モバイル機器の大きさ 2002年

◆機能とサイズ◆

モバイル機器一つで、さまざまな用途を兼ねるスーパー端末になる、というのは昔からの夢の一つだろう。それこそ竹村健一という評論家が古〜いTV CMで、手帳を一つかざして「僕なんかこれだけですよ、これだけ」(つまり、この手帳1冊で講演も原稿執筆もその他諸々も済んじゃうんだぜ)と言ってた、あれの電脳版。(古すぎるよな、すまん)

いまでも夢見ている人は多いのだろうか。30代後半〜40代前半あたりは特に、Macintoshが1980年代に見せた夢にこだわっている人も結構いるよね。

しかし、個人的には見果てぬ夢だと思う。いや、やってできなくはないと思うけど、どこかに無理が出る。ノートPCでメモを取るのは愚かだし、PDAでワードプロセッサ並の処理をやるのも(不可能ではないけど)負荷はかかる。

自由にものを考えて企画案などを練る際には、小さな手帳よりも、A4くらいの白紙や方眼紙などに伸び伸びと展開したほうがはかどる。というか、さまざまなアイデアを同時にたくさん展開させて、自由にくっつけたり切り離したりしやすくなる。一度に見渡せる情報量ということもあるが、私個人の今までの経験では、大きなアイデアは大きな紙で書くほうが、縮こまらないで自由に発想できる。これは理屈よりも、感覚的な問題が加わってくる。

アウトラインをテキストで練る段階なら、ノートPCもすごく役に立つ。その前の、混沌の中でさまざまな断片がぶつかりあったり、斬り結んだり、といった段階では、紙とペンのほうが気が楽だ。ダイレクトに、思った瞬間にそこに書ける、という「感じ」が重要なのだと思う。

大きさと操作感覚、この二つが作業に結びついていないと、自由にやれる感じがしない。すると、たちまち作業効率が落ちる。小さいボディに多くの機能を詰め込むことが可能なことも大切だが、作業にあった画面サイズや操作ボタンの配置や大きさを持たせることも大切だ。

重さも、持った際のバランスも、使う際に適度なスムーズさと適度な抵抗感も大事だ。たとえば、キーボードやスタイラスペンは、スムーズさを求めすぎて、抵抗感が少なすぎるのも良くない。かといって、ペン操作の際に処理速度が追いついていなければ問題外だし、キータッチで押し込んでから戻る際の引っ掛かりが強すぎるのも問題外だ。

◆製品を構成する際の要素と「感じ」◆

1990年代の驚異的な発展を経て、こうした製品を作る要素が醸し出す「感じ」を、やっとさまざまな局面で論じることが出来る時代になったのだと思う。

ノートPCで2kg程度か、それ以下の重さの製品は、現在のところ10インチから14インチ程度の液晶ディスプレイを搭載している。解像度は最低で800x600、通常は1024x768(中には1280x600とか変則サイズもあるが)。この程度だと、やはりまだ紙の自然さをシミュレートするには至らない。ただし、自分の入力したデータ、メールで送られてきたテキストやデータを使い回して次の仕事に活かすのに便利だから、使う人がいる。

また、ハードディスクの回転音は煩わしいし、CPU冷却のファン回転音もできれば聞きたくない。バッテリーも、1日出歩いて充電しなくて済むくらいの持続時間が標準的であってほしい。かといって、デスクトップPCでの作業とほとんど差のないもののほうがよい(つまり、著しくデスクトップと異なるのはイヤだ)。

こういうわがままは、数年後には解決するかもしれないところへ、最先端の技術は踏み込みつつある。

日常生活の道具に近づきながら、従来のそれを超えようとする機器を使えるとしよう。一つの機器ですべてを代表させるよりも、今の文房具に近い形で、手帳とノートを持ち歩く延長上の機器が良くないか。企画案を練る時は、やや大型のディスプレイでダイレクトに書けることが重要。執筆を仕事にする場合は、テキスト入力環境が重要。そうでなければ、手ごろな軽いメール端末で十分。それを使い分けながら、データはいつも同じものを閲覧できる。そのためにこそ、軽くなり、画面解像度が上がり、入力デバイスが扱いやすくなり、高速ネットワークにつながり、そして、普及して安価になることが重要になるんじゃないか。

ある人は、電子本をたくさん手帳型マシンやノート型マシンに突っ込んで、たくさん読むことに賭ける(もしくはネットワーク上の図書館からすぐにチェックインやチェックアウトができる、とか)。またある人は、いつでも楽にメールを打てる。またある人は、デジカメ用アルバムを持ち歩く。電子本なら、たとえばA5やB5のように読みやすいサイズと解像度がいる。メール端末ならある程度の長さのメールを把握できる画面と、入力しやすいキーボードがいる。デジカメ用アルバムなら、写真が見やすい画面と、ぱらぱらめくったり、アルバム単位で管理する機能が重要。

な〜んだ、単機能マシンというなかれ。単機能マシンが共通の技術基盤を持っており、その気のなればほかの機能も活用したりできる、しかし、あくまでメインの機能がはっきりしている、というのが重要。こうなれば、本当の意味で文房具の良さと電子媒体の良さを兼ねあわせる議論をスタートできる。(そこからがスタートなのよ。)

マシンが提供するサービスとは、少し違うことができる。でも、本来の使い道がいちばん。そういう形態は、私たちの日常のノートや手帳など文房具でよくあることだ。

◆作業の要求とサイズ◆

私個人は、最初に書いたように、作業環境(紙の大きさや筆記具から始まってさまざまな要素)はかなりその仕事に影響を与えると思っている。

もっと言ってしまうと、たとえばVAIO U1のような手で持つことを要求する超小型PCを使ったとする。意外に持っていて重いので、あまり長い文章を打たないように努力してしまったりする。言葉遣いも微妙に変わってくるだろう。もちろんそうならないように意識して作業することはできるが、1時間位すると「疲れた〜」となる。もっと続けると、くらくらしてくる。

しかし、世の中には一方で「そんな、紙の大きさで考えの広さや柔らかさに影響が出るはずないじゃん、なんでやっても仕事は仕事だよ」という人もいる。個人差や印象から離れて、物事を抽象化することの重要さを唱える人だっている。多いか少ないかは別にして、そんな人々はまったく別の印象を抱くだろう。

純粋にサイズの話一つとっても、欧米人の太い骨、大きく肉の厚い手なら、3kg程度のノートパソコンでも軽々と運ぶし、あまりに小さい製品は使いたがらない。これが日本人なら、0.7kg〜2kg程度でないと困るだろう。民族の平均的な身体のサイズも、その国の製品に影響を与える。こればかりは大は小を兼ねるとはいかない。

こうしたさまざまな要素をクリアして、現在の文房具のようにさまざまなラインナップがあってこそ、みんなが選んで使う時代になる。

普及するということは、その人なりの使い方が出来るということだ。こうした両極端の間に、さまざまな人々がいるのだから、入力デバイスや画面サイズから始まって、バリエーション豊かな機器が必要だし、そうなってこそ、初めて本当の普及になるんじゃないだろうか。

モバイル機器も、そろそろそういう、当たり前のことを考える時代に入りつつあるように思えてならない。


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