タイトルのない夏
Trinity
両谷承

一へ戻る。三へ進む。



 強い日差しの中で、目を覚ます。カーテンを引くことも忘れて、眠ってしまったらしい。キョウはベッドの脇に掛けてある時計を見る。午後二時を七分ほど過ぎていた。全身の水分が抜けてしまっているのを感じながら、キョウはベッドを出る。

 キッチンに入って、冷蔵庫からタップボトルのアイスコーヒーを引っ張りだす。マグカップに注いで二杯ほど飲んでから、そのマグカップがエリコから貰ったものだと気付く。なんだか妙な気分で、キョウはエリコがどんな顔立ちをしていたのかを思い出そうとする。

 頭が痛む。「スラム・ティルト」で夜の二時まで飲んで、『エイリアン・スター』からただの一度もリプレイをもぎ取れなかった。シンジとのマッチ・プレイで一度目は百五万点、二度目は九十六万点。あれだけ惚れた女の子の顔は思い出せないのに、ピンボール・ゲームのスコアは思い出せる。

 コーヒーをもう一杯、飲んだ。昨日の晩は吐かなかったはずだが、小便がてらバスルームに入って確認する。掃除の必要はないようだ。

 頭痛が引かないので、どうにも考える事がちぐはぐになる。トランクスをバスルームの外に放り出して、そのまま熱いシャワーを浴びた。「スラム・ティルト」で見かけた女の子の事を考える。折れてしまいそうな身体付きと、何処かつくりものめいて見える冷たく整った顔。

 何を覚えていて、何を忘れるのか。いったい、どこのどいつが決めるのだろう。


 三鷹のアパートから「スラム・ティルト」までの道のりを、キョウは三十分ほどかけて歩いた。

 シャワーを浴びたばかりの身体から、汗が滝のように流れ出てTシャツを濡らす。今年の夏はカスタム・メイドだって、気象庁がラジオで云っていた。夏の光が、歩道のアスファルトと玉川上水の茂みをどこか白っちゃけた眺めにする。まるで二十年も写真のなかで凍り付いたままの光景を見ているようだ。悪い気分ではない。

 吉祥寺通りを左に折れて動物園の脇を通り過ぎる。二階建ての古いビルの一階が「スラム・ティルト」だ。階段を昇ると自然食品専門のレストランがある。この取り合せは、キョウからすると行きすぎた皮肉にしか思えない。

 店の周りにシンジのハーレイは見当らない。来ていないのか、単に直っていないだけなのか。キョウは「スラム・ティルト」のドアを押した。

「いらっしゃいませ」

 カウンターの端に座っていたカズが、ストゥールを降りて云った。マスターの料理の腕のせいかランチタイムだけはやたらと混みあう店内も、午後三時には閑古鳥だ。なぜなのかキョウには分からない。

 腰掛けたキョウに、長髪を束ねてエプロンを掛けたカズが近付いてくる。小柄で女顔のカズには、こう云う姿が妙に似合う。

「何に、なさいますかあ」

 カズのいつものにやにや笑いを無視して、キョウはカウンターの中で洗い物をしているマスターに話し掛ける。

「ねえ、何か食わせてよ。朝から何も食ってないんだ」

「おまえの朝ってのは、何時の事だ」

 マスターは顔をあげずに訊ね返す。

「起きたのは、二時ぐらいだったかな」

「世間じゃ、昼ってんだぜ。――スパゲッティ・サラダが残ってるから、サンドウィッチでも作ってやるよ」

「有難いなあ。どうも二日酔い気味でさ」

「当たり前だよ」カズが呆れたふうに云う。「昨日、どれだけ呑んだと思ってんのさ」

「ボトルに一本もいってねえだろ」

「あのねえ。大学が夏休みに入ってから、毎晩だよ。外に行くとことか、ないわけ」

「車が車検から帰って来ねえんだよ」

「帰省とかさ」

「おまえ、うちの親どこに住んでんだか知ってんだろ」キョウは煙草を出す。「シドニーまで行く金があったら――」

「あったら?」

「この店の酒、呑みつくしてやる」

 云ったとたんに、マスターと目が合った。マスターは見慣れた悪戯っぽい笑顔を浮かべながら、カウンターにサンドウィッチの皿を置いてくれた。

「しかし、いい若いもんがねえ」

「放っといておくれ。ここでごろごろしてんのにも、目的が無いわけじゃないんだからさ」

「こないだの女の子?」うんざりしたふうでカズが割って入る。「ああいうきつい顔が、よくよく好きなんだね」

「きつい性格だって好きだぜ」キョウは一口でサンドウィッチを半分、飲み下す。「性分なんだから、しょうがねえだろ。それよりおまえ、その髪なんとかしろ。そんな格好してっと、まるきり女みてえだ」

「勝手でしょうが。それよりねえ――あ、いらっしゃいませ」

 云ってから、カズはキョウににんまりと微笑みかけた。

 振り向くと、話題の中心が立っていた。女の子はストゥールふたつ分、キョウより奥に腰掛ける。

「今日は、何になさいますか」

 カズが手渡したメニューを、女の子は無言で広げる。メニューに目を落とす横顔を、キョウは盗み見る。何か液体でも湛えているような光を帯びている眼から続く頬の線が意外にふくよかなのに気付く。

 ことり、と音を立てて、目の前のカウンターにコーヒーカビプが置かれた。トレイを持って傍らに立っているカズに、キョウは小声で訊ねる。

「あの子、あれから何度か来てんのか」

「これぐらいの時間にね。キョウ、ここんとこ昼間はこなかったじゃんさ」

「大学の図書室で、大内の経済学のレポート書いてた」

「大内教授の経済って、キョウは二年じゃなかったっけ」

「去年、落としたんだよ。うるせえな」

「いいけどさ。ちょうどいいや、できたら写させてね」

 女の子がメニューから顔を上げた。

「すいません」

「はい?」

 トレイを脇に抱えたカズが返事する。

「アッサム、下さい」

「かしこまりました。マスター、アッサム、ワンです」

「はい」

 マスターの返事を確認して、カズはカウンターの中に戻っていった。煙草を吸おうと考えていたのを思い出して、キョウはハイライトに火を点ける。

 女の子はポットからカップに紅茶を注ぎ、砂糖もミルクも加えずに口に運んだ。化粧っ気のない色の薄い唇と、骨が透けて見えそうな華奢な手。彼女のまわりだけ、五度ばかり気温が低いみたいだ。

「どちらに、お住まいなんですか」

 マスターが、年季の入ったなにげなさで話し掛ける。女の子の方も、自然に答える。

「今は、静岡なんですけど。夏休みなんで、帰省中なんです」

「じゃ、大学生なの」

 トレイを置いてカウンターに戻ってきたカズが云う。こういった時のカズの笑顔は、その優しげな顔立ちのせいか相手の警戒心を融かしてしまう。キョウとしては、そこが一番羨ましい。

「そう。二年生だけどね」

「僕のひとつ上だ。あ、キョウとおんなじじゃない」

 いきなり水を向けられて、キョウはどぎまぎする。なんとか柔らかい表情を作った。

「大学でなに、やってんの」

 キョウに顔を向けたまま、カズが続ける。

「いちおう、工学部なんだけど」

「たいしたもんじゃん。僕らみたいな文系の学生とは違うよね」

「まあ、そうだな」

 とりあえず、カズに同意しておく。

「キョウ――くんて云ったっけ」

「おれは恭司。そっちのウェイターは和っていうんだ」

「ふうん。でキョウくん、きみも学生なんだ」

 初めて会話する女の子にくん付けで呼ばれるのも、「きみ」呼ばわりされるのも経験がない。キョウとしては外見に自信がないでもないが、相手によっては自分がだいぶこわもてに見えるらしいことも知っている。

「二年生。――ねえ、あんたの名前は?」

 「あんた」と呼んでみる。女の子のなめらかな頬には、警戒している様子は少しも見て取れない。

「ああ、そうか」細い背筋がまっすぐに伸びる。「わたしは、サイトウミキ、って云います」

「サイトウさん、かあ」

 カズの喋り方は愛想がいい。

「ミキ、にしてほしいな」言葉を返して、ミキはキョウを見る。「きみたち、先週の木曜の晩にここで呑んでたよね」

「木曜? おいカズ、今日は何曜日だ」

 ミキの視線を、とりあえずかわす。

「月曜。木曜ってのは、『エイリアン・スター』置いた日だよ」

 もちろん本当は忘れてなんかいない。――ミキの眼はまだキョウを見ている。

「シンジもいたっけ」

「いたよ。ねえミキちゃん、ぼくたち三人組だったよね」

「うん。もうひとり、背の高い男の子がいたと思う」ミキの視線がやっと移ってくれた。「きみたちを見ててさ、いいな、って思ったんだ」

「いいな、って? どういう感じで?」

 カズの口調が少し、変わった。ミキには感じ取れないだろう。

「なんか、仲良さそうだな、楽しそうだな、って」

「どうかな。ねえ、キョウ」

 こんな時にうまく気の効いた台詞が云えるようにできていれば、といつもキョウは悔やむ。

「冗談じゃねえや。こんなやつら、大嫌いだよ」

 キョウが云うと、カズが派手に笑った。ミキの眉が、訝しげにひそめられる。

「まあ、こういう連中だから。夏休みを楽しく過ごす相手としては、どうかなあ」

 カズの言葉の底に、冷たい皮肉さが沈んでいる。ミキがキョウをちらりと見た。仕方なくキョウは全力で笑顔を作る。

「まあ、夜中にこの店にくれば誰かいるからさ」


「しかし、へったくそだねえ」

 ミキがドアの向こうに消えるのを見届けてから、カズがつぶやく。

「何がだよ」

「惚れっぽいくせして、不器用なんだから。あんなふうだとキョウさ、すっごい間抜けに見えるよ」

「そうか」

 少し、痛い。

「いい女見たらかっこつけなくちゃなんない、とかさ。そういう思い込み、なんとかしたほうがいいんじゃない」

「ったってなあ」

 反論ができない。

「ぼくには全部、裏目に見えるよ。――ま、好きでやってんだろうけどね」

 カズはミキのポットとティーカップをトレイに乗せて、カウンターの中に入っていった。いつもこういう辺りで、カズは突き放す。どうにも頭のなかのまとまりがつかないまま、キョウは冷えてしまったコーヒーを飲み干した。


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