蒲生氏郷 がもううじさと 弘治二〜文禄四(1556〜1595)

近江国蒲生郡日野城主、賢秀の子。子に秀行がいる。
永禄十一年(1568)、父が臣従していた六角氏が信長に滅ぼされたため、氏郷は人質として岐阜城に護送される。のち信長に才覚を認められ、その娘冬姫を娶って日野城に帰ることを許された。以後信長に従って歴戦に功を立てる。本能寺の変では信長の妻子を守って日野城に籠城した。信長死後の天正十一年(1583)、羽柴秀吉と組んで滝川一益を破り、亀山城を与えられる。その後も小牧・長久手の合戦や九州征伐、小田原征伐などで秀吉を助け、天正十八年(1590)、会津四十二万石の領主となる。東北の覇者伊達政宗と対立するが、翌年、大崎・葛西の乱を鎮圧して加増され、九十二万石を領するに至った。文禄四年(1595)、朝鮮出征のため西下し、二月七日、伏見城で病死した。
朝鮮役のため上京する際の日記「蒲生氏郷卿紀行」があり、各地の歌枕で和歌を遺している。茶道にもすぐれ、利休七哲の一人。利休自刃の後は、細川三斎(忠興)とともに千家再興に尽力した。また、高山右近と親しく、キリスト教に帰依した。洗礼名はレオン。
川田順編『戦国時代和歌集』に十一首収録。「氏郷の歌、遺存せるもの数首に過ぎざれども、いづれも非凡なり。真に文武兼備の名将といふべし」との評がある。

落花随風

雪か雲かとばかり見せて山風の花に吹き立つ春の夕暮(戦国時代和歌集)

【通釈】散らした花びらをまるで雲か雪かのように見せながら、山風が目に判然と吹いてゆく、春の夕暮よ。

【補記】川田順編『戦国時代和歌集』より。文禄年間、氏郷の伊東半五郎宛書簡に見える歌。

 

限りあれば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山かぜ(戦国時代和歌集)

【通釈】花の命には限りがあるのだから風が吹かなくても散るというのに、気の短い春の山風だことよ。

【補記】これも氏郷の書状に見えるという歌。文禄四年(1595)二月七日、四十歳で逝去する際の辞世。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日