どちらかというと暖かい地方に分類されるのだろうけれど、この街の冬は意外に厳しい。春の訪れになんとなくわくわくするのは北国のひとの特権、と云うわけでもない。
その日大学の図書館から戻ってみると、いい真鯛を貰ったので夕方までに何か悪くない酒を調達してこい、と云うEメイルが旦那から入っていた。僕の都合なんか最初から考えても見ないのか、それともこれと云った予定の入っていない日を見切っているのか、どちらかなのだろう。ともあれここ数日誰とも会っていなかった僕は近所の酒屋で樽の色をした石川の純米酒を一升瓶で買い込み、少し強い風の中を坂道を登った。
青猫亭に着くといきなり二階にある旦那の寝室に案内された。何故だか知らないが旦那はタキシードを着ている。まだ夜の八時前だ。いかに旦那とはいえパーティをひとつこなしてきた、と云う時間ではない。
「まあ、気分だよ」
鯛を料理するのにいったいどんな気分でタキシードを着なきゃいけないのか僕には皆目見当も付かない。まあこの男の考えてることが分からないのはいつものことで、今更何も驚くほどではない。
「酒は、こいつでいいか」
「こいつなら文句はないよ。なんて云ったって名前がいい」
旦那としては云いそうな科白だ。僕が買ってきた酒の銘柄は何しろ女の名前なのだから。
「しかし久しぶりだね。何処行ってたんだ」
「ヴェネツィア」涼しい顔で云う。「叔父貴に用があってな。ちょっと遠かったけど」
彼の叔父と云えば、この『青猫亭』の元の住人だ。歳の離れた若い女房に先立たれてここにずっと独りで住んでいたけれど、旦那が大学進学でこの街に出てくるとこの『青猫亭』を譲り渡して出ていってしまった、らしい。
「で、今日の主旨はなんなんだ。良い鯛が入っただけでわざわざ呼びつけるとも思えないんだけどなあ」
「喰いたくないのか? だったら俺がひとりで喰うぞ」
「そういう意味じゃなくてな」
「いいから、窓の外でも見てろ。すぐに肴を持ってくるからよ」
僕は木目の綺麗な堅牢な作りの椅子をひとつ窓辺に運んで、ひとつだけある出窓を開けた。この家の庭には大きな木は植わっていない。窓の外は簡単なフェンスで、その向こうは隣家の庭だ。
その隣家の庭に生えているたっぷりと花を付けた桜の枝が、出窓から身を乗り出して手を伸ばせば届くくらいのところまで延びてきていた。向こうに広がるゴルフ場の夜間照明が、淡い色の桜をぼんやりと照らし出している。僕はすべてを諒解して、階段を上ってくる足音の方を振り返った。
「こう云うことか」
「その通り」手にした盆に瀟洒な磨り硝子の徳利と猪口、なかなか見事に造った昆布締めと焼いたかぶとを乗せて現れた旦那が云う。「独りで眺めて呑むのも悪くはないんだろうけど、なんとなく勿体ない気がしてな。どっちも桜色で平仄も合うし。相手がお前じゃ色気もあったもんじゃないけど」
「色気のあるのでも呼びゃよかったじゃないか」
「そうだなあ。この鯛、そこの家の十五になる娘が持ってきてくれたんだけど、お茶でもどうかって誘ったら逃げるように帰っちまってやんの。親になに吹き込まれてきたってんだろう」
サイドテーブルに一式を置き、自分はベッドに腰掛けて不満そうに云う。笑ってしまいそうになるのをなんとか堪えながら僕は徳利を酒で満たし、旦那に勧めた。旦那はそんな僕の様子を訝しげに見ながら猪口を口に運ぶ。僕は山葵と醤油で昆布締めを食べてみた。悪くない。
「しかし寒いな、この国は」
「これでも暖かくなったんだぜ。だから花だって咲いてんじゃないか」
「そうだよなあ」
殆ど、愛しげ、と云ってもいいくらいの眼差しで旦那は桜の枝を見やる。この男には桜の花も女に見えるのかも知れない。僕は何杯目かの猪口を空にして、窓の外に目を遣った。ちょうど強い風が吹いて、盛りを過ぎかけの花びらが舞う。その中に、ひとりの女が浮いていた。
「おい、旦那」
「ああ?」
かぶとをほじくるのに夢中になっていた旦那は右手に箸を持ったままベッドから立ち上がった。
「――見えるか」
「――見える。なかなか仇っぽい女だな」
流石に慣れているのかこれ位のことでは少しも驚いた風情は見せない。
女は地味な、それでも上等であることだけは分かる桜色の着物を着て窓の外に佇んでいた――と云うか、浮かんでいた。まだ色香の十分に残っている若奥さん、と云った感じだ。ただしふつうと違っているのは――どういう風に形容すればいいのか難しいが――彼女の姿が霞でも掛かったようにどこか白っぽくぼんやりとして見えることだ。
出窓なのでいったいどうやってこちらを覗き込んでいるのかは分からないが、ここが二階であるのは確かだ。女は僕たちに微笑みかけた。
「知り合いか」
「何処かで会った事があるような気もするけどな。話し掛けてみるか」
旦那が身を乗り出す。と同時にまた風が吹いて、花びらが舞い散った。桜吹雪が収まるとともに――紛れるように女の姿は消えていた。僕と旦那は顔を見合わせる。何も云わずに旦那はベッドに戻り、腰掛けて手酌で酒を注いだ。
「あれはなんだったんだ」
「いくら俺でも分からねえ。この家で幽霊話も聞いたことねえしな。誰に似てるのかは思い出したけど、あんまりはっきりした記憶もないし」
「記憶って、なんだ」
「餓鬼の頃に二回くらい、叔父貴の嫁さんに会わせて貰ったことがあるんだ。綺麗な人でなあ、早死には惜しいひとだったよ」
「じゃあ、そのひとが」
「分かんねえって云ってんだろ。――桜の精、ってことにしとこうや。鯛、まだ半分あるぜ」
誰も呑むものがいない、と云うことらしく実家からボージョレ・ヴィラージュを三本ばかり送ってきた。一本呑んでみたらなかなかいける代物だったので、残りを『青猫亭』に持ち込むことにした。季節も秋のとば口だし、こういう季節に旦那と一杯やりながら四方山話をするのも悪くはないだろう、と思ったわけだ。
ちょうど午後七時頃に『青猫亭』に着いた。玄関先に迎えに出てきた旦那は何故だか着流し姿だった。僕は和服は持ってもいないしよく分からないのだが、細かい縞の着流しを着て最近伸ばしている髪を束ねた旦那はどうにも言い様のない色っぽさがあって少しぎょっとした。
「ちょうど良かったな。晴れてるし、月でもみながら呑むとしよう」
旦那の視線は現金にも僕の手元の紙包みに注がれている。
「十五夜は昨日だぜ」
「いいだろう。今夜は十六夜だ」
広さで云うと八畳くらいになる『青猫亭』の庭には隅に建てられた物置の他には何時の時代の何処の物だか見当も付かない古い日時計らしき彫刻が一つ置かれているだけで、後は植木一つ植わっていない。何処から引っぱり出して来たのか、そこに旦那が縁台を抱えて現れた。
「何処にあったんだ、そんなもの」
「何処って、これは叔父貴のだよ。夏休みなんぞに遊びに来ると、よくこいつの上で夕涼みしながら親父と叔父貴が将棋を打ってたもんだ」
どうにも建物の造りとイメージが合わない。
「さてと。承、お前もひと風呂浴びて来い」
「なんだよ急に」
「そういう気分、じゃないか」
なんだか分からないが説得されてしまった。しかたなく風呂を――此の家でも風呂は普通の風呂で、変わったところと云えば壁に掛かった防水済みのクリムトのポスターくらいのものだ――借りて、揚がってみると着流しが用意されていた。綺麗に糊がしてあるところをみると旦那が自分で洗った訳ではないようだ。
つまらないことを詮索していても仕方がないので庭に出る。縁台の上には薄いクリスタルのワイングラスとボージョレの注がれたデキャンタ、切ったチーズの載せられたこれもガラスの皿。腰掛けた旦那は勝手に呑み始めている。
「なあ、もう月が見えるぜ」
つられて空を見上げる。濃い藍色の空には少しだけ欠けた月が架かっていた。縁台に座ると、旦那がグラスにボージョレを注いでくれた。
「月見でワインってのもどんなもんだろうね」
「さあな。でもパリの呑んべだって千鳥足で夜空を見上げることぐらいあるだろうさ」
莫迦話を続けながら呑む。一本分を飲み尽くし、もう一本をデキャンタに移した辺りでぼくはふと来客に気づいた。庭の隅だ。
「旦那、客だ」
「何処に? ああ、ほんとだ。何処から来たってんだろ。そんなところにいないで、こちらにいらっしゃいな」
庭の隅の狐に、旦那は話しかける。確かにこの街は海と山に挟まれた細長い造りで、『青猫亭』はその中でも山の入り口に立地している。とは云えこの街の山に狐が住んでいると云う話は聞いたことがない。二十年以上住んでいるが狐なんか動物園で見たことがあるだけだ。
旦那の呼び掛けを聴いたのか、狐はふらりと僕たちの方に近づいてきた。月明かりの下で見るからかも知れないが、毛皮が玄妙な白銀色に光っている。白い狐なんてどう見ても怪しいのだが、旦那にはなにも気にならない様子だ。チェダーをひと切れ放ってやる。
「ひとの家を訪問するんなら連絡ぐらい入れておいてもいいと思うぞ」
旦那が優しく話しかける。
「気付きませんでな。ほれ、御覧の通り私めには電話も手紙も使えませぬ」
高く柔らかい声で狐が返事をしたので、ぼくは仰天した。チーズをかじっている狐と旦那の顔を交互に見比べる。
「なにか方法はあるだろう? 前の晩に夢で知らせておくとか」
旦那は平然としたものだ。
「なるほど、これからはそういたしましょう。ところで私めにもそこな赤い酒を頂けぬものでしょうか」
「ああ。承、いいかな」
「いいけどさ」我ながら妙だとは思うが、訊かずにはいられない。「その狐、知り合いなのか」
「ううん。初対面だと思うな」旦那は自分の小皿にボージョレを注いで、狐の目の前に置いてやる。「お前さん、雌かい? それとも雄かな」
「云わぬが花でございましょう。特にお前様のようなお方の前では」
云って狐はワインをぺちゃぺちゃと舐める。――こうなると狼狽える気にもならないから不思議だ。
「なんだか旦那のことは前から知ってるみたいだぞ」
「俺の方には覚えがないんだがな」
旦那は自分のグラスを空けてワインを注ぎ、ついでに狐の分も注ぎ足してやる。ぼくも自分のワインを呑み干した。もう秋だ。こんな宵にはこれぐらいのことは起きるのかも知れない。
狐は小皿に二杯分の酒を呑むと軽く頭を下げた。
「身に過ぎた美酒でございました。礼ともならぬとは存じまするが、お話をひとつ」
「云ってみな」
旦那はすっかりくつろいでいる。
「あすこの月が、少し欠けておりまする」
「ああ。俺にも見える」
「あの欠けた処に、何が巣くうておるか御存知か」
「さあて」旦那はぼくの方をちらりと見やった。「どうせお前さんみたいな魑魅魍魎の類だろうが」
「それがで御座いまするよ。旦那様方、あすこにはお前様方の心の中でしまい込まれたままのものどもが寄り集まっておる」
「ほお。まあ、云われればそんな気がしないでもないが」
「満月は私めどものような獣の刻でありまするが、新月はお前様方のような方々のためにある刻なので御座いまするよ」
そう云って狐は笑った。いや。鳴いただけなのかも知れない。ぼくはワインを口に運ぶ。いい酔心地だ。
「なるほどねえ。お前さん、もう一杯呑むかい」
「沢山で御座いまする。それではお暇を」
「また来な。酒なら色々と揃ってるから」
旦那の言葉にまた頭を下げると、狐はきびすを返して庭の隅に軽い千鳥足で向かい、姿を消した。現れたときと同じで、何処に消えたんだか見当も付かなかった。
僕たちはそのまま呑み続け、すっかり酔ってしまったぼくはそのまま『青猫亭』に泊めて貰った。
ぼくは旦那の叔父さんの寝室に寝せて貰った。朝の八時を廻った頃に、旦那がぼくを起こしに来た。
「早起きな奴だな」
「いいからさ、早く服を着な。昨日の狐が何者か思い出したんだ」
と云うことは、あれは夢じゃなかったと云う訳だ。ぼくは急いで着替え、旦那の後を追って階段を降りた。旦那はぼくを庭に連れ出し、隅の物置の扉を開けた。
物置の中を見るのは初めてだった。壁には世界中のあちこちから集められてきたと思しき仮面が架かっていて、床には中身の見当が付かない油紙の包みが処狭しと積み上げられている。
「こいつだよ」壁に掛けられた面のひとつを旦那は示した。「やっぱり、昨日のあいつは女だったってことだ」
旦那が示したのは神楽なんかで使われるような白い狐面だった。その突き出した口の唇の辺りには、何故かべっとりと紅が塗られている。
「叔父貴が云うにはな。俺が三つぐらいの時だそうだが」旦那は狐面を壁から外す。「この狐は雌だ、って云い張って聞かなかったらしくてな。ついには叔父貴の嫁さんの口紅までちょろまかして塗っちまったんだと」
「じゃあ、こいつが昨日の――」
「分からねえけどな。まあ確かに、こんな話は頭の隅っこの物置にしまい込んだままではあったしなあ」
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