井上通女 いのうえつうじょ 万治三〜元文三(1660-1738) 号:感通

讃岐国丸亀に生れる。父は丸亀藩士井上儀右衛門本固。幼少より読書を好み、詩歌に早熟の才を見せる。天和元年(1681)、藩主京極高豊の母堂養性院に召されて江戸に出る。この時の道中記『東海紀行』を著して世に知られた。九年に渡る江戸滞在中には『江戸日記』を成し、養性院の死後故郷に帰る際には紀行『帰家日記』を成した(以上三著作は江戸時代女流文学全集第四巻に収録されている)。帰郷後、丸亀藩士三田宗寿に嫁し、三男一女をもうける。夫の没後は隠居して著述に専念した。家集『和歌往事集』がある(江戸時代女流文学全集四・女人和歌大系三所収)。著作は井上通女遺徳表彰会の『井上通女全集』に纏められた。

以下には『和歌往時集』より二首を抄出した。

元禄二年己巳年春二月三日、京極備中守殿の御母堂藤堂氏養性院殿かくれさせ給ひし時の愁吟なり

秋ならで露けきものは君を置きてむなしく帰る野辺のわか草

【通釈】秋でもないのに露に濡れているのは、あなたを置いてむなしく帰ってゆく野辺の若草。

【語釈】◇露けき 涙に濡れていることを暗示。◇野辺のわか草 葬送の帰り道に見た野の若草に、泣き濡れる自身の姿を重ねている。

【補記】元禄二年(1689)春、江戸において主君の養性院(丸亀藩主京極高豊の母)の死に遭った時に詠まれた三首のうち第二首。他の二首は「よし君があしたに道を聞きしより終り正しきゆふべをぞ見る」「たのみこし君はあしたの雲となりゆふべの雨とふる涙かな」。この後通女は丸亀に帰郷した。

夫の墓所にまうでて思ひつづけ侍る

いづくにかあまがけるらん夢にだに見ること難き(たま)のゆくすゑ

【通釈】今頃どのあたりを天翔けているのだろう。夢でさえ見ることが難しいあの人の魂の行く末よ。

【補記】亡夫三田宗寿の墓所に参っての詠。『和歌往時集』の巻五には家族・親族を亡くした時の哀傷歌が並ぶ。


公開日:平成19年07月02日
最終更新日:平成19年07月02日