で運転してここまで来たことないから」
カズが第三京浜に来るときは、いつもキョウの助手席だった。シンジのロードスターはいつものんびりと後ろから付いてきた。何度となく繰り返されているらしいキョウとシンジのレースは、話に聞いているだけだ。カズが一緒にいるときは、ふたりと二台はいつも平穏に寄り添っていた。もちろんカズも日頃のふたりのやりとりは見慣れているから、追いつ追われつしている姿は想像し辛くはなかったが。
「そろそろ、この辺じゃなかったかなあ」
「左に寄っておいた方がいいかな」
云うとミキは、決して空いているわけではない左車線にでかい図体のグランダムを割り込ませた。窓を開けて、カズは後続車に手を振って挨拶する。
「ほら、あのガソリンスタンドの向こう辺り。あの辺が、入り口じゃなかったかな」
「わたしもそんな気がしてきた」
第三京浜の入り口のループが、口を開けて待っていた。ミキがウインカーを上げて、ゆっくりと進入してゆく。
いつまでも続くような気がしてくる、奇妙な閉息感のあるループを抜けると、一気に視界が広がった。もういくらか黄色がかっている日の光に照らされた家並み。ミキはそのままいちばん左の車線に車を寄せると、スピードメーターを時速五五マイルに貼り付けたまま走り続ける。落ちついた物腰は、まるで十年以上の運転歴を持つベテランのドライバーのようだ。
「やっぱりミキちゃん、運転うまいよ」
「そうかな。ありがと」カズに褒められても、別段嬉しそうではない。「静岡の彼が自動車部でね、何度か特訓を受けさせられたことがあるのよ。ほんとは」
「楽しかった?」
「うんざりしたわよ」
そうだろう。この女の子に望まないことを教え込もうとしても、きっとすんなりとはいかない。
唐突に、気付いた。シンジやキョウや、カズ自身にしてもそれは同じことなのだ。それを知っているからこそカズは悩んだのだし、キョウはシンジに挑んでいくことしかできなかった。いつものシンジならきっと、下らない、と云うだろうが、それでもシンジが勝負を受けて立ったのはそのことが分かっていたからなのだろう。シンジがその事を自分でどれだけ意識しているかは分からないけれど。
お互いに、なんの権利も責任もない。だからこそ、自分で選んでカズ達は関わってきたのだ。ミキも同じだ。
グランダムは多摩川を越えた。
「悪くない眺めだよ、ミキちゃん」
「そうだね」
「この道を陽があるうちに走るのなんて初めてだな。こんなふうだったんだ」
ミキを見る。頷くその横顔からは、さっきまでの緊張感は消えている。多分、カズと同じ事に気付いたのだろう。ミキだって、自分で選んでここに来たのだ。キョウに対する責任感やシンジに対する未練がグランダムを運転させたわけじゃない。
「もう、レースは終わっているよね」
「そうだろうね」
「どっちが、勝ったのかな」
「さあ」
考えても見なかった事を云われて、カズは戸惑う。確かに、レースなのだから勝者と敗者がいるはずだ。
「どっちが勝ったって、おんなじなんじゃないの」
「――わたし、勝った方にキスしなくてもいいのかな」
ミキの軽口に、なぜだかカズは安心した。
すごい勢いで、銀色のフェアレディがカズたちを追い抜いていった。シンジのおんぼろバイクもキョウの軽自動車も、あんな風なスピードは出せる筈がない。だから、レースが出来る。車の優劣を競う以外の、ふたりだけに共通する目的で。カズはミキを見やって、それから目を進行方向に戻す。
遥か向こうの路側帯に、見慣れた赤白ツートーンの車が止まっているのが見えた。
「ミキちゃん、停まれる?」
「なあに」
「ほら、あれ」
カズが指さすと、ミキにも分かったらしい。ハザードを出して、ゆるやかにグランダムを路側帯に乗り入れさせる。グランダムはアルトとロードスターの十五メートルほど向こうで停まった。カズはドアを開けようとする。
「気を付けて、カズくん」
ミキに云われて気付いた。ドアの向こうでは、車が八〇キロ以上で流れている。ドアミラーで安全を確認してから、カズは降りた。アルトの蔭に、路側帯のはじに寄せられて停まっているシンジのロードスターが見えた。ぼんやりと立っている、ふたりの姿も。カズは駆け寄る。
「やけにクールな車から降りてくるじゃねえか」
シンジが先にカズに気付いて、声を掛けてきた。キョウもくわえ煙草の仏頂面を向けてくる。
「あれ、ミキちゃんの車だよ」
「ほんとかよ」色の薄いサングラスの向こうで、キョウの大きな目が見開かれる。「参ったな。じゃあおれたちの中で最速なのは彼女か」
「違いないな」
シンジがくすくす笑う。
「ねえ、なんでこんなところで停まってんのさ」
「パンクだとよ。こいつの、ぽんこつが」うんざりした、という雰囲気を精一杯演出しながらキョウが云う。「ひとと勝負するときは、コンディションぐらい整えとけっての」
「だれもそんな時間、くれなかっただろ」
自分のバイクがパンクしたというのに、シンジはなぜだか上機嫌だ。
「じゃ、勝負は」
「ドローだ、ドロー」キョウが喚いた。「ちくしょう。なにひとつ、かっこよくきまりゃしねえ」
煙草を吐き捨てて、スニーカーのかかとで揉み消す。シンジがにやにや笑いながら吸殻を拾い上げて、ジーンズのポケットに突っ込んだ。カズは出来るだけ優しい声でいった。
「映画でも、漫画でもないんだからさ。かっこよく決まることなんて、あるわけがないよ」
キョウはカズを見て、それから天を仰ぎながらゆっくりと首を振った。
「そう云えばさ、カズ」シンジが、グランダムを指さした。「あん中にいるんだろ、ミキがさ」
「運転席に、ね」
「なんで降りてこないんだろう」
「さあね。――おびえてんじゃないの。勝利者にはキスを与えなくちゃいけないのかな、とか悩んでたし」
キョウを見る。今まで見たこともないような悔しさに満ちた表情を浮かべていた。
「ねえ、キョウ」
「なんだ」
「今年の夏のこと、覚えててもいいよね」
ありふれているだろうけれど、タイトルの付いていない、自分たちだけの夏だ。
「なにが云いたいんだ。忘れちまえ、つまんねえことは」
なにがおかしかった訳でもないのに、カズは吹き出してしまった。釣られるようにシンジも笑い出す。キョウひとりが、憮然としてふたりを見据えている。
グランダムのドアが、開く音がした。夕暮れが訪れる前の夏の光と湿気の中に色の薄いジーンズを履いたミキの足が現れて、ショート・ブーツの踵がアスファルトに置かれる。
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