お楽しみはこれからだッ!!
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第30回 “そのままの君が好きだよ”
 掲載誌 糸納豆EXPRESS Vol.13. No.1.(通巻第28号)
 編集/発行 たこいきおし/蛸井潔
 発行日 1995/5/2


 去年さぼりまくっていたので今年は頑張ると心に固く誓っている「お楽しみはこれからだっ 」。いよいよ連載第30回の大台に突入だあ。

 で、連載30回記念のテーマは構想1年の大ネタ。「そのままの君が好きだよ」(笑)。大長編少女マンガ評論だぞ(笑)。

「大丈夫。
 きみがきみ。
 そのままできることだから」

 まずフロントページは、ララの大御所、ひかわきょうこ。現在作者静養のため中断中のファンタジー『彼方から』より。

 ひかわきょうこという人は「平凡でなんの取柄もない女の子」と「無口でちょっと不良っぽい男の子」というパターンを常に忠実に守り続けている(笑)。まあ、ヒロインは時にはねっかえりのおてんば娘になったりするけど、本質はあんまり変わんない気がする。話のパターンこそ西部劇やファンタジーの形式へと変遷はしているものの、中心に存在する女の子と男の子の関係は常に不動不変(笑)。

 とはいえ、ひかわきょうこのマンガは実に読める。読ませる。つまるところストーリーテリングやテーマの掘り下げといったことよりも、むしろ「演出力」というものに長けた人なのではないかと思う。「読ませ方」のツボを心得ているといった方がわかり易いかな。絵柄にしても割と古典的(笑)な、線が少なくはっきりデフォルメのなされた「マンガ」の絵なのだけど、その画風の範囲内であらゆるものを過不足なく描写してしまい、不自然さを感じさせない。これこそはまさに職人芸というべきものかもしれない。


 さて。ひかわきょうこは少女マンガ職人である、と(笑)。

 ひかわきょうこだけではなくて、多くの少女マンガ家は職人である。戦後のマンガの流れが経験的に蓄積してきたノウハウにのっとり、自分の能力の範囲内でなし得る限り良質ものを製作・提供する。なんのかんのいっても世の中に存在する少女マンガのほとんどは90年代の現代においても、おそらくは21世紀になっても、女の子と男の子のかあいらしい恋愛を描き続けるに違いない。そこには一定の需要が常に存在している。「友情」「努力」「勝利」をわかりやすく表現する少年マンガに一定の需要があるのと同じことである。

 少年マンガにしても少女マンガにしても、市場を支えてくれている大部分の読者というのはそういった定型的なものを消費しているのであって、「志の高さ」なんてファクターはマンガというものを商品として考えた場合とりあえず必要とはされない。  もっとも、だからといってそういうものは論ずる価値が全くないかというと、そんなことはない(と、思う)。ひとつの様式として確立されたジャンルの中でいかに優れたものを演出できるか、ということで、まあ、落語における話術や身振り手振りによる表現に近いものがあるかもしれない(笑)。

 少年マンガも少女マンガもそれぞれジャンルとしての様式の上に成り立っている。このことは、同時にジャンルとしての制約をも受けている、ということを意味する。以前「少年マンガ問題」として原哲夫とゆうきまさみの比較を行なったことがあったけど、あれを要約するならば、少年マンガの様式が極北に達した作品が『北斗の拳』で、ジャンルの様式をパロディにすることによって批評化してしまったのが『究極超人あ〜る』だ、ということになる。

 と、いう訳で今回は、受け手としての視点から見て少女マンガの様式を自己批評化していると思える作品についての考えを自分なりに整理してみたい。

「お相手いたします! どのくらい女より男の方がすぐれているとおっしゃるのかおためしください」

 ひかわきょうこに体現されるような少女マンガの様式は「一見完全無欠な男の子」と「一見なんの取柄もない平凡な女の子」という二者の存在が大前提となる。そんなオールマイティな男の子であれば、望めばもっと条件のいい女の子がいくらでもつかまえられそうなものなんだけど(笑)、その男の子にとってはその女の子の存在そのものが必要なのだ、という関係に落ち着くのが割りと一般的な構図かな(笑)。

 台詞は大和和紀の『はいからさんが通る』より。男尊女卑が常識の大正日本を舞台にしたこのマンガの女性たちは努めてウーマン・リブ的ではある。しかし、初期のウーマン・リブの一つの理想の姿をサブテーマ的に扱いながらも、『はいからさん』の基本構造は少女マンガの一般的構図を大きく逸脱するものではなかった。


 ここでいう「少女マンガの一般的構図」を端的に象徴していると思うキーワードが、フロントページに引用したフレーズである。一言でいえば…

「そのままの君が好きだよ」(笑)。

 もちろん、物語の説得力という点からすれば、男の子が主人公を選ぶに足る根拠が必要であり、主人公はその過程において充分に魅力的に描かれる。しかしその主人公のキャラクターが、消費者に自分との距離感を感じさせないということが重要なのである。自分と大差のない(と思える)女の子が、理想的な男の子から「そのままの君が好きだよ」といわれる。理想的な男の子を獲得するために、自分の側にはなんら克己の努力が必要とされない。

 わたしはあなたのやさしい手の中で…どんどんわるくなっていくみたい…

 このモノローグは僕にとっての大和和紀のベスト、『あい色神話』より。

 『はいからさん』の主人公花村紅緒は、料理、裁縫など、一般に女性に要求される技能に関してはほとんど全滅状態(笑)。そのかわり、性格は勝ち気で武芸の腕前では並の男を軽く凌駕している。物語後半では新聞記者として周囲の男性と肩を並べて活躍する(因みにこういったキャリアウーマン的な主人公の活躍というのは、大和和紀の多くの作品に共通である)。

 『はいからさん』における主人公の美点は、物語のサブテーマでもあるそのウーマンリブ的な部分に求められる。しかし紅緒という主人公にとってはそれは自然体のままに振る舞った結果であり、恋愛関係という点では「平凡な女の子」が「完全無欠な男」の庇護下に入る、という構図を抽出することが可能ではないかと思う。

 『あい色神話』というマンガが興味深いのは、このマンガでは主人公の選ぶ男性が包容力のある「完全無欠な男」ではない、という点である。主人公は、高校時代は優等生のクラス委員→後、映画雑誌編集者という才媛。対する男性陣は、生徒会長→一流企業のラインを辿るエリートサラリーマンと、全共闘崩れの映画少年→若手映画監督。

 『あい色神話』の主人公仲秋桂子と花村紅緒は、キャリアウーマン的活躍、という点では共通しているのだが、紅緒にはあった「劣等生」的部分が、桂子にはない、という点で決定的に違っている(桂子は花嫁修業的な部分においても十二分に優秀なのである(笑))。

 紅緒の場合、伊集院忍という男性の精神的庇護下で自然体としてふるまうことでその美点を発揮することができた、という構図があるのに対し、桂子は精神的には完全に自立している。むしろその自立性故に、「完全無欠な男」の強力な庇護の下では逆に自分の存在をスポイルされてしまう。桂子の場合、結婚寸前までいった元生徒会長との関係をご破算にすることで初めて自然体に戻ることができた、という構図になる。桂子と、相手役である元映画少年美作洪介との恋愛関係は、お互いに自立した人間同士の対等な関係として描写されている。

 ここでは、一般的少女マンガの構図が一段階批評化されているかな、と思うのである。


「……でもおれとしてはあれでよかったんだと思うよ。だってねえさん婚約してた時より、ずっと……なんてのかな、魅力的になったし……
 おれ、人間としてみがきがかかる恋愛の方が本物だって思うんだ」

 これは仲秋桂子の弟が姉を評しての言葉。『あい色神話』には「完全無欠な男の庇護下で主人公が徐々にスポイルされていく」という構図が存在し、そのような、どちらかがどちらかを庇護の下に置くようなことのない対等な恋愛関係を描くことが作品のメインテーマとなっている。

 ただし『あい色神話』では、「完全無欠な男の強力な庇護」は男と対等に張り合えるだけの自律的なキャラクターを持った女性をのみスポイルするに過ぎない。男尊女卑の現代社会で完璧なキャリアウーマンぶりを発揮する仲秋桂子のような主人公像は、ある種の「超人」の部類に属する。読者にとってはちょっとばかり「距離」の感じられる存在なのではなかろうか。

 したがって「完全無欠な男の庇護下での女性のスポイル」という構図もそのような女性にのみ適用される特殊な問題と捉えられなくもない。この構図を提示して見せたという点では「批評化」が行なわれているとみなせるが、提示した問題を普遍化するまでには到っていないように思う。

 また、対する元生徒会長の方も、たまたま顔も頭もよく生まれついてしまったので、素直にエリートコースを歩んでいただけで、基本的には善良といっていい。むしろ作中では「わがままな婚約者に結婚式当日に逃げられた被害者」とも思える描かれ方をしている。

 しかし「完全無欠な男」などという存在は、実はそれ自体かなり胡散臭い、ある種の破綻を内包した存在ではないのか。

「おまえはこのままでよいのだから」

 山岸涼子『日出処の天子』の主人公厩戸王子は、高貴な生まれで、少女と見まがうほどに美しく、頭脳面でも天才であるばかりか、超常の力まで振るう。典型的な少女マンガヒーローの必要条件を十二分に持ってはいるのだが、残念ながら女性にはまったく関心を示さない。その超常の力ゆえに実の母親から忌み嫌われたというトラウマが遠因となって、世の中の女性という存在を嫌悪している。

 その厩戸王子が、この世でただ一人求めた相手である蘇我毛人との決定的な訣別の後に自分の傍らに置いたのは、一人の精薄の童女であった。

 そのような相手を「このままでよいのだから」として傍らに置くということは、能動的な意思の疎通などまったく求めてはいないということであり、極めて自閉的な態度といえる。厩戸王子はそもそも物語の冒頭において自閉/自己完結の状態にあったが、彼が蘇我毛人という存在を求めようとする過程での外界とのさまざまな交渉を経て新たな(悟りとも呼べる)自閉/自己完結の状態に到達するまでの物語が『日出処の天子』という作品であった、といってもいいような気がする。


「王子。人とはもともと…一人なのです」
「そなたは一人ではないではないか。
 そなたは布都姫と二人!」
「いいえ。私も布都姫もそれぞれ一人です。
 王子のおっしゃっている愛とは、相手の総てをのみ込み、相手を自分と寸分違わぬ何かにすることを指しているのです。
 元は同じではないかと言い張るあなたさまは、わたしを愛しているといいながら、その実それは……あなた自身を愛しているのです。
 その思いから抜け出さぬかぎり、人は孤独から逃れられぬのです」

 …と、これは蘇我毛人が厩戸王子を拒絶した際の口上。つまるところ、完全無欠な存在は、その存在が自分自身の中で完結してしまっており、他者を他者として求めることがないが故に常に孤独である、ということか。

 その孤独を癒すためのせめてもの慰みが、例えば厩戸王子にとっては前述の少女なのだけど、その少女は厩戸王子を愛することのなかった母親の面差しを宿していることが蘇我毛人によって指摘される。厩戸王子は自分では意識しないながらもその少女に母性を求めたのである。

 ここで、話をひかわきょうこにちょっと戻してみると、ひかわきょうこの描くちょっと不良っぽいニヒルで無口なヒーロー像というのは、能力的には何事においても優れており(勉学、スポーツ、射撃、超能力など)、社会生活の中で周囲から浮いた存在であり(不良っぽい/孤高で近寄りがたい雰囲気)、肉親の愛を知らない、などといった点は、厩戸王子のキャラクターとけっこう近いものがあると思う。

 そこから外挿して、ひかわきょうこのヒーローがヒロインに求めているものも単に母性的な雰囲気や孤独の慰み程度のものであるとまで言い切ってしまうつもりはないけど(それに近いものはあると思うけど(笑))、ひかわきょうこが名人的なテクニックで魅力的に描写してみせるヒーロー像と多分に共通する要素から構築されている厩戸王子が、いかに胡散臭く一種不気味な存在であるかという点はここで指摘してもいいかと思う。

 ということで、『日出処の天子』という作品から「完全無欠な存在の自己完結性/自閉性」という要素をピックアップしてみた。

 ところで厩戸王子の伴侶たる少女は男性の庇護下でスポイルされるとかいう以前の問題で(笑)、生まれながらにしてスポイルされた存在(精薄児)なのであるが、次に、同じ山岸凉子から「強力な男性の庇護/抑圧下で一人の女性が徹底的にスポイルされていく」という作品を引用してみる。

「わかってくれる。わかってくれるわ、きっと…。あの人は」

 台詞は、山岸凉子サイコホラー作品群の代表作「天人唐草」より。主人公の女性は、厳格で古風な父親の強大な影響下で育ったために、対人関係に関して不具者といってよいほどの「奥手」な性格が形成されてしまった。


 この作品の場合ヒロインをスポイルする庇護者は恋人ではなく父親なのであるが、幼児期から思春期にいたるまで厳格な父親の言動下に自律的な行動を抑制された主人公岡村響子は、他人の前で失敗することは悪であり恥であるという刷り込みがなされているがために、積極的な行動が取れない/むしろその意識が原因で逆に失敗を招くという悪循環に陥っている。

 従順であることでしゃばらないこと──それが女性の美徳だと信じ込もうとした。
 その裏に自己犠牲を払わないですむ虫のいい依頼心と甘えがあった。

 恋愛も含めた日常的な対人関係においてうまく立ち回ることのできない響子の性格を形成した原因は確かに父親にあった。しかし、自分の性格上の欠陥を薄々は知りながらも、彼女は自分を変革するための積極行動を起こそうとはしなかった。それは、苦手な対人関係を重ねて自己変革を行なうことは苦痛以外の何物でもなく、何もせず現状を維持することの方が楽であったからである。

 その「依頼心と甘え」は前ページに引用した台詞にもあらわれている。物語のラスト、父親の愛人宅での腹上死、見知らぬ男による強姦という苛酷な現実に直面し響子はついに発狂する。その響子のつぶやいたこの台詞は、響子が崩壊した精神の中にあって、なおも「あの人」という架空の存在に依存しようとしていることを示している。

 と、いうことで、「天人唐草」という作品からは、「強力な庇護/抑圧下における女性の人格のスポイル」という要素に加え「庇護下に置かれた女性の依存心と甘え」という要素をもピックアップすることができる。この二つは同じカードの裏と表のようなものだが、特に後者についてはここまでのところでは言及してこなかった「庇護の傘の下に安住することをよしとするヒロイン」という存在の問題として独立して扱えるのではないかと思う。

 『日出処の天子』「天人唐草」は直接には「そのままの君が好きだよ」タイプの少女マンガを批評化するものではないと思うが、ここまで述べてきたような読み取りによって、「そのままの君が好きだよ」タイプのマンガを構成する個々の要素が内包する問題を明確化するという意味で引用してみた。その問題をここでまとめてみるならば、以下の3点に集約される。

1「完全無欠な男性の自己完結性/自閉性」
2「強力な庇護/抑圧下における女性の人格のスポイル」
3「庇護下に置かれた女性の依存心と甘え」

 このうち1は男性の側の内的問題、2は1の問題を含んだまま男性と女性がカップリングされるというシチュエーションから派生する問題、3は女性の側の内的問題である。

 これらの問題に対していかなるアプローチをとり得るか、そのアプローチの結果がどのような作品として結実しているか、ここからが今回の本題ということになる。


「みんな笑ってばかりいて気づかなかったらしいけど、
 ほかのやつらはシャールにパスするのに、シャールはだれにもパスしなかったんだ」

 台詞は成田美名子『エイリアン通り』より。主人公のシャールはアラブの小国の王子で、容姿端麗、スポーツ万能、なおかつ飛び級を重ねて15歳にして大学に籍を置くというほとんど究極の完全無欠ヒーローである(笑)。

 成田美名子という人はその作品から判断するかぎり極めて内省的な作風のマンガ家であり、本人が日常的に行なっている(と思われる)思索が往々にして作品内に直接反映される。そして、デビューから現在にいたるまでの作品に共通して感じられることは、独立した人格としての個人と個人の関係、そしてその関係を通じての個人の精神的成長、そういったものに対する希求である。成田美名子の作品に描かれる友人や恋人同士の関係というのは、成田美名子がかくあれかしと考える理想の姿なのであろうと思われる。

 「そのままの君が好きだよ」タイプの少女マンガにはヒーローにもヒロインにも成長の余地はない。ヒーローはもともとある程度の高いレベルに達してそこで完結してしまっている存在だし、ヒロインは現状ありのままの自分をヒーローによって全肯定してもらえるからである。キャラクターの精神的成長を志向した成田美名子にとっては、このようなことはマンガを描いていく上で真っ先に解消すべき問題であったのではないかと思う。

 その問題に対しての成田美名子のアプローチは、「完全無欠なヒーローの自己完結性/自閉性」への着目とその解消という形で行なわれている。

 『エイリアン通り』のシャールは前述のように身分、容姿、能力の上でほとんど完璧であり、一見人づきあいもよく、友人にもガールフレンドにも事欠かないというキャラクターとして登場する。しかし内面的には、母国の事情により幼時から暗殺の危険に晒されたり、友人だと思っていた人間が実は自分の身分や容姿といった外面的要素に何らかのメリットを見出して近づいたような人間ばかりであったという経験から、他人を信じることの出来ない極度の人間不信と孤独の状態にある。

 そのシャールが自閉の殻を破り、外面的要素に囚われず内面と内面でぶつかり合うことのできる友人関係を通じて精神的成長を果たしていく、というのが『エイリアン通り』というマンガである。つまり、「完全無欠なヒーローの自己完結性/自閉性」が克服されていく過程そのものを作品のテーマとしてしまった、ということになる(笑)。

 成田美名子がこのテーマを最初に扱ったのは、初のシリーズ連作『みき&ユーティ』においてであった。このテーマは、『エイリアン通り』の後『CIPHER』でもう一度扱われているのだが、発表順にこれらの作品を読んでみると、成田美名子の思索の変遷とその深化が読み取れてなかなか興味深いものがある(笑)。


 シャールくんといるとありのままの自分でいられる。
 自然なままの自分になれる。

 『エイリアン通り』は全部で8つのエピソードからなるが、初めの3つのエピソード「真夜中のカーボーイ」「アラビアより愛をこめて」「夜ごとの魔女」で前述のシャールの内面的問題が一応の解決をみる。その後のエピソードは、シャール以外のバイプレーヤーそれぞれに焦点をあてつつ、その全員が互いに影響を及ぼしあいながらそれぞれに成長していく姿を描いていくことになる。

 このモノローグの出典である第4エピソード「略奪された一人の花嫁」は、多国籍マンガ(笑)『エイリアン通り』のキャラクターのうち主人公シャールとヒロイン川原翼の二人だけが日本にやってくるというシリーズ中では異色編といえるエピソードであるが、川原翼をメインに据えたことによりシリーズ中ではもっとも一般的な少女マンガと対照させ易い作品構造を持っている。

 ───シャールくんてほんとに、
 ボクを女の子扱いしてくれるんだ。
 くれるけど…くれるけど─でも、
 女の子だからといって特別扱いはしない。
 (中略)
 シャールくんといるとどんどん、
 理想の自分に近づいていける───

 前述の通りシャールの内的問題はこのエピソードの前の時点で一応解決している。「ヒーローの自己完結/自閉」という問題さえ解消してしまえば、残る二つの問題はほぼ自動的に消滅する。人間性に目覚めたヒーロー(笑)は女の子の人格を無視して一方的に庇護下に置くようなことはしないし、女の子の甘えを無批判に容認することもしないのである(笑)。

 したがってここでいう「ありのままの自分」というのは、むしろ抑圧から開放されていく、という状態である。「そのままの君(笑)」が抑圧下に甘んじることで現状から一歩も先に進まない状態であるのとは対照的に、「ありのままの自分」は「理想の自分」への成長の可能性に対して開かれた状態と考えることができる。

 『エイリアン通り』は「完全無欠な男の子」と「普通の女の子」という一般的な少女マンガの構造を一見律義に踏襲している。先に指摘したような少女マンガの問題を作品の中であからさまに明示して見せることもない。それでいて、そのような問題のすべてが作品世界からは綺麗に消失している。成田美名子のアプローチはその点実にスマートといっていい。

 ただし、このアプローチはあくまでも1の問題〜ヒーローの側の問題しか解決してはいない。1の問題を解決することにより2と3の問題が発生することのない作品世界を構築したのであって、問題が存在しないということと、問題を解決するということは決して同義ではない。成田美名子のアプローチが十分有効に機能していることはここまで述べてきた通りであるが、それではまったく逆の方向、すなわち3の問題〜ヒロインの側の問題に最も重点を置くというアプローチからはどのような作品がうまれてくるだろうか。


「今までずっと智美をだましていたし───できればずっとそうしていたかったんだ」
「どうして?」
「智美にとっての不破徹でいたかったんだ。
 今まで通りの。
 地球人の。
 幼なじみの」
「そ…そんなの。関係ないわよ。
 宇宙人だろうとなんだろうと、
 徹は徹のままよ」

 と、いきなり『ウルトラセブン』最終回のような会話であるが(笑)、これは那州雪絵の初期作品「ストレンジャー・シリーズ」の中の一編「秘密だよ」(花とゆめコミックス『妖魔襲来!復讐鬼』に収録)より。

 那州雪絵の作品においては、「完全無欠な男」は常にあからさまに胡散臭い存在として登場する(笑)。「ストレンジャー・シリーズ」の不破徹というキャラクターはそのはしりといえる。

 不破徹はこの会話にある通り、宇宙船の事故で地球に不時着した宇宙人である(笑)。人間の肉体をコピーした仮の肉体に宿り、やはり宇宙人(笑)の両親とともに地球に住み着き、母星からの救援を待っている。物語はたまたまその宇宙人親子の隣家で徹とは幼なじみとして育った少女高西智美を主人公として展開する。

 不破徹親子は地球で生活するにあたり、社会生活の中でボロを出し正体がばれることを防ぐために、自分たちの「地球人としての人格」として、「周囲から好意をもって受け止められるタイプ」の人格を選択した。その結果として、不破徹というキャラクターはスポーツ万能で成績もよく、誰からも好かれる優等生(笑)となっている。

 那州雪絵の作品の「完全無欠」型キャラクターは、このように自分という存在の胡散臭さ、人間としての破綻を十二分に自覚し、その上で「完全無欠な男」を自ら演じている、というのが特徴である。詳細は作品に当たってもらうことにするが、『ここはグリーン・ウッド』の冷血生徒会長手塚忍、『それからどしたの?子猫ちゃん』の男性モデル工藤哲史などがこのタイプに属する。因みに那州雪絵の作品でこのタイプが主人公となることはほとんどない(笑)。

 智美はいつのまにかすっかり萎縮してしまっている。
 できることならすぐにでも、こちらから手をのばしてあげたいのに。
 ぼくらが傲慢に選んだのは愛されることであって、こちらから好きになることじゃなかったんだ。

 このモノローグは珍しく不破徹が主人公を演じた(笑)短編「冬の瞳」より。智美と徹は幼い頃からお互い好き合っていて、きっかけさえあればいつでも幼なじみから恋人にスムースに移行できる(ように読者には感じられる)関係である。しかし徹のあまりの完全無欠ぶりに、何の取り柄もない普通の少女である智美は臆してしまって徹に対して積極的になれないでいる。ここにみられるのは、双方向の恋愛感情が存在していてもなお、男の側の「完全無欠さ」が女の子をスポイルする方向に働いてしまう、という構図である。


 智美と徹のハッピーエンドの物語は、那州雪絵のデビュー作「UFチャンス」である。これは、作中で2の問題の存在をちらりと暗示してはいるものの、全体としてややコミカルなタッチの作品であり、また、デビュー作だけあって決して完成度は高くはない(笑)。このようにシリーズの決着である筈のストーリーが最初の最初に発表されていたことは、「ストレンジャー・シリーズ」にとっての不幸だったかもしれない。

 シリーズは智美と徹の中学生、高校生時代のエピソードを「UFチャンス」の結末に向かって積み重ねていくという方向で進行したが、その過程で2の問題は少しづつ深化していった。

 しかし「UFチャンス」は、徹が宇宙に去ってしまうかもしれないというシチュエーションに後押しされて智美が告白を行なうといった類の内容であり、2の問題についてのキャラクターの内面的解決は図られていない。したがって「ストレンジャー・シリーズ」の総体としては、徹と智美が幼なじみから恋人へ一歩踏み出すことを阻害しているといったレベルで2の問題を提示するに留まった(笑)。

 物理的にあり得ないことだが、もし「UFチャンス」がシリーズの最後に描かれていたら、あるいは、もう少し現実的な可能性として那州雪絵がシリーズの終結に当たってリメイクでも行なっていたら、そこでは「冬の瞳」までに提示された2の問題に関して何らかのアプローチが図られたかもしれない。「ストレンジャー・シリーズ」はそんな興味の余地を残すほどに中途半端であり、シリーズとして考えた時に幸福な作品であったとはいい難い。

 とはいえ、ここで頭に留めておいてもらいたいのは、那州雪絵のマンガにはデビュー当初から「完全無欠な男」=「胡散臭い存在」という図式が存在していたこと。および2の問題が普通の女の子のレベルまで降りてきていること、の2点である。大和和紀『あい色神話』ではいささか自我の突出した女性にとっての問題に過ぎなかった2の問題が、ここでは読者が容易に自分を投影できるような「普通の女の子」にとっての問題として提示されているのである。

 なお、余談であるが(笑)、智美の妹高西智恵を主人公にしたもう一つのシリーズ「フラワー・デストロイヤー」の長編『ダーク・エイジ』にはその後の徹と智美が登場するが、二人はちゃんと恋人同士で(笑)、徹は相変わらず怪しい宇宙人であった(笑)。

「あいつとは幼なじみだけど、あいつは昔からいい子でかしこくてかわいくて、中学からは私立のいい学校行ってんだ。
 おれはガキの頃からヘソまがりでバカでかわいくなくて、そんな奴とつきあってちゃダメだと思うんだ。
 だってさぁ。将来結婚することになったりしたらあいつが恥かくだろ? もっと美人の賢い嫁さんじゃないと。
 だけど、あいつがおれのこと好きだっていうから───…
 今のうちに嫌われなくちゃと思って────
 大人になってから嫌われたらきっとつらいだろ? だから───…」

 さて、この台詞の出典である『ここはグリーン・ウッド』の終盤において那州雪絵が展開してみせた主人公蓮川一也とヒロイン五十嵐巳夜の関係こそは、那州雪絵にとってのここいらへんの問題に関する総決算といっていいと思う。


 ここで那州雪絵がとったアプローチが、3の問題の解決〜ヒロインが克己の努力により2の問題を自力で解決する、というアプローチである。

 『GW』の主人公蓮川一也は生真面目で不器用な、ごく平凡な少年である。一般的な少女マンガヒーローの必要条件はほとんど備わってはいない(笑)。

 一方、台詞の主、ヒロインの五十嵐巳夜は一見典型的な不良少女として蓮川一也の前に登場する。しかしいきがかりから巳夜と2日間行動をともにした一也が垣間見たその素顔は、どちらかといえば気弱な普通の少女であり、性格的におよそ不良にむいているとは思えない。

 その彼女が不良をしている理由というのが、この台詞で明かされる。「幼なじみのBFに嫌われるため」に不良を演じる少女。このシチュエーションがそもそも異常である。

「巳夜ちゃん!
 ダメじゃないか。危ない目にあってるんならぼくにいってくれなきゃ!」

 その幼なじみのBF小泉典馬は一見してさわやかな、頭もよくてなんでもできる、非のうちどころの一切ないほとんど最強無敵の幼なじみ(笑)である。

 五十嵐巳夜は両親が仕事で家を空けがちだったこともあって小泉典馬とは家族同然に育てられ、幼い頃から典馬に保護されるという環境下にあった。その保護は、巳夜が不良をしていようが、何も変わることなく巳夜の周囲をガードしている。典馬には相手を自分のペースにいやおうなしに巻き込んでしまう不思議は迫力があり、巳夜はいかなる時でも「幼なじみの巳夜ちゃん」として扱われてしまう。

 那州雪絵がこの二人の関係として提示するのは以上のような事実のみである。しかしこれらのことからは、一人の少女が精神的にスポイルされている状態が容易に浮かび上がってくる。前ページの台詞では、五十嵐巳夜は「自分は何もできないだめな人間」だと思い込んでいるが、それは小泉典馬の庇護下で「何もしなくてもいい(=何もさせてもらえない)」環境下にあったため「何もしたことがない」ことからくるものと推測される。巳夜は「何もできない」と「何もしたことがない」の違いに気づいていない。

 そして小泉典馬は巳夜が不良になっても態度を変えない。これは綺麗な言葉でいえば「相手の内面をよく理解しているから外面の変化にとらわれることはない」という態度だが、この場合は「相手がどんなに変わろうと自分の掌から逃れることはない」という傲慢な態度とも解釈することができる。

「気にすることないよ巳夜ちゃん。
 ぼくが巳夜ちゃんのこと一番よくわかってるからね。
 これからだってずっと巳夜ちゃんのこと守ってあげるから。
 巳夜ちゃんは今までどおりでいいんだよ」

 普通の少女マンガの中に出てくればヒロイン相手の絶対の殺し文句になるかもしれないこの台詞は、しかし那州雪絵のマンガにおいてはこれ以上はないというほどの胡散臭い台詞へと変質している。そしてヒロイン五十嵐巳夜は、この台詞に対してついに反旗を翻すのである。

「でもおれ、あいつのこと好きなんだ」


 大人の目から見て「理想的な少年」と映る小泉典馬は、五十嵐巳夜に対して親からも学校からも公認されたBFという位置を占めている。巳夜にとってはその典馬以外の相手を選択するということは、自分の社会的な立場を著しく悪化させることにもなる。巳夜は典馬によって、精神的にも社会的にも現状以外を選択することの困難ながんじがらめの状態に置かれているのである。ここまでくると、那州雪絵のやっていることは既存の少女マンガに対する破壊行動のような気さえしてくる。

「なんで逃げるんだ五十嵐!」

 巳夜に告白すべく学校の校門で巳夜を待つ蓮川一也は典馬によって「撃退」される。一也への想いを押し殺して典馬とともに立ち去る巳夜に一也の投げかけたこの言葉が、そして不利な状況を承知で行動を起こした一也の行動そのものが、気弱な少女の心をついに揺り動かすことに成功する。

 前ページのやり取りは、典馬が一也を「撃退」した後のシークエンスである。巳夜は「自分の意志で」典馬と訣別し、その翌日、「自分から」一也の学校へ出向き、校門で一也を待つ。

「…今日、先生におこられた。
 典馬ともケンカしちゃった。
 おかあさんはゆうべから口きいてくれない…。
 でも…。
 でもね、おれ。
 おまえに会いたかったんだ…!
 それで。
 もっとちゃんとした人間になりたくて、おれ…!」
「大丈夫!
 おれがついてるよ…!」

 ここで重要なのは、この恋愛関係において一也と巳夜が二人とも、自分の意志で能動的な行動をとった/行動をとれるだけの強固な意志力を獲得した、ということであり、また、二人がお互いに対等な関係にある、ということである。

 1と2の問題をほとんど悪意の域にまで高め、それを平凡な少年と平凡な少女が克己の意志力でもって克服する。登場人物のみならず読者に対しても甘えを許さない那州雪絵自身の強烈な意志が感じられる。これは願望充足型の「そのままの君が好きだよ」タイプの少女マンガから最も遠い位置にあるのではないかと思う。

 その那州雪絵が現在「花とゆめ」誌上に連載中の長編『月光』は、異世界ファンタジーであり、こちらの世界から唯一人あちらの世界に飛ばされた少女が主人公となり、その少女が舞台となる異世界の命運にかかわる大きな秘密の鍵を握る、などといった基本設定の点で、フロントページで引用したひかわきょうこ『彼方から』と非常によく似ている。この2作品の中でのそれぞれのヒーローとヒロインの関係には、ここまで述べてきたような作風の違いが如実に反映されている(と思う)。この2作品はエンタテイメントとしての完成度もそこそこなので、興味を持たれた向きには一読をオススメしておく。


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