タイトルのない夏
Trinity
両谷承

六へ戻る。八へ進む。



 女の子の家に電話をするのが、キョウは昔から苦手だ。もっともそんな事が得意な奴がいるのかどうか、キョウには分からない。

 高校生くらいの頃は、公衆電話のボタンを押す手が本当に震えた。上半身の血がへその辺りまで全部下がってくるような気分で、回線が繋がるのを待った記憶が幾つもある。あと四か月もすれば選挙権も手に入る今のキョウだって、根っ子のところではなにも変わってはいない。

 ミキに電話しようかどうしようか悩んでいるうちに三時間も経ってしまった、なんて話をしたら、カズ辺りになんて云われるか分からない。カズにしてもシンジにしてもことそういう話に関しては、どうした訳かやけにクールだ。あのふたりと話していると、いつも女の子に振り回されてばかりの自分が相当な間抜けに思えてくる。

 壁の時計を見ると、もう十一時を回っていた。どっちにしてももう実家にいる女の子に電話を掛けられる時間ではないし、だいたいミキが家にいるとは限らない。昨日の晩もおとといも、この時間にはミキはキョウたちと一緒に『スラム・ティルト』にいたのだ。

 これから改めて『スラム・ティルト』にいって呑むか、それとも目の前のボトルに三分の一ほど残っているフォア・ローゼズを空けてベートーヴェンでも聴いて寝てしまうか――思案していると、電話が鳴った。

 一瞬、受話器を取る手が躊躇する。キョウは自分にいいきかせた。絶対に、受話器の向こうは、ミキじゃない。受話器を耳に当てる。

「おれだ」

「おまえか」聞いた瞬間に、シンジだと分かる。「なんか、用か」

「用、ってことでもねえんだけどな」相変わらずの、どこか眠たげな口調。「ちょっくら走りにいかねえか」

「おまえ、いまどこにいるんだよ」

「どこって、家だよ」

「『スラム・ティルト』じゃねえのか」

 云ってから、自分の言葉がどこかひがみっぽいのに気付いて少しだけ自己嫌悪した。

「あ? なんでだよ」別段シンジはなにも気にしていないらしい。「走りにいこうって云ってんだぜ。素面に決まってんじゃねえかよ」

「呑んでたって、乗るじゃねえか」

「そういうことじゃ、なくてよ。分かってんだろ」

「第三京浜か」

「久しぶりに、な。どうだ」

 キョウは少し考えた。少し不愉快だけど、断る理由は思いつかない。

「待ち合わせはどうする」

「おれが、行くよ」

「――分かった」

 受話器を置いて、キョウは洗面所に入った。洗顔台の鏡に映った自分の顔を覗き込む。くせっ毛が少し伸びていて、顔には三日分くらいの不精髭がこびりついている。少し、笑ってみた。自分で見ても、悪くない笑顔だ。これなら、大丈夫。


 環状八号線は混んでいて、アルトの車内には回りの車がエアコンから吐き出す熱気が充満している。渋滞してるというほどではないのだけれど、信号につかまるたびに辺り中を他の車に囲まれてしまう。今年に限ってはエアコンを外すべきじゃなかったかもしれない、と少し思って、頭のなかでそれを打ち消す。快適さより、パワーだ。それにしても、この季節にベートーヴェンは似合わない。カーステレオに手を延ばす。

 ルームミラーに目を遣る。シンジのハーレイが律儀に後ろを付いてくる。剥出しの空冷エンジンを膝に抱えている分、奴の方が辛いに違いない。スピーカーはデュトワの指揮するラヴェルを奏ではじめた。ハイライトを銜える。ライターを探していると、信号が変わった。のんびりと発進する前のクラウンについて、キョウはゆっくりとアクセルを踏み込む。後ろから、キョウのアルトの倍近い排気量を持つVツイン・エンジンのどすの効いた排気音が追っ掛けてきた。

 東名高速のインターチェンジを越えると、道はいくらか空き始める。自制心を発揮しながら、キョウは真ん中の車線で徐々にペースを上げてゆく。開けっぱなしのサイド・ウィンドウから入ってくる風は、どうした具合か少しも涼しくない。煙草に火を着けた瞬間に、チューンされているらしいこもった爆音とともに黒のスターレットが右側をぶちぬいていった。

 反応は、シンジの方が早かった。ハーレイがバリトンでひときわ大きな叫び声を上げて、蹴飛ばされたような加速でアルトの脇を走り抜ける。キョウもとっさにシフト・レバーを二速に入れた。アクセルに反応して、エンジンが少しもストレスを感じさせずに吹け上がる。スピーカーからは『ラ・ヴァルス』。

 七十キロくらいで流れてゆく車の間を、シンジとハーレイはその大きさと重さを忘れてしまったように軽やかにすりぬけてゆく。絶好調のアルトも、なかなかそのテール・ランプを捉えられない。スターレットを見付けた。三車線の一番右側を走っている。その左側に並走するシンジが一瞬クラッチを切って空吹かしを浴びせる音が、キョウの耳まで届いた。

「馬鹿野郎」

 シンジに聞こえる訳もないのを承知で一声吠えるとキョウは前のBMWを左から抜き、加速しながらシンジの前に飛び込んだ。はすかいに並走するキョウのアルトと隣のスターレットの間に出来た隙間にシンジのハーレイが突っ込み、シンジはスターレットの鼻先に躍り出る。バイザーを半分だけ下ろしたシンジのジェットヘルの口元が笑っているように、キョウには見えた。

「馬鹿野郎」

 もう一度つぶやくとキョウはシフトアップしてアクセルを踏み込んだ。二車線にまたがって、ハーレイとアルトが同じペースで車速を増してゆく。スターレットは追ってこようともしない。

 ウィンカーを下げて、アルトを左車線に入れる。二車線分まとめてレーン・チェンジして、キョウの目の前にハーレイのテール・ランプが転がり込んできた。

 シンジが左手をハンドルから離して、親指を突き立てる。いつの頃からかの、約束事だ。キョウも開け放った窓から右腕を突き出して拳を握り、親指で空をさして見せた。

 ループの入り口が見えた。第三京浜だ。


 平日の晩なのに、保土ケ谷パーキング・エリアには五十台以上のオートバイが止まっている。キョウは売店とは少し離れた位置にアルトを停めると、しばらくアイドリングしてからエンジンを止めて降りた。レストハウスの前に設置してある自動販売機に、つぎつぎと出たり入ったりしているオートバイに引っ掛けられないよう気をつけながら歩み寄ってゆく。ここはオートバイのための場所だ。――キョウは二輪車の免許を持っていないが、敬意を失わないように改めて心がける。

 財布の小銭を探っていると、聞き慣れたシズル感のある低回転時の排気音とともにシンジが到着した。財布をジーンズのポケットに戻して、煙草を銜えながら近付いてゆく。

 シンジはヘルメットを脱ぐと、頭を振りながら楽しそうに云った。

「随分、調子よさそうじゃねえか」

 そんな云い方をされる程、これまでが連敗続きだったわけじゃない。――意味のない皮肉な言葉を口にしそうになるのをなんとか押さえて、キョウは煙草に火を点けた。

「まあな。点検から戻ったばかりだし」

「おれのだって、病院帰りなんだけどな」そう云う口調があまり悔しそうではないのが、なぜだか癪に触る。「とりあえず、缶コーヒーでも奢ろうか」

 ゆっくりと、いつものようにどこかだるそうな物腰でシンジが歩きだす。キョウはその後について、やばそうな風体のバイク乗りたちの間を進んだ。

 シンジが自動販売機にコインを放り込んだ。キョウは少し迷って、麦茶のボタンを押す。シンジは軽く笑い声を上げてから、自分でも同じ缶を買った。

「暑いよなあ」

 云って、シンジは喉を鳴らして麦茶を飲んだ。その横顔に、キョウの胸中は少しざわつく。

 決して、人目を引くような顔立ちをしているわけじゃない。背は高いが着痩せする質で、やたらにひょろ長い印象がある。それなのになぜか、シンジは仕草のひとつひとつがやけに決まって見える。キョウの目からしてもそうなのだから、女の子たちから見るとどうなのか。

 シンジのハーレイをひとしきり眺めていた大柄な男が、シンジとキョウに軽く手を上げてみせながら傍らを通り過ぎていった。シンジもあいさつを返す。男が革ジャンパーの上に着たカットオフのデニムの背中に、赤いトーガを着た死神のエンブレムが見えた。ほとんど言葉は交わさないが、この場所でシンジの顔を知っている奴は多い。

「あいつは速いんだぜ」キョウが何も訊ねないのに、シンジが話し始める。「十年も前のバイクに七桁の金を掛けて、二百五十キロでスラロームを切るような奴さ」

「おまえの同類じゃないか」

「そういうことになるかな」

 キョウはまた煙草を銜えた。シンジとふたりでいるときに感じるかすかな居心地の悪さは、初めて会った四年前から変わらない。キョウからすると、シンジは自分の抱えているようないろんなくだらなくてやっかいな問題を超えてしまっている存在に映る。

 シンジとミキがどんな風になっているのか、キョウにとってはどうしても気になる。なのに、それを訊ねることがなかなかできない。きっといまどき、にきび面の高校生だってこんなふうじゃないだろう。

 シンジが肩を揺すりながら、デニムのジャケットを脱いだ。こんなに暑いのに、バイカーたちはみんな長袖の厚手のジャンパーを着ている。

「なあ」

「あ?」

「カズの事なんだけど」云ってシンジは麦茶を啜り込む。「あいつ、やばいぜ」

「何が」

「いや、さ。先週だけど、『スラム・ティルト』でミキにからんだ客がいたらしいんだけどな」

   シンジがミキの名前を呼び捨てにするのを、キョウの耳は聞き逃さない。

「それで」

「あいつ、やっちまってやがんの。おまえ、昔のあいつ覚えてんだろ」

「昔って、高校の頃か」

「そう。あいつ、あのまんまだったぜ」

「てえと――」

 キョウは四年ほど前、一度だけカズと本気で喧嘩したときのことを思い出した。そのとき以来、キョウの歯は二本が差し歯になったままだ。

「そう。相手はつまんねえサラリーマン野郎だったんだけど、あいつ、もう少しで殺すとこだったんだ」

「人を殺しかけたことが、無いとは云わせねえぞ」

「おまえだって同じだろ」シンジは顔をしかめて、半分笑っているような表情を作る。「おれがいってんのは、今の話だ」

「ああ。――そういえば、この間トシコちゃんの話をしたら、やけに機嫌を悪くしてたな」

 シンジが表情を厳しくして、なにか云った。言葉はちょうどパーキング・エリアを出ていった大排気量の改造バイクの爆音にかき消されてキョウまで届かない。

「なんだって?」

 キョウが問い直すとシンジはふっ、と表情を和らげた。

「まあ、いいさ」

 それだけを云って、シンジは視線をキョウから外した。眺めるともなく、レストハウスの前に並べられたオートバイたちに目を遣る。その様子がとても自然だったので、キョウは埒もないことを逡巡している自分が馬鹿馬鹿しくなった。

「あのよ」

「なんだ」シンジは首を回して、キョウをまっすぐに見た。

「ミキちゃんの事、なんだけどさ」

 口に出してみた。シンジの顔は、変わらない。言葉が淀まないように、キョウは続ける。

「おまえたち、どうなってる」

「どうなってる、って」一瞬だけシンジの顔に戸惑いが浮かんだのを、キョウは見逃さない。「まあ、綺麗な子だよな。ユカリさんが気に入って、ときどき連れて歩いてる見たいだけど」

 云い方が気に障った。

「他人事みたいに云うじゃねえか」

「朝、起きると置き手紙があるんだ。何を買いにいってるとか、食いにいってるとか」

 いつものように、シンジの表情に曇りはない。自分がとんでもない下種なことを考えてるのかもしれない、という気がしてくる。

「おまえは、どう思ってるんだ」

「どう、って」

 長い付き合いだ。シンジがキョウの思いに気付いていないはずはない。あえてとぼけてみせているわけではないのも、キョウには分かる。はっきりさせるよう迫ってみても仕方がないことも、知っている。キョウに向かって自分のことを話すための言葉を、持っていないのだ。シンジは、こういう男だ。

 目が合った。シンジが乾いた笑顔を見せた。かなわないな、とキョウは思う。

 少し、悔しい。立て続けに、キョウは煙草を銜える。自分が下手な役者になったような気分だった。

「あー!」

 すっ頓狂な女の叫び声が聞こえてきた。思わずそちらに目を向ける。見覚えのある女の子が、そばにいる男の手を振り切ってキョウたちに駆け寄ってきた。タイトで丈の短いTシャツにぴっちりしたオレンジ色のミニスカート。

「あれ、誰だっけ」

 シンジは相変わらず薄情なことを平気で口にする。

「あれが、トシコちゃんだよ。おぼえてねえか」

 下らない偶然だ。時折降り掛かってくるこういった状況に出くわすと、キョウは虚しさで胸が潰れそうになる。

「ああ」

 そういってシンジは両手の掌で顔を撫でた。目の前にトシコが飛び込んでくる。

「ねえ、なんか久しぶりじゃない? ねえねえ、元気だった?」

 キョウとシンジの顔を交互に見ながら、トシコは無邪気に云う。無神経と紙一重の天真爛漫さが、キョウの神経に触った。

「とりあえずあんたは元気みたいだな」

 シンジがうんざりした、と云った気分を隠そうともしないで黙っているので、仕方なくキョウが答える。大きな瞳を、トシコはキョウに向けた。小さな顔に詰め込まれた派手な造作は、相変わらず彼女なりに魅力的だ。

「うん! ねえ、こんなとこで会うなんて、なんかすごくない?」

 こっちが云いたい科白だ。――十七歳の女の子がこんなところにいると云う事は、誰かしら彼女を運んできた奴がいるという訳だろう。

「まあ、あんまりないよな」

 キョウがあいまいに応対していると、シンジが音を立てて手にした缶の中身を啜った。気分を害しているのは間違いない。――どうやらトシコは、そのことに気付いてはいないようだけれど。

「そうだ」トシコの眼が、少し演技過剰気味に伏せられる。「ねえ、聞いてもいい? カズくん、どうしてるのかな」

 トシコがカズの名前を口にした瞬間に、シンジは中身が残ったままの麦茶の缶を五メートルほど向こうの空缶入れに投げ入れた。回り中が振り向くほどの大きな音がして、トシコの身体が一瞬硬直する。シンジと顔見知りのバイク乗りが何人か、いぶかしげにキョウたちを見やる。

 目をそらしたままのシンジに向けてしばらく視線を凍らせてから、説明を求めるようにトシコはキョウを見た。そういうことだよ、と言葉にする代わりに、キョウは唇の両端を吊り上げてみせる。

 少し離れたところからキョウたちを見ていた男がひとり、近寄ってきた。トシコはキョウの傍をすっ、と離れて、男の脇に移る。年はキョウたちと同じか、少し上。染めた髪と、上腕の筋肉を強調するようなタンクトップ。

「あんたら、誰よ」

 粋がった、おかしなアクセント。なにか云おうとするトシコを遮るように、キョウは云った。

「喋り方が下品だぜ。トシコちゃん、こいつはお友達かい」

 男もトシコに口を開かせない。

「どうだっていいじゃねえか。あんたらさあ――」

 男が話し終えるのを待たずに、いきなり黙ったままシンジがその足元を蹴飛ばした。男は横ざまに転び、両手をついて無様に起きあがる。トシコは怯えた表情で、それでもどこか虚ろな眼差しで倒れた男と硬い顔をしたシンジを見比べている。

「この――」

 立ち上がってシンジを睨んでいる男の鼻先に、キョウは進み出る。こんな場所でこの男と、それよりもまずトシコが自分たちの目の前にあらわれたことに、キョウは自分で意識できるぐらいに腹を立てていた。

「トシコちゃんさ」男を見据えたまま、キョウは自分でも驚くほど冷えた声で云った。「あんたのかわりに、こいつを殴ってもいいかい」

 男は気色ばんで、キョウの胸ぐらに手を伸ばした。視界の端に、近付いてこようともせずにキョウと男を見ているシンジと、回りで立ち上がるバイク乗りたちが見えた。

 襟を掴んでいる男の右手首を、キョウは男の目を見つめたまま握った。キョウは自分の与える威圧感を知っている。そして、自分の握力も。

 男の額に冷汗が浮かんで、キョウの襟元が楽になった。引っ込めようとする手首を、そのまま持ち上げる。ひねれば、男の手首を捻挫させることも出来る。

 カズなら、折ってしまうだろう。シンジなら、どうするだろうか。

 のんびりした声が聞こえてきた。

「シンジくんたちさあ」さっきシンジに挨拶をしていった、大柄な男だ。「ここで喧嘩沙汰はやめにしてくれないかな」

「悪いねえ」シンジの声も負けず劣らず平和だ。「おいキョウ、ほっといて行こうぜ。そいつに怪我でもさせたら、トシコちゃんが帰れなくなって困るんじゃねえのか」

 男の手首を離さないまま、キョウはトシコを見た。こわばった表情のまま、トシコは頷く。白けてしまって、キョウは男の手を解放した。

「この――」

 左手で右手をかばいながら、男はなおも突っ掛かってこようとする。遮ったのは、さっきの男と同じエンブレムを背中に背負った背の低い髭面のバイカーだ。

「あんたも、やめなよ。面白くねえぜ」

 云い方の柔らかさとは裏腹に、眼は鋭い。トシコと男は思わず後ずさった。

 肩を叩かれる。キョウが振り向くと、遣り切れなさそうな顔のシンジがいた。

「リターン・マッチだ。大黒までで、どうだ」

 それだけ云うと、さっさと自分のハーレイに向かって歩き始める。

「くそったれが」

 誰に云うともなくつぶやいて、キョウはトシコたちに背を向けた。


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