平経親 たいらのつねちか 生没年未詳

桓武平氏。大納言時継の息子。母は修理大夫経雅女。
伏見天皇の近臣。蔵人頭・右大弁などを経て、伏見天皇の永仁元年(1293)正月、参議に就任。同年六月、従三位に叙せられる。左大弁・造東大寺長官などを兼ね、後伏見天皇の正安二年(1300)四月、権中納言に進む(同年十一月、辞退)。徳治二年(1307)二月、使者として関東に下向し、三月に上洛。花園天皇の正和二年(1313)九月六日、権大納言に任ぜられる(同年十一月七日、辞退)。文保元年(1317)九月、伏見院の葬礼に供奉し、深草にて出家。法名は浄空。元亨二年(1322)までの生存が確認される(花園天皇宸記)。最終官位は正二位。
前期京極派歌人。乾元二年(1303)閏四月の仙洞五十番歌合、同年同月頃の京極為兼家歌合、同年五月の三題三十番の歌合などに出詠。玉葉集撰集の事務に関与。勅撰入集は玉葉集に五首、風雅集に一首の計六首。

伏見院の御時五十番歌合に、夏雨をよみ侍りける

あふち咲く梢に雨はややはれて軒のあやめに残る玉水(風雅346)

【通釈】栴檀の花咲く梢に降っていた雨は次第にあがって、軒端の菖蒲草に残った滴が玉のようにきらめいている。

楝(栴檀)の花
楝の花

【語釈】◇あふち 楝。栴檀の古名。初夏、薄紫の小さな花をつける。◇あやめ 花の美しいアヤメ科のアヤメ・ハナショウブではなく、サトイモ科のショウブの葉を言う。五月五日の節句、邪気を祓う草として軒端に葺いた。

【補記】乾元二年(1303)閏四月、佐渡配流から赦免され帰京した京極為兼を迎えての歌合、十二番左勝。判詞には「上の句尚たけあるよし各申して勝ち侍りにき」とある。

【参考歌】藤原忠良「新古今集」
あふち咲くそともの木かげ露おちて五月雨はるる風わたるなり


最終更新日:平成15年02月25日