二俣城



所在地    天龍市二俣町
主要城主   松井氏
城郭様式   平山城

天龍川が遠江・三河・信濃国境の山地を抜け、平野部に出ようとして大きく
蛇行するあたりの河岸段丘上に二俣城はある。
永正年間には今川氏の支城となり、二俣近江守昌長が十年在城ののち、今川
氏重臣松井左衛門亮信繁が城主となり、四代五十年間在城した。
永禄十ー年(1568)、徳川家康がこれを攻めとり、三河普代の中根正照
を城主とした。
元亀元年(1572)十月十日式田信玄は四万の大軍を従え二俣城に来襲し
たが、容易には陥落せず。武田軍は井戸櫓を破壊して飲科水を絶ち、籠城二ケ
月、徳川軍を降伏させた。
その後、三年でふたたび徳川軍に攻略され、大久保忠世が城主となり、天正
十八年(1590)、小田原転封後に廃城となった。
この間、天正七年九月十五日、家康の嫡子信康が織田信長の命によって二俣
城で切腹し、近くには墓地がある。
二俣城は標高40メートルの丘陵上の東西100メートル、南北350メー
トルの縄張りに北曲輪・本丸・二の丸・蔵屋敷・南曲輪がほぼ直線
上に配置され、本丸には天守台がある。