The Counterattack of Alpha-Ralpha Express

Lesson #6 "Deva Deva!"

両谷承


 編集の蛸井氏と恵比寿で原田知世のライヴを見た。なんてことは、きっと糸納豆の読者なら何処か(ネット上とか)で読んでるんだろうけど。ちなみに95年の2月24日の事。これを書いとかないと何時発行される糸納豆に載るんだか分かんないからね。

 僕が原田さんのファンだったのは正確には16歳位の時だったんだけど、実は未だに結構特別な存在なんだなあ、なんて思ったりしたんだけどね。

 ともかく、あの声が生で聴けた、ってのがこれほど感動的だとは思わなかった。一緒に行った女性は多少不満だったらしいけど、立ったりハンドクラップしたりしないでも済んだのは僕にとっては僥倖でした(その後でその女性の旦那さんを加えて4人でビールを呑んだんだけど、あんな人もこの作文を読んでると思うと結構緊張したりして)。


 人の声を聴くこと。これって、人の姿を見ることと同様基本的に僕にとっては快楽なんだろうな。なんかこの辺り詳しい分析は避けておいたほうがいいような気がするけど。

 ともかくそういう訳で(どういう訳だ)男のヴォーカリストを聴くときと女のときとはどうもスタンスが基本的に違うような気がする。純粋に聴いてて気持ちいい声は、僕の場合女の声であることが多い。当たり前のような気もするけど。この声が聴きたいからこのCDを聴く、ってのは女性ヴォーカルの方がやっぱり多い。この曲、じゃなくてね。これって実はわりとセンシュアルな発想なのかもしれない。


 女性ヴォーカリスト(でもシンガーでも、何でもいいけど)の一番かっこいいスタイルだと僕が思うのは、才能があってわりとイノセントに歌を歌いたいなって思ってる女の子がいて、その女の子の才能やキャラクターを愛してる連中が一杯いて、腕に覚えの奴らがその子のまわりに集まってきて、みんなでレコードを作っちゃう、ってパターン。

 一時期僕は小泉今日子の「17」ってアルバムをやたらに聴いてた時期があった。これってキョンキョンっていう(才能があるのかどうかはよく知らないけど)みんなに愛されてる女の子がいて、その子の周りに屋敷豪太だの藤原ヒロシだのスカパラだのって云う結構凄い面子(これに坂本龍一とテイトウワを連れてくれば当時のオールスター・キャストだよな)がくっついてきて出来たアルバムなんだよね。

 ちなみに今回の恵比寿のライヴでも原田さんはやたらと慶一さんの話をしてて、相変わらず女に手が早いなあ、なんて思ってたんだけど(全然関係ないけど誰か打ち込みで「スカーレットの誓い」のカラオケ作ってくんないかなあ。男ばっか10人位で合唱したら絶対楽しいぞ)。

 ともかく(何がともかくなんだかさっぱりわかんないけど)今回は愛しき女性ヴォーカリストについて作文してみます。ゼルダの時みたいにぼろぼろになるかもしんないけど。


 ゼルダと云えば、サヨちゃんがソロ・アルバムを出した。サヨちゃんっていくつなんだろうって思ってたら、1964年生まれなのね。蛸井氏と同じ学年てことだな。どうも、もう女の子じゃないね。

 前のアルバムの時はインドに移住しちゃったらしいけど、今度はジャマイカ。この行動力はなんなんだろう。って云うか、東京のガレージから外を見てみたら楽しそうだった、てな感じなのかな。まあ「Shout Sister Shout」以来の傾向なんだけど、なんだか同世代としてとっても頼もしい。

 リズム・セクションはスライ・アンド・ロビー。ジャマイカに住んでるとは思わなかった。作曲陣にブームの宮沢、ミュート・ビートの小玉さん、元じゃがたらのOTO。一緒にやってるミュージシャンはみんなジャメイカン。――こうやって書くと結構ありそうなパターンだけど、出来上がったものは完全にサヨコのエゴのもとに統一されていて、ありがちなお仕着せ臭さなんかない。サヨちゃんが自分のヴォーカルの表現力そのものに強い関心を持ってて、それを発揮するために作曲家とミュージシャンを集めました、って云うようなプロフェッショナルなアルバムに仕上がってる(ちなみに僕はロック・バンドって云うのは基本的にアマチュアだと思ってます。ムーンライダーズなんか露骨に「プロのミュージシャンによるアマチュアバンド」でしょ)。キヨシローがメンフィスへ行ったのにも似てるけどね。

 ブックレットの解説で宮沢の発言として「女の子なのにジャマイカにひとりで行って現地のミュージシャンのリスペクトを受けながらレコーディングしてくるなんて本当に凄い」てなふうに書いてあるけど、逆にこんなことが出来るのはサヨちゃんが女性だからじゃないかな。僕の女性観を開陳するつもりもないんだけど、自分の感受性について確信をもつ能力については男より女の方が優れている、と思う。男が根拠だの論理性だのに拘っているときに、女は感受性だけを拠り所にして歩いていってしまうことが出来る(別にこれ自体は長所って訳でもないんだけど)。この特質が周囲の状況にばっちりはまってしまえば、物事は傍で見るよりずっとイージーになる。彼女はきっとこれまでの誰よりもシンプルな動機を持ってジャマイカにレコーディングに訪れた日本人ミュージシャンだったんだろうし、そのこと自体が十分にリスペクトに値することだと思う。特に、これほどまでに音楽が音楽としてじゃなく産業として発達している国のミュージシャンとしては、ね。

 それにしても、このひとの声は彼女の年齢とぴったりリニアに成熟してると思う。十五でデヴューしてから十五年間ずっと、その年齢でしか唄えない歌を唄ってるという気がする。――いやね、どうも僕の周りには三十代のロリータや十代のおばさんが多いもんでね。


 女の子と電話してると、ケーブルの向こうの相手に対して日頃会ったりしてるときとは別のイメージを抱いたりすることがある。相手がやたら素敵な女に思えたり、逆にひどくつまんない女に思えたり。まあ口調とかもあるんだろうけど、少なくとも僕にとって女の人の声ってのはそのひとの魅力の結構大きな部分を占めてるって事なんだろうな(ちなみに男に関してはそういうことはまずない。きっと単に僕が助平だってだけだろうけど)。

 大学生の時僕はわりとアイドル歌謡曲が好きで、特に少女隊を偏愛してたんだけど(そこで失笑してるあなた、少女隊の何枚かのアルバム、特に四枚目は八十年代後半のわけわかんねーアイドル文化の最大の収穫のひとつですぜ)、安原麗子の声ってのは十代後半の女の子ってものに対してやたらといろんないけないイメージを喚起させる特異な個性を持ってたと思うんだな。ある友人が「ミルキー・ヴォイス」って形容してたけど、そんなもんじゃない。ティーンエイジの女の子のいろんな意味でのアンバランスが物理的な空気の振動になってしまった、みたいな声。無垢さと媚態が上手い具合に矛盾しながら、こちらに伝わってくる。

 チャラの声に、実は僕は同じものを感じるんだな。もちろんチャラは僕とひとつしか違わない、十代の女の子よりもいろんなリアリティの中で暮らしてる女性なんだけれど、彼女の声と唄い方は僕が女性一般に関してまだ理解してない(ひょっとして一生を費やしても理解できないかもしれない)何かに基づいているような気がして仕方がない。彼女が出産したら、どんなふうになるんだろう。浮き世離れした愛らしい声質にもかかわらず、彼女の歌は生身の女が発する声として僕には凄くフィジカルに感じられる。

 対照的なのはピチカート・ファイブの野宮真貴だろうな。ピチカートはある意味では素材としての野宮と、全日本野宮真貴ファンクラブ会長とでも云うべき小西康陽で出来上がったユニットなんだろうなって思う。ピチカートの中で要求されるのは小西のイメージの中での彼女の声とルックスだけ。生身の女である必要もないし、むしろそういう部分は邪魔になってくる。彼女の声はどうも離人症めいた雰囲気を漂わせていて、なんだか僕に標本箱の中の蝶の標本やパネルのなかで笑顔を凍らせた映画スターを連想させる。もちろんそういう部分は小西の計算通りなんだろうけど、そうやって考えると小西のやってる作業ってのは随分とエロティックだなあ。


 本当はここで種ともこや大貫妙子についても書きたいんだけど、どうしてもどこかそぐわない気がする。おんなじ文脈に乗らない、っていうか。ふたりとも大好きなんだけど、共通してるのは男性的って云ってもいいぐらいの骨太なセルフ・プロデュース能力だと思う。例えばここでキャロル・キングに言及しづらいのとおなじ。どちらもまず最初に(方向はずいぶん違うけど)正統派の優秀なポップ・ソング・ライターだという気がするんだな。稿を改めて書いてみたいな。

 いまの流行に即して書くんだったら例えばカヒミ・カリィなんて外せないのかも知んないけど、どうもあんまり認めたくないので避けます。小山田も自分の彼女をフレンチ・ロリータに仕立てて喜んでる場合じゃないよな。ねえ、三木さん?


 最初の方に書いた、僕が女性ヴォーカリストと云うものに抱いてる紋切型のイメージに一番ぴったり来るのは、エディ・ブリケルって云うひと。88年にニュー・ボヘミアンズって5人組とデヴューして90年にセカンド・アルバムを出したんだけどその後はバンドと別れちゃったらしくて、去年出たアルバムはソロ名義になってた。このソロがポール・サイモンのプロデュースとは思えないつまらない代物だったんだな。エディのナチュラルな声と、バンドの最新型フォーク・ロックとでも云うような抑制の効いたクールな演奏が合わさって過不足なく音楽を創っていた、って事なんだろうね。けして彼女自身が、そう、例えばジャニスみたいに他を圧する個性を持ってたわけじゃないんだ。

 いろんな連中のリトル・ヘルプがあって出来あがる音楽ってのもある、ってこと。こういうのってなんとなくいいな、って思う。

 ちなみに私は先日、なんとなく昔のこのひとの面影を求めてマリィ・カールツェン(だかカールゼンだか)っていう名前もよく知らないひとのアルバムを買ってしまいました。中身はって云うと、ウエスト・コースト・ロックを唄うアメリカのチャラって感じだった。興味がおありの向きはどうぞ。


 リッキー・リー・ジョーンズっていう人はいったい幾つになるんだろう。デヴューは僕が中学生になったかならないかの頃だったと思うから、もう結構な歳なんだろうな。でも、その声は少しも変わらない。

 女の人のみが持ちうる、ある種の無邪気さって云うものがある(と、僕は思う。それがただのポーズだったりするケースも含めて)。素直さって云った方がいいのかな。おいしいものを食べたり、素敵なプレゼントを貰ったりしたときの女の子のうれしそうな表情が嫌いな男は多分いないだろう。その表情のために一生を捧げちまう男だって別段めずらしくない。男だったら照れたり衒ったりして台無しにしてしまう幸福感と、彼女たちは上手に付き合う方法を知ってるみたいだ、なんてふうに時々、感じることがある。

 もちろんこんな話、女の人たちからすると笑止千万なのかもしれないし、もちろん僕だって女の人がみんな無垢な天使だ、なんて思っちゃいない。そういった素直さが一概にいいものだとも思わない(あたしって〇〇だから△△してよ式の論理を平然と使う無反省なおねえちゃんを見ると、この腐れ×××って云ってやりたくなる)。それでも、女の人の持つストレートな部分はやっぱり魅力的だ。リッキー・リーはそのことを伝えることの出来る声を持っている。

 ジャジーな曲で聴かせるルーズでけだるげな声。リズミカルなジャンプ・ナンバーでのはしゃいだ幼女のような声。バラードでの話し掛けるような、ちょっとハスキーな声。どれもがとても自然だけれども、彼女は間違いなく自分の声で伝えることが出来るものと、それを伝えるための自分の声の使い方を知っている。それに、自分が唄いたいものも。

 4人の男たちにコーラスをやらせて「渚のボードウォーク」を唄う。ピアノひとつで「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」。ギターとベースだけでジミ・ヘンドリクスの「アップ・フロム・ザ・スカイズ」。アコースティック・セットをバックにデイヴィッド・ボウイの「レブル・レブル」。そのどれもが、まるで彼女のために書かれた曲のように響く。

 彼女はとても優れたソング・ライターだと思うけれど、キャロル・キングなんかと違って自分が唄うためだけに曲を書いている。きっと彼女の声じゃないとこんなふうには聞こえないだろう、っていう感じの曲ばかりだ(今井美樹が「カンパニー」をカバーしてたな、そういえば)。そうして、彼女の音楽を造り上げて彼女に唄わせるために野郎どもが集まってくる。例えばプロデューサーとしてのウォルター・ベッカーやデイヴィッド・ウォズ。最初の頃のアルバムじゃニール・ラーセンやバジー・フェイトンがプレイしてたし、ほとんどアルバム1枚を通してロベン・フォードにナイロン弦のギターを弾かせてるカバー集もある(ちなみにこのアルバム、バックはほぼギターとウッドベースだけ)。最新のアルバムではブライアン・セッザーの名前がクレジットされてて仰天した。

 でも、どんなミュージシャンを集めてもフィーチュアされるのはリッキー・リーただひとり。全員が、ただただ彼女のためにプレイしている。きっとみんな、彼女の声と才能(人柄も、なのかな? ルックスじゃないことは確かだ)が大好きなんだろうな。

 あなたが男でも女でも、ちょっと疲れたな、っていう気分の時に彼女の声は絶大な効き目がある、と思う。これは請け負います。


 年は分からないけれどきっと僕よりは10とちょっと上。呑んべで、遊び廻るのが大好きで(自分の娘たちに学校を休ませてまで旅行にいっちゃう)、楽しいことがあると子供みたいにころころ笑う。僕を僕自身として肯定してくれて、ダウンな時は助言をくれるけれど、らしくない事をしてると本気になって怒鳴り付ける。――そんな女の人が友人にいるけれど、きっとリッキー・リーもそんな人なのかな。


 ああ、ケイト・ブッシュの事もイザベラ・アンテナの事も戸川純の事も書きたかったのに規定枚数を大幅に超えちゃってるぅ。思ったとおり結構ぼろぼろになっちゃった。それではみなさま、またの機会に。


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