都府楼跡
Ancient government office of Dazaifu

都府楼跡からの南望。大宰府は藤原純友の乱のときに焼失するなど、変遷はあったが、文永、弘安の役頃まで九州 一円での権威が存続していた。大宰府は、平城京の都城制にならって南北22条、東西24坊の条坊制をしき、大宰府政庁 は方四町の規模があったと想定されている。政庁の建物は正殿、東西各二棟の脇殿、中門、南門、北門があり、回廊、築地で囲まれていた。ここから遠くの背振山系が見える。標高は1000m前後とそれほど高くはないが、冬には雪も積り厳しい山になる。
「ますらおと思へる吾や水茎の水城の上に涙のごはむ」 (万葉集巻六 968)
天平2年(730年)大宰府の長官であった大伴旅人が任期を終えて大宰府を去る時に馴染みの女性、児島の、「大和道は雲隠りたりしかれどもわが振る袖を無禮(なめ)しと思ふな」(同966)に応えた歌である。旅人は大宰府赴任の神亀4、5年(727年)頃に既に妻を亡くしていた。
奈良では前年に長屋王が46歳で自刃、光明子が皇后となっており、藤原氏としては旅人を呼び戻しても何の心配も要らない時期になったのだろう。そうと知りつつ大和に帰らねばならない、旅人の真情を吐露した歌だ。