え、なぜ鏡は左右が逆になるのに上下が逆にならないか、だって?なにを言っているのさ。そんなの簡単じゃないか。君は根本的に間違っているよ。鏡は左右なんて逆になってないんだ。
 おいおいそんなに興奮するなよ。うんうん。本当なんだよ。左右も上下も逆になんかなってない。
 それじゃね、こう考えよう。床に鏡を置いて、その上に乗ってみる。どうだい?左右は逆になったかい?
 ふんふん、そうだね。あらびっくり。上下が逆になっちゃっているように見えるねえ。だって逆さまの君が映っているもんねえ。
 あはは。解らないからって怒るなよう。事実なんだからさあ。科学や哲学というものはね、とにかく自分の偏見を疑わなきゃならないんだよ。こういうのを洞窟のイドラとかいうんだ。ええと、たしかベーコンだったかな。燻製肉のことじゃないよ。イギリスのユートピア思想の方の哲学者だね。フランシス=ベーコン。このひとがいろんな偏見・虚妄を分類したんだけど、その中でも洞窟のイドラというのはもとはプラトンの有名な「洞窟の比喩」に拠るものなんだ。洞窟にね、岩があって、そこに囚人が洞窟の奥しか見れない方向に括りつけられるんだ。洞窟の入り口には焚き火があって、その明かりによりなんだか洞窟の奥の壁に影が見えるんだ。この囚人は果てしなくここにいるので、この影を本物の存在と思っている。つまり、この囚人にとっては世界で動くものは平面の像しかないと認識しちゃうわけ。まあこんなことから、ベーコンが言った洞窟のイドラという虚妄は、個人の固有の偏見に拠るようなことを言うんだね。
 おっとめちゃくちゃ話がそれちゃったね。ごめんごめんいつもの悪うい癖だ。で、なんだったっけ。あそうそう。鏡のことだったね。かなりのひとがこれに関してちゃあ洞窟のイドラがあるんだ。今見たように、鏡は左右が逆にも見えるし、上下が逆にも見える。でも実は、そう、「前後」が逆になっているんだよ。
 これはね、鏡の存在そのものに因があるんだ。いや、仏教のインエンの考え方に拠って正確に言えば、人間が因で鏡が縁だね。インエンって何かって?因縁だよ因縁。インエンが所謂、連声{れんじょう}によって音が連なってインネンって今では読むけどね。因とは原因の因で、原因となるそのもののこと。縁とはその因が実際に結果になっていくときにそれを手伝うもののこと。この二つが合わさって初めて結果が生じる。因果だねえ。
 おっとっと。またまたそれた。え、何だっけ?
 そうだそうだ。だから人間というものが前を見る存在だっていうこと。この人間が因。そのままではなんにもならないけれど、そこで光を反射する鏡というものが現れた。これが縁。鏡とは、前を見る人間に対して、いつだって必ず対面にある存在だよね。鏡を見る人間にとって、どうあっても確実に鏡は対面にある。だから、鏡は前後を逆転させるんだ。当たり前のことだよね。うん、つまり「実像の後・実像の前・鏡面・虚像の前・虚像の後」という関係はどんな場合でも成立する。それは鏡が常に対面にある存在だからだね。鏡を見ない人間にとってはその関係は崩れるけれど、勿論そんな人間は、虚像が見えないから因ではない。
 え。それでも左右だけ逆に見えるのはおかしい?もお。解っていないなあ。それはね、君が、鏡に映る虚像を見たとき、自分の姿を鏡の後ろにくるりと回りこむように移動させ、こちらを見るようにして虚像と重ね合わせたりするから、あ、右と左が逆だと思うんだ。当ったり前だよね。くるりと180度ひっくりかえしている時点で、前後を逆にしているだけでなく、左右も逆に、自分からしているんだ。だから左右だけがおかしく感じる。前後も逆転させたのにね。一方虚像はといえば、単純に正直に、ただ前後だけを逆にしているだけなのにさ。ひとが自分から前後左右を逆転させていたってわけ。
 そうだねえ。前後が逆になっているだけだから、くるりと回すのではなく、そのまま鏡にくっついてごらん。前後が全くなくなるくらいにぺったりぴちぴちとくっつくんだ。君が平面になってね。そうするとほら、右手はやっぱり右手になっただろ。うんうん。やっとわかったようだね。よかったよかった。もう納得したかい?
 それじゃ今度は、「鏡に見える幅はいつも同じ」という話でもしようかね。鏡って近づいても遠ざかっても映る範囲は同じなんだ。本当だよう。試して御覧。でも、そのお話はまた次の機会ね。




- 第141話目 -