歌枕紀行 白河の關

―しらかはのせき―

室の八島を見たあと、東武線で栃木駅に戻り、ここからJR両毛線に乗り換えて、小山へ。さらに新幹線に乗り換え、新白河に着いたのは、午後三時を過ぎていた。栃木から百キロ足らず北へ来たに過ぎないのに、急に風が涼しくなったような気がした。

関跡までは駅から十キロほど。バスの発車時刻には間があったので、タクシーに乗る。行先を告げると、運転手はいきなり歌を朗唱しはじめた。

都をばァ〜霞とともにィ〜たちしかどォ〜秋風ぞ吹くゥ〜白河の関
「なぁんて歌にはあるけど、実際行ってみるとねぇ」と、六十近いかと思える坊主頭の運転手は訛りの強い話し方で言う。「なんにもないところで、がっかりするよ」。

この種の親切な忠告はもう「耳タコ」の私は、苦笑するばかりである。
「考古学が趣味か」これも、よく聞かれる質問。「いや、そうじゃなくて、和歌に興味があって」と答えると、大抵訝しげな反応を示される。「歌碑とかあるでしょう。まあ、写真でも撮れればいいんですよ」などと付け加えると、ようやく納得してもらえるのである。

歴史に詳しいその運転手は、戦国時代の山城の話などもしてくれる。二十分ほどで関跡に着く。周辺には駐車場なども整備されていて、車で乗りつける観光客もちらほらいた。


白河の関跡

白河の関について、くだくだしい説明は不要だろう。やはり、『おくのほそ道』から引用しておきたい。

心許(こころもと)なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便(たより)求しも(ことわり)也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を(おもかげ)にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、(いばら)の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。

 卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良

この短い一節に、歌枕としての白河の関の歴史は尽きている。芭蕉は、文中に以下のような名歌を織り込んでいるのである。

たよりあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は越えぬと(平兼盛)
都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関(能因)
見る人のたちしとまれば卯の花のさける垣根や白河の関(季通)
東路も年も末にやなりぬらむ雪ふりにける白川の関(印性)
白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり(西行)
都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしく白河の関(源頼政)
消ぬが上に降りしけみ雪白河の関のこなたに春もこそたて(家隆)

また、「古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れし」とあるのは、平安末の和歌百科全書とも言うべき藤原清輔の『袋草紙』にある、次の記事をもとにしている。

竹田大夫国行と云ふ者、陸奥に下向の時、白川の関過ぐる日は殊に裝束(さうぞ)きて、みづびんかくと云々。人問ひて云はく、「何等の故ぞや」。答へて云はく、「古曾部入道の『秋風ぞ吹く白川の関』とよまれたる所をば、いかで(け)なりにては過ぎん」と云々。殊勝の事なり。

国司として陸奥に下った藤原国行は、能因法師の名歌に敬意を表し、盛装して関を通過した、という。かつて蝦夷地との境界をなし、軍事上の要地であった白河の関は、平安中期にはもう関としての機能を殆ど持たなくなり、もっぱら「和歌の聖地」として名高い場所になっていたのである。能因を慕って陸奥を旅した西行もまた、この地で「秋風ぞ吹く」の歌を想起したことは言うまでもない。

  所がらにや常よりも月おもしろくあはれにて、
  能因が秋風ぞ吹くと申しけむ折いつなりけむと
  思ひ出でられて、なごり多くおぼえければ
白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり

芭蕉は、白河の関に至って「旅心」が定まった、という。ここが陸奥の入口であるせいばかりではあるまい。この地にあって常に「風騒」(風雅にほぼ同じ)の心をとどめ、和歌を詠み、「冠を正し」たという古人たちへの思いが、芭蕉の心から迷いや躊躇いを取り去ったのである。

ところで芭蕉が訪れた頃、関は疾うに廃絶されて、跡形もなくなっていた。関跡が現在地に定められたのは、芭蕉の旅より百年以上も後の寛政十二年(1800)、白河藩主松平定信によってである。定信は古絵図や古歌、老農の話などから関跡を白河市旗宿のとある小丘にもとめ、「古関蹟」碑を建てた。

古関蹟
古関蹟

定信の推定が全く正しかったことは、昭和三十四年から始まった同地の発掘調査によって証明されたのである。

傾いた陽射しが漏れる杉林の中の小道を歩く。小さな神社が祀られ、空濠の跡が保存され、歳月に削られた歌碑がいくつか建っている。それ以外は、鬱蒼と杉が生い茂るばかりの、どこにもありそうな小さな丘である。タクシーの運転手が言った通り、「なにもない」と言えば何もなかった。でも「ある」と思えば、濃密すぎるくらいの歴史の堆積があった。いや、歴史というより、言葉であり、古人の「思ひ」であろう。歌枕とは、歌人たちが憧れ、詞によって作り出した幻想の空間である。むろん、地上にある現実の場所なのだが、古歌に心をよせる者にとっては、幻想の空間が重なり合って存在しているのである。私はその「感じ」を、たとえば芭蕉とさえ何程か共有していることを、確信できる。


白河関跡

人づてに聞きわたりしを年ふりてけふ行き過ぎぬ白河の関(橘為仲)
都いでて逢坂越えし折までは心かすめし白河の関(西行)
都にも今や吹くらむ秋風の身にしみわたる白川の関(宗久)

その夜は郡山まで行って泊まった。



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©水垣 久 最終更新日:平成12-11-14
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