笠間時朝 かさまときとも 元久元〜文永二(1204-1265)

塩屋朝業(信生)の次男。宇都宮頼綱(蓮生)の甥。子に左衛門尉朝景。笠間氏の祖。
常陸国笠間領主。従五位下左衛門尉から長門守を歴任。嘉禎三年(1237)、将軍頼経に供奉し、また仁治三年(1242)には大嘗会に際し検非違使に任ぜられて上京した。文永二年(1265)二月九日、六十二歳で没。墓は笠間楞厳寺(りょうごんじ)にある。
和歌には非常に熱心で、定家家隆家良為家宗尊親王など当代の大家に作を送って評価を請うている。『新和歌集』には蓮生に次ぐ五十一首が入るなど、宇都宮歌壇の中心的歌人であった。鶴岡社や頼経家での歌会に参加し、自らも笠間の館でたびたび歌会を催した。続後撰集初出。勅撰入集三首。家集『前長門守時朝入京田舎打聞集』(以下『時朝集』と略)がある。

以下には『時朝集』より三首を抄出した。

山霞

筑波嶺(つくばね)の山のをのへも霞みつつ春はあづまに立ちはじめけり

【通釈】筑波山の峰も霞み霞みして、春は東国に訪れたのだなあ。

【補記】筑波山は関東のシンボル的な名山。時朝の城があった笠間からは間近に眺められた。この歌は家集『前長門守時朝入京田舎打聞集』に「未入集歌」すなわち勅撰集にも私撰集にも採られなかった歌として収録されている。

百首歌の中に

夕立は山のあなたを過ぐれどもこの里までもすずしかりけり

【通釈】夕立は山の向う側を過ぎてゆくのだけれども、山の麓のこの里までも涼しく感じられるなあ。

【補記】家集には播州西円撰「新玉集」なる歌集に入集したうちの一首として収録している。「百首歌」は不明。

たび

東路(あづまぢ)の足柄こえて武蔵野の山もへだてぬ月を見るかな

【通釈】東国へ至る道の足柄山を越えて、広大な武蔵野の上に、山を隔てることなく輝く月を見ることよ。

【補記】足柄は関所のあった足柄山。足柄・箱根山塊を広く指す地名である。ここを越えれば関東。「山もへだてぬ月」は、関東平野から眺める月を率直簡明に描写している。藤原光俊撰『現存和歌六帖』に七首採られたうちの一首として家集に収録。家集には同じ足柄を詠んだ歌として「足柄の山のをのへにのぼりてぞ空なる月も近づきにける」があり、これも関東と京を往来した作者の実感が素直にあらわれた作であろう。


更新日:平成14年11月05日
最終更新日:平成21年01月23日