Tales from "Blue Cat" Episode #5

The Flying Fatman

両谷承


 大学の授業が夕方に終わって、学食で夕食を済ませてアパートに戻ると午後7時だった。風呂に入ってビールでも抜きながら四、五年前に死んだポップ・アーティストに捧げられたアルバムを聴いていると、唐突にカクテルが呑みたくなった。

 こんな時に電話する先は僕にはひとつしか思いつかない。受話器を取って、僕は旦那の家の電話番号を廻した。応対に出たのは眠たげな声の留守番電話だった。旦那のことだから面倒臭くて出ないだけなのかもしれないけれど、とりあえず“青猫亭”の客になるというアイデアはやめて、僕は久しぶりに外に呑みに出ることにした。別段自分で造って呑んでもいいのだけれど、僕の家はいま、ジンを切らしている。

 この街はうちの国でも一、二を争う旧い湊町だ。由緒があって、タフで、確かなものを呑ませるバーには事欠かない。そろそろ気温の上がり始めた街へ、僕は麻のジャケットを羽織って出ていった。


 そのバーは街の中心部をいくぶん離れた雑居ビルの二階にある。綺麗過ぎず、気取り過ぎず、高いチャージも取らず、けれどもちゃんとプライドを持ったバーテンダーとバックバーに並ぶボトルが適度な緊張感を与えてくれる。そんな店だ。まだ旦那にも出会う前の十代の終わりに僕はこの店で酒の呑み方を教わり、カクテルの選び方を教わり、幾つかの醜態を救ってもらった。

 街角を曲がり、路地を覗き込む。少し湿っぽい空気の向こうにぼんやりと、緑色をしたハイネケンの行灯が光っている。もっともこの街で何十年も営業しているバーだから、そう簡単に潰れる筈もないのだけど。

 行灯の脇から伸びる階段を見上げる。ひと組みの男女が降りてくる。まだ九時前なのに随分と夜の早い客だな、と思ったら男の方は旦那だった。少し驚いて立ち止まっている僕に、旦那は平然と目配せを送ってくる。一緒に歩いている女の子は気付かない。その女の子の目が夜の闇に光ってるように見えて、僕はぎくっとした。

 女の子は身体の線の出るタイトなTシャツと革のミニスカートに細っこい身体を包んでいる。ジーン・セバーグみたいに髪を刈り込んだ小さな顔に、色素の薄いやたらと大きな瞳が光っているように見えたらしい。

 旦那と女の子は僕に声を掛けることもなく、港の方に向かって歩み去ってゆく。その時、僕は見た――百キロ以上はありそうな太った男が半透明の身体を宙に浮かせて、女の子のうしろをふわふわと付いていくのを。


 階段を上ってバーのドアを開ける。バド・パウエルのピアノが流れだしてきた。カウンターに腰掛ける。日本人の客は僕だけだ。

 オーナー・バーテンダーは僕のことを覚えていてくれて、話相手になってくれた。ようやっと苦笑いで話せるようになった種類の話題を肴に何杯か杯を重ねた頃合に、旦那が店に戻ってきた。大柄とは云えない身体を、僕とスウェーデン人の船員らしい大男の間に滑り込ませる。

「久しぶりだな、承。何年も逢ってなかったような気がするぜ」

「実際、そうだったかもしれないさ」僕はグラスを傾ける。「戻ってくるとは思わなかった」

「おまえが一時間やそこらで切り上げて帰っちまうとは思えねえからな。何、呑んでる?」

「ハリケーン。――旦那、酔ってるだろ」

「酔ってるよ。おまえも一回、あの女とさしで呑んでみればいい。ねえ、マスター」

 四十代に入ったばかりの二代目マスターは微笑だけを返して、旦那の前に半分だけ残ったジェイムソンのボトルを置いた。

「あんだけいい女と一緒だったのにこんなに早く戻ってきたから、変だなって思ってるんだよ」

「いい女、ねえ。まあ、そう云っちまえば云えない事もねえかな。――俺の知ってる限り、自分より呑んべの女はあいつだけだ」

「ますますお誂え向けじゃないか」

「冗談じゃない、あの女は甘ったるいカクテルしか呑まねえんだぜ」

 云って旦那はさっきここで払ったばかりらしいレシートを見せてくれた。最初に記されたジェイムソンが今、カウンターに置かれている。続いてカルーア・ミルク、エンジェルズ・キス、グラスホッパー、アレクサンダー――こんな調子でカクテルの名前が十余りも続いていた。

「えらくカロリーの高そうな奴ばかりだな。よくあの体型を維持していられるもんだ」

「これでも一時期に比べれば三分の一に減った、って云ったらおまえ、信じるか」ジェイムソンをロック・グラスにぶちこみ、旦那はひとくち呷った。僕はマスターにブラックソーンをオーダーする。「ウェイトだって当時の半分近くに減ってるはずだ」

 なんだか、凄い話だ。

「それでなくてもよ、十年近くも呑み友達をやってきた女を口説けるか?」

「そりゃ、ま、旦那のこったから」

「馬鹿野郎」旦那はグラスにアイリッシュ・ウイスキーを注ぎ足すと、悪戯な目付きで僕を見る。「それに、あの女にはな――」

「でぶの幽霊が憑いてる、ってのかい」

 旦那はきょとんとした表情になった。

「なんだ、おまえにはあれが見えるのか。なら話は早いな」

「どう云うことなんだか、教えてくれるんだろ」

「ああ。仕方ないな」そういって旦那は、謎めいた笑みを浮かべた。「ところでおまえ、チャールストンのレシピを全部云えるか」


「そもそもの話の始まりは十年くらい前になるのかな」相変わらず、この男は幾つなんだか分からない。「彼女はころころした健康的なハイ・ティーンだった」

「旦那がハイスクールのジョー・クールだった頃かい。それとも、大学の若大将かな」

「どうだったかな。あんまり古い話だから覚えてないや」平然と受け流す。「ともかく彼女は当時、絵に描いたみたいな魅力的な十代の女の子だった。可愛くて、おつむが悪くて、残酷で、身の程知らずで、面食いで。ビジネスに成功した団塊おやじなら一晩で十万ぐらい払いそうな感じだったな」

「やけに辛いじゃないか」

「気のせいさ。そんな彼女に、俺の知り合いのひとりが惚れた。――ま、こういう女の子は惚れられる相手には事欠かないもんだけどね」

「なんだか変だと思ったら、近親憎悪か」

「うるせえな」旦那は苦笑いした。「彼女に惚れた奴ってのは――まあ、友人と云う程親しくもなかったんだけど――これがまた彼女が忌み嫌う種類の男の典型みたいな奴だったんだ。彼女の、って云うか、当時の彼女みたいなタイプの女の子のね」

「何となく想像は付くな」

「太ってて、眼鏡を掛けてて、身なりに構わなくて、貧乏で、運動神経が鈍くて、無口って感じさ。かわいそうな事に、こんな奴でも恋はする、って事だ」

 旦那は言葉の中身とは裏腹に何処かしみじみと云う。

「分かったぞ。打ち明けられずにうじうじと苦しんで、それでもある日勇気を振り絞って愛の告白をして、そいつが最悪のやり方であっさりとにべもなく振られて、真っ暗に落ち込んで――ここまではどうだ」

「おまえ、結構苦い青春の思い出があると見たぞ」

「こんくらいならフロベールの『紋切型辞典』にだって載ってると思うけどな」

「うそつけ。まあどっちにしろそんな感じだ。ともかくその頃俺はそいつの近くにいたから、苦しい胸中ってのをこっちが胸焼けしてくるぐらい聴かされる羽目になった。経験あるだろ」

「聴く方かい、聴かされる方かい」

「どっちにしろ、さ」旦那はチェイサーを啜る。「仕方ないから、俺はひとつアイディアを与えてやった」

「かくしてまたひとり、地獄に落ちていくわけだ」

「天国に昇っていくのかもしれないじゃねえか」

 旦那は不満げだ。僕はロブロイを頼んで、ペルメルを銜えた。

「で、どんなアイディアだい」

「悪魔との契約、だよ」

 思わず僕は煙にむせそうになった。

「冗談だろ」

「俺の方は冗談のつもりだったんだけどな。古文書の復刻版を一冊貸してやって、試してみろって云った。なあ承、まさかそいつがラテン語の原書を読みこなすなんて思いもしなかったんだ」

「人間ってのはどんな奴でも、恋にだけは全ポテンシャルを発揮するもんなんだな」

「良くも悪くも、そうらしいな。さすがの俺も見兼ねて、彼女に彼の思いを受け入れるよう何度か話してみた」

「らしくないことをしたもんだな」

「つくづくそう思うよ。ところが彼女の方はスリムで二枚目のスポーツマンにぞっこんいかれてて、話にもなんにもなりゃしない。そのうちに、恐ろしいことに――」旦那はグラスを干した。「その男が結果を報告してきた」

「まさか」

 僕は笑おうとしたが、旦那は真顔のままだ。

「悪魔はまるでイギリス人のようで分厚い唇をしてた、なんて云う辺りは俺も笑って聴いてたんだけどね。願い事はやっぱりみっつだった、なんて云うんだ」

「それで、彼は契約したって訳か。魂を売っぱらっちまって。願い事は、なんだったんだ」

「『彼女に愛される資格がほしい』ってのがまずひとつ。『彼女と苦楽を共にしたい』がふたつめで、『彼女との間に永遠の絆を』って云うのがみっつめだった、そうだ」

「なんだそりゃ。また随分と遠慮がちな願い事だな」

「愛ってのはやっぱり、自力で勝ち取りたいもんだろ」旦那は何故か、少し寂しげに笑った。「汚れちまってるね、承くん」

「なに云ってんだい」

「ともかく奴はそういうことを云ってきたから、俺は何も云わずにしばらく静観してた。そのうち、奴と彼女はたしかに少しづつ親しくなり始めたんだな。もっとも相変わらず彼女の方はスポーツマン野郎に夢中だったから、友人としてのスタンスは揺るぐ気配もなかったけどね。まあ奴は奴でそれなりに満足してたみたいだから、俺にも別段云うべきことはなかった」

「悪魔の力もそう劇的でもないんだな」

 店に流れる音楽がパウエルからコルトレーンに変わった。

「願い事の中身が中身だからな。ところが、そのうち彼女とスポーツマン野郎との間がうまくいかなくなってきた。奴のことが誤解を生んだんだかどうだか、俺には知った事じゃないが。彼女は苦しんで、やたらと酒を呑み始めた。それも」さっきのレシートを、旦那はまた僕に示す。「こんなような代物ばかり、毎晩ここに並んでる三倍づつのペースで、だぜ。例の男は下戸だったから俺がいつも付き合う羽目になったんだがね」

「なんだかあんまり楽しそうな役回りじゃないな」

「その通り。で、思ったとおり彼女は二次曲線的な加速度で太り始めた。なかなか壮観だったな。もともとそう細い方でもなかったのに、あっという間に五割増くらいになっちまったんだから」

「やれやれ。恋に苦しむ女ってのは普通は痩せ衰えていくもんだって思ってたけどな」

 こんなメニュウを毎晩三十杯づつこなしていけば、そういうこともあるだろう。

「凄かったのは、彼女が太っていくのに合わせて例の男の方は倍のスピードで急激に痩せていくんだ。まさか、とも思ったけどね」

「それってのは――」

「そう、契約のふたつめだよ。『彼女の苦しみは、決して彼女ひとりに影響するものじゃなかった』って事さ。彼女の肥満がピークに達した頃には、奴の方は見事に彼女好みのスリムな美少年になっちまった。痩せるだけでこうも変わるなんて、俺もちょっとばかり仰天したけどね」

「なるほどね。これで同時にひとつめの願いも成就したわけだ」

「『彼女に愛される資格を手に入れた』ってとこだな。もちろん奴は彼女の苦しみを見兼ねて彼女に精一杯尽くしたし、そうなると彼女の気持ちも揺れ始める」

「絶望的に身も蓋もない話だな」

「女なんざそんなもんさ。まあ、男にしたってそう変わりゃしない。どうも若干、蚤の夫婦って風情で妙ではあるけれど、まあこれはこれで牧歌的で悪くもないか、なんて思ってた」

「牧歌的、だって?」

「まあそうつつくんじゃねえよ。でまあ、ここに八十キロ近い少女と五十キロに満たない少年の間で愛が芽生え始めたわけだ」

「ところが」

 僕が合いの手を入れると、旦那はにやりとした。

「そう。ところが、世の中そうそう上手くは運ばない。――彼女が以前惚れていたスポーツマン野郎との行き違いがくだらない誤解に端を発するもんだったって事が判明して、男の方が謝ってきたんだな。変わらぬ愛の誓いを携えて、ね」

「ありゃりゃ。ひどい話だ」

「確かに、我らがヒーローにとってはね。当然ながらヒロインの方は有頂天だったけど、同時に我が姿に気付いたって次第さ。――この時の彼女のレスポンスも凄かったぜ。一気に禁酒さ。それから激烈なダイエット、と云うかあれはむしろ拒食症に近かったな。今度は壮観なんてもんじゃなかった。何しろ彼女は二週間足らずで、三十キロ以上の肉を削ぎ落としちまったんだから」

「そうすると、彼は」

 背筋が寒くなってきた。

「まず、十日ばかりの間に三倍近くなった自分の体重を自分の足で支えられなくなった。次にやられたのは動脈で、次は心臓だった。俺たちは四人がかりで奴を病院に運び込んだけれども、手遅れだったよ」

「悲しい話だな」

「なんだか、どうしても笑っちまうんだけどな」

 云いながらも旦那は何となく神妙な面持ちでグラスを傾けている。

「で、彼女の方はどうしたんだ」

「三日ぐらいは泣いてたかな。まあ、慰める奴がいなかった訳でもないし。だけどな、みっつめの願いは効力を失なっちゃいなかったんだ」

「そのせいで、彼は」

「そうさ。天国の門は未だに、彼に対して開いちゃいない。承、俺が何を恐れてるか分かるか」

「なんだい」

「もしこの先彼女がまた太りだしたりしたら、今度は彼の身にどんな恐ろしい事が起きるんだろうって事さ。さっき彼女は、酒を呑むのは久しぶりだって云ってた。それが本当かどうか、俺は彼女にチャールストンのレシピを尋ねてみたんだ。承、おまえは思い出せたか」

「さっきからずっと、考えてるんだけどね。ジンに、ベルモットがドライとスウィートの二種類だろ。マラスキーノに、キルシュヴァッサーに――あとひとつだ」

「そう、最後のひとつ、一番甘いリキュールの名前を、彼女も思い出せなかったんだ。安心したよ。あの彼女が、グラン・マルニエの名前を忘れてる、なんてね」


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