投函された一通の手紙

連載第6回 (秩父市 三木久幸)


 たこいさんへ。

 こんにちは。

 糸納豆有り難うございました。楽しく読ませてもらいました。

 「ぼくはこんなにも〜」が力作で面白かったです。こういうのは、これくらいの分量をまとめて読むと、単なる日記を越えてしまいますね。ただの日常なのに、ストーリーが見えて来る気がします。借りたLDの品揃えからその時のたこいさんの気分を想像したりして。

 DTPの方ももうすっかり手慣れた感じで、美しいですね。しかし、ヘアヌード掲載に踏み切るとは! いや、レイアウトとしてはハマッててかっこいい。ただ、目を凝らして「毛」の部分に書かれた文字を読むのは、ちょっと情けない気持ちでした。

 俺の手紙については…。まあ、何も言いますまい。

 でも鉛筆の飛ばし書きの頃に比べると少しはましかな。読んでて、「しまった、こんな事書いてる」ってのが少なくなりました。ワープロは推敲が出来るからね。「え、そうなの? 全然変わんねえぞ」って声が聞こえてきそうですが、まあ、俺にとっては、という事だから。


 突然話は変わりますが、最近SF読んでます? 俺は本屋のハヤカワのコーナーも素通りするようになっちゃいましたよ。売れてないのかなあ、ハヤカワ文庫。ラインナップも、シリーズものばっかりの月なんかあって、寂しい限りです。最近面白いのは「新書本」。岩波新書とか、ブルーバックスとか、そういうやつ。毎月新書の新刊が出る頃は本屋に行くのが楽しみです。大江健三郎の『あいまいな日本の私』、小林恭二の『俳句という愉しみ』、島田雅彦の『漱石を書く』なんか面白かった。お薦めです。

 でも、そんな本ばかりが面白い自分に気づくと、「SFを引退するのでは」つまり「もうSFは読まないのではないか」という気がします。いやあ、信じられん。毎月、ハヤカワやサンリオや創元から出版される本を見ては「読みたい本って、死ぬまでに全部は絶対読めないな」なんて思ってたのになあ。

 ちょっと焦っちゃって、まだ読んでない「名作」だけは、今のウチに読んでおこうって気に。俺にとっていつか読みたくてまだ読んでない「名作」、それは『アルジャーノンに花束を』なのでした。文庫になってからと思ってたら、ちっとも文庫にならないんだもの。

 そんな風に思い立って、去年の年末に実家のある船橋の古本屋で『アルジャーノン』を探したら、ハードカバーの本が600円で売ってるじゃないですか。600円。今日び文庫だってそのくらいしますぜ。ラッキー、ラッキー。

 早速帰って本をパラパラやると、おぉ、なんと中からピン札の500円札が! いやあ、連続して超ラッキー。きっと前の持ち主が保存用に挟めておいたんですな。これで、この本は都合100円で買ったことになる。いやあ、さすが『アルジャーノン』。

 とまあ、一通り喜んだ後で、ふと、なぜ前の持ち主はこの本に500円札なんか挟んだのだろうと、想像してしまいました。

この本を買った人は『アルジャーノン』にいたく感動したんじゃないだろうか。そして、500円札を保管しようと思い立った時に「絶対に手放しそうもない本」ということで、この『アルジャーノン』を選んだんじゃないだろうか。

 じゃあ、そんな人がなぜこの本を手放したんだろう。

 答えは、きっとその人も「SF引退」したってこと。ある時を境に、SFが面白くなくなってしまったんでしょう。今の俺みたいに。

 そうかあ、そうすると、俺が「SF引退記念」にこの『アルジャーノン』を選んだとすると、この本は都合二度の「SF引退」を目撃するんだなあ。うーん。ちょっと切ないねえ、可哀想だなあ。などと思ってしまい、そうすると、本に挟められた500円札も「ねえ、もうちょっとSF読んでよお」という無言のメッセージにも思えるのでした。「SF引退」をちょっと保留するかな。なんて思いつつ『アルジャーノン』を読んだ訳です。

 これで『アルジャーノン』が「SFとして」面白ければ「SF復活!」と行くんですがねえ。ご存じの通り、これはSFとしての面白さとは違うような気が。読んだ時期も、きっと悪い。今、フォレストガンプとか大江光とか流行ってて、なんとなく、「こういう所に感動や安らぎを求めるのは卑怯だろう」って感じ。まあ、作品自体はもう何十年も前に書かれてるわけで、流行とは関係なくすごい作品なんだろうけどもね。

 ま、そんなわけもあって、もうちょっとだけ「SF引退」は先に延ばそうか、とも思う今日この頃です。面白そうな本なら読むぜ。夏に出たヴァーリイの短編集はめちゃくちゃ面白かったし。でも『スチール・ビーチ』は買ったっきり読んでない。中井紀夫の『タルカス伝』最終巻も買ったっきりだわ。まあ、SF研時代にあれだけ本を読んだのに、未だにベストSFは小松左京の『果てしなき流れの果てに』なわけで、そういう奴なのよ俺は。

 久しぶりにSFの話をしたなあ。


 後は国産音楽のことでもって思ったけど、最近特に無いっすね。

 奥田民生のソロ・アルバムもイマイチだったし。なんでこのアルバムが大絶賛なのかな。ユニコーン時代よりずっと落ちたと思うんだけど。まあ、ユニコーンの空けた穴に今誰も居ないのは確実なわけで、これで絶賛になっちゃうほど、穴がでかいって事でしょう。それにしても奥田民生100%ってのはちょっとダルすぎ。バンドの方がサービス精神も出るし、この人には良いんじゃないかと思いました。アーティスト・エゴとサービス精神のせめぎ合い/バランスが表現活動の醍醐味だと思うから。どんなに素晴らしい表現でも、手に取る気を起こさせなきゃ、誰にも伝わらないもんね。

 嬉しいことに、れんさんと両谷承氏の文章に俺の名前がありましたね。俺なんぞの「ただの手紙」に反響があるってのは本当に嬉しい。ちょっとだけ褒めてもらったりもして。俺もそんなに音楽を聴いてる訳じゃないんだけど、まあ、こういうのは言いっぱなしが面白いじゃんね。


 と、いう事で、今回は思いっきりはずれた説でも一つ。結構良い話だと思ってたんだけど。

 小沢健二の『犬は吠えるがキャラバンは進む』というアルバムは、「夜」か「朝」かを異様に意識している歌ばかりだと思いませんか?

 “昨日と今日”は「昨日と今日がくっついてゆく世界」だからこれは、日付が変わるちょうど十二時頃でしょう。“天気読み”は「木も草も眠れる夜」だから、草木も眠る丑三つ時で、夜の二時頃。次の“暗闇から手を伸ばせ”は「暗闇」で、「夜通しのリズムも止まってしまった」のだから、まだまだ夜。夜中の二時を過ぎて、いよいよ寝付けない夜にいらいらし始めた、という感じですか。そして次は、ずばり、“地上の夜”。時間は少し進んで、「見る夢は君を虜に」するといってるから、少しまどろむことができたのかも。次の“向日葵はゆれるまま”には明言はないのですが、「海の底照らす太陽の光」というところが太陽が地球の裏側にあるような感じ。

 で、次の“カウボーイ疾走”で夜が明ける時間が近づきます。「夜明け前の弱すぎる光」というわけで、暗いながらも朝の気配が。そして、“天使たちのシーン”! これが夜明けの瞬間でしょう。「冷たい夜を過ごす」→「太陽が近づいてきてる」→「月は今明けてゆく空に消える」と曲調も次第に明るくなって、夜が明けていきます。そして“ローラースケート・パーク”では、夜は明けきっていますね。「太陽の光は降り注ぐ」だもの。

 このように、ちょっと無理やりながら、『犬』の裏に折り込んだ「夜から朝へ変化してゆく様」を見つけることができます。もとフリッパーズのソロ第一弾としては見事すぎる裏技をかまされた訳だね。それなら、この次に来るアルバムはもう、真っ昼間のアルバムになるしかないよねえ。で、『ライフ』と。全部計算ずみかよ、小沢!

 じゃあ次はどうなるんだ? ってことになって、同じようにして『ライフ』を聴いてみると、『ライフ』は夜になる歌で終わってるんですよ。「夏の嵐にも冬の寒い夜も、そっと明かりを消して眠ろう。またすぐにきっと朝が来るからね」と告げて。おお、こりゃあ次はきっと暗いアルバムだっ! そう思ったのにまあ、シングルは「ラブリー」だの「強い気持ち・強い愛」だの「ドアをノックするのは誰だ?」だの。「それはちょっと」はドラマの主題歌だし。全然暗くならないじゃん。

 わっはっは。そんなもんです。


 ワープロで書くとどうも長くなってイカンですね。そろそろ筆を置きましょう。

 それにしても、ほとんど全部の原稿がパソコン通信で来てるなんて、糸納豆に(いやSF研OB&OGに、か)そんなに電脳化の波が押し寄せてるとは思いませんでした。「これでこの先三木がパソコン通信でも〜」って、そんな心配は当面ないです。しばらくはSE/30→会社のプリンタ→封筒という方式でいくでしょう。パソ通はめんどくさいので。ワープロ手紙というのは、自分にとっては、かなりのカルチャー・ショックなんです。これは楽しいぞ。しばらくは飽きないと思います。


 次号は宮沢さんの文章やOB&OG情報もあるそうで。

 楽しみにしております。

 ではまた。


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