帰郷-ここが異郷だったのだ
Homecoming-This was an alien land

 

劇評

小暮宣雄氏(京都橘女子大学助教授)

 

いつ閉まるのか時間の問題のフェスティバルゲートへ。3階。アートシアターdBの入口。
劇団態変がここを使うのははじめてだそうだ。

劇団態変の新作『帰郷-ここが異郷だったのだ』作・演出:金満里。19:08〜20:43。
あいだに5分間の休憩。この新作は、9月終わりから10月初めにかけてソウルで初韓国公演があり、12月には、タイニイアリス(新宿)の公演が控えている(あとの金満里による挨拶では、3部作の最後のものだということで、そういう面では、「マハラバ伝説」ほどではないにしろ、演劇的ストーリー性もある劇だったようだ)。

場内は満員。通路まで人。NPO法人大阪アーツアポリアの中西美穂さんにうちの女性歴史文化研究所の関係で相談があることを伝える。いま彼女はどこかの大学のゼミや講義(人口社会学)を受けているのだそうだ。

この公演は、そのタイトルから重層性に満ちている。帰郷と異郷。詩人谷川俊太郎の62のソネットが当日パンフに載っている。
《親しい私の異郷からの / 私のいない 私のしらない帰郷がある》。

とりあえず、日本という金満里にとって親しい星の異郷性、そして韓国という金満里が知らない郷里(「故郷」というのは、郷里が故人のように亡くなった幻想という意味かも知れないなあと思う)への帰郷。そうタイトルを表面的には置き直せる。

そこから、金満里や態変のメンバーは何を受け取り何を付け加えたのか。それを見て私たちはどんな具合に消化できるのか、あるいは混乱し酩酊していくのか。でも甘美に酔うことも爽やかに覚醒することも出来ずにいるいま。

演劇でそのいまは変えられるのか、帰る場所を見つけることはできるのか。いつもより以上に当日パンフが重くぼくにのしかかる。そもそも「そこから」と書いたがそれはどこからだったのか。

当日パンフにある金満里の言葉『喪失の時代に』。
《こんなにも耐えられないことが、現実に起こっているという、自分の身の置き場のないやるせなさ。そればかりか、存在が消えていくに等しいのにその現実に立ち向かう術のない大きな喪失感、を現在進行形で身体が一身に感じさせられている。・・》

この言葉の向こうに身体は出ていけるのか。べっとりと表面を覆っている無感覚な鎧の奥にまで届く劇という(藝)術はありえるのか。暗闇のなかで見続け居続けつつも、「術(すべ)のなさ」つまり「no art」、「disable arts」についての空虚感が続き、どこにも出口がない。

観劇中はもとより、いまもなお問答を続けてしまう。術(アーツ)などすでにないのかも知れず、その術の喪失からしかいまだないアーツのことを語る語り方しかないのだろうと割り切る。
としても、まだ自転できるだけの考えと根拠、自分のなかで暖め孵化させる何かが足りない。この作品自体のレビューですらないため息なのだが、結局はそのため息でしか、この作品と向かい合うことができないと言う告白ではある。

冒頭の9分間ほど。4人の人が座っている。しばらくして立つ。薄い透明の衣装を羽織っている。背の低い二人と背の高い二人。男女のペア。それがヨタヨタ、ストストとそれぞれのテンポで動き、前後の位置を変えていく。旅の僧(福森慶之介)とその連れのように思ったのは、能のワキとシテの関係を見る方がかってに導入してしまったからか。

そこへ下手から大きなピンクの帽子のような、UFOのようなシテ?が間抜けに地面を這いずるようにやってくる。軽い感じのその物体は、動力もあるように見えないのに、なかなか軽快にやってくる。中から金満里。やはりピンクの衣装。足と手が絡まったままに回転しまた帽子の中に身を隠す。ヤドカリのお出かけ?まわりの4人とは無関心を装っているのか、あるいは時空が交わっていないのか。スモッグが一面にかかる空気感のもと、V字型の照明が目に焼き付く(三浦あさ子)。

つぎの14分間。蓮の花のシーン。映像もあり鮮やかな印象が残っている。福森がチューリップ帽子をかぶり、大きな花を5つ持ってやってくる。おばさんみたいな感じ。花を持ったまま、黒と白のまだらな袋状の衣装に覆われた者たちを揺すって、その衣装から抜け出させようとする(ように見えるが、はじめはイジメているのではないかと錯覚した。あるいは、覚醒させている?)。

奥にあった黒い幕から中空に白などの蓮が突然に浮かび出る。つぼみと全開とが混じって。小泉ゆうすけが器用に足指で5名にその蓮を渡していく。寝ころんだままのみんなも大切そうにその花は立てたまま下手へと移動する。はな「たち」パレードは、ここの闇が深い分、浮き出る強さがある。

前半最後の12分間。音楽(秘魔神)が早く軽快になる。口にくわえたコートすがたで井上朋子が登場。このコートを地面にたたきつける。それにもかかわらず下手に退場するときには颯爽とたたきつけていたコートを羽織ってはける。5人が花を持って登場。白い花かと思っていたら薄いブルーだった。中に赤い芯みたいなものがのぞいている。血に見える。突然、その花をそれぞれが地面にたたきつける。コートが花に替わる。飛び散る花びら。捨て去られたまま、客電がついて、5分間の休憩。

後半は、スーツを着たメンバーがそれぞれに出てソロダンスを披露する。井上のハイヒール=スーツ姿、菊池理恵のスーツの背中には小さな羽があり、前作から抜け出してここでつながるキャラクター。コマネズミのような手の動きが可愛くおかしい。同じく、おかしくほほえむのは、福森のダンディ姿。きまっている。帽子の下でたばこを吸う。即興的な踊り。

後半で蓮の花のように印象を強くする小道具というか美術は、舞台を横断する何本ものゴムひも。そのゴムひもは下手から上手に続いていて、前に出ようとすれば、そのゴムに、手も足も首もでっぱったものはすべて絡め取られしまい、ここはまた退却するしかない。何かを象徴しているのだろうが、特定はできない。

諦めないで再度挑戦する。管理されたままそこにいたくないという意思の方が強まって。今度はするりと寺内たかしが抜ける。若いから抵抗が少なくしなやかで、出っ張りがないからか。動きはぎこちないのに。他の者も今度は抜け出せる。

奥の美術に気づく。高層ビルが二つかな。バラバラに壊される。積み木のような危うさ。福森が壊されたブロックの間に座っている。深刻過ぎはしないが遊戯的でもない。金満里のソロ。左手の指の表情が豊か。でも全体的に禁欲的で、「華のある」シーンをあえて避けているように思える(それが、今回の観劇の淀み感ともつながっている)。

4人の白い布で覆われる冒頭が反復される。でもよく見ると背中と背中から紐が伸びていて、4名は結ばれている。水の中のような音。

20:35。小泉の回る踊り。彼独特の腕と指のダンスに肩ゆすりが付け加わり自信を持った動き。今回は切れていく鋭さは彼にもかんじられない。若い男が下手から上手へ。黄昏的に広がり終演が来る。

見終わった直後の感想:ドラマチックさは抑制されていたなあと思う。連想喚起力は結構ある。ただ、全体を簡単に要約したりできないもどかしさ、そのもどかしさが隠れたテーマのようにも感じられる。

 

【KOGURE Journal/Express:Report@Arc】vol.1400(7月15日配信)より転載

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