土佐の人。安永九年八月九日、高知城下に商家を営む新兵衛の子として生まれる。通称、吉右衛門。妻の左知子も和歌にすぐれ、夫の作に追和した歌を残している。男子に高則・大蔵がいるが、いずれも夭折した。
同郷の鹿持雅澄と親しく、互いに影響を受けたことが窺われる。文政五年(1822)、土佐を出国し(のち脱藩)、まもなく大坂に居を据えて人相易占を業とした。この頃、本居大平より和歌の教えを受ける。嘉永三年十二月四日没。七十一歳。墓は高知市の丹中山にある。
万葉調の長短歌を詠んで世に知られ、貴顕に召されて歌を奉ることもあった。自ら家集を編むことはなかったが、死後、植松寿樹により『鷲夫遺稿』、森田義郎により『鷲夫歌』が編まれた。以下には植松寿樹編『近世萬葉調短歌集成』第二巻より五首を抜萃した。
国君御遊室戸崎之時作長歌
掛けまくは あやに
反歌
土佐の海や山かも
【通釈】[長歌] 口に出して言うのは、大層恐れ多い。皇祖神の御代から、お食事に奉仕している魚は多種あるけれども、我が君の御膳に奉ろうと、白浪が重なって寄せる磯に、船の装備を整え、機会を伺う間に、海の神が良しとされたのか、夕日が傾く頃、大海の雲の果てから、潮を吹き、山が浮いているのかと見える程に、寄って来る鯨。それを捕えるというので、騒ぐ多くの船――潮の煙が天に霧のように立つと、陸では法螺貝を吹き鳴らし、沖の方では鐘を打ち鳴らして、合わせる鼓の音は大海に響き渡る。室戸岬の山の頂も揺する、雄叫びの声よ。
[反歌] 土佐の海では、山を真っ二つに裂くかと思うほどに、鯨を突く猟師の雄叫びの声が響いている。
【語釈】◇掛けまくは 口に掛けようことは。「掛けまくは あやにかしこし」あるいは「掛けまくも あやにかしこし」は万葉集の長歌に見られる常套句。◇かむろぎ 天皇家の祖とされた男神の総称。◇大御膳 神・天皇のお食事。「川の神も 大御食に 仕へまつると」(万葉集巻一、柿本人麻呂)。◇鰭物 「はた」は魚のひれ。祝詞の「鰭の広物、鰭の狭物(さもの)」から、食用の魚類をこう言ったもの。◇船よそひ 船の装備をととのえる。これも万葉語彙。◇かぎろひの 「夕日」の枕詞。◇雲の旗手 雲の果て。古今集よみ人しらずに「夕暮は雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人を恋ふとて」がある。◇室戸崎 高知県の室戸岬。
【補記】土佐藩主が室戸崎を遊覧した時に作ったという歌。鯨や捕鯨は江戸時代の歌人の好んだ主題。全編万葉集の語彙と表現に学んでいるが、「大海の 旗手ゆ 潮吹き 山かも浮くと…」と鯨の出現を叙すあたり、迫力に満ちている。
詠土佐国長歌
【通釈】霊妙なことよ、人知では計り知れないことよ。高山を背後に負い、大海を両手に抱いて、天を衣笠にしておられる、土佐の国の神、建依別の命は。
【語釈】◇高山 高知県の北、四国山脈は二千メートル近い山々が連なる。◇大海を 諸手にいだき 室戸岬・足摺岬が土佐湾を抱え込むようにしているさま。◇きぬがさ 衣笠。絹傘。貴人の後ろから長い柄で差し掛ける絹張りの笠。土佐の国の形から、神が大地と海を覆っていると見て「きぬがさにせる」と言った。◇建依別 土佐国の神名。古事記の国産み神話に「土左国謂建依別」とある。
【補記】故郷の土佐国の地形をこの上なく端的に雄壮に歌い上げた。反歌はない。
【参考歌】柿本人麻呂「万葉集」巻三
ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君はきぬがさにせり
二男大蔵病死之時作歌
駈けあがり庭のかたへに踏み脱ぎし
【通釈】子が生きていた時、家に駆け上がって、庭の傍らに踏み脱いだ下駄――それがそのままになっているのを見れば涙が流れる。
【語釈】◇小木履 木製の下駄。
【補記】二男の大蔵が病死した時に作ったという二首のうち第一首。ささやかな「小木履」という遺品が鮮烈に子の不在を印象付け、心に迫る悲傷歌である。同題の第二首は「天地もとどろくばかり歎くとも答へざりせばせむ術もなし」。
長男高則病死之時作歌
この夕べ門辺に立てば
【通釈】この夕べ、門のほとりに立っていると、二十歳の息子が、振分髪の少年に戻り、髪を振りなびかせて家に帰って来るのが見えるのだ。
【語釈】◇振分髪 肩までの長さに切り、左右に分けて垂らした髪。髷を結う前の髪型。
【補記】二十歳の長男高則が病死した時に作った歌六首の最初。かつて毎夕外遊びから帰って来たように、少年に戻って家に帰って来る亡き息子の幻影。ほかに「昨日まで顧みもせぬ古塚に今日は我が児の相並び立つ」「花を立て水を手向けて奥津城の磐掻きゆすり泣きにけるかも」など。
公開日:平成21年12月4日
最終更新日:平成21年12月4日