まったく、ひどいおんぼろ車だ。ライトは暗いし、ヒーターはまるで効かない。サスペンションは固めてあってぽんぽんはねるし、エンジンは後ろの方でばたばた我鳴っているばかりでからきし回らない。冬の夜に田舎のでこぼこ道を走るのに、こんなに向かない車もないだろう。
「なあ旦那、この車いきなり分解したりしねえだろうな」
「大丈夫だよ。五年前にぶっこわれたっきり一回もトラブルはない」
「どこが壊れたんだい」
「ラジエーター」
この寒いのに、旦那は右側の助手席でふんぞり返って三缶めのクローネンバーグを呑んでいる。
「結構なご身分だな」
「このカルマン・ギアは誰の車だっけ。一体誰が金払ったガソリンで走ってるんだろう」
「――わかったよ」
「急げよ、運転手」
ぼくも本来なら、このカルマン・ギアを走らせるのは嫌いじゃない。細いウッドのステアリングは妙に手にしっくりくるし、エンジン音も気分がいい。綺麗な水色のメタリックに塗られた優雅なボディも気に入ってるし、がちがちの足まわりの走行感も楽しい。――ただ、そもそもこんな道で走るようには出来てないし、車で旅行するのに缶のビールを半ダースも持ち込むオーナーが助手席に座っているとなってはどんな美点もたちまち不平の対象になってしまう。
「なあ。この車、ビートルと同じエンジン載っけてるんだろ」
「そうだよ。昔は、プアマンズ・ポルシェと呼ばれてたんだ」
「つまり、空冷エンジンな訳だ」
「だから、こんな魅力的なサウンドになるんだよ」
なんとなく割り切れないものを感じながらぼくは薄荷煙草をくわえる。旦那の実家に行けばとびきり美味い地酒を呑めるなんて甘言に乗ったぼくが莫迦だったのだ。今どの辺りを走ってるのか、ぼくには見当もつかない。そもそも旦那当人にしてからが、ちゃんと道を覚えていないと来てる。
「あと、どれくらい走ればいいんだ」
「そうだな」旦那は道端に立ったすすけた標識を見やる。「どうやら方向はそう間違ってないみたいだから、もうじき着くんじゃねえかな」
「まだ先かよ」
ぼくは吸い殻で山盛りの灰皿に煙草を突っ込んだ。
「ぶつくさ言うなよ。――そうだな。その辺に伝わってる民話でも話してやろうか」
「民話あ? あんまり、つまんねえ話すんじゃねえぞ。事故起こすぜ」
「ま、面白えかどうかは分かんねえけどさ。うちの先祖にまつわる話なんだよ」
ぼくはずっと、こんな得体の知れない男がどんな家庭環境に育ってきたのか興味を持っていた。少なくとも相当の財産家の出身であることは間違いないし、それなりの家柄なのも確かだろう。
その彼が、自分から出自を明らかにしようというのだ。ぼくは彼が新しいビールの缶を開けおわるのをじっと待った。
「相当昔の話だな。この辺を版図にしてる領主の一族がいたんだ。戦国の大名だか、土着の豪族だか分かんねえけどな」
「ま、民話だしな」
「そう。だから、その一族の姓も伝わっちゃいない。伝わってんのかも知れねえけどな、おれは知らない」
「旦那とおんなじ名字じゃないのかい」
旦那はぼくの問いに答えずに、のどを鳴らしてクローネンバーグを呑む。
「――その一族のある城主の跡取りが、生まれついての盲目だったんだ。どうやらやけに家庭的な武将だったらしくてさ、跡取りの元服もすまないうちから八方手をつくして三国一の嫁を探させたんだ。そいつは上手くいって、かなり離れたある国の国司――だかなんだか分かんねえんだけどさ――の娘がお眼鏡に叶うってんで嫁に貰ったんだな。才色兼備で心根も優しいっていう出来すぎの嫁さんで、元服が済むとその盲目の跡取りと嫁さんはすぐに婚儀をとりおこなった。跡取りがなんとか身を固めたってんで安心したのか、城主はすぐにぽっくりいっちまった。――おい承、おまえも呑まねえか」
「莫迦云うな。死にたかないよ」
こんな悪い道で、嫌なことに冷たい冬の雨まで降りはじめた。視界は悪いし、飲酒運転なんかしたらそこいらの田んぼに転げ落ちてしまう。
「そうか。美味えのにな」
勝手にしろ。
「――必然的に、その跡取りが殿さまになるわな。この新しい殿さまってのが目は見えねえけど実に頭のいい、性格温厚な殿さまだったんだけど、だいたい出来のいい支配者ってのは嫌われるもんだから、領民の評判は芳しくなかったらしい。とはいえそんな領主の治める土地だから大したトラブルも起きなくて、なにごともないまま殿さまと奥方は一男一女――まあ、女の方が先なんだけど――をもうけた。この子供たちがまた五体満足で元気でさ。姉貴の方は男まさりだけど男の方は学究的なタイプでまわりの国中からうらやましがられる姉弟だったってんだな」
「ただの美談じゃねえか」
「まあ聴けよ。この奥方ってのが殿さまの目が不自由なのをずっと不憫に思っててさ。天竺――だか高麗だかえげれすだか――からとんでもなく腕のいい医者を見つけて来て、裕福な実家の財力にものを云わせて日本まで連れて来て、殿さまの治療に当たらせたんだ。しばらくすると、殿さまの目はなおっちまった」
「生まれたときから盲目だと、器能を回復してもものは見えないって云うぜ」
「そこはそれ、民話だからよ。目が直ると同時に、殿さまは自ら領治に当たるって云い出したんだ。それまでも政治の重要な部分は殿さまに伺いを立てて、細かい所はまわりをがっちり固めてる家臣団――まあこいつらが、清濁合わせ呑むといったタイプの政治屋としては実に有能な連中だったらしいんだけど――がやるって形を取ってたんだけど、その家臣団を完全にスポイルするってんだな。その上、理由も云わずいきなり奥方を城の座敷牢に幽閉しちまった。
困ったのは城の連中だよ。家臣団はほとんど仕事をまわして貰えないうえに禄高は勝手に下げられちまうし、奥方付きの女官だのはみんなお役御免だ。殿さまは年貢高をいきなり倍にして――実際はそれくらいが当時の相場だったようだけど――払えない領民は娘か息子を差し出せ、ってことを新しく領民に命じちまった。まあ領民は年貢払って食えなくなるよか子供を差し出す方を選ぶわな。毎日のように城へ連れて来られる子供たちはみんな殿さまが城の中に新しく造った自分ひとりしか入れない区域に連れ込まれてひとりも返って来ないもんで、領土はだんだん暗くなりはじめた」
「中世ヨーロッパにいっぱいいそうな気狂い殿さまだな」
「そうかも知れん。とにかく、黙ってねえのは家臣団だよな。そん中に在野から採用された、まだ若い頭の切れる男がいたんだ。こいつがこっそりお姫さまと通じててさ。殿さまがいなくなりゃ跡取り娘の婿だってのを狙ってたんだな」
「男子相続じゃねえのか」
「その辺り、よく分んねえけどな。さっきも云ったけどお姫さまは気の強い女で、ずっと続く殿さまの無法にかなり怒ってたんだ。若い家臣は半ば公然とお姫さまの正義感をたきつけにかかった――他の家臣たちの妬みの視線を気にもせずにね。お姫さんはすっかり義憤にかられて、なぎなたの練習を見に来た殿さまに斬りかかった。ところが、あっという間に取り押さえられちまったんだ。他の家臣たちの手の者にね」
「なんでだよ。殿さまは家臣たちのみんなに憎まれてたんだろ」
旦那はクローネンバーグを空にした。
「まあ、憎しみより妬みのほうが強かったってところかね。若い家臣は追放されたけどそこは目はしの効く男でね。こういう情勢下で杜撰になってた城の経理に乗じて、かなりの金を持ち逃げしたらしい。それを元手に、逃亡先で造り酒屋をはじめたとかなんとか云われてるけどね」
「いつの時代の話だ」
「そう伝わってんだよ。殿さまは手づからお姫さまの首を落としたらしいけど、さすがに城内の不穏な空気に気づいてやっと不安になったらしい。それで、夕食時に若殿さまの方を召し出して事情を知ろうとしたんだな。人払いをして近くに家臣はいないし、その頃の殿さまは身なりはきちっとしてたけどどうしてもとれない血の臭いをぷんぷんさせてたんで下女たちも近付かない。殿さまとふたりっきりになったところで、若さまは殿さまに飛びかかってその両眼をくり抜いちまった。そのまま若さまは奥方とおんなじ牢に殿さまを放り込んだ。奥方は若さまの不孝を激しく責めて、殿さまと二人で牢の中にとどまったって云われてる。若さまは家督を継いで、年貢高はそのままに子供を差し出す制度を取りやめさせて、ずいぶん長い間平穏に統治したってことだ。殿さまと奥方は、暗い座敷牢の中で若さまより長生きしたらしいけどね。殿さまになった若さまは自分の脇息に父親の両眼を埋め込んで、ずっとそばに置いてたって話だ。――どう云う処理を施してあるんだか眼球はふたつとも腐らないまま、今でも脇息と一緒に伝わってるよ」
「旦那の実家に、だな」
旦那は新しいビールを開ける手を止めた。
「ああ? なんでだよ」
「だって、いまの話は旦那の家系にまつわる話なんだろ」
旦那は少し笑った。「ああ、お前は勘違いしてるよ。――おれの実家は造り酒屋だ」
云って、旦那はまたビールを呑んだ。なるほど、分かる気がする。
「じゃ、おれたちは彼の逃亡先まで行かなきゃなんないんだな」
「そういうことさ。ま、あと二時間ってところかな」
「あーあ、勘弁してくれよ。ところで、気になってたんだけどさ」
「なんだよ。ビールあと一本あるぜ」
「そうじゃねえってのに。なあ、空冷エンジンのどこにラジエーターがあるんだ」
「――おれ、機械は苦手なんだよ」
先は長い。
「両谷承小説作品集」に戻る。 |
「糸納豆EXPRESS・電脳版」に戻る。 |
「糸納豆ホームページ」に戻る。 |