テレキャスター・ダンシング
Monkey Strut
両谷承

二へ戻る。四へ進む。



 シャープペンシルを置いてノートとテキストを閉じ、尚美は椅子から立ち上がる。机の時計は午後十時少し前を示している。

 一K、七畳ほどの尚美の部屋には十八歳の女の子らしい装飾はまったくない。ライティング・デスク、パイプ・ベッド、本棚に洋服だんす、少しだけぜいたくなオーディオ。昔親しかった先輩の男の子はいつも、可愛げがない、と肩をすくめたものだった。

 カセット・ラックの引き出しを開けて、尚美は背中に、『チープ・スリル』と書かれたテープを探し出した。FMが流しっぱなしになっているチューナーを止めて、デッキにテープを放り込む。

 スピーカーから客席のざわめきと、ギターがチューニングする音が流れて来る。ジャニス・ジョプリンと彼女のバンドのライブ・アルバムだ。アナウンスがバンドの名を告げ、演奏が始まる。

 尚美は立ち上がった。かかとでかろやかにリズムを取りながらクロゼットを開け、ソフト・ケースに入ったエレクトリック・ギターを取り出す。高校二年の時にプリテンダーズのクリッシー・ハインドにあこがれて買ったバター色のテレキャスター。

 ケースから出して、下げてみる。左肩に感じる、しっかりした重み。

 ケースのポケットから音叉とピックを探し出して、チューニングする。スピーカーの向こうのリズム・セクションに合わせて、軽くリズム・カッティング。思ったほど勘は鈍っていない。ジャニスの力強い声を聴きながら少しアドリブめいたフレーズを弾いてみる。錆びた絃は指に引っかかった。交換しなきゃならないだろう。

 曲が終わって、尚美はギターを本棚に立て掛けた。ジャニスと一緒に歌いながら、キッチンに入る。やかんを火に掛けて、尚美はティー・ポットとカップを部屋の真ん中の小さなガラスのテーブルまで運んだ。

 ギターの方は、なんとかなるだろう。歌の方は自信ないが、やってみたい気もする。だけどあのハルさんとかいう男の子からの連絡は−−土曜の晩と今日一日、待っていたのだけれど−−まだない。昨日の今日じゃまだ予定が決まらないのだろうか。

 どちらにしろ明日は月曜で、どうせ大学に行く事になる。ぬれねずみ野郎と会うのはまだなんとなく気がすすまないけれど、とりあえず大音研に行ってみよう。

 −−と、尚美が決意しながらダージリンの葉に熱湯を注いでいたところに、電話が鳴った。尚美はあわててキッチンのコンロにやかんを戻し、四つめのベルで受話器を取った。

「はい。平田です」

 受話器からの声はC=二八で会ったふたりの男の子のどちらでもなかった。もっと耳慣れた、懐かしい声。

「もしもし、尚美ちゃんかい」

「−−上岡さんですか?」

 尚美はよほど驚いた声を出したらしい。上岡さんは昔と同じ調子で笑った。

「久し振りだね」

「どうして、ここが−−」

 まるで逃亡中の凶悪犯みたいな言い方だ、と思いながら尚美はどこか冷静になれない。上岡さんに電話番号を知らせた覚えはないのに。

「ああ、敏子に聞いたんだ。俺だって驚いたよ。まさかきみがうちの大学に来るなんてね。学部どこ?」

「文学部です」

「あっは、なるほどね。おれの学部は後ろの山の上だからさ、道理で学内で出食わしたりしない訳だ。−−元気してたかな」

「はい。上岡さんも−−」

「なんとかね」上岡さんはまた、少し笑った。その笑い声がとても好きだったのを、尚美は思い出した。

「一度、会おうよ。忙しいのかな」

「そんなこと、ないです」

「そりゃよかった。俺ここんとこ時間とれないからさ。また連絡するよ」

「はい。楽しみにしてます」

「ありがと。それじゃ、おやすみ」

 言いたい事だけを言い、訊きたい事だけを訊いて切ってしまう電話の掛け方まで懐かしかった。尚美は大きくひと呼吸すると、マグカップに紅茶を注いだ。一口すする。まだ熱い紅茶が舌を焼いて、尚美はすぐにマグカップをテーブルに置く。その拍子に、また電話が鳴った。

「はい」

 ハルさん、だ。受話器から聞こえるハイ・トーンは、ダンガリー・シャツに包まれた大きな体とはだいぶイメージが違う。

「あ、昨日はどうも」

「和の馬鹿が失礼な事ばっか言ってごめんね。バンドやる気、まだある?」

「大丈夫ですよ。気にしてませんから」

「ならいいや。ちょっと心配してたんだ。ところで、セッションの事なんだけどさ」ハルさんはいきなり切り出す。「なんとか、やれそう?」

「今ちょっと、久し振りにギター弾いてみたんどすけどね。ちょっとなまってますけど、どうにかなるんじゃないかな」

「そりゃよかった。今さ、和が『ふたりだけで』を楽譜に起こしてる」尚美がさっき、ちょっと弾いてみた曲だ。「これでいくから。明日、学校来るよね」

「はい」

「じゃ、明日にしようよ。講義のあとでさ」

「それはいいんですけど−−やっぱり、あたしが歌うんですか」

「やるだけやってみてよ。上手とか、下手とか関係ないからさ。別に、きみひとりで歌うような曲じゃないし。それじゃ、明日」

「おやすみなさい」

 昨日と同じ胸さわぎと一緒に、尚美は受話器を置いた。紅茶を飲み干して胸を鎮めると、尚美はギターに手を伸ばす。


二へ戻る。四へ進む。
「両谷承小説作品集」に戻る。
「糸納豆ホームページ」に戻る。